箱に秘めたる払暁の刃

2,港町と領主 その2

 スティルチ・トゥラーレがエスメールを訪れたのは、前領主アルベルトが倒れた後だった。
 街は表向き静かになったが、内紛を経て乱れた治安が完全に回復した訳ではない。
 加えて水面下では保守派残党が蠢き、革新派の要人を脅かしていた。
 治安維持のため兵士の増員は急務であり、剣を握ることができるだけで街の巡回くらいの役は与えられた。
 ちょうど懐具合が寒かったスティルチは警備の手を補う傭兵となり、のちに腕を見込まれて領主代行の身辺警護を担う私兵としてスカウトされた。
 ヴァネッサ・チェルハという女と初めて顔を合わせたのは、契約を結ぶために招き入れられた領主の館の一室だった。
 かつてゼネフェルダー家の屋敷でもあった館は、一地方領主にはあまりに分不相応な贅を凝らした城だった。国を荒らしたのも頷ける。
 目くらましのような派手な内装になれると、美術品が並ぶべき所の空白や、赤黒い染みや傷跡が見えてきた。この場所が戦場になった記憶がそこかしこに見受けられる。
 使用人の数も少なく、かつて誇った栄華は失われて久しいようだ。
 通された部屋は、館の主人が座す最奥でも客人を迎え入れる部屋でもない、なんとも中途半端な位置にあった。おそらくもっとも手頃な広さの部屋が、その位置にあったのだろう。
 彼女は外から運び入れたと一目でわかる実用的な執務机の向こう側に立って、窓の外を見ていた。どうにも傍らに控える騎士の方が主人で、彼に仕える秘書官という印象を拭えなかった。
 その印象はあながち間違いでもなく、彼女は領主ではなく領主代理を務める裁判人と名乗った。名と身分を告げたあと、隣の騎士を指してこれまた名と役どころを述べるだけの、簡素な紹介をした。
 室内でも全身鎧を脱がない暑苦しい男は、ヴォルフラムというらしい。一言も喋らないどころか、紹介を受けてなお、兜すら脱がなかった。
 その態度に不快を覚え、戯れに殺気を向けると即座に柄に手をかけ、殺意を返してきた。
 なるほど人の殺意を読み取れる程度の使い手ではあるようだ。兜の隙間に、品定めする視線を確かに感じた。
 ヴァネッサ嬢一人がなにもわからない様子で、黙り混む男たちを不思議そうにみた。
 この目の前で交わされた殺意にすら気づかない女性が、エスメールの命運を握るのだ。
 アルベルトに餌付けをされた貴族たちを正気に戻し、戻らないものは権力を奪って政治中枢から一掃するのにかかった年月が三年あまりだという。
 ようやく足元を固めだしたところに、暗殺未遂事件が起きた。
 この歳になれば、三年など苦にもならない時間だが、子供にとって乱れた国で過ごした歳月はどれほど長く感じられ、彼らの人生に暗い影を落とすだろう。
 彼女が死ねば、再び国が大きく乱れる。
 依頼に対し、報酬次第と口では答えたが、断る選択肢は考えていなかった。
 私情を廃した意志の硬さ故に、自動人形と渾名され、仕えるに楽しい主ではなかった。だが、街の平和を支えるいう大義と報酬があれば十分だ。
 スティルチが本物の機械の手足を見せた時に、薄く笑ったので影でなんと呼ばれているか当人も気づいているのだろう。
 今回の任は、正義と義務しか口にしなかったの女の、初めての願いだった。何を頼んでくるかと思えば、船の荷の護衛である。
 それほど大切なものならば、一人を乗せるより一小隊の方が良い。
 だが彼女は個人的願いのために、街の治安を守るためにいる兵を、割くわけにはいかないと言った。だから、私兵であるスティルチに頼むのだ、と。
「街を出たら、護衛の仕事が果たせませんね」
「持ち堪えます。恩人の助けになりたいのです。力を貸していただけませんか」
 頭まで下げられてしまったら、引き受けないわけにはいかなかった。
 だが、今この船には、彼女が守ろうとしたものはない。空っぽになった船には、期待に応えられなかった悔しさだけが残っていた。

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