箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

9,軋む正義 その2

 朝から空に厚く雲が垂れ込めた、薄暗い日だった。とはいえ、晴れ間の少ない北方の国はそんな天気が常で、ミカエラの陰鬱な気分が空をそんな色に見せているだけなのだった。
 散歩をしてくるといって中庭に出た。いつもお目付役県護衛をしているワーズワースは、別の任で館を離れていた。代わりの人間は、公女が普段ありとあらゆる手段を使って館を抜けだそうとしていることなど、知りもしない人でだしぬくのは簡単だった。
 毎日の勉強よりも街に興味があって仕方がなかったし、見張りの目をかいくぐるのはゲームみたいでワクワクした。そんな些細な出来事が一日のうちで最も大切なことだった日々は、なんて幸せだったんだろう。
 よくおやつをもらいに立ち寄った厨房。裏手に井戸があるのは知っていた。
 懐に抱えた包みに岩をくくりつけて、水に落とす。ゾッとするくらい長いあいだを置いて、どぼんと水に沈む音がした。
 それから後は、ありとあらゆることに不満を述べ、拒否し、わがままを言い、反抗した。
 辛抱強いチェーターもついには癇癪を起こして「言うことを聞かないなら夕飯は抜きにします」と宣言した。
 もちろんそれが狙いだったのだから、従うはずがない。
 部屋にはこっそりと前日に汲んでおいた水とおやつの残りがあり、それで口を凌いで時がくるのを待つ。
 井戸に投げ込んだ毒は、時間をおいてゆっくりと流れ出す。少しずつみんなの口に入る。効果が出始めるのは晩餐の後だろうと予想していた。
 効果が出るので時間がかかる毒は、ゆっくりと体から抜ける。駄目押しでワインの樽にも混ぜた。お酒と一緒に摂取すれば、効果はより激烈になるとわかっていた。
 命を取るようなものではない。ただ体が痺れて動きが鈍る。館にいて食べ物や飲み物を口にした人間は、程度の差はあれ体の自由がきかなくなっていた。
 最初の一人が不調を覚えることには、もう同じものを飲み込んでしまっている。使用人と領主とで、食べるものは違うけれど水は同じ場所から汲まれる。
 ナイフを持って、父の元に向かった。
 廊下でお茶を運んでくれる途中だったメイドが座り込んでいた。夕食抜きだったから、こっそりと食べるものを差し入れてくれようとしたのもわかった。
 急に足が立たなくなったと、助けを求める声を無視した。
 自分が初めてしまった出来事に気をとられて、目の前の人を慮る余裕すらなかった。
 皆、何が起こったのか理解できていなかった。
 自分の身に起こったことが皆の身にも起こってきて、それが毒だと気づき、領主の身の安全に考えが及ぶのはまだ先のこと。  それでも毒の効き始めたタイミングはまちまちで、摂取量にも差があったので、まだ動ける人間はいるはずだった。
 なのに父の部屋に向かう途中、同じ方向に向かう人間とは出くわさなかった。
 悲しいことに、ミカエラの歩みは誰にも邪魔をされなかった。
 扉の前には、警護の兵が同じように動けなくなっていた。晩餐の残りのワインに、こっそりと手を出したのかもしれない。
 扉の前でナイフを手に、迷った。屋敷の中には助けを求める人たちのこええ不気味な多重層が奏でられていた。
 震える手で把手に手をかけ、俯いた。鼻先から汗が滴るまでの時間、そうしていた。毒で苦しんでいる人の声を聞くだけで、恐ろしくなる。
 父の顔を見てしまったら覚悟が揺らがずにことを成せる自身がなかった。ここまで大それたことをしてしまったら、もう引き返せない。言い行かせて、扉を開いた。
 ワインを飲んだ父は、椅子の上で痙攣していた。痺れが酷くて視線も定まらないようだった。
「誰だ」
 扉を開閉する音で部屋の中に人が入ってきたことに気づいた父の言葉は呂律が回っていなかった。
「早く、助けろ。誰かが私の食事に毒を混ぜた。殺せ。厨房のやつも毒味も、今日の見張りも! 役立たずども! くそ、誰だそこにいるのは、早く私を助けろ。体が動かん、目が霞む」
 領主アルベルトと、初めて対面した。父親の仮面を脱いだその男は、酷く醜悪だった。降りかかる不幸は全て他人の落ち度だと思い込み、不愉快ならば思うまま首を跳ねることができると信じて疑っていなかった。
 ナイフを手にして本人の前に立ってなお、それを使って相手をどうやって殺せるかと言う想像を持ち合わせずにいた。
 肋骨と胸骨を避けて、胸を刺し貫くほどの技量と力はない。首を切るのが子供にもできる方法に思われたけれど、手が届かない。相手の首を切るには、膝に乗らねばならなかった。
 幼い頃によくそうして、膝に乗って甘えていたことを思い出し、叫びだしたくなった。
「ミカエラ? ミカエラか。お前は大丈夫なのか」
 アルベルトが父親の顔なる前に、さした。見てしまったら耐えきれないと思った。
 なぜ、とその唇が動いた。
 そうして見開かれた瞳から、命の火が消えるのをみた。当時は知る由も無いことだけど、井戸は一箇所ではなく毒の効果が出ていない人もかなりの数いた。
 悠長にしている時間があったのは、領主アルベルトの人望のなさ故だった。屋敷の中で異変があった時、誰も彼を心配しなかった。助けに行こうとしなかった。
 職務上、いずれ助けには向かうが、運悪く間に合わず死んでいてくれればどれほどいいか。
 アルベルト・ゼネフェルダーという男の死に様とはそういうものだった。
 茫然自失で竦んでいたミカエラを現実に呼び戻したのは、ワーズワースだった。
 屋敷を離れていたはずの男が、目の前で名前を呼び肩を揺すっていた。任から戻る時間になっていたのかもしれない。
「ミカエラ様、しっかりしてください」
 手の中に、旅の装備の一式。それは彼が今日、手にしてもどってきたばかりのもののようで、全てが大人の男の大きさに設えられていてミカエラの手には余った。
 そして、金属の箱。
「開き方は知ってしますね」
「ワーズワース違うの、私、こんなことをしたかったわけじゃ無い」
「わかっています。しかし今はお逃げください。この街には、今から嵐が吹き荒れます。再び凪の時を迎えるまで、あなたとこの箱はエスメールを離れているべきだ」
「どこに、行けばいいの。私この屋敷以外なにも知らない」
「子供の足では、追っ手を振り切れますまい。船を使ってお逃げください。ちょうど今晩、私の乗ってきた船が港を出ます。運良く、港が閉鎖される前に出向してくれれば、素知らぬふりをして新しい地に辿り着けるでしょう」
 ワーズワースはミカエラを無理矢理に立たせた。膝が震えて立てないことを、そのとき初めて自覚した。自覚した瞬間に体が震えてしまって思うままに動かない。
「ワーズワースも、ついてきてくれるよね」
 立ち上がれないミカエラの体を抱え上げたワーズワースの顔が、苦しげに歪む。
「可能な限り、そばでお守りいたします。しかし、街の外までは……。一人で生きていく覚悟をなさってください」
 生真面目で不器用な人だった。子供を励ます優しい嘘すらつくことができない。
 いや、迫り来る危機を正しく認識できていた彼だからこそ、目の前の子供を慮る余裕すらなかったのだと、今ならわかる。あの時、すでに彼は死を覚悟していた。
 血まみれの子供を抱えて、領主の部屋から走りさる騎士を多くの人間が見ていた。部屋では領主が死んでいる。
 逃げる二人には、追っ手が掛かった。
 今でこそ英雄などと囃されているけれど、それは領主が悪だと断じられたから。いや、断じられてもなお領主に毒をもり命を奪ったミカエラは大罪人だ。
 ゼネフェルダーの血筋と箱のことがあるから、捕まってもその場で命は取られなかったかもしれない。それでもなんの後ろ盾もない子供は、保守派と革新派が争った年月を生きぬけなかっただろう。
 即座に館を後にしたワーズワースの判断は、正しかった。
 それでも、子供を抱えたままでは思うように進めず、包囲されるのも時間の問題だった。
 先にお逃げください、と彼は言った。あなたを守りながらでは、戦えません。後から向かいます、と。
 追いつくつもりなんてなかったくせに、そう言わねばミカエラが先に進めないから、彼は嘘をついた。
「いずれ時間の流れが、あなたの信じた正義を証明するでしょう。その時までは、生き抜いてください。あなたはこの国に、なくてはならない人なのだから」
 別れ際、痛いほど強い力で抱きしめられた。
 ワーズワースを見たのは、それが最後。言われたままに港に走り、船に潜り込んだ。
 そこから先は、必死に生きて生きて生き抜いただけ。

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