箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

12,救いの手 その1

 ミカエラの全身を風が包み込んだ。広場を駆け抜けた突風は、肌を裂くような激しさに思われた。だがそれは柔らかに肌に触れ、春の午後に散歩に出るような気楽さで、人々を連れ出していた。
 瞬きをし目を開いた時には、ミカエラと処刑台の上の人々はもう広場ではなく街の一角にいた。
 夢か、と思った。今までの見ていたものと、目の前に広がっている景色どちらをそう思えばよかったか。記憶をどこまで遡っても、目を覚まして戻るべき暖かい日常がないミカエラは、混乱から立ち戻ってくるより他なかった。
 街の住人は言葉を失い顔を見合わせている。彼らはまだ自分の身に起こったことが性質の悪い夢としか思えないのだ。処刑場に立たされ今にも首を括られかけているという悪夢が目の前から消えた。ならば次は暖かい布団の中で目を覚ますのが道理だ。
しかしそんな穏やかな朝はやってこない。
 これは現実。兵士に追われる悪夢の続き。
 茫然自失の人々の中に、険しい顔をしているノエルの姿を見つけた。あの混乱の最中に手を差し伸べてくれた彼女の姿は、見間違いではなかった。
 視線に気がつくと、険しい目元をふわりと和らげた。
「危ないところだったね」
 広場で視線を交わし手を取った時、言葉は必要なかった。事態は逼迫しており、1秒の猶予もなく互いにしなければならないことだけが明確に見えていた。
 今一度、顔を見て再会を果たすと今度は話したいことと話すべきことが多すぎて、言葉が少しもまとまらなかった。
「怪我はない?」
 相手も同じように感じていたのだろう。悩みぬ抜いた末に、いろんな言葉をぐっと飲み込み、ようやく言葉を吐いた。
「ノエ」
「ノエルちゃぁん!」
 飛び込んできたケレイブの抱擁が、二人をまとめて抱え上げた。
 鎧を奪われたケレイブは毛皮の塊そのもので、抱きつかれると日向に干した毛布に抱きとめられたように柔らかく温かかった。
「助けに来るって信じてたっス」
 ぐりぐりと頬ずりをする。
「うんうん、ケレイブ、今は感動の再会の最中だからね。ちょっとこっちに」
 ノエルが宙に浮いた足をバタバタさせると、渋々二人ををおろしてくれた。耳をぺたりとさせたケレイブをそっと傍に避けてからノエルは改めてミカエラを抱きしめた。
 暖かい体温。再会を約束して別れた時以来だ。
 あの時はこんなことになるなんて思ってもいなかった。
 少し故郷の様子を見てくるだけのつもりでいた。誰もミカエラの顔なんて知らないのだからと、軽い気持ちでいた。自分の周りにあった影にあまりに無頓着だった。
 過去の自分が目の前にいたら、張り飛ばしていた。
 まだ何も学んでいないの、あなたはなんて愚かなの、と。
「とにかく、無事でいてくれてよかった」
 両手を痛いほどの力で握った彼女の僅かな震えが、彼女の感じていた不安を教えてくれた。
「こっちのセリフだよ。ミカエラを探しにきたの」
「ごめんなさい巻き込んで」
「友人を助けたいから追いかけてきたの。巻き込まれたわけじゃない。とにかく今は、逃げるのが先」
「そうっス。ミカエラちゃんが無事に見つかった。あとは逃げてくれれば、オレら殺戮者に専念できるっス」
 ノエルが迂闊な発言をたしなめるようにケレイブを肘で小突いた。
「ま、待ってくれ。わしらはどうすればいい」
 街の人が困惑して顔を見合わせた。
 何が起こったのかわからないまでも、それが広場に走り込んだノエルのなんらかの力による者だというのは理解している。というより、あの状況でそれ以上の解釈を持ちようがないからなんとなくそうだと思っているだけらしい。
「もちろん、逃げましょう。みんな一緒に」
 安心させるようにノエルが微笑む。不思議な力を持った少女にそうして微笑まれると、確かに大丈夫なのだという気がしてくる。人にそう思わせる不思議な力が彼女にはあった。
「おい、ふざけんなよ」
 それに声をあげたのは、目つきの鋭い男。武器屋の主人だった。
「何がみんなでだ。その場しのぎで逃げ出したって、この人数でどうすりゃいい。いずれ捕まっちまうんだろ。それならこいつを売りゃ早い」
 まっすぐにミカエラを指差した。
 無礼をたしなめるように、かばうようにノエルが二人の間に立つ。
「領主のやりようをみました。たとえミカエラを差し出したところで、助かるとは思えません」
「そうだろうな。一度処刑台に登った人間が生きて帰ってくるなんて聞いたことがねぇ。だがあいつらの仲間になれば、違うかもだ。どっちにしろ捕まったら殺されるんだぜ、なら俺は生き残る可能がある方にかける」
 そうだろと街の人間を振り返る。
「だ、だがこの子がいなければ、我々は殺されていた。少なくとも命の恩人ではあるわけだし、そんな裏切るような真似」
「何が裏切りだ。お前らがどうか知らないが俺がこんな目にあったのは、確実にこのガキのせいだ。街で兵士が聞き回っている。灰色だか銀色だかの髪をしたガキと、つながりのあるやつを知らないかって」
 どうやら追跡者の間ではノエルとショロトルの情報が、混ざってしまっているらしい。人相書きはまだ用意できていないし、口伝えに話すのに一番わかりやすいのは、二人の目を引く髪の色。
 見比べれば全く違う色だけれど、片方だけが目の前にいた時その髪の毛を灰色というか銀色というかは、その人の感性次第だ。
「この銀髪の方はいいさ。こいつのおかげで助かった。それはわかってる。だがこっちのガキはダメだ。俺たちにとって命の恩人でもなんでもないだろ。一体なんでなんで領主が子供ばかり追いかける。どうしようもない厄介の種に決まってる」
 不穏な気配に押されて、一歩下がる。
 英雄。
 誰ともなくぼそりと呟いた。

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