箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

10,夜の底 その4

 刃が首をそれて、壁を削る。力の抜けた手からナイフが抜け、床に落ちた。
 目をそらし続けていた痛みが全身を射し貫き、立っていることもできない。骨を砕かれても肉を割かれても戦えるはずなのに、こんなことで膝に力が入らない。
「どうすればよかった」
 夢の中でしか流したことのない涙が溢れる。
 全ての人間が、痛みを抱えて立ち上がれるほど強くはない。
 ショロトル・ストレリチア。ストレリチア家の影。
 守る家を亡くした剣。必要とされていない役割。誰も呼ばない名。
 それしか縋るものがなかったから、それに縋った。そうしなければ、空っぽの手と胸に空いた穴を抱えて立ち上がれなかった。
 灰色髪。混血児。裏稼業。人殺し。厄介者。盗賊。いけ好かないガキ。刻まれし者。
 それらが、ショロトルに与えられた新しい名だった。自分が誰だか忘れてしまわないように、自分の名を呟きながら眠りについた。そうしていないと、心に空いた暗闇に飲み込まれてしまう。
 大切な家族も家から与えられた役割も、自分が作り出した幻想だ。
 気づいていたのに抱えているうちに、いつのまにか本当に掛け替えのないものになってしまっていた。
「なかったことにしたい」
 今でも眠るたびに、心が砕けそうになる。
 レクターがいる。ワードック一味の仲間がいる。必要とされ大切にされている。誰にも呼ばれることがないと思っていた名を呼んでもらえた。あの船で、一生知らずにいるはずだった家族の情を知ることができた。
 それだけでは、ダメなのか。
 明るい方に、いってはいけないのか。幸せはなずなのに、まだ過去にこびり付いた悪夢が拭えない。
 手を引いてくれる人がいるのに、まだ前に進めないでいる。
 過去に縋り付いた幻想に捕まって、差し伸べてくれた手をつかめない。
 それがずっと、申し訳ない。
「なかったことにしても家族を愛した優しさの分、傷つくだけだよ」
 膝をつきナイフを落とした両手は、ミカエラに縋っている。
「みるな」
 まだ、涙が止まらない。
 労わるようにそっと手のひらが髪を撫でた。
「さわるな」
 弱々しい抵抗は、本心ではない。
「感じる心から目をそらしたら、お父様と同じになってしまう。
 数字の裏にある人の命を、受け止められない人だった。それはとても人間らしいけれど、領主としては許されないことだった。見ないふりをしているうちに、本当に何も感じない人になってしまった。
 そうなりたくないから、私は自分の心から目を逸らさない。過去の重さからも逃げたりしないと決めているの。ショロトルも義務とかじゃなくて、自分の心で決めたことをして」
 頭の中はぐちゃぐちゃで、自分が何をしたいかなんてちっともわからない。心はいま、頭を撫でる手を止めて欲しくないと願うような稚拙で情けない形をしている。
 何一つままならない。それでも暖かな手は、まだ髪を梳いている。そのことに安堵して、目を閉じた。
 天窓から月の光が差し込んでいる。
 街は、夜の底にあった。

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