箱に秘めたる払暁の刃

箱に秘めたる払暁の刃

6,運命の集う街 その8

 結局その場から逃げ出すことはできず、病院で海賊が治療されている間、椅子に腰掛けて待った。
 船の医務室にいた時の、青白い顔を思い出す。あんなに酷い怪我をしていたのに、すぐに治るわけがない。
 隣には、戦士が脱いだ兜が置いてある。
 戻ってきた戦士は、顔を隠す頭巾も外していた。
 ピンと立った三角の耳。鼻面が長く毛が生えている。
「はい、これで冷やすといいでっスよ」
 濡れタオルを差し出す。
「犬?」
「犬じゃないっス! 」
 鼻面を寄せて、不満を示す。確かに言われてみれば犬より顎がしっかりしているし、目が金色だ。
「オレはケレイブ・ルウって言うんス」
(ウルフェン、初めて見た)
 差し出された手と、濡れタオルを受け取る。頬に当てると冷たさが気持ちよく、痛みが和らぐ気がした。
 でも、さっきから飛んでくるこの水滴は何?
 屋内で雨が降るわけでなし。
 隣を見ると、ケレイブが濡れた頭を振っていた。
「あ、あー! 申し訳ないっス。暑かったから顔洗って、タオル渡しちゃったから拭くものなくて、つい。癖で……」
「別にいいよ。タオルありがとう。やっぱり毛皮だと暑いの?」
 タオルを返そうかと思ったけれど、もう彼の毛はもうほとんど乾きかけていた。
「頭巾被って兜もしてると、蒸れるんスよねぇ」
「顔、隠さなければいいんじゃない?」
 私のように追われているわけではないのだから。
「この街の人はオレみたいなのを見るとびっくりしちゃうらしいんで。昔は街にも入れてもらえなかったとか」
「そう、なんだ」
 知らなかった。
 エスメールで暮らしていた時、そういった世間のことの大半を知らないままでいた。
「もったいないね、ふかふかなのに」
 目の前の毛皮にどうしても触ってみたくなって、そっと指を埋める。耳の後ろのふわふわの毛を撫でる。
「くすぐったいっス」
 三角の耳がむず痒そうに向きを変えた。手のひらの中で耳が動くのが面白く心地がよくて、しばらくそうしていた。
 困り果てたケレイブの喉の奥から、悲しそうな声がではじめたので、慌てて手を引いた。
「ごめんなさい。嫌だったよね」
「嫌じゃないけど、いきなり撫でられたのは初めてっスよ」
 手櫛で毛並みを治す。
「撫でたくなっちゃうから、隠しておくくらいでちょうどいいのかも」
 顔を見合わせて笑った後、ケレイブは赤く腫らした頬を見て顔をしかめた。
「それにしても女の子を殴るなんて、ひどい連中っス」
「お、女の子じゃない!」
 咄嗟に否定したけれど、無駄だと気づいた。
 男の子っぽい服装に、目元の鋭さで少年らしく見せているだけ。帽子に押し込んでいた長い髪と合わせてみると、全体の印象はどうしたって女の子だ。
 殴られた時に落とした帽子は、ケレイブが拾ってくれていた。返してもらって短髪に見えるように纏め直す。
「実は、女の子じゃない?」
 ケレイブが困惑した顔をする。耳を触られている時と同じ顔をしているので、笑ってしまった。
「ううん。あってるよ。でも私も顔を隠してるの。ケレイブと一緒」
「お互い大変っスね」
 屈託のない笑みを見ていると、何もかも打ち明けて助けを求めたくなる。
 ケレイブの腕にあるのは、巡回の兵士を示す腕章。
 ケレイブは悪い人じゃない。でも彼の上司は、どうだろう。組織の末端は、一人一人の人間だ。そこにはいい人も悪い人もいる。出会った人間がたまたま優しくて話のわかる人だったからといって、その属している組織が信頼が置けるかどうかは判断できない。
 でも少なくとも彼は、この街に昔からいた人ではない。味方や敵に別れるような“どちらか”に属しているわけではない。それだけは確かだ。
 賭けてみるべきだろうか。彼の善良さと素直さに。
「あ、あのね、ケレイブ」
「あ、終わったみたいっスよ!」
 治療室のドアが開いた。
「まって、あのケレイブ、私あなたに話したいことが」
「なんの話だ?」
 会話に割り込む声。
 海賊が、隣にいた。初めからいたような、当然の顔をして傍に立っている。
 びっくりしたケレイブの毛が逆立つ。
「動けるんスか?」
「ああ」
 なんでもないように話してるが海賊の手は、腰のナイフにかかっている。
 反対にケレイブは、相手を全く警戒していない。ハルバードも鎧も、今は手元にない。
「世話になった。行くぞ、ミカエル」
 言外に有無を言わせぬ圧を感じた。余計なことを言ったりしたり、抵抗したりしたらナイフを抜くと、その瞳が語っている。
「無事でよかったっス。ミカエルちゃんもお達者で」
 海賊の耳があるところでは、本当の名前を告げることもためらわれた。
 ケレイブ・ルゥ。巡回の仕事をしている狼人。いざという時に頼れる人を見つけられるように、その情報を何度も心の中で唱えて心に刻みつけた。

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