幼き日、妾腹であったショロトルに許されたただ一つの存在理由は、将来家を背負うべき兄や弟の影になることだった。
世間知らずの兄や無邪気な弟は、実年齢以上に幼く見えた。彼らを悪意から守る盾となり、害あるものを弑する剣にならねばならなかったのだ。
だが、影だけが生き延びた。
故郷が戦火に焼かれたあの日、人の悪意を知らぬ彼らは何の警戒もなく招かれざる客を迎え入れた。
そして、死んだ。
目の前の少年の無垢さは、彼らによく似ていた。
「誰?」
顔を見られた。始末しなければ、と理性が告げている。
家族の顔が重なって、体が痺れたように動かない。きっとあの日の彼らも、目の前に見知らぬ男が立っていることの意味を、理解できていなかったに違いない。
少年をどうするつもりだったのか、後から思い返してもわからない。わからないままに、少年に向かって手を伸ばしていた。
悲鳴で、ショロトルは我に帰った。廊下をバタバタと人の走る音が近づいてくる。
とっさにドレッサーの前の椅子を窓ガラスに向かって投げつけた。割れた窓から外に飛び出し、屋根に登る。助走をつけて屋根から塀に飛び移り、夜の街に身を投げた。
時間をかけて屋敷の周辺に、体を慣らした。どこに逃げれば追っ手を撒けるのか体が覚えている。暗がりに着地し、人ごみに紛れられる繁華街を目指す。
角を曲がったところでランプの赤々とした灯が向けられ、暗闇に慣れていた目が眩んだ。
踵を返そうとしたが、そちらにも人が立つ気配がした。顔を覆いながら周り窺うと、それなりの人数がランプと武器を携えて周りを囲んでいた。
光が目に刺さる。頭がひどく傷んだ。
「お前、闇に紛れるには向かない髪してるなぁ」
緊張感のない間延びした声が聞こえる。明るさに目を慣らしながら伺うと、顔に傷のある壮年の男が立っていた。松明を持たない代わりに酒瓶を持ち、尊大に構えている。この集団のリーダーらしい。
「悪いが今は取り込み中だ。後にしてくれないか」
「生意気な小僧だ」
男は忌々しそうに顔を歪めた。瓶に口をつけ、ワインを呷る。
「近頃この辺りで稼いでるみたいだな」
「見た目より慎ましくてね、それほど稼いじゃいない」
彼は心底どうでもよさそうに肩をすくめた。
「そうかい。俺はこの街の盗賊ギルドを預かっているギデオンだ。死にたくなければ覚えておけ」
「ギルドマスター御自らお出ましとはありがたいね。俺の仕事ぶりがよほど気に入ったか」
「勝手をされるのは困る。見逃すのは沽券にかかわるからな。相応の制裁は受けてもらうぞ」
無秩序に見える集団の中にもルールがある。そうである限り、盗みが略奪に至ることはなく、街は表面上つつがなく回る。
理解はできる。しかしそれはこの街で長く暮らしている者のルールだ。流れ者のショロトルには守る義理がない。
「縄張りを荒らしたことは謝る。俺の腕なら制裁より双方にとって、もっとい」
ショロトルの言葉は、ギデオンの振りかぶったワインの瓶に遮られた。
ガラスの砕ける音。
脆い瓶だったが額に当たって砕けた衝撃は、意識を揺るがすのに十分なものだった。立っていることができず、膝をつく。
「交渉の真似事はやめろ。いけ好かないガキだ」
手を当てると、血の手触りが指先を濡らした。灰色の髪に染み込んだワインがポタポタと肩に滴る。ワインと血の赤色がシャツが重ねられていく。
立ち上がろうとした時、頭に更に強い衝撃が走り意識が途絶えた。