箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

8,英雄の噂 その11

 話を終えた教会には、重苦しい沈黙が降りていた。
 ヴァネッサが語ることが真実ならば、前領主を殺した英雄はアルベルトの実子ということになる。単なる暗殺事件とは趣が仄暗く変わってくるのは確かだ。
「アルベルトという男は子供にすら、恨まれるような男だったのですか」
「いいえ、彼は娘を愛していた。あの男の数少ない利点の一つでした」
 ヴァネッサは悲痛な顔で首を振る。
 では、なぜ。
 年端もいかぬ少女が人を殺すというだけでも、ただ事ではない。しかも自らを愛してくれていた父親を、なぜ殺す必要があったというのだ。
「私たちのためです。いいえ、私たちのせいです」
 皆がアルベルト様をそのままにしておけば、いずれ街は滅びると思っていた。重すぎる税も刑罰も、度を過ぎているのは明らかだった。
 それでも誰も何も言わなかった。状況はどんどんと悪くなる。誰かが彼を止めなければならない。誰の話も聞き入れない彼を止めるのは、穏当な手段ではすまない。
 わかっていたけれど、誰もが自らの手を汚すことを恐れた。アルベルトは領主の座にいてはいけない。退く気がないのなら、無理矢理にでも退場してもらうしかない。偶然の事故や病で命を落としてくれないだろうか。あるいは、勇気ある誰かが状況を変えてくれないだろうか。
 そう思いながら目を伏せ、口を閉ざしていた。
 無辜の民の首が括られるのを見過ごしていれば、自分たちは安全だった。
 そしてあの夜が起きた。
 アルベルトは娘を愛していた。娘も愛情を受けた父を愛していた。
 恨みでも憎しみでもない。ただ彼女は街の行く末を憂えたのだ。齢十を数えたばかりの少女は、ゼネフェルダーの名を背負うものとしての義務を遂行した。そのために、自分の家族の幸せを捨てた。
「私たちは罪を背負うことを恐れた。もっと早く決断していれば、少なくとも子が父を殺すような悲劇は起こらなかった。アルベルトを誅するのは、誰かがしなければいけないことだったけれど、少なくともそれは家族に愛された少女がなすべきことではなかった。あれは私たちの罪です」
 誰もが自分の保身だけを考える街で、幼い少女だけが他の誰かのことを考えていた。
「その領主の娘、その後一体どうなったんです?」
「行方はしれません。あの夜以降、姿を消しました。命を落としたのだろうと思います。貴族の箱入り娘が一人で生き抜いていけるほど、世界は優しくないでしょう。ましてこの街はあの時、動乱の中にあったのです」
 だとすれば救いがない。
「私たちが罪を恐れたからあの悲劇は起こったのです。だから、私たちはもう罪を恐れません。今、断ずるべき罪人を見過ごして、後々誰かを悲劇に落とすくらいなら、私が自らの手を汚します」
 ヴァネッサは毅然と顔を上げた。
 自動人形とすら噂される彼女の正体を見た。それは過去への贖罪。自分たちが救い損ねた少女への追悼。
「私はこの街を、罪のない街にしたいのです」
 高潔な少女の犠牲に釣り合うほどの、曇りのない街。正義によって法をなし、統治がされる都市。
 それは確かに万人の理想だろう。だが今まで誰も成し遂げられなかったから未だ理想にとどまっているものでもある。
「無礼を承知で言わせてもらうのなら、俺には過ぎたのぞみに思えます」
 スティルチの答えを聞いて、ヴァネッサは悲しげな顔で笑った。

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