嘘吐きたちは日常を求めた


Tidalwave_逃れようのない波
 三回目のアラームで釣井はようやく目が覚めた。起きたくないという体を無理やり引き起こす。うるさいアラームを引っ込めると、液晶は昨晩幼なじみとメッセージのやりとりをしているときのままになっていた。途中で寝落ちてしまったらしい。
 寝ぼけて入力した誤字衍字誤変換のオンパレードみたいな文章の次に「寝てる?」というメッセージが届いていた。
 送信時間が昨晩の日付のメッセージに「起きた」と返信をする。
 すぐに「おはよう」のスタンプが返ってきた。平は釣井よりもずっと早く起きているから、もうはっきりと目が覚めているのだろう。
 一方釣井はといえば、家を出るギリギリの時間まで寝ていたいのだ。
 昨晩だらだらと夜更かしをした代償で、朝は気怠い。
 しかも今日は、月曜日だ。
 気分はいつも以上に憂鬱で、体が重たい。
 昨晩、十二時を越えた瞬間にメッセージを送ってきた友達は何人かいる。しかし当然その中に鰐川の姿はない。一切動きがないままトークルームは、メッセージのやりとりがある最新のアイコンに押し流されて下の方に流れていく。それを見るたびに、胸の中に苦いものが湧き上がる。
 ――忍の誕生日には、自転車で迎えにいく。
 思い出さなけばいいのに、そんなやりとりがあったことを思い出してしまった。あれはいつの話だっただろう。釣井の誕生日は新学期が始まってすぐにあるから、忘れられがちだ。
 みんな新しい生活が始まったばかりで忙しく、人間関係を新しく構築して自分の置き場所を作るのに必死だ。親しくやりとりができる友達ができて、誕生日いつなのという やりとりが交わされる頃には、とっくに過ぎ去っている。
 去年もそうだった。
 高校生になったばかりで、新しい生活に戸惑っていた。そうこうしているうちに、すぐに臨海学校がやってくるから準備がある。四月なんてあっという間に過ぎ去っている。
 だから誕生日の話がでたときに、鰐川が来年はと言ったのだ。
 朝一番に、自転車で迎えにいくと。
 おはようございます。憂鬱な月曜日。
 お誕生日おめでとう。釣井 忍。
 あのとき語った来年は、やってこなかったね。
 いつもより少し遅めに登校した朝、釣井に真っ先に声を掛けたのは平だった。
「お誕生日おめでとうしの。帰りケーキ食べにいこ」
「いっくんは、気が早いです」
 まだ学校が始まってすらいない。
 だが、誕生日おめでとうと口に出してくれる人間がいることが嬉しいのは確かで、憂鬱な月曜日が少しだけ軽くなった。
 自分の席に向かうと、机の上が鮮やかだ。チョコレート菓子が置いてある。
 今日が誕生日だと知っているクラスメイトがくれたんだろうか。それとも、偶然お菓子を配っている人がいただけだろうか。
 先に登校していた平に聞けば、誰がくれたのかわかるかもしれないが、彼は既に自分の席に戻っていたから、聞くとしても次の休み時間だ。
 席につきながら、チョコレート菓子を一か所に集める。散らばったものを目の前に見たときの習性で、端から綺麗に整列させる。
 何味なんだろうと何気なくひっくり返した。
 息を飲んだ。
 溢れそうになる感情を注意深く押さえつけなければ、そのまま教室の真ん中で泣き出してしまいそうだった。
 パッケージの裏側にはメッセージを書く場所がある。実際にそれを使っている人間はほとんど見たことはない。少なくとも釣井は、今日までは見たことがなかった。
 〝おめでとう〟の文字は、独特のバランスで文字の体を保っているけれど形がおかしい。中にチョコが入っていて形が歪んだ場所に書いたから余計に、だ。
(すぐに、祥吾だってわかる)
 釣井の誕生日を知っている人が他に何人いるだろうかとか、甘いものをわざわざくれるのは誰だろうとか、そういう推理は何もかも無意味だった。 
(なんでオレなんかに、優しくするんですか)
 忘れたふりしてくれていいのに。
(オレに、そんな資格ないのに)
 知らなかったことにしてくれていいのに。
 握りしめたら溶けてしまう。机の上に置いたチョコレート菓子のメッセージが書かれた一つを大切に鞄にしまった。
 だが廊下に鰐川の姿が見えたとき、やはり気後れしてしまった。何を話せばいいのかわからない。他の友達が傍にいるときならばともかく、二人の仲はとても気まずい関係にあって、顔を合わせたところで話すべき話題などない。
 どうするべきかという答えを釣井は見つけられていないし、手紙を彼に書くこともできていない。
 鰐川は、釣井と話しているときが一番苦しいと言った。責めて、傷つけたから。
 だから今はどんな理由で手を伸ばしても、きっとまた釣井が怒っていると感じてしまう。許してくれるまでは、釣井から触れるべきではない。
 しかし、鰐川の背中が廊下に這いつくばっていて、彼がまたコンタクトを落としたのだと察しがついた。
 咄嗟に廊下を見回した。
 他に手を貸してくれる人がいたのなら、そちらに頼った方がどちらにとってもいい結果になる。だが運悪く誰も居なかった。呼びに行けばいいだろうか。それはあまりに不自然で、二人の間の亀裂を表面化させるようなものだ。いつも一緒にいる上村と平は、気付いていないはずがない。だが知っているのと、それに触れるのとは違う。
 たとえ表面上であっても繕おうとしている関係を、また壊してしまうことになる。
(じゃあ、放っておく?)
 他の人が通り掛かるか、自力で見つかるまであのままにするのだろうか。
 鰐川を避けたいのは、また痛い思いをするのが嫌で、怖がっているだけだ。
 ここで通り過ぎるのは、卑怯だ。
「コンタクトですか?」
 わかっていることを聞いたのは、人の顔が見えていないであろう彼に隣にいるのが誰であるかを伝えるためだった。
 返事はなくても構わない。返事がないのはわかっている。
 廊下に目を凝らし、小さなレンズを見つける。
「見つかりましたよ。……水道いきますか」
 右手、左手、どちらを掴むべきか迷い、右手の服の袖を引っ張る。
「ありがとう」
 鰐川は笑ったと思う。そういうとき鰐川は笑うから。
 その笑顔が今までと決定的に違うというのがわかっているから、釣井は袖を引いて案内している間、彼の方を見なかった。
 現実に放送原稿はない。
 会話を始めたとき、喋る内容の一文の長さは決まっていない。全体が決まっていないから、その中の山場も伝えるべき内容も明確ではない。全部過ぎ去ってから、あのときああすればよかったんだと気づいて後悔する程度だ。
 原稿があったら、もっと言いたいことを正しく伝えられる。
 相手に伝えるべき言葉を、相手に伝わるようにいうことができる。
 現実世界の釣井がどうかといえば、心の中をぐちゃぐちゃにして襲いくる喜怒哀楽の手綱を取るのに必死だ。どうしてこんな気持ちになったのか、頭の中で整理して答えを出してみる。家に帰ってから思い直せば、その結論もただのごまかしだった気がしてくる。
 感情に教科書が欲しい。
 心に正しさが欲しい。
 過たずに進める強さが欲しい。
 どれもないから、絡まった糸を解いて結び直すために、ほつれた感情の端っこを必死に引っ張っている。
 臆病者は声を掛けてもらってからでないと、友達の輪に入れない。その性質は一度は直して乗り越えた気持ちになっていたが、結局それは相手に手を伸ばしてもらっていたからだ。受け入れてくれる相手がいなければ、相変わらず釣井はこうだ。
「あの、祥吾。今日チョコ、もらったんですけど」
 コンタクトをつけ直す鰐川を横で待つ。
 話題の切り出し方は、不自然じゃないだろうか。
 誰からというのは、気付いていないふりをした方がいいんだろうか。
 わかっていない体で、話す。
「一人で食べるより、みんなで食べた方が美味しい……オレはそっちの方が楽しいので、一緒に食べませんか」
 お前とはもう嫌だと言われたら、どうしよう。
 だが人間関係に、表面上の変化はない。
 鰐川と釣井が断絶しても、他とのつながりが消えるわけではない。
 たぶん鰐川は変化を望んでいないし、自分の心を口に出すつもりもないのだろう。四人で友達という関係が大切なのは釣井も同じで、不和を表面化させるよりはひた隠しにすることを選んだ。
 平と上村だって、何も気付いていないはずはない。釣井は自分がしたことを隠すことはしなかったがそうでなくても、何かあったことは見ればわかっただろう。
 鰐川と喧嘩をした次の日、二人揃って学校を休んだ。トークルームには反応どころか既読もつかなかったし、あの日以降動きはすっかり鈍くなっている。
 釣井はその次の日から登校したが、鰐川の方は元の通りの顔をして学校に戻ってくるまでに、もっと日数が必要だった。学校に戻ってきた二人が、同じ場所に血が出るような怪我までしていて、何事もなかったと思う方がおかしい。
 触れられたくないという態度を察しているから、何も言わないのだ。
 現状維持というのを、全員が受け入れている。みんな大人なのだろう。
 自分を嫌っている相手を友達ということや、その不和に目を瞑ることが正しいことかは知らないが、大人の振る舞いであることには、違いない。
 皮膚が再生しないまま傷に触れられているようなひりつきを感じながら、友達を続けている。
 なんでもない振りをして、約束した通りにお昼ご飯を一緒に食べる。
 いつも通りの顔をして四人で帰り道に、ファストフード店による。
 男子高校生の胃袋にハンバーガー一つなど些細なもので、中途半端に食べ物を入れると加速する空腹にサイドメニューを追加する余地がある。
「しのはアップルパイだろ」
 いつもどおりのチーズバーガーを指さした釣井の注文に、平がアップルパイを追加する。
「いっくんはチョコシェイク?」
「そ。祥吾は」
 鰐川は、先日でたばかりの期間限定とナゲットを注文した。
「俺、あとポテトね。席みてくる〜」
 上村がLサイズのフライドポテトを追加する。
「そういえば、昨日観た映画で」
 フライドポテトといえば、と釣井の思考は他所に飛ぶ。
「テレビ?」
 平が首を傾げる。
「いえ、配信のやつです」
「なんてやつだろ。忍、何入ってるの」
 上村が、混雑した店内からなんとか四人一緒に座れる席を探し出し、そこに収まった。釣井の体格なら友達の膝の上にも座れるしそうすれば、席が一つ少なくて済む。
 学校ではときどきそうしているのだが、外だと流石に恥ずかしいし、食事中だと行儀が悪い。
「その映画の主人公の友人が、シェイクにフライドポテトをつけて食べるらしんですけど」
「美味しいのか」
 鰐川の疑問は当然で、釣井もそれが気になっていた。
「さあ、作中でも見解が分かれていました」
「試す?」
 平が飲んでいる最中のシェイクの蓋を外した。
「いいよ、俺! みんなのためならこれくらい」
 昼ドラのヒロインみたいな声を出しながら、上村がフライドポテトを差し出す。
「ちょっ……と、かなり嫌ですね」
「全員で行けば怖くない」
「ポテチにチョコつけたやつもあるし、案外あうかもね」
 と言いながら、誰も最初の一歩は踏み出さなかった。
 釣井は鰐川と目が合わない。直接話を振らない。
 他の二人がそれとなく間を取り持って話を振る。
 仲良くしているはずなのに、心の奥がヒリヒリとする。
 今まで通りにファミレスに集まっても、席配置にそれが窺い知れる。
 痛みと共に始まった一週間が早く過ぎ去って欲しいと釣井は願った。

◇◆◇

 一日一日が、苦しい。
 今までよりも金曜日が待ち遠しかった。
 ファミレスに集まる放課後をやり過ごせば、休日がやってくる。
 今日が終われば休みがやってくる。学校に行かない間は、鰐川との関係について考えなくてもいい。
 どんなに苦しくても、友達は止められない。
 長期休暇に限った話ではないが、課題は締め切り直前に全部やるという無計画で生きてきた釣井にとって、友人との出会いはある意味で得難いものだった。臨海学校に憂いなく臨むためにも、テスト勉強をする余力も考えて日々の課題は早めに終わらせておいたほうがいい。
 言われなくても尤もな意見。
 その当たり前で当然なことが、なぜかできないのもまた人間だ。
 次の日の朝起きるのが辛いから、早く寝た方がいいとか。
 臨海学校の持ち物は、前もって考えておいた方がいいとか。
 課題は出たその日の内に終わらせないまでも手をつけて、わからないことがあったら聞きに行った方がいいとか。
 友達と集まるとついそっちの方が楽しくなってしまうから、集まるならファミレスや誰かの家ではなくてせめて図書館の方がいいとか。
 そういうことがわかってるけれど、なぜかできない。
(こういうのなんていうの……怠惰?)
 細かい傷だらけで白く曇っているドリンクバーのグラスに水滴が結露して、指で撫でると一つに繋がり、流れ落ちていった。
 教科書やノートを汚さないように、紙ナプキンをコップの下に二枚挟む。
「春休み遊園地行ったんだろ? いいな」
 集中力が切れた平の視線は、メニューのアイスデザートに流れている。
「いっくんも一華さんと出かけたんでしょ」
「そうなんだけどさ」
 平が机に突っ伏す。興味は期間限定メニューに移っていて、ラミネートシート越しの食べられないアイスを見つめている。
「どうした一平、寂しいの〜? 一緒に出かけるか」
 上村が対角線上に手を伸ばし、平のお団子髪を突く。鰐川と釣井が、隣り合わず向かい合わない席配置。
「行くならゴールデンウィークか。みんなはどこに行きたいんだ?」
 みんなの集中力が完全に切れて休憩モードに入ったことを察して、鰐川は教科書を一度閉じて、汚れない場所に退けた。
「う〜んでも遊園地はもうみんな行ったんだよな? せっかくなら別のところがいい」
「お前が行きたいところなら、どこへでも付いていくよ」
 鰐川がウインクする。
 彼はいつもそういうやり方で本心を隠してきたのだな。
 嫌なものが胸の中に滲む。友達ごっこは釣井が気付いていないだけで、ずっと前からだったのかもしれない。
「みんなで行きたいところね。しのはどこが好き」
「オレ、ですか? 水族館が好きですね」
 分厚いアクリル板の向こう側にいる生き物を見ること。
 自分と違う世界を覗くこと。
 そういうのが好きだ。
「んじゃ、臨海学校前に、海の予行演習しとく?」
 上村が笑う。
 ミズノエ市には海がない。そこで生まれ育つと、海という存在は特別になる。
 四人はゴールデンウィークに、近所の水族館に出かけるということで決まった。
 特別なものに会いに行く準備をするために。
 隔たる世界の命を。
 水越しに見る光を。
 波の中を泳ぐ術を。
 四人一緒に観にいった。
 罅が入っているけれど、まだ決定的に砕けてしまってはいない四人。
 臨海学校を前にした、海の予行演習だ。
 透明で分厚いアクリル板越しに覗き込み、非日常の興奮と共に海の中の生き物を眺める。華やかな熱帯魚の水槽から始まって、淡水魚や深海魚、そして大型の回遊魚や群れの姿を展示する大水槽がある。
 魚を見るのも楽しかったが、釣井は泳ぎ回る魚に夢中になっている三人から距離をとって後ろからこっそりと撮影する。
 水族館は、展示が見やすいように水槽の中は陽が差し込んで明るく、人は薄暗い展示室内では逆光になって映る。それでも構いはしなかった。
 水を通した青色の光に縁取られた輪郭だけでも誰かわかる。
 画面に写る三人の後ろ姿。
 少し離れたところから、楽しそうなみんなを見ている釣井は、輪の外にいる。
 理想だ。
 あそこに釣井を加えようとしたら、微妙な力関係が生じてしまう。それは苦しくて嫌なことだが、仕方がない。釣井の選択だ。
 取り戻せるなんて思っていない。そんなものに手を伸ばせるほど釣井は楽観的ではない。
 だから、せめて思い出が欲しい。
 写真を撮っていると、平が振り向いて釣井を見た。
「しの、もっと近くで見なくて良いの?」
「平気だよ。オレ視力はいいので」
 平が困った顔をした。
 なんで困った顔をするの、と少し前の釣井なら思っただろう。自分を大切にしてくれる幼なじみの気持ちすらもわからなかった。
 だがもう、無邪気でも無自覚でもいられなくなってしまった。
 なんといえばいいだろう。ごめん、では駄目だ。ありがとうもおかしい。
「……もっと近くで見なくていいの?」
 平の言葉に助けられた。
「見たいかも。みんな大きいから」
 家族連れの子供たちに比べればマシだが、前に人が立てば水槽が見えなくなる。これはごまかしではなく、本当のことだ。手招きされて、水槽に近付く。
 生き物を見るのは、好きだ。光を浴びた水の青も。それよりももっと暗い海を再現した、色を失った静かで暗い水槽もとても好きだ。
 別世界はいつだって魅力的に映る。自分の無縁の世界であれば尚更のことだ。
「もう直ぐ昼だな」
 鰐川が腕時計を見て、ふと足を止めた。
「ここで食べてく?」
 先を歩いていた上村が振り返る。
「レストランが併設されているらしい」
 パンフレットに載っている館内図の一角を指差す。順路に沿って見て回った人が、足を休めるのにちょうどいい場所にある。
「いいんじゃね。しのもいいよな?」
「そうですね、食べる場所探すとなると、駅前まで戻らないといけないでしょうし」
「んじゃ、折角だから食べてこーぜ」
 昼を迎えて混み合う時間帯になっている。四人は少し待ってからレストランに通された。
「海っぽいメニューある?」
 隣同士に座った上村と鰐川が、同じメニューを覗き込む。
「海っぽいかどうかわからないが、お子様ランチはおもちゃがついてくるらしいぞ」
「いいなー、俺これにしちゃおっかな」
「お、お子様ランチですよ? いいんですか」
「ちょっと量足りないかも」
「量の問題なんですね」
 高校生にもなってお子様ランチを頼む人ことに、気恥ずかしさを覚えるような人たちではなかったと思い出す。
「いっくんは何が気になってます」
「オルカソフト……かな」
「ふふ、デザートじゃないですか」
「そういうしのはこっちのパフェ気になってるでしょ」
「どうせなら全部挑戦しようぜ。せっかく遠くまで来たんだし」
 上村が笑いながら、店員を呼ぶチャイムを押した。

◇◆◇

 食事のあとは順路通りに水族館を回り、最後にショップに辿り着く。
 そこは一際賑やかだった。
 誰もが家に持って帰る思い出選びに余念がなく、展示室とはまた違った熱気に包まれている。Tシャツやぬいぐるみやキーホルダーといったグッズ類、写真集や海の生き物の関連書籍、ポストカード、そしてお菓子の類まで幅広い商品が並んでいる。
 きゃあきゃあとはしゃぎ回り、前を見ないで走る子供を避ける。かと思えばあれが欲しいこれが欲しいと言って、父親の袖を引っ張っている。その横には家に置くぬいぐるみを選ぶカップルもいるし、カバンにつけるお揃いのストラップを選ぶ学生の姿もある。
 釣井たちもその中に混じって、各々の買い物を始める。
 お菓子の詰め合わせを部活の人たち用に選び、クラスメイトの分は平と一緒に選んだ。クラスが同じだと、二人で折半できるから財布に優しい。
 あとは家に買って帰るものと、個人的に親しい人に渡す分を選べばいい。
 とは言っても、釣井は自分の部屋に物が増えるのがあまり好きではないから、お土産は食べ物ばかりになる。人に渡すのも形が残るものではなくて、食べ物ばかりだ。
 食べ物なら渡した本人がいらないと思っても、人にあげるか食べてしまうかすれば目の前からなくなる。あとに残らず、引きずらない。
 失敗を恐れる臆病な選択肢だが、それで構わない。
 誰かに何かを贈るなんて、旅先の綺麗な思い出に大切な人を関わらせたいという自己満足でしかない。相手のために何かを選ぶという時間が楽しいのだ。
 それをずっと相手に持っていて欲しいなんてしがらみ、ぞっとする。そういう執着が自分の中にあることが、何よりも気持ちが悪い。
(先輩の分も)
 八万にお土産を買っていくのは、執着ではない。友達にお土産を買っていくのと変わらない。だから、平気なはずだ。
 そう自分に言い聞かせる。
 何を渡そうか考えて、手が止まる。
 何が好きか、知らない。
 釣井は、八万のことを何も知らない。
 甘いものは渡せば食べてくれるけど、たぶんそこまで好きじゃない。
 家にあるぬいぐるみは、八万じゃなくて八万の付き合っている人が好きなもの。
 あと知っているのは、好きな曲。好きな服装。

 Q.恋をするのに適切な、相手への知識の量は一体どれくらい?

 あるいは友達と苦しみを分かち合うのに、必要な相手への理解はどれくらいだったんだろう。
「しの、買うもの決まった?」
 商品棚の間で指先を彷徨わせていると、肩が叩かれる。平は買い物籠の中を覗き込み、それを釣井の手から引き取った。箱のお菓子の内容量を見てクラスメイトの人数に足りるか数えている。
「これなら先生の分も足りるね」
「そうですね」
 レジに向かう一瞬前に、棚にあったものを掴んで籠に追加する。
 増えた重みに、平は何も言わなかった。
 帰り際の誰かの家に集まって映画を見ようという提案は、以前なら当たり前のものだった。遊びに行ってそのままお泊まり回に発展するなんてよくあることだったし、お勧めの映画を見せ合うのは以前から話に出て約束していたことだ。
 それが今日であったとして、何も不自然ではない。
 鰐川と釣井の関係を慮って言われたのだろうし、今まで通りを装い続けるのであれば断っては行けなかった。
 お菓子を買って帰って、デリバリーのピザを注文する。
 部屋の電気を落として、映画が始まる。
 一旦、映画を見はじめてしまえば、画面を観ているだけで会話を保たせなくていいから思ったよりも気楽だった。
 上村が遠くに置いてあるスナック菓子を取ろうと、鰐川の膝の上に身を乗り出す。背が高いと手足が長いから遠くまで手が届いて羨ましい。高いところのものが取れないなんていう現象とも無縁だ。
 上村は怖いシーンが来るとキャーと悲鳴を上げて鰐川に抱きついてみたりしているが、その実全く怖そうではない。
「みんなでさ、肝試しいかん?」
 次のカットになったら、けろりとした顔をしている。
「ん、いいぞ。空人のお勧めはあるのか?」
「へー、面白そう」
「やです」
 鰐川も平も怖いところは平気らしい。反対したのが自分だけであったことに、釣井は少なからずショックを受けた。
「忍、いかないの?」
「しの、怖い映画は好きなのに、怖いのは駄目なんだ?」
 平が意外そうな顔をした。
「こ、怖いっていうか……、別にそういうわけじゃないですけど」
 フィクションとして作品を見るのはいいけれど、実際その場所に行きたくはない。
「だって、危ないじゃないですか」
 本当は、怖いから嫌だ。
「そっかぁ」
「しの、お留守番だな」
「一平と空人のことは俺に任せてくれ」
「う、みんながいくなら、オレも行きたいです」
 今の釣井は、ホラーの恐怖より仲間外れが何より怖い。
「どこいく?」
 そういうしているうちに、みんなの興味はテレビ画面ではなく手元のスマホに移動し、行ける距離にあるホラースポットを探し始める。
 これは本当に肝試しに行く流れだ。緩衝材が如く間に入ってくれている幼なじみの横顔は、液晶の画面で照らされている。
 行きたくない理由はある。
 一緒に出掛けるのは気まずいとか、怖いところが嫌だとか夜遅くなると両親に心配をかけるとか、そういう事情。
 釣井がこの四人の中にいなくとも、誰も困りはしない。
 声くらいは掛けてもらえるかも知れないが、それは今まで友達としてやっていたことをしなくなることで、壊れた人間関係が表面化することに対する恐れでしかないだろう。
 現状維持をするために必要なのだ。
 四人一緒が当たり前だったという過去が、辛うじて今を繋ぎとめている。
 そうやって離れる理由が増え一緒にいる理由が減って、四人が当たり前だったのがいつの間にか三人になるのだろう。ありがちで、平和的な解決。
 人間関係の生々しい肌触りに、吐きそうになる。
 もともと社交的な人間ではない。居場所も逃げ場も、他があるわけではない。
(必死にしがみついているオレは、さぞかし惨めだろうな)
「しのは大丈夫?」
 平に声をかけられて我に返る。
 大丈夫じゃないかも。
「だ、大丈夫ですよ」
「じゃ、次の休日だね」
 予定の話に移っていたらしい。
 会話に追いつくように、急いでスケジュールを確認する。金曜日、予定は入っていなかっただろうか。放送当番など入っていたら予定をずらしてもらわないと、後出しでその日は駄目だったと言う羽目になる。
 金曜日は思ったよりもすぐに、やってきた。

◇◆◇

 奥に廃墟となった民家がある細い山道は、私道となるため街灯も点っていなかった。公道から遠ざかるほどに闇に沈み、ざわざわと風に揺れて葉擦れが聞こえる。
 人の生活から遠ざかる物寂しい道をあえて通る人間がいるとすれば、山の管理者か不動産関係の人間くらいのものだろうか。無論、それも日が暮れてからの出入りであるはずがなく、周辺は人の気配は疎か、車もほとんど通らない。
 誰もいないし何もないという理性の判断とは裏腹に、手の入っていない下草や藪の中では何かが蠢くような気がする。
 懐中電灯の光を当てたところで、どこかに残る暗がりに青白い手をそっと伸ばす何かがいないとどうして確信できるのだろう。
 寒気が背筋を駆け上がり、釣井は両腕を抱きしめた。
「みんなで、行くんですよね?」
 念を押す。
「せっかくだから、チーム分けしない?」 
「グーとパーで別れるか」
 ――それ、オレと祥吾が一緒になったらどうするんですか?
 悪い予想ほど、現実になるもので。
 本当にいいんですかという無言の訴えは、無言のままだったので暗闇の中では誰にも届くことはなかった。
 鰐川は釣井の方を見なかった。
「忍、怖いんだよな、さっさと行こう。ついてこいよ」
 さっさと歩き出した鰐川の背中を追いかける。
 なにか、話をしたと思う。中身は特になかったからもう覚えてもいない。
 沈黙がいたたまれなくて、声が欲しかっただけだ。
 そうやって虚勢を張っていなければ、言葉を止めた瞬間に怖くて足も止まってしまいそうだった。足を止めたら、一人でこの道に取り残される。
 一度も振り返らない鰐川は、釣井がそうなったところで戻ってきてはくれないだろう。話し掛けた言葉すらも、聞いてはいなかったのだから。
 先に進めば進むほど、森は深くなり光の届かない暗がりが増えていく。
 早足の、鰐川の背中が遠ざかる。
 置いていかれる。
「祥吾、ちょっと……」
 待ってください、と言葉を続けることはできなかった。
 バチンと乾いた音が、頬を打った。つい最近、味わったばかりの感覚だった。
 咄嗟に掴んだ手が振り払われて、頬を殴られていた。
「ごめんなさい」
 反射のように謝っていた。
 返事はない。
 懐中電灯が地面に転がり、その慣性の回転が収まるくらいの時間を置いてから、鰐川はぽつりと口を開いた。
「痛かった?」
(は?)
 冷や水を浴びせかけられたような気分だった。
 殴られて痛くない人間が、この世にいるのか。いるのかも知れない。
 それは聞かなければわからないことなんだろうか。
「どう答えたら、満足できますか?」
 痛がって苦しがっているところが、見たかったのか。
 それとも平気な顔をして、また嫌な気分にさせてごめんなさいと真摯に許しでも乞うてみるべきだったのか。
「満足させたい?」
 もう一度、頬が打たれた。
「オレじゃ無理ですよね?」
 なんと答えたところで、拒絶しか返して来ないくせに。
 鰐川にとって釣井は、殴ったところで痛みも苦しみもしない人間なんだろう。
(あー、もう。全部嫌になったな)
 別にいいですけど。
 祥吾がそうして欲しいなら、それで。
 心の中にもはや恐怖は一欠片もなく、ただひたすらに冷え冷えとしていた。
 思い出していたのは上村との会話だった。
 鰐川と喧嘩したあと、二人は一度話した。それは遊園地に行ったあとで、ゴールデンウィークになる前のことだ。
 言わなくてもいい事と判断して平にも言わなかったこと。それもある意味では、二人の関係を決定的に変えてしまうような事だった。
 釣井 忍にとって、放送室は城である。
 もちろんそこは、釣井の場所ではない。全ては学校の備品だし、当番でなければみだりに入ってはいけない。
 それでも昼休みや放課後の一時、部屋を任されている間は、この場所の主になったかのような錯覚を得る。防音になっている室内は、閉ざされていて安心できる。
 人がたくさんいるよりも、一人の空間の方に安らぎを覚える。誰も自分を見ていない距離で、マイクだけが自分と世界を繋ぐものとして存在している場所の方が、孤独を感じない。
 そんな釣井の城にはときたま訪問者がある。放送の依頼がある人、そしてごくたまに当番をしている釣井に用件がある人だ。
 今回は後者で、釣井は上村を放送室の中に招き入れた。 
 上村と釣井は友人同士だ。二人の関係を言い表すうまい言葉を他に知らないから、そう表す他ない。
 だが、それだけで片付けられない感情を抱えてもいる。
 釣井は上村のことをわかっている。
 相手が自分の口にしたこともそれ以外の部分も、わかってくれているという信頼と確信がある。上村も同じことを感じていると思っている。
 だがお互いにとっての、一番大切な相手ではないのだ。
 好きな人のことであれば、もっと知りたいと思う。友達のことを何も知らないことを不安に思う。最初から一番よくわかっている相手を愛せたのなら楽だし、知っている相手としか友達にならなければ不安にはならないのだろう。
 だけど好きになる人も友達になる相手も、こちらで好き勝手に決められるわけではないのだ。
 上村は、絶対に鰐川を選ぶ。釣井が何かあったら八万を選び、友達四人の中に限っても、最初に平の手をつかむのと同じことだ。そのことをお互いに承知している。
 だから鰐川と釣井の関係に亀裂が入っている今、二人の関係は微妙だ。軋轢を見て見ぬふりをして、表面上今まで通りに振る舞うことで辛うじて形を保っている。
「今日はちょっと当番があるので、オレはご飯一緒にいけないんですけど……。みんなによろしくお願いしますね」
 みんなというのは、釣井がいなければ仲の良い友達でいられる人たちに、だ。
 四人でいると、ひりひりする。それを態度に出せないままでいるのが、居心地が悪い。放送当番という大義名分を得て、離れることができると安心する。
「空人、どうしたんですか?」
 その疑問は、鰐川のところに行かずになぜここに来たんですか、という意味を孕んでいた。
「ふふ、忍の顔見たくなっただけ」
 釣井が何を言いたいのか、わかっているはずだ。
「オレの? いつも見てるじゃないですか」
「はは! 確かに」
「ふふ、どうせなら見学でもしていきます?」
 打ち解けないままの笑顔を交わす。放送室の機材を見せながら、彼の行動の意図を考える。
 鰐川がいないところで話さなければいけないことがあるんだろうか。
「見せてくれんの? 来てよかった〜。じゃ、お言葉に甘えて我々の忍くんの仕事ぶり見てこうかな」
 もう釣井は、みんなの釣井ではない。みんなの中にはいない。
 一人の。平だけの釣井だ。
「空人、お昼は? みんなのところ戻らないで居ていいんですか」
 釣井が口にするみんなも、みんなではない。鰐川のという意味でしかない。
 そのことを、上村は分かっているだろう。
 分かった上で即答はせず、考えるような顔をした。
「お前が思ってるほど、俺を待ってる人は居ない……と思うよ。あと放送室って秘密基地みたいな感じでワクワクするから堪能しておきたい」
 機材を見ながら目を輝かせる上村は、嘘はついていない。だが話を逸らした。
「この辺の機材の感じとか、上がりますよね」
「うわぁ弄り回してぇ〜」
 手を伸ばしかけては引っ込めてはしゃぐ上村の横顔を見る。話題を逸らしたからには、踏み込まれたくないのだろう。
 それを受け入れるというのは、上村がなぜわざわざ釣井に会いに来たのかを、無視して見なかったことにするということだ。
(オレはまた間違えるのかな)
 上村とも駄目になって、友達はバラバラになるんだろうか。
 平はそれでも釣井のことを選んでくれる。本当はみんなと友達でいたいと思っているのに釣井が一人にならないように、付いてきてくれる。それがわかっているから、嫌なのだ。平まで巻き込んでしまう。
 それでも、釣井は自分の生き方を変えられない。
 僅かでも可能性があるのなら縋りたい。
 上村には何か、話したいことがあるように感じる。
「待ってる人がいなくても、行きたいところがあるんじゃないかなって思ったんですけど、違いました?」
 例えば鰐川の隣とか。
「ま、確かに行きたいところはあるけど、今俺が気ぃ張らなくていいとこはここ」
 お互いに核心を避けて喋るくせに、釣井にとってはそれは答えを言われたのと同じくらいにはっきりとしていた。
 鰐川の傍に行きたいが、隣にいると気を張る。
 吐息を漏らすような、笑いがこぼれた。椅子の上に座り直す。
「気を張るようなことが、あったんですか? 見た目より疲れてるのでは」
 行きたいと願った場所が、その人にとって一番居心地がいい場所ではない。
 鰐川は相手との関係が心地いいものであることを期待する。他人の不安など受け止めたくはないし、自分に踏み込まれたくもない。それをされるくらいなら相手との関係は捨てて、もっと居心地が良い場所を選ぶだろう。
 上村はそれがわかっているから、鰐川へ踏み込まないでいたのだ。
 そして今も踏み込めないでいる。上村のように周りをよく見て意図を鋭く嗅ぎとる人間ならば、それは強要されているのと同じだ。
 彼が悩みを抱えていても、それを明かせる相手は鰐川ではない。望みや不安を言った瞬間に捨てられるという不安を捨てられない。
 だから俺を待っている人はいない、という言葉が出てくる。
「まぁね。まぁ、積み重ね と癖みたいなもんだから話せることもないけど」
「話せない? 聞かれたくないとかではなくて、ですか」
 両手を握る。逃げないように。平が釣井に伝えたい言葉があるときに、いつもそうしてくれるように。
「そんなふうに甘えてくるなんて珍しいですね」
 上村は、何を求められているかわかっている。求められているように振る舞うことを、自分で選んでいる。だがそれに疲れていないわけではない。
 だから、何かが変わる瞬間を待っているはずだ。
 受け入れられているのなら、自分たちの関係の中から釣井を切り捨てて引き離してしまった方が楽なのだから。
「甘えてんの? 俺。まじか」
 眉根を寄せて首を傾げる。
「気を張らなくていい場所を求めているくらいだから、疲れて甘えにきたのかと思ったんですけど、違いました?」
 話したいことがあるから来たんじゃないんですか。
「ま、話せないな。これはまだ特別でなけりゃ駄目な気がする。疲れてもこれは変えられないな。今は」
「ふふ、わざわざ〝話せない〟なんて言ったから、追求してくれるの待ちかと。それとも特別に及ばないオレへの非難ですか?」
 微笑む。
 お互いが相手に微笑みを向けるとき、それは親愛の情などではない。言外に含まれているものを、お前は読み取る気があるのかという駆け引きの合図だ。
「言うじゃん。信頼だよ、話せないって話した。頼ってんだよ。……ああ……なるほど、甘えてんのか。追求しても購買の商品の一つくらいしか出ないぜ?」
 応じるように上村も微笑む。
「なるほど。焼きそばパンが欲しいから追求しちゃいましょうか。甘やかしてあげますよ?」
 それをいう気があるのなら、だが。
「はは! 元気になっちゃったから、今日はもう甘やかしはいいわ。よし、じゃ購買行くか」
 話を切り上げようとしていることはわかった。
「生憎オレは当番なので、ここから動けないです」
 ここで退くなら、追いかけるべきではないのかもしれない。まだ釣井のことをそれほど信頼していないのだから。
 だがそんな日は来るのだろうか。いつか来る信用してくれる日を、ここで辛抱強く待たなくてはいけないのだろうか。それができるほど、釣井は気長ではない。
「オレに甘やかされたところで元気になれるとも思ってませんけど、何が引っかかってるんです? 〝特別〟なんて他人に望んだところで、応えはないですよ。待ってたって誰もそこには届かないと思いますけど」
 上村は、特別を求めている。その席に誰かが座ってくれることを願っている。
 それを許されている人間は鰐川しかいないのに、当の本人は今のところそれに応えるつもりが全くない。変えるつもりがないのなら、平行線だ。
「元気になったは言いすぎたかもな。少し楽になったってくらいだ。ひっかかってるものについては俺の問題だけど、特別は確かにそう」
「空人は、どうしたいんですか? 誰かに特別になってもらいたい? それともこうやって匂わせしているだけで発散できるというんなら、オレも追いかけないですよ」
 握ったままの手を上村が握り返してくる。
 目を逸らす。考えて、迷っている。
「……特別ねぇ、なって欲しいしなりたいよな」
「でも、それはいつの間にか勝手になっているものだし、特別に思う側の人間が選ぶことですよね。だから特別になりたいと思ってもどうにもできないし、なって欲しいと思っても相手は動かせない。……オレの特別が別の人だったら、もっと楽だったのにって思うけどそれは無理ですし」
 上村の特別が、鰐川でなくて釣井だったらうまくいったのかもしれない。
 釣井の特別が、八万ではなく平や上村だったのならうまくいったのかもしれない。
 だが好きになる相手は、自分では選べない。
 特別になりたいと思ってくれる誰かに、その席を明け渡すことはできないのだ。
「うん」
 肯く。
「仕方ないよなぁ」
 諦めたような声色で笑う。
「オレ、待つの苦手ですよ?」
 上村が驚いたように片眉を跳ね上げた。
「脅し?」
「どうしてです?」
 笑いかける。
「いや、ノリで出ただけだし深い意味は無いけど、あんまり遅かったら捨てるぞってことかと思って」
「あってますよ。だってオレが特別になれるかどうか、決めるのは結局空人でしょ。 それでまだ特別じゃないから話せないって言われて、オレどうすればいいんです? 愛してって縋ればいいですか。それとも空人がオレに愛して欲しいのかな」
 どうなって欲しいのかを明確に示さないのなら、関係がどうなるのかは相手の好意と察する能力に委ねられている。言葉にせずとも、汲み取って応えてくれるはずだという、期待に依存してる。
 それが無責任だということは、上村が一番よくわかっているはずだ。
「あんまり詰めんなよ。こんな事言ってる時点でお前らちゃんと俺の特別な友達なんだから。あんまり言われると気が変わるかもしれないでしょ。短気だなぁ」
 これで伝わらないのなら、これ以上話したところで関係は変わらない。
「ごめんなさい。じゃあ、オレは気長に待つことにしますね」
 握っていた手を離す。
「わぁ、ごめんごめん」
 手を離したことに、相手を諦めるという意味があることを上村はわかっている。
「今話さないと、次いつそんな気分になるかわかんないから、ちょっと俺にかなり迷惑かけられてよ」
「いいですよ」
 柄になく緊張して見えた。何をいうべきか、考えていた。
「さっきも言ったように俺さぁ、三人とも特別だからさ、誰も欠けないように好きだよって大事にしてるつもりなんだよね。でもときどき……、たびたび俺だけそうなんじゃないかなって思う」
 釣井が鰐川との間に心の距離があることを感じ取って踏み込むよりずっと前から、四人は一緒に居るだけだった。強固な絆で結ばれていたわけではない。なんとなく、一緒に居ただけだ。
 踏み込むことを選んだから決定的に壊れてしまったけれど、そうでなくても危ういつながりだった。釣井の幼なじみの平。鰐川の友達の上村。
 平は去る人間を追いかける性質ではないし、鰐川は深く人に関わるつもりがない。
 上村が四人一緒の関係を心地いいと感じて大切にしていても、時間は前に進んでいく。ここにいたいと思っているのに、関係は変わっていく。繋ぎ止めようとしても崩れていく。
 徒労感と、望みを無視して状況が変わっていく疎外感。
 人間なんてそういうものだと虚無的に振る舞ってみても、胸の痛みが減るわけではない。
「そういうの隠してヘラヘラしてんの疲れる。ほんとはお前らが喧嘩すんのもやめて欲しいけど俺が口出せる事じゃないし、それに俺は祥吾に告っちゃったからあとには引けないし踏み込めないし。何処に行こうとも、着いてくくらいしか出来ない。それを選ぶのも俺だけど、都合よくあるのは疲れた」
(……ていうか、告白してたんだ)
 晴天の霹靂。
 上村が言う特別がそういう意味であるとは、思っていなかった。
 詳しく聞きたい気持ちもあったが、今は真面目な話をしている。
 それよりも釣井には、確認しなければいけないことがあった。
「……空人の、〝大事〟の中にオレは入ってたんですか?」
 言葉にしなくてもわかっているなんて偉そうに思っていたけれど、何もわかっていなかったかもしれない。
「入ってるよ」
 当たり前のことをいうように、あっさりと上村はそれを肯定した。一切の駆け引きがない、真っ直ぐな言葉だった。
「でなければ喧嘩なんてしないし共感して貰い泣いたり心配になったりしない」
「ごめんなさい」
 上村の大事を壊してしまった。引き返せないところに動かしてしまった。
 それを謝らなくてはいけないのに、自分も選ばれていたということが嬉しくてたまらない。
「ふふ、なにその顔。嬉しそ」
 そういう上村も嬉しそうな顔をしている。
「だって……オレは蚊帳の外だと、思っていたので。別にそれでもいいと思ってました。空人が大事にしているものを壊した側だし」
 三人の中から釣井がいなくなれば、全部うまくいくのだ。関係を壊した張本人が消えればいい。
 そう思っていた。
「たぶんね、俺には行きたいところあるよ。でも今それを選ぶと、ここには居られない気がしてんの。掴んでないと、ここがバラバラになると思ってんの。だから、壊れるなら壊れてしまえとも思ってんの。このままだったら何選んでも後悔しそうでさぁ」
 そこまでいって上村は、深く息を吐いた。
「嫌われたくないなぁ。……俺、忍がしょーご崩したことに感謝してんだよ」
 変わってしまったし動いてしまったのならば、どこかに辿り着かないといけない。
「……ここじゃなくても、行き着いたどこかで、またオレが掴んだらいいですか。そしたら、空人はまたオレを大事の中に入れてくれます?」
 壊れたのなら、作り直すしかない。
「それ実際にされたら胸熱すぎて笑っちゃうかも。でも、わかんない。別れ方に寄るのかもね」
 上村は、鰐川を選ぶ。それはずっと前から、わかってる。
 だから選ばれなかったとしても、ショックは受けない。心の準備はできている。
 痛みに耐えることができるのならば、可能性を信じて手を伸ばさない理由はない。
「全然、崩せてないですよ。オレの言葉は届いてない。空人からみて、何か変わってました?」
「しょーごは変わろうとしてるようには感じる、かな。でも俺からは何も言っちゃダメな気がする。それでなんかあったら俺が怖いし。わかんねぇわ」
 臆病に上村は笑った。
「正直もう苦しいから、嫌になってて。全部どうでもいいやって気持ちになってて」
 釣井は加害者なのだから、そんなことをいう資格はない。だが、相手に手を伸ばして拒否されて、それで全く心が痛まないわけがない。お前の友情などいらないと投げ捨てられて平気でいられるほど、心は強くない。
 鰐川は釣井を嫌っている。もう仲良くするつもりはない。
 諦めたくないから、それを表面化させないようにする鰐川の思惑に乗って、人間関係を続けているだけだ。
 もうぶつかって手を伸ばそうとしても、お互いの心がズタズタになるだけだ。
 痛い思いをして、傷を深くするだけだ。
「オレがそうすることで、空人が望む場所に近づけるならまだやれますよ。たぶん、オレも祥吾ももっとボロボロになるけど」
「そんななるならやんなくていいよ。俺だって諦めた方が楽だと思ってるし、たぶんちゃんと向き合ったら俺だって加害者になるから動けないんだろうし。代わりに忍がやるなんてことしなくていいんだよ」
「祥吾がボロボロになって縋ってきた方が、都合がいいんじゃないですか?」
 それは、意地が悪い問いかけだった。
 釣井がぶつかれば、鰐川は上村を逃げ場所に選ぶ。味方になってくれる人が誰なのか、大切な人がなんであるかを自覚する。
 鰐川に選んで欲しいと思っている上村にとって、それは都合がいいはずだ。
「確かに都合はいいかもしれないけど、お前のことも大事だって言ったでしょうよ。大事なもんが傷付いてたらしんどいでしょ。それに俺は祥吾を甘やかすことは出来ても選んでもらえる自信なんかこれっぽっちも無い。俺そういう奴だから」
「ふふ、臆病なんですね。オレにはいっくんがいるし、たぶん祥吾には、空人しかいないですよ」
 どんなに痛くても苦しくても、助けてくれる人がいる。
 釣井がどれほどの悪人でも、平は見捨てないでいてくれると信じている。
「そうかな? ……じゃ……俺が続けてって言っても忍は俺のこと嫌わない?」
「嫌わないですよ。そもそもオレが始めたことだし。いつまでも諦めていい理由を探してるのも、陰気で馬鹿みたいですし」
 諦められるのなら、初めから踏み込んだりはしなかった。
「俺は俺の望みを諦める為の言い訳でも探してたのかもしれない。どっちを捨てるか誰かに選んでもらうかして、罪悪感を軽減したいのかも」
「空人はオレの全部欲しがるような傲慢が好きって、言ってくれましたよね」
 好きな人も幼なじみも友人も、全部が欲しい。諦めたくないと手を伸ばすような人間であること。受け入れて欲しいと願っていること。
 傲慢であることを隠すより、認めて受け入れている釣井の方が好きだと言ってくれた。だから上村のことを、信用すると決めたのだ。
「うん」
「じゃあ空人もどっちか捨てるじゃなくて両方、選べばいいじゃないですか」
「なるほど……?」
 その言葉が自分に返ってくるとは思ってもいなかった顔をしていた。
「いや、ちょっと待って、俺は確かにそっちの方が好きだけどしょーごに迷惑かもしれないだろ? いや……でも、なるほど……?」
「祥吾に迷惑とか、急にいい子になるじゃないですか」
 釣井がからかうと、上村はばつが悪そうな顔をした。
「俺の責任しか俺、負えないから……。でも忍も両方掴めるように頑張ってっから、俺も傲慢になるか……嫌わないでね。この傲慢を出したら、俺はしょーごに嫌われるかもしれないから。そしたら俺、自分どうなるかとかわかんないから。何しても嫌わないで欲しい」
「ちゃんと、握ってますよ。空人も、オレのこと嫌わないでくださいね」
 鰐川にこれからもっと、酷いことをする。
 触らないでと言われた傷に触れる。
 相手を傷つけた分だけ、釣井も傷つくのだろう。
 それでも、この先に辿りつくべき場所があるというのなら、まだやれる。
 痛みを恐れないことができる。
 釣井と上村は、一番大切な相手が他にいる。
 相手が自分を選ばないということを知っている。
 いざとなったら、捨てられるということを承知している。
 それでも、傲慢が許す限り手を伸ばすと約束した。
 二人の間のある関係を、なんと言い表せばいいだろう。
 この友情は、共犯関係に似ていた。

◇◆◇

 暗闇の中で懐中電灯も落として、鰐川の顔はぼんやりとしか見えなかった。
 二度、頬を殴られた痛みよりも、それを痛くないのかと聞かれたことの方が苦しかった。
 呼吸の仕方を忘れそうだ。
 殴られて痛くない人間がいるわけがない。
 痛みを感じて平気でいられるほど、強いわけではない。
 ただそれでも進む覚悟を決めただけだ。
 どれほど痛くても、進むことを諦めないと決めただけだ。
 それが鰐川には全く痛みを感じていないし、辛さも感じていない人間に見えているのだろう。釣井は得体が知れなくて、全く未知の存在なのだろう。
 二人の間の溝はもうそれほどまでに深くて、殴ることはできても言葉など通じはしないのだろう。
 息を吸って、吐く。
 感情的にならないように、言い聞かせてから言葉を絞り出した。
「マシな方を祥吾が決めてください。俺が痛がっているのと、そうでないの。どちらがマシですか?」
(祥吾はこの関係をどうしたいんですか?)
 とっくに壊れているのに、それを隠して取り繕って、他の二人にも強要して一体なんになると言うのだろう。
 このままずるずると卒業するまで、友達ごっこを引きずっていくつもりなのか。
 もう心の中で答えは出ているのに、黙って表面を取り繕う意味はなんですか。
「そういう言い方するってことは痛みに強いんだな。お前。ああ、だからなるほど」
「オレが痛みに弱ければ、殴るに相応しかったですか?」
 痛がって苦しんでいれば、満足でしたか。
 自分が痛い思いをした分だけ、やり返せればいいんですか。
「人の痛みが分からない奴……いや、お前みたいな傲慢な人間はいくら殴っても無駄だってことだ」
 傲慢な人間ならいくら傷つけても痛みを感じないとでも、思っているのか。
 じわと頭に血が上った。
「祥吾には、わかるんですか?」
「お前よりは」
 隣にいてくれる人の不安も知らないくせに。
 上村がどんな気持ちで隣にいることを選んでいるか、わかるって言うんですか。
 釣井の言葉は鰐川には届かない。
 何を言ったところで、自分を傷つけた人間を同じくらい傷つけようとして放たれる空虚な言葉の棘のやりとりがあるだけだ。
 今更、仲直りができるなんて思っていない。
 鰐川にとって、自分に踏み込んできた人間は全員が敵なんだろう。
 だから踏み込んでしまった時点で、ここの関係は終わっていた。
 もうこれ以上、拒絶され続けてお互いに痛い思いをしてまで、手を伸ばしたくはない。傷つかないように、距離を取りたい。終わらせたい。
 だがそれは〝釣井の選択〟だ。
 鰐川がどうするつもりなのか、聞いていない。それを本人の口から聞くまでは、退けない。
 上滑りし続ける言葉でも、ぶつけないといけない。
(オレが、今祥吾に対して一番ムカついていること、言ってあげましょうか)
 人に要求があるなら、自分で言葉にするべきだ。
 いつも人に合わせるように行動する。意見や嗜好を求められたとき、質問で返してくる。どうして欲しいのかを聞いてくる。それに応えると言ってくる。
 そうやって選択を相手に全て委ねているくせに、相手の出した答えが自分の望んだものではないと拒絶する。自分に都合の良い存在でいてくれないなら、傍には居たくないと態度で示している。
 それは他者に対する無責任な期待だ。
 人に勝手に乗せられていく期待が重い苦しいと叫びながら、上村には無責任は期待を掛けている。それが苦しくていつか人を潰すものであるということは、鰐川自身がわかっているはずだ。
 その自己矛盾に気づかないでいられるのは、自分で何も選んでいないからだ。周りで起こることは、全て他人のせいだからだ。
 釣井の言葉に、鰐川はただ溜め息を吐いた。
「つくづく面倒だな」
 何を求められているかなんて、わかっている。
 鰐川は、釣井が離れていくのを待っている。お前のことは嫌っていると態度で示し拒絶して、諦めるのを待っている。
 人を嫌うことも友達を捨てるということも、自分の意思であり選択だと認めるのが嫌だから、表面だけは友達を繕っている。
 だから釣井は、鰐川の意図を汲まない。
 痛むだけの友達ごっこと、傷つけるだけの言葉の応酬を続ける。
 鰐川はもう友達ではない。だが上村は、釣井の友達だ。
 一番大切な人ではないが、誰よりも信頼している。
 約束をした。
 苦しい今が少しでもましな方に動いてくれるのなら、どれだけ傷を負っても良い。ズタズタになるまで、やると決めた。
 それを傲慢といい、痛みを知らないというお前は、一体何様なんだよ。
「祥吾は面倒なことも苦しいことも考えなくてもいいんですもんね。なんの責任もないから」
「ない」
 一切のためらいもなく、言い切った。
「そんな人間がよく他人の痛みがわかるとか人に傲慢とか言えますよね」
 何の責任もないと言い切ることができる人間が、傲慢でなくて何なのだろう。
「なんで?」
「自分がここに居て、相手がそこにいたらもうそれだけで人間関係は生まれますけど。もしかしてそういうのわからないですか?」
 それに一切の責任を負わずにいられるのだとしたら、透明人間だけだ。
 そんな人間は存在しない。
「ハァ……こんな面倒な人間関係は生んだつもりない、いらない」
「いらないで終わりにならないからこんなことになってるのに、その感想しか出てこないなら相当馬鹿だと思います。相手との関係の気持ちいいところだけ楽しんで、嫌になったからめんどくさい終わりにしてくれよって?」
 いらないと言ったところで釣井は居なくならない。他の人の間にある人間関係も、なかったことにはならない。
 ただ二人の間に何かがあったことを察した周りが気を遣って、触れずにいてくれるだけだろう。
 それをするくらいなら、釣井は自分で片をつけたい。
「良いですね、祥吾の人間性の薄っぺらさが全部出てて」
 本当にそういう生き方をこれからもずっと続けていくつもりなら、心底軽蔑する。
「はは。よほど相性が悪いんだな俺たち」
 嘲笑も、ため息も、舌打ちもいい加減聞き飽きた。
「相性じゃなくて、他の人が祥吾のそういう可哀想なところを見過ごしてくれてるだけだと思いますけど。そういう意味では相性悪いですね」
 少なくとも釣井は、絶対に許さない。
「はは、可哀想。お前もな」
(どうでも良いんだよ)
 相性の話をしていたんじゃないのか。
 人間関係の話をしていたんじゃないのか。
 そこで可哀想と言い返してきたのは、単に同じくらい嫌な思いをさせたかっただけだろう。聞いたことには答えもしないで、揚げ足とりばかりだらだらと繰り返す。
 良い加減うんざりだ。
 会話はずっと、上滑りをしている。
 初めからずっと。
「ああ、可哀想な人間同士お似合いだねって言いたかったんですか。仲良くできそうですね祥吾」
「そうそう、それが言いたかったんだよ。ごめんな? 上手く説明できなくて。でもお前なら分かってくれると思ったんだよ」
 薄っぺらい嘘。
 この嫌な人間関係を、ずっと続けるのが望みですか。
 それで本当に、満足できているんですか。
「仲良しなら握手でもしましょうか?」
 手を差し出してみる。
「あはは!」
 迷いなく差し出された左手を握る。
 そして鰐川の頬を殴った。
 殴打の音。
 人を殴ったことなどなく、指がずきずきと痛んだ。
「もう一発殴りましたよね?」
 微笑む。
 鰐川が息を飲む。
 怯えた顔で後ずさるのを無視し、問いかける。
「痛かったですか?」
 それは鰐川が聞いてきたことだ。
 返事はなかったが、腕を掴もうとしてきたのはわかった。
「なんで止めるんですか?」
「……あ、痛いから?」
 当たり前だろ。
 殴られたら痛いんだよ。
 無言で二発目を入れた。
「……仕返しか」
「仕返しっていうか……、まぁそれでいいです」
 どうせ釣井の言葉など聞いていないのだから、何と答えたところで同じだ。
「痛いと思ったんなら初めからやらないでくれます?」
「もうやらないと思うよ」
「そう、良かったです。痛いかどうか人に聞かないとわからないようだったので、ついでに聞かれる方の気分も合わせて教えてあげようかと」
「随分と親切だな」
 薄寒い笑顔と嘘しかない。
 これ以上の無意味な会話を続ける前に、二人が追いついてくれたのは幸いだった。
 顔を照らす懐中電灯の明かりが眩しい。
 平と上村のコンビは、困惑の声を上げた。
 肝試しに来たはずなのに先攻の組が殴り合いを始めていたときの感情として、至極真っ当な反応だ。
 二人は同じような反応をしたが、一点だけ違っていたのは鰐川の方にいく上村が、ちらりと釣井の方を見たことだ。
 派手にやったね、と言いたげだった。
「えぇ……、なんでそんなことになってんの」
 地面に転がっていた懐中電灯を拾って、平が手渡す。頬の痣をみて気遣わしげな顔をしていた。
 釣井のことも鰐川のことも、等しく心配している。
「俺が殴った」
 感情の入らない声で、鰐川が言う。
「そうですね。それでオレも殴り返しました」
 ニコと上村に笑いかける。この笑顔は友好の証などではない。
 言葉にしなくても伝わることがたくさんある。
「なんでそんなことになってんだろな。理由もなく殴ったりしないだろ? 話せる?」
 上村は鰐川を釣井から隠すような場所に立って、顔を覗き込む。その手はしっかりと握り合っている。傍にいて、ずっと味方だよと伝え続けている。
「そ、うだな。二人ともから聞きたいな」
 平が話を促す。
「お先にどうぞ?」
 肩を竦める。釣井は人の意見に同調もしないし、意味のない反論もしない。
 自分の意見はちゃんと自分で言える。できない奴から言えば良い。
「俺に嫌なことばっかりしてくるんだよ。何が不満なのか知らな……いや、知りたくもないが。ああ……この際だからはっきり言えばいいのか……。俺はコイツが嫌いになった」
 なんだ、ちゃんと言えるんじゃないですか。
 いつまで続ける気なのかと思っていた。
 向こうも、いい加減飽き飽きしていたんだろうか。
 それでも口にできたのは、絶対の味方だと思っている上村が傍にいてくれる影響が大きいのだろう。そこまで上村に甘えていて、無自覚なまま関係ないめんどくさいで通すつもりなのか。
「殴られる理由はないと思ったので殴り返しました。大人なら話し合いで解決しますけど、こうやって嫌だ嫌だって駄々捏ねてるだけのガキなので、オレも付き合い切れないです。軽蔑してるし見下してますよそういうところ」
 他の二人の前で罵倒したことが、鰐川の逆鱗に触れたらしかった。
 その一線を踏み越えたことが意外だったのかもしれない。釣井がみんなの良き友人で居続けることを選ぶと思っていたのかもしれない。
 そうはしない。別に見られたところで、怖くはない。
 平は釣井を見捨てないし、上村はわかってくれている。その信頼を相手に持てないのが、鰐川の弱さだ。
 怒りが、いつもギリギリで堪えていた鰐川にその一線を越えさせた。
 たじろぐように息を飲んだが、感情は縁を溢れた。
「触んなって言ってるのに触ってくるからだろうが! 俺が嫌いなら関わらなければいいのに、わざわざ喧嘩売ってきてんのはお前だろ!」
 それができるなら、ようやく言える。
「痛いところ触ったオレが悪いって? ああそうですよそうなんでしょうよ。祥吾のやり方に全部合わせてやれなかったオレが悪いって言いたいんでしょ。でも黙って周りが全部察してくれるの待ちで、踏み込んできたらお前が悪いって祥吾も相当卑怯ですよね。周りに地雷原作って踏んだらお前が悪い関係ないって、めんどくさいんだよお前!」
 鰐川の語気の強さに上村が目を見開き、釣井の言葉の荒さに平が驚いた顔をして振り向いた。
「誰も踏まないように奥深くに隠してたのに、それをお前が掘り起こして見つけたんだ! 俺はそれ以上触るなって言った、それを無視して踏み込んだのはお前だ! 友達だからってやっていいこと悪いことがある! お前はそんなことも分からないんだろ⁉︎」
「はぁ? 奥深くとか。浅いだろ。オレに掘りあてられるような浅さで何言ってんだ。公園の砂場かよ。みんなに気を遣わせてんのに気づかないで上手くできてるとかドヤ顔晒してんの痛々しくてみてられませんけどね。その薄っぺらさで、不幸ヅラしてんのがお前の一番くだらないとこだよ。一旦人殴らないとそんなことも言えないビビリの友達基準とか知りませんけど」
「気を遣わせてる? だとしたらお前のせいだろ。上手くいかなくなったのも、全部!
お前とは価値観も考え方もなにもかも違う。物事を明るく捉えられない暗い奴といると一緒にいて息が詰まるんだよ。俺はいちいち人の生き方にケチをつけるような、お前みたいな不幸な人間じゃない!」
「オレが踏み込む前のこと言ってんだよ。そのあとなんて、ただのいじけてるお前の腫れ物扱いだろ。価値観と考え方が違う人間といると息が詰まるとか、自分と同じ人間しか受け入れられないんですか? そんな人間がこの世にいるとでも? そういうとこが薄っぺらくてガキだって言ってんですよ。そうやって合わせないならお前が全部悪いことにして追い出すって周りの人間脅して、バレバレの脅しにみんなが合わせてくれてるのにあぐらかいてヘラヘラ笑ってんのが友達ですか?」
「ぁあ……? そんなことは言ってない! 大体、ここまできてお前は何がしたいんだよ。お前の言葉を借りるなら、薄っぺらくて痛々しい俺の生き方が悪いって言いたいんだろ? 俺がお前の立場なら、もうこんなどうしようもない奴とは付き合わないし話してても無駄だと思うんだが、まだ続けるのか。少なくとも俺とお前はもう友達なんかじゃないし」
 そこで、言葉は止まった。
 鰐川が気にしているのは、他の二人だった。
(早く言えよ)
 何をいうか、もう釣井はわかっている。
 口にしてお互いに答えを出して、ようやくこの関係は先に進める。
「友達なんかじゃないし。正直、追い出したいと思ってるよ。それが無理なら、俺が出ていきたい。だって一緒にいたくないだろ?」
 上村が、釣井の顔を見た。
「……」
 いいのと確認するように。
 いいですよ、と釣井は笑い返す。
 選んで選ばれて、特別の椅子にちゃんと座らせてください。
「祥吾が行くなら俺も一緒行くよ。俺は祥吾と居たい」
 その答えを、問いかけが出るずっと前から知っている。
 平はゆるゆると首を振る。
「……俺はしのから離れないよ。でも空人も祥吾も手離したくない」
「…………ごめん」
 鰐川のそれは拒否だった。
 その答えもわかっている。彼は釣井を受け入れられはしないだろう。視界に入れたくもない、近づきたくも無い関係だ。
「オレに言ったこと二人にも言わなくていいんですか。代わりに言ってあげましょうか」
 人間関係の気持ちいいところだけやっていたいから、都合が悪くなったらいらないのだと。
 そのときには、全部相手が悪いことにして捨てるのだと。
「また同じ失敗をしないためにも、先に言っておいたらいいのでは。空人のことも、いっくんが祥吾を選んだときも、そうやって都合が良いところだけ使い捨てるって。なんで正直に言わないんですか」
 面倒臭いし関係ないし考えたくない。綺麗なところだけ見せていて欲しい。
 それでも自分を選んで欲しいというのが、鰐川の傲慢だ。
 誰かを選ぶのならば、自分でそれを認めて受け入れるべきだ。
 釣井が突きつけた言葉に、鰐川は耐えられなかった。
 もういらないと言った釣井にそれを知られていることと、自分を選んでくれた相手にそれを知られることは、全く別だ。
 息を吸う。
 言い返そうとしたのかもしれない。
 釣井の汚さと傲慢を糾弾し、同じくらいの傷をつけようとしたのかもしれない。
 あるいは、ただ今言われたことを弁明をしようとしたのかもしれない。
 何度か息を吸い、言葉にできずにそのまま吐息として吐き出す。
 見かねたように上村が、頬を撫でた。
「俺はそれでも大丈夫だよ」
 受け入れられて、ようやく口を開いた。
「俺は責任を負いたくない。応えられなかったときが怖いから、人の期待も悩みも想いもなにも背負えない、背負いたくない……俺にはそんな余裕がない。嫌な自分を見せたくないから、見たくないから楽しいことに逃げてる。ここまで最悪な奴だって分かったのに、まだ俺を手離したくないなんて言える?」
「それくらいであれば全然言えちゃうなぁ」
 事もなげに答える。
 知っている。
 上村は鰐川のそういうところを、わかった上で傍にいることを選んでいる。
 知られていないなんて思っているのは、本人だけだ。
 上村は、鰐川が一番大切だから何を言われても彼を選ぶ。
 釣井にも大切なものがある。それを選んでいる。平がいるし、好きな人もいる。
 だが、だから一番ではない上村はどうなってもいいなんていうことはできない。
 上村が鰐川を選んでも、鰐川が釣井を嫌ってどこかに消えることを願っても、二人は友達だ。
「空人の、祥吾がわかってやれない部分を、一番知ってるのはオレですよ」
「……そう」
 上村の肩越しに、鰐川が睨んでいる。
 言葉にならない苛立ちが、上村の腕を掴む手にでている。
「祥吾がそれを受け止めてやるつもりがないのなら、オレは離れるつもりはないですね。友達でもないやつの望みを聞いてやる筋合いもないですし」
 上村はぎりぎりと音を立てそうなほどに腕を握りしめられて、満更ではない顔をしている。ちゃんと選ばれた。頼られて縋られて、他の人間には渡したくないと独占欲を顕にされている。
 それが嬉しくないわけはないだろう。
 よかったですね、と少し呆れた気持ちで上村に微笑みかける。
「……なに、お前」
 二人の間にしか通じない言葉があるのが、腹立たしいのだろう。
 欲しいのなら、手を伸ばせばいい。知らないから関係ないじゃなくて、ちゃんと掴めばいい。握り返してもらえるのだから。
「空人の親友ですよ。オレは空人を受け止められるし、空人もオレを受け止めてくれる。そういう信頼がある関係です」
「何でそう言える?」
「祥吾になんの関係が? 自分の周りの気持ちいいところ出せみてたら、いいじゃないですか」
 そこから先は二人の問題だ。
 自分の抱えている不安を相手に受け渡せるのか、それを受け止める気があるのか。
 二人だけで話せばいい。
 それで、不安を打ち明ける相手としての釣井がいらなくなったのなら、それはそれで幸せな結末だ。
 例えバラバラになっても、もう一度手を掴むと約束した。
 だが、一番大切なものは別にある。そのことをお互いにわかっている。だから、仕方がない。
 大丈夫だ。受け入れられる。
「他に話がなければ、オレはもう帰りますよ」
 平の手を掴んで、先に行く。
 釣井には、いつも味方をしてくれる幼馴染がいる。
 だから大丈夫だ。
「ごめんね、いっくんまた喧嘩しちゃった」
 みんなで一緒にいたいという願いも、叶えてあげられなかった。
「喧嘩したくてしてるわけじゃないんだし、しのだって言うのしんどいだろ。俺には謝る必要ないよ」
 釣井が引いていた手を、握り返す。
「オレと祥吾はもうダメだと思う」
 平はしばらく、何も言わずに歩いた。
「……しのは俺としのみたいな関係に祥吾となりたかったって言ってたよな。それはきっと元から無理だったんだよ、だって違う人間なんだから」
「うん。オレは空人のこと信頼してるけど、いっくんのとは全然違う」
「うん、俺もそう。だから……ンー。元通りにはならなくてもいいんじゃない?」
「いいの? オレは祥吾に優しくしないですよ」
 たぶん、また顔を見たら喧嘩になるし、お互いの言動に苛ついてしまう。
「や、そりゃ見たいか見たくないかなら、見たくないよ。祥吾が受け入れてくれるかは分かんないけどね、でも今更前みたいには無理でしょ。……でも、もうしのがもう疲れたなら諦めてもいいとは、思う」
「じゃ、諦めちゃおうかな。空人とは友達、それでオレはもういいです」
 本当はあの日の放課後に、既に諦めていたんだと思う。
 諦める理由を探しているという指摘は、正しかった。だが、まだ釣井自身が納得できていなかった。答えを聞けていないことに、満足していなかった。
 その答えが出た。
 決着がついた。ならばそれで十分だ。
 望む場所に、いけた。
「……ン、わかった。俺、なんも出来なくてごめん。一番しんどいのしのなのに」
 声に涙が滲んでいた。
「オレは平気ですよ。自分が言いたいこと言ってスッキリしてます」
 本当に、平気なのだ。
 もう友達ではなかった。それをわかってしまっていたから。
 平が感じているような悲しみとショックはない。
「……そ、っか。っう、……しのがいいならいいよ。……おつかれ」
 釣井を抱きしめて、平は泣き出した。その背中をそっと撫でる。
 苦しめてごめんと、心の中で謝る。 
「いっくんはオレに付き合わなくてもいいんだからね?」
 釣井の幼馴染だし大切な人だが、鰐川とも友人であるはずだ。釣井が上村とこれからも友達で気に掛け続けるように、四人ではいられなくなったけれど平はみんなと友達でいられる。
「分かってる、俺が誰と仲良くするかは俺が決めることだしそこはしの心配しなくても大丈夫だよ」
「……でもオレのことは捨てたらやだよ?」
「んふふ、捨てるわけないじゃん。一生隣にいてくれるんだろ?」
「でもいっくんがいなくなったら、追いかけられないから……」
「しのは自分が思ってるより強いから大丈夫だよ」
 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
 どれだけ傷ついても平気なのだろう。
 痛みを知らない人間、というのもきっと間違いではないのだろう。人の痛みを無視して突き進めてしまうのだろう。
「……追いかけてくれねぇの?」
 揶揄うような言葉に、疲れた笑顔で答える。
「……手を伸ばして、振り払われるって、すごく苦しいんだよ」
 胸が引き裂けるように感じているけれど、それでもともう一度手を伸ばせてしまうのだから、本当には苦しんでいないのかもしれない。
「……うん。ごめん、今のはダメな質問だった。俺、しのと居たいから一緒に居るし離れないよ」
「ありがと」
 強くて傲慢かもしれないけれど、少しだけ疲れた。
 ゆっくり、休みたかった。

◇◆◇

 三年生の教室に向かう階段を一段飛ばしで登る。
 会いにいく口実があると、偶然に頼らなくてもいい。釣井はいつも一緒に居るいい理由作りに必死だ。
 帰り道で出会ったから。バイト先に用事があったから。ゲームをしたいから。漫画を貸しているから。CDを貸してもらっているから。
 ただ会いたいからという理由に言い訳をくっつけて、常に退路を確保している。
 これは恋しているからではなくて、二人の時間が偶然重なっただけですよと言うことができるように。
 どんなに白々しい言い訳でも、これは隠したい気持ちですというのがわかれば、八万は踏み込んでこないだろう。
 釣井が思う八万 至という人間は、そういう人だ。
 教室の入り口で八万を呼ぶ。
「八万先輩、お土産です」
 身長が隔たっているから、何かを手渡すとき八万は少し屈む。
 咄嗟に手元に視線を落として、息を止める。
 コンビニなどで使われているものよりも上等な、厚手でツルツルとしたビニル袋の手触り。水色のインクでプリントされた水族館のロゴ。跳ねる心臓を押さえつけながら、手の中にあるどうでもいいものに注目する。
 受け取る八万の手。
(先輩の手、赤ペンの汚れがついてる)
 キャップをするときについてしまったんだろうか。
 指先が手渡す瞬間に掠めていった。
 押し留めていた呼吸が、小さな吐息になって漏れた。
「なんか釣井ちゃんに毎回お菓子もらってるな」
 言葉を言うために、吐き出した息を吸う。表に出て行かないで欲しい様々な感情も、吸い込み直して腹の底に沈める。
「今回は、甘くないものです。あとお菓子でもない」
「そうなの?」
「ふりかけです」
 一人暮らしをしている人だから、食卓に彩があったらいいんじゃないかと思ったのだ。あとはサメの口からふりかけがでてくる入れ物が可愛らしかった。
「はは、でも食べ物なんだね」
「あとに残らない物の方が、安全なので」
 前に進まず、逃げ道作りに一生懸命。
(祥吾のこと、言えないんだよな本当は)
 胸の中に湧く自己嫌悪は、恋心よりはずっと扱いやすく馴染み深いものだった。
 会うための言い訳を探すのに必死なくせに、相手のために何かをしたい。
 何でかと理由を問われても、釣井には好きだからという愚にもつかない答えしか出てこない。それは自分の心から目を背けるだけの、逃げだ。内心でそれがわかっているから、飽きもせずに同じ問いを繰り返す。
 逃げ道を用意した上で踏み出す一歩に満足する。
 八万のような軽やかな人は、きっとこんな臆病な振る舞いはしない。
「知らない相手のために、何かしたいって傲慢だと思いませんか?」
 つまり釣井にとっては八万 至のことで、八万にとっては自分の知らない誰かのことだった。
「傲慢、釣井ちゃんと話しているときぐらいしか聞かないワードだよそれ」
 八万が笑う。
 そうだろうか。他の言い方を知らないのだ。
 もしかしたら他の人間はこの心にもっと別の名前をつけて扱っているのかもしれない。或いはこんな感情は持ち合わせず、全く知らない気持ちなのかもしれない。
「俺は別に思わないかなあ? そうなのかもしれないけどさ、言っちゃえば自我って全部がそれだし」
「相手の望まないことをしてしまうかもしれないって、怖くないですか?」
 例えば、この恋心などがそう。
 好きになってくれなんて望まれたことはない。一方通行。釣井が勝手に好きになって苦しくなって、振り回されている。勝手に始めた癖に、苦しいのが嫌になって自分のことを知って見て欲しい思っている。
 それは、あまりにも身勝手で傲慢だ。傲慢だと判断しているくせに、受け入れて欲しいと願っている。拒まれたくない。
「釣井ちゃんは優しいねえ。優しい分怖がりだけど」
 感情的に否定したくなったが、口を閉じた。
 優しくはない。その主張は釣井の独りよがりでしかなく、口に出す意味はない。
「……それが怖くても、関係をどうにかしたいってんなら動くしかないんじゃねーかな。何もしない、現状維持で、て訳にもいかないしさ。釣井ちゃんがそれを望んでても相手は勝手に進んでっちゃうし。ページの途中で栞を挟むみたいにさ、現実は待っててくれないよ」
「……そうですね」
 好きな人との関係に足踏みをしている間に友達と喧嘩をして、釣井の日常は目まぐるしくて心の余裕がないままだ。
 進むより他ないことはわかっている。わかっているが、踏み出す勇気が出ない。
 どうするか、ずっと考えていた。
 どうしたいのかを、ずっと悩んでいた。
 結局、考えるべきはそれだ。
 相手とどうなりたいのか。どうしてくれたら満足なのか。
 ずっと突きつけられている問題は、保留している。
 答えを出すのが怖い。
 十七歳の釣井 忍にとっては、友達とか好きな人とかそういうことが世界の全てだ。
 世界のどこかではもっと重大な事件が起こって、大きな不幸に涙を流している人がいるんだろう。だが自分と関係ない場所で起こることなんて、所詮は他人事だ。
 どこで誰が起こっていても、今自分が抱えている苦しさが一番苦しい。
 いつかは決めるつもりでいた。
 この青春と学校生活が、エンドロールを迎える前までには。
 その瞬間が来るまでは、足踏みをしていたい。進むというのは、何もかもが壊れてしまう可能性を常に孕んでいる。痛みを伴う道に進むことを、躊躇っていたい。
 そうなったときの痛みを想像すると、じわじわと真綿で首を締めるような保留と現状維持に浸っていた方が、まだしも楽だ。
 いつかがいつであるかを決めるのは、もっと先でいいはずだ。
 少なくとも今ではない。
 呆れるほどいつも通りに進む日常に身を任せる怠惰を、釣井は自分に許した。

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