箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

11,悪徳に咽ぶ その1

 堰を切ったように溢れだした涙は、なかなか止まらなかった。
 その間、ミカエラは天窓から差し込む月明かりが、ゆっくりと動いていく様を眺めながら待った。
 彼が必要としているのは、慰めではない。故郷を失ってから越えた夜と、心を殺して立ち上がった朝を受け止められるだけの時間だ。
 嗚咽さえなく、不規則にこぼれ落ちる雫の滴りと、流れていく夜の静けさに揺られ、知らず知らずまどろんでいた。
 目を閉じていたのはほんのわずかな時間だったはずだ。まだ街は夜の底にあった。身を起こすと、毛布が体からずり落ちた。
 ショロトルは部屋の隅で、木箱に腰掛けていた。濡れた布をまぶたに乗せて、冷やしている。
 ミカエラの方を向くと布がずり落ちて、まだ赤さの残る目元が見えた。
「なんだよ」
 拗ねた子供のように唇を尖らせる。
 普段通りの様子だったので、ようやく彼に話しかけることができた。
「なんでもない」
 本当のことを言えば、まだ海賊の姿が部屋の中にあった時、心の底から安堵した。何の義理もなくなった相手に、別れの挨拶をするような人には思えなかったからだ。
 寝ているうちにいなくなってしまっていたら、ここからは先は一人になる。関係ない人を巻き込んではいけないとわかっているのに、それが怖くて仕方がない。
 海を渡る術、兵士に囲まれた状態から逃げ出す術、情報を引き出す術、何一つ持ち合わせていない。一人だったら今ここにいる隠れ家だって、見つけられはしなかったのだから。
 諦めるつもりはないけれど、ショロトルが言った通り領主に会うなんて叶わない希望であることもわかっている。
それでももし、館にかつてのミカエラの名前を覚えている人がいれば、と言うのが一縷の望みだった。
 眠りに落ちた人々を揺り起こすように、石畳の街に重苦しい音が木霊した。長く余韻を引くそれは、教会の鐘楼から聞こえている。
 同時に、騎馬隊が近づいてくる蹄の振動を感じた。唇の前に指を立てると、外の気配に意識を集中する。
 繰り返し呼びかけられている。裏通りに面し、窓のないこの部屋では何を言っているのか聞き取るのは難しかった。
 騎馬隊が遠ざかってからしばらくして、再び夜空に鐘の音が木霊した。先ほどよりも感覚を短く、急き立てるように打ち鳴らされる。
 昼間なら日常の中に埋もれて気にも止めない鐘楼の叫びが、周囲を警戒して気を張っている今は神経に障るようだった。
「ガンガンうるっせぇな、なんだよ。昼間も鳴ってたな」
「弔いの鐘。多分、広場で処刑があるの」
 しばらくして、通りが騒がしく鳴った。扉を薄く開けてそっと表を伺う。
 戸口から顔を出し、あるいは窓から外を伺って不安げに顔を見合わせる住民たちの姿見えた。やがてその中の何人かが、外に出て広場に向かって歩き出した。
「こんな夜中に、人が死ぬところを眺めに雁首そろえて広場に向かってんのか。いい趣味してるな」
「疑われるのが怖いんだわ」
 積極的に参加しなければ、処刑に対しての反意を抱いている可能性や、罪人に特別な情を掛ける関係であることを疑われる。息苦しい街だ。
「こっちには、好都合だ。夜の間に人混みに紛れれば、街の外に出ることができるかもしれない。罠くさいけどな」
 彼の言う通り今夜の処刑は、逃亡者を捕らえるための策か反逆者に対する見せしめなんだろう。相手にダメージを与えるか、広場におびき出すことができると確信していなければ、このタイミングで住民を外に出した意味がない。
「じゃあ、ここで様子を見る?」
「いや、このままここにいればいずれ駆り出される。この部屋には逃げ場がないしな。入口を塞がれたら終わりだ。この隙に安全なところまで逃げるべきだと、俺は思う」
 逃げていいんだろうか。
 縁のある相手がこの街にいなければ、それは当然の判断だ。預かり知らぬところで死ぬ、見ず知らずの他人に情を配って歩くような人ではない。彼だけでなく大抵の人が、自分と大切な人だけが無事であればいいと思いながら、緩やかに窒息していく。
 アルベルトが街を支配していた時と同じだ。
「さっきの兵士の口ぶりからすると、ノエルとやらもきっと無事だ」
 ためらいを嗅ぎ取ったのか、ショロトルがらしくないフォローを入れた。
「でも、殺される人は私たちのせいで死ぬんだよね」
 ミカエラには仲間なんていない。ショロトルも、この街に仲間はいない。ノエルも無事だと言うのなら、今から処刑される誰かは全く無関係の人だ。本当なら死ななくてもよかった人だ。
「広場に行くつもりだろ」
「うん」
 ミカエラに戦う力はない。様子を見に行くだけでも、思う壺だとわかっている。
 それでも見過ごすことはできない。自分の命惜しさに、犠牲を見過ごしたのなら、父を手にかけた日から始まった全てが欺瞞になってしまう。
 誰かの命が不当に奪われるのなら、相手が父でなくても諌め、止めなくてはいけない。
 助けられるかもなんて、甘いことは思っていない。それでもなにかできるはずだ。ミカエラが捕まれば、関係ない人を処刑する必要はなくなる。
「お前の覚悟は、変わらないのか」
「領主じゃなくなったとしても、ここは私の故郷で私の街なの。ゼネフェルダーとして生まれた私の義務。私の父が不幸にしたこの街の人たちを、一人でも多く助けなければいけない。見捨てることはできないわ」
 ショロトルとはここでお別れだ。行き止まりだとわかってるのに、ついてきてなんて言えない。声はミカエラの問題。
「なら、早く用意しろよ」
「え?」
「処刑、止めに行くんだろ?」
「手、貸してくれるの? だって、罠だって、そんな場所についてきてなんて、助けてなんて言えないよ」
「物分かりよくしなくていい。諦めるな。そういうのはもう散々みてきた」
「なんで助けてくれるの?」
「あんたを見極めたい。生きててもらわないと、見極められないからな」
「命をかけるんだよ。そんな簡単に、決めていいの」
「簡単に決めたわけじゃない」
 ミカエラの言葉を否定する。
「ミカエラ、俺の過去はもうどうにもならない」
 悪夢にうなされて目を覚ます朝が、消えることはない。焼け付く記憶を胸に抱いて、生きていくしかない。
「あんたは、そうじゃないよな」
 そう続けたショロトルの声はとても静かで、穏やかだった。
「俺はあんたの信念の果てがみたい。その正義がどこに行き着くのかが知りたい。だから」
 過去の絶望は拭えない。罪は拭えない。それでも誰かの希望になることがあるのなら、それはきっと救いになる。
「ミカエラ、あんたの正義に命をかける」
 ショロトルは、ミカエラの前に膝をついた。

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