箱に秘めたる払暁の刃

2,港町と領主 その1

 海賊たちが去った船室で、スティルチは座り込んだ。
 最後の挑発は余計だった。安堵した途端、全身から冷や汗がどっと噴き出す。
 どちらが死んでもおかしくなかった。
 魔剣の力を解き放つタイミングが違っていれば、展開は変わっていただろう。だからこそ、敵の戦力を見誤ったことが悔やまれる。
 生身の人間を相手にする限り、聖痕の力を持つスティルチが遅れをとることなどない。相手が多少増えようと、覆せない力の差がある。
 ゆえに、真っ向から立ち向かう灰色髪の青年を一番の脅威と定め、奥の手を使ったのだ。彼を部下として従える人間にも、同等かそれ以上の力があるかもしれないという想像が欠けていた。
 ナイフはなんとか受けられたが、マンゴーシュの一撃をさばいた時の衝撃は、骨まで響いた。まだ指先まで痺れが残っている。
 他の船員も含めて、命を拾ったのは幸運としか言いようがない。
 だが、命以外の全てを奪われたのだ。港について、どんな報告をあげればいい。
 スティルチに頭を下げた依頼人の、言葉を思い出す。
『これは、あなたにしか頼めないことなのです』
 思えばそれは使い古された、安い口説き文句だった。
 だがそれを口にしたのが、自動人形とさえ影で噂される冷血とあれば、聞こえ方も違ってくる。
 その名をヴァネッサ・チェルハといった。
 通りの事情に詳しいものには、知れた名前であるらしい。スティルチ自身は一時的な主従関係を結ぶ際、初めてその人を知った。
 エスメールという地を預かる女領主だ。ブレダ公国の西に位置し、公国の王と同盟を結び忠誠を誓うことで自治権を保っている。
 港を有する城郭都市で、別大陸からの流入民が多い。国の玄関口の一つであり、城門の役割を果たしてる。
 領主は世襲制によって代々ゼネフェルダー家が務めていたが、血統は必ずしも統治者としての資質を保証しない。
 前領主アルベルト・ゼネフェルダーは、疑いようもない暗主であった。彼が領主の椅子に座していた年月は苛政を極め、エスメールの街に暗い影を落とした。
 領民は疲弊し、高額な税を納めることができず、処刑される者が後を絶たなかった。領民から搾り取れない分は、街を通る人や品に課せられた。
 人の出入りが多い土地の利が街を永らえさせていたが、緩やかな滅びが避けられないように思われた。
 だが四年前、悪しき領主は唐突に命を落とした。
 街は、これを機に政治の膿を出し、体制を一新するべきという革新派と、前領主の元で私腹を肥やしていた、旧体制の維持を望む保守派とに割れた。
 争いの末、混迷を極める街を平定したのが、ヴァネッサ・チェルハだ。人の犯した罪の重さを測り罰を決する、裁判人だった人物だ。
 革新派の主峰であり、裁判人らしく法を整備することにより、領地を正した。
 彼女の統治の元、エスメールの領民は笑顔を取り戻し、旅人の足も戻りつつあった。

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