箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

9,軋む正義 その3

 話終わるまでの間、ショロトルは目を閉じ壁にもたれて聞いてた。
 ミカエラの語るワーズワースという男の判断は、おそらく正しい。
 今は革新派が大勢を掴み、アルベルトは悪であったと世評が固まったからこそ、英雄などと言われて人々に崇められている。それもおそらく直後に姿を消して、行方も正体も知れないというミステリアスな要素が絡まって、物語に昇華されたからこそという部分が大きい。
 この街の人間がいうところの英雄であるミカエラを助け、命を救ったというワーズワースという人物の噂を、今の街で全く耳にしないのがそのいい証拠だった。
 おそらくその夜、その男は命を落とした。そして歴史の闇の中で、その存在も果たした役割もなかったことにされた。
「四年も経ってなぜ戻った」
 それだけの年月一人でいたのだ。街に戻ろうとしなければ、ただの孤児として生き続けることも可能だったはずだ。
「向こうが私を見つけたの。多分、私が箱を開く方法を知っている唯一の人間だから」
「それがわかってて、逃げなかったのか」
「ショロトルと同じだよ。誰が何を目的としていたのか、わからなければ自分を守れない。どちらにしろ平穏には暮らせないもの。自分のしたことで、街をどう変わったのかも確かめたかった」
「いまだに領主気取りってわけだ」
 ミカエラが傷ついたような顔をした。
「なんでそんな言い方するの。そんなこと、思ってない。故郷を一目見たいって思うの、普通じゃない?」
 なぜこんなに心が波立つのか、ショロトル自身にもわかっていなかった。冷静さを欠いているという自覚はあったが、ついミカエラに対して皮肉を言わずにはいられなかった。少し一人で考え事をしたいが、今の状況でミカエラを置いてどこかにいくことは難しかった。
「俺が知るか」
 そんな気持ちは知りようがない。故郷などもはや地図にも残っていない。記憶の中からも薄れ、消えかかっている。遠い夢のような場所だ。
「ショロトルだって故郷はあるでしょ。帰りたいとか思わないの」
 自分が手にしているものは、自分以外の人間全てが手にしていると思っている。上流階級出身特有の傲慢だ。反吐がでる。 「覚えてない。随分昔に失った、もう地図にも残ってないだろ」
「家族のことも、覚えてないの」
「臭いだけ」
「匂い?」
 ミカエラの表情が和らいだ。平穏な想像をしたであろうことが、その顔からわかった。
 呑気な顔が、ひどく癪に触った。今まで誰にも話さなかった家族のことを話す気になったのはそのせいだ。
 お前も同じ地獄を見ればいい、と思った。
「油をかけて燃やされている臭いだ。切り落とした頭が、芋みたいに部屋の隅に積んであった」
 事あるごとに記憶の裏側に張り付く赤い血の手形。地獄が待ち受けていると知らずに扉を押し開けた、傷だらけの手のひらが残した今よりも幼い自分の手のひらの跡だ。
 眠りに落ちるごとに、絶望が鮮明に目の前に現れる。悪夢の中でそれらの記憶は激しく胸を抉った。眠りに落ちることが恐ろしくなるほどに。
 言葉にしたら胸の中にある名付けられない感情の波が溢れ出してしまうのではないかと思っていた。
だが、目を覚ましている時に呼び起こすそれらの景色は、ひどく空虚で乾いていた。
 記憶の中に、家族の面影はほとんど残っていない。それがどういうものだったのかは、遠く隔たりすぎてもはや忘れてしまった。
 唯一、覚えているのが臭い。
 扉を開けた先で、屋敷にいたありとあらゆる人間の頭が部屋の隅に積んで燃やしてあった。使用人も、父も兄も弟も全てその中のどれかとして平等に燃えていた。
 爪が焼け髪が焦げるひどい臭い。肉が焼け、脂が溶ける臭い。
 爛れてめくれ上がった皮膚、顔面の筋肉が縮んでむき出しになった歯茎。鼻が削げて毛が燃えた特徴のない頭たち。
 それらが父や兄や弟とわかったのはなぜだろう。他に人の形をしたものが残っていなかっただろうか。
 そこから先、燃える屋敷の中からどうやって逃げ延びてしまったのかは記憶にない。刻まれし者でなければ、死ねたのだろう。
 残ったのは悪夢とショロトル・ストレリチアという名。肌身離さず身に着けていたいくつかの品と、教え込まれた暗殺者としての知識。
 それが今の自分を形作っている。
「ごめんなさい」
「なんで謝る」
「辛いことを、思い出させて」
 勘違いをしている。辛いことなどではない。
 己でも、触れればもっと痛むはずだと思っていた。夢で見るような激情が、内に湧き上がるのだと思っていた。
「別に。俺にとってはもう、どうでもいい事だ」
 無意識に、記憶のその場所に触れるのを避けていた。そこにはとても恐ろしいものがあるような気がしていた。だが開けてみればなんのことはない。ただひたすらになくしたものの分の空虚が広がっているだけ。なんの悲しみも絶望も残っていない。
 それを突きつけ、ミカエラの傷ついた顔を見たところで、些かも気は晴れなかった。無から生まれるものは何もない。
「とにかく、お前がゼネフェルダーのガキだというのはわかった。それなら、狙ってきた連中にも当たりがつけられる。そっちを辿るぞ」
「初めから正直に話していたら、こんな寄り道する必要なかったんだよね。でも、言い出せなかったの。この街で、ゼネフェルダーという名前はとても微妙な立場だし」
「相手を見極めもせずに情報を明け渡すのは、正直とは言わない。ただの間抜けだ。お前はお前の立ち場で動けといった。これからも言いたくないことは、言わなくていい。お前がどこの誰か知りたいってのは、俺の勝手で俺の立場だ。必要なら自分で暴く。今みたいにな」
 その程度の判断もできない馬鹿なガキなら、今頃見捨てていた。
「今はどんな立場にいるの」
「連中の正体を暴く。必要なら潰す」
「潰すって、そんなこと一人でできるわけないよ」
 ミカエラの視線が、ちらとショロトルの胸の包帯にむいた。街のチンピラに対してすら膝を折った様を見られた。そんな様で戦えるのかと彼女の視線が言っている気がして、顔をしかめる。
「できなければ、取引するだけだ」
「私を条件にするのね」
「それはこれから決まる。どうやら話を聞く限り、手と頭が残っていれば、お前の価値は損なわれないらしいからな」
 腰に隠したナイフの場所を叩く。
「もうナイフも二本ある。逃げるなら精々努力しろよ」
「逃げないわ。そう決めたの」
「連中がソラルヤーダに関わってくる理由がなくなれば、俺の用件は終わりだ。心配しなくても、すぐに縁は切れる」
 まっすぐに見つめてくるミカエラから、ショロトルはふいと顔を逸らした。

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