箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

7,嘘と駆け引き その3

 首に突き立てた刃は、皮膚の弾力に押し返された。ぶつりという感触がして、切っ先が肉に沈む。刃渡りの半分も刺さらないうちに、何かに引っかかった。
 ナイフとはこんなに切れないものなのか。それとも人の体は、見た目よりもずっと硬いと言うことなのか。
 全体重をかけて握りしめていた刃は、相手が仰け反った分だけ傷を押し広げた。
 体内の温かさを、頭からかぶった。
 命に関わる量の血は、こんなにもねっとりとべたつくのか。臭いまでもが濃く重たい。鼻腔の奥に絡みついて、いつまでも消えなかった。
 なぜ、と驚愕に見開かれた瞳が問いかける。
 なぜ、と唇が動く。
 喉から血が溢れ出して唇からは水音しか聞こえず、代わりにナイフを刺した穴から呼気が漏れて、首の動きで引き攣れた穴が口のように動く。
 なぜ。
 あまりの悍ましさに、飛び退いた。足を取られて尻餅をつく。そこはすでに血の海になっていた。
 手のひらや服が血で濡れる。
 生温かい。逃げようとするのに、体に纏わりつく血がそれを許さない。
 憎んでいたわけじゃない。嫌っていたわけじゃない。
 ただ怖かった。恐ろしかった。
 肩を揺さぶられて、呼びかけられてることに気が付いた。
 誰が。この館の中で、一体誰が私を呼ぶの。
「しっかり、しっかりしてください。ミカエラ様」
 大きな温かい手。

 夢から覚めた。肩を掴む手なんてない。誰も名前を呼びはしない。
 後悔はしない。
 そんなことをしたら……、無駄になってしまう。目元が涙で濡れている。
 口を押さえて嗚咽を押し殺す。
 隣から身じろぎする気配がして、毛布を頭からかぶる。一人じゃないことを忘れていた。泣いていることを、知られたくなかった。
 気持ちを落ち着けてから起きた。
 ショロトルが目覚めた気配はない。
 こっそりと部屋を出て、階下でお湯を頼む。
「ああ、あんたか。連れの兄さんは大丈夫かい? 死にそうな顔色だったが。まさか病持ちじゃないだろうな」
 もしそうならすぐに叩き出すと、言いたそうだった。
「違うの、怪我をしてて。ゴロツキと喧嘩」
「ああ、確かにやんちゃななりしてたな」
 店主は鼻で笑った。
「面倒のタネでないならなんでもいいが。小僧、お前はみたとこまともそうだが、ああいうのとつるんでるとろくな大人にならんぞ」
 店主の持った印象はあながち間違いではない。というか、概ね正しい。なぜだか同調する気になれなかったので、曖昧に笑って誤魔化した。
 同意が得られなかったのが不満だったのか、目の前にいるのが“ああいうの”の連れであることを思い出したのか、店主は事務的な対応に戻った。
 バケツにお湯を入れ、水を入れて温度を調整する。蓋がわりに小さな金だらいを載せる。たくさんの人が乱暴に扱ったらしくボコボコになっていてうまくバケツの口にはまらなかった。
「どうする。運ばせるか」
「いえ、自分で運びます。あと朝食をもらいたいんですが」
「金は?」
 宿の宿泊費には含まれていないのか。旅人宿に泊まったことがないから、それが普通かどうかもわからない。昨晩の食事も、別料金だったのかもしれない。
 お金は部屋に戻らなければ、ない。ミカエラが逃げ出さないようにだろうけれど、海賊が全部管理している。
「……、わかりました。あとできます」
 部屋に戻る。
 悪くいう気になれなかったのは、怪我を負わせた後ろめたさだろうか。
 でもそうでなかったとしても、よく知りもしない人を悪し様にいうのを見ればきっと腹が立った。しかもそれを言う相手がよりによって、その同行者なんだから、どんな神経をしているんだか。
(だから、別にショロトルの味方をしたわけじゃないもの)
 心の中で言い訳をする。
 扉を開けるために、バケツを下ろす。たらいが落ちて喧しく鳴る。勢いで湯が跳ねて足にかかった。
「ああ、もう!」
 熱くはない。
 ただ、苛立って乱暴になっていることを自覚した。それが嫌になっただけだ。
 部屋ではまだ海賊が寝ていることを思い出した。あまりにも手遅れだと思いながら足音を忍ばせて、そっと扉の中に入る。
 まだベッドから起きる気配はない。それにしてもよく眠る。昨日だって先に休んでいたのに。
 嫌な想像が頭を掠めて、慌ててベッドを覗き込む。薄い安物の毛布にくるまっている体は、呼吸に合わせて動いている。ちゃんと生きている。
 ソラルヤーダを出てから一人で帆を操り、ボートに乗り換えてからは夜通し舟を漕いでここまできた。怪我もしていた。疲れているんだろう。
 顔色は、昨日よりも良い。
 目を閉じていれば睨まれないから、怖くない。
 起きているより幼い印象になり、年相応に見えた。
 大人と子供の間で揺れる年頃。
 眠っていると子供に戻るなら、起きている間は見栄を張って背伸びしているのだろうか。
 昔は漠然と、大人というのは絶対の存在に感じていた。なんでも知っていて、怖いものはないし、間違えなかった。守り、導き、与えてくれた。彼らは世界の秘密を知っていて、子供のしらないところで世の中という見えない大きなものを動かしていた。
 全てが決定的に変わった日、大人という万能の魔法も消えてしまった。それは結局、子供の延長線上にある。
 彼らも子供と同じように怖いし、痛いし、傷つくし、間違える。弱さを見せない理由があるだけで、本当は見た目より強くない。
 だから多分、この海賊も見た目より強くない。
 規則的な呼吸が乱れ、寝息にうめき声が混じった。
 眉根が苦しげに寄せられる。
 うなされているみたいだ。
 汗を拭ってやろうと、手を伸ばす。
 布が額に触れた瞬間、ショロトルが目を見開いた。
 ぼんやりと部屋を彷徨ったあと焦点が定まり、夢の余韻から覚めたのがわかった。
 飛び起きた後、咄嗟に顔を押さえる。
 その動きの意味を知っている。今朝、同じ動きをした。寝ている間に流した涙を確かめるために。
「何、してる」
 その頬は濡れていなかったけれど、彼もきっとそんな朝を知っている。
 前髪で隠した顔は、大人と子供どちらにみえるだろう。痛みを隠す強さと、強がりで誤魔化し切れない弱さの間、大人と子供の狭間。
「うなされてたから。汗もひどかったし。お湯、あるけど使う?」
 ショロトルは警戒心の強い野良犬のような目つきで、差し出された布をみた。
「好きにしてろとは言ったけどな、人の面眺めてるほど暇なら飯でも食べてくればいいだろ」
「だって、お金持ってない」
「朝食の金は払ってある」
「そうなの?」
 でも、さっきは確かにお金を要求された。ショロトルの連れだというのはわかっていたはずだ。
「飯に行かないなら、お前先に使えよ」
 ショロトルは湯を指差す。
「ううん、後でいい。ご飯食べてくるね」
 慌てて部屋を飛び出す。
 ショロトルが寝ている間に、お湯を使ってしまわなかったことを、後悔した。
(気づいてないのかな、わざとなのかな)
 階段を駆け下りる。
 代金の件を問い詰めると、店主は何事もない顔をして食事をカウンターに並べた。
 全く悪びれもせずに忘れていたなんていうから、嘘か本当かわからない。  釈然としないけれど、腹が立っていてもご飯は美味しかった。

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