箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

11,悪徳に咽ぶ その4

 少女の悲鳴が聞こえれば、無視はできない。
 視線を流せば兵士が数人がかりで、子供を囲んでいた。腕を捻りあげられてがもがいている。
 これ以上無関係な市民に手を出し、傷つけることになんの意味がある。叫びたかったが、気を散ずる余裕はない。
 子供は後で必ず助ける。今は海賊に集中せねば、全てを失うことになりかねない。
 むきなおり剣を構えた先に、取り乱した海賊の姿があった。
「ミカエラ!」
 間髪入れずにナイフの投擲。投げた先はスティルチではない。
 兵士の腕にあたり、拘束が緩んだ。もがいて抜け出た子供の帽子が脱げ、金色の髪が流れ落ちる。
 なぜ、ミカエラの名をここで聞く。これは偶然か。そんな偶然が果たして起こりうるのか。
 涙がこぼれそうなほどに濡れた青い目が、スティルチを飛び越えて向海賊を見た。
「バカ、早く逃げろ!」
 叫ぶ海賊の目には、兵士と少女しか写っていなかった。
 ナイフの一本はスティルチの腕に噛ませ、もう一本は兵士に投げた。
 今なら、がら空きの胴を断つのは容易い。手足を折って動きを止めることも、殴りつけて意識を奪うこともできただろう。
 丸腰で、隙だらけ。やるなら今しかないとわかっているのに、動けない。
 兵士から逃れた少女を見たときの安堵。そしてなんの武器もない己の両手とスティルチを見たときの諦めの表情が、体をその場に縫い付けた。
 混乱に追い打ちをかけるように、広場を突風が襲った。
「ミカエラ、こっちじゃ」
 その声は、風に吹き流されることなくはっきりと聞こえた。
 銀色の疾風になって、小柄な体が広場を駆ける。スティルチはそれが誰だかを知っていた。
 ノエル・クリスティは、誰にもぶつからず誰の腕に捉えられることもなく、少女の元までかけた。
 二人の手が触れた瞬間、その姿がかき消えた。ピタリと風が止み、後には突風から体をかばう兵士たちが残された。
 誰もが呆然として顔を見合わせ、静寂が残る広場からは、処刑台に乗せられた罪人たちの姿も跡形もなく消えている。
 まるで魔法のように。いや奇跡のように、というべきなのだろう。魂をざわつかせる聖痕の光を確かに感じた。
 顔を見合わせ動きを止めた人々の中に、武器を携えた新たな一団が踏み込んだ。
「スティルチ様、ご無事ですか?」
 賊はどこですと周囲を見回し、惚けた顔の仲間を叱咤する。 処刑されそうになっていた罪人は、どうやらあのノエルという少女がうまく逃したらしい。広場に残っているのは武器を携えた兵士と、丸腰の海賊ただ一人。
 その顔に絶望ではなく安堵を浮かべて、少女の消えた場所を見ていた。
「なあ、あんた」
 声を低くし、相対する彼にだけ聞こえるように口元を隠して言葉を掛ける。海賊が訝しげに眉をひそめた。
「うまいこと、合わせてくれよ」
 言いながら、ツインブレードを振りかぶる。
 ミカエラという少女を、彼は助けた。戦いを放棄し、命を投げ打つリスクを顧みなかった。ならば、おそらくこの男は悪人ではない。少なくともこの場で殺すべき相手ではない。
「手を出すな! 僕が方を付ける」
 大げさなわかりやすい動作をしながら、視線で訴える。
 気づいてくれよと心のうちで祈りながら、手首を返す。峯を相手に向ける。幅広の刃を振り抜いた突風が、篝火の火の粉を巻き上げる。
 海賊が石畳を蹴った。
 それは追い詰められてヤケクソになって、決死の突進をしかけただけに見えたかもしれない。
 だが寸前で、海賊は飛んだ。
 ツインブレードの峰に足を乗せ、振り抜く勢いで宙に飛ぶ。
「礼は言わない」
 近づいた一瞬に呟きを残し、小柄な体が屋根まで飛んだ。言い返そうとしてもとうにその姿は見えない。巻き上がった火の粉と土埃に目を閉ざせば、少女が消えた時と同じ力で海賊も姿を消したように見えただろう。この広場の包囲を抜け、明かりの届かない場所に逃げ込んだなら、あの海賊はきっとうまく立ち回る。
「全く、可愛げがない」
 スティルチはため息をついた。

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