箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

10,夜の底 その3

 いっそここで殺してしまっていいんじゃないか。
 領主の娘だからなんだ。この街の人間がどうだというんだ。俺には関係ない。敵の正体はわかった。それに警戒すればいいと報告し、船に帰ろう。
 あの子供は助けられなかった。話はそれで終わりだ。
 持ち上げられられたミカエラの表情が苦しげに歪む。足を伸ばしても壁を蹴るばかりで、床には届かない。ようやくショロトルに対する恐怖が戻った。
 初めから、そういう顔をしていればいい。
「俺を見ろ」
 もがくミカエラを揺さぶり、視線を自分に向けさせる。
「くたばる前によくよく目に焼き付けろよ、血統書付きのお嬢様。この銀髪に遠く及ばない濁った髪の色を、獣を思わせる色をした目を、錆を混ぜたような肌の色を。家族の記憶なんてほどんど残っちゃいないさ。だがどんなバカでも嫌でもわかる。俺は家族に疎まれていた」
 貴族の社会でこんな異色が混じった雑種が、存在を許されていたはずがない。まして、人として愛されていたはずがない。
 母親が誰かは知らないが、自分の生まれは想像がつく。大方、父が毛色の違うペットか奴隷に気まぐれで手を出して、孕ませたんだろう。ストレリチアの家と無関係にするには、顔が親父に似すぎていたし、庶子であることを隠すには、誤魔化しようもなく全身が異国の血で汚れていた。
 とっとと消したかっただろうが、なぜか生かされた。庶子とはいえ貴族の血を引いていたからか、我が子を殺す度胸がなかったからなのかわからない。あるいはその両方だったのかもしれない。
 連中には直接手を下すだけの度胸がなかった。
 しかし、ショロトルにはできれば死んでもらいたかった。
 だから暗殺者として仕込まれたのだ。表の世界には決して顔を出さず、暗闇の世界に沈める。そうしておけば、不義の証明はひとまず彼らの視界から消えた。
 そうしていつか、過酷な訓練の最中の事故か危険な任務の最中に、偶然死んでくれればよかったのだ。
 当時、愛されているように感じていた褒美や言葉は、奴隷から無償の奉仕と忠誠を引き出すための手練手管でしかない。
 家族とは違う地下の部屋を与えられていたから、襲撃者に見つからなかった。人扱いされていなかったから、生き延びた。
 一人で生きるようになって、普通の家族を見た。人を殺さない奴の暮らしぶりを知り、俺のような奴が世間でどう見られているのかを知った。
 嫌でも理解した。思い知った。骨の髄まで思い知らされた。あれは、愛ではなかった。混血の庶子は、家族に愛されてなどいなかった。
「貴族の世界じゃ、俺は半分しか人間じゃない。生まれた時から“人でなし”なんだよ。そんな家族が死んで、どうして悲しんでいると思った?」
 ミカエラが泣きそうな目で見返してくる。
 そんなに恐ろしいなら、命乞いの一つでもしてみせろ。
「あなたが優しい人だから。それを悲しいと思う人だから」
「俺が優しい? へえ、お前には俺が善人に見えていたのか」
 つくづく、平和ボケした脳みそだ。武器屋の忠告は、ショロトルの耳にも聞こえていた。
 あの男の言う通りだ。同じ人殺しでも、他の人間とは違う。生まれた時から血に濡れて、呪われた道を歩いていた人間とそうでない人間。
 彼我の溝は深い。
「俺が本当に善人かどうか、賭けてやる。賭け金はお前の命だ」
 ナイフは冗談で振り回すものではない。脅しの道具ではなく、相手の命を奪いその重さを背負うという覚悟を決めて抜くものだ。
 今、軽率に一線を踏み越えたら、止めてくれる船長はいない。
「自分だけは殺されないと思っているのか?」
 ナイフを抜く。
 胸に開いたうろを眺めていれば、どんなに残酷にだってなれた。大切なものが欠けている代わりに、人を殺す才能と宿命をを持っていた。体に刻まれた聖痕。正しい心を持って扱わなければ、簡単に飲まれてしまう神の力。
 この心には、穴が開いている。いつかきっと闇の底に落ちる。あるいは何も感じない空虚な心は、もうそちら側に近いのかもしれない。
「あなたがそうやって攻撃的に振る舞うのは、怖いからだわ。船のみんなが危険に晒されそうになった時や、自分の優しさに触られそうになった時。他人に踏み込まれて傷つくのが怖いから、人を遠ざけずにはいられないんでしょう」
「うるさい」
 胸ぐらを掴む腕を、握り返した少女の手が暖かい。その温もりが恐ろしい。逃れるには自分が手を離すしかない。
 だが一度、張ってしまった意地を取りさげる方法を知らない。一度抜いてしまったナイフを、振り下ろす以外にどうすればいい。
「本当に気にしていないなら、夢にうなされたりしない。受け止められないくらい悲しいことから目をそらしたって、無かったことにはならないの!」
「黙れ!」
 ミカエラの言葉から逃げるように、ショロトルは腕を振り下ろした。

Page Top