手繰った糸はぷつと切れた


Tidalwave_逃れようのない波
 廊下を歩いていたときに、強い調子で制止された。
 何事かと思って声がした方を見れば、人が床に這いつくばっていたので、驚いて数歩下がった。
 こっちを見上げてくるその人の目つきがあんまり悪かったから、ちょっと気後れもしていた。怖い人に絡まれてしまったんじゃないかと思ったのだ。
 あれはまだ一年の最初の頃で、額に傷はなかった。
 だから顔が怖いという評価とは無縁と言えないまでも今ほど顕著でなく、自分の人相の悪さを完全に棚上げしていた。
 ネクタイの色は自分と同じ、一年生。よく見れば見覚えのある顔だった。
 確か名前は鰐川 祥吾だった気がする。珍しい苗字だから覚えている。画数が多くて習字のとき大変そうだなぁと、取り止めのない感想を抱いた気がする。
 見上げてくる目つきは怖いけれど、たぶん人を脅すときは地面に這いつくばったりしない。だから何かあるのだろう。
「どうしたんですか」
 顔を上げた鰐川の目元に、ぎゅっと力が寄る。よく見えていないらしい。
「釣井 忍です。同じ一年の」
 先んじて名乗ることにしたが、名前を知ってくれているだろうか。
「釣井か。この辺にコンタクト落ちてるんだ」
 それは一大事だ。誰かに踏まれてしまう前に、回収しないといけない。
「あー、オレも探しますよ」
 コンタクトがないと、そもそも落ちているものが見えない。二人で探したほうが早いし、通りがかった人も素通りする前に足を止めてくれるかもしれない。
 しばらく床と睨み合ったあと、ようやくレンズを発見できた。
「あ、ありましたよ。洗浄液、持ってます?」
 そうやって水道があるところまで案内したときが、一番最初だった気がする。
 他に何があっただろう。
 お礼のラーメン。自転車。河川敷。お昼ご飯とか、放課後のコンビニ。カラオケと、他にもたくさん。上げていけば切りがないけど、どれも些細だったと思う。
 このままずっと、どれも些細だと思っていられればよかった。
 大事なものが、粉々に砕ける瞬間を見た。
「忍、俺は……今が一番苦しい」
「オレが、祥吾を苦しくするようなことを言ったから?」
 ああ、もう全部ダメなんだなって、そのときにもう理解していました。
 何もかも間違えた。引き返せないところに来てしまった。
 オレたちは、もうあのときには戻れないですね。

◇◆◇

 釣井 忍は何も知らない。
 好きになった人は疎か、友達のことすら知らない。
 そもそも、自分のことだってよくわかっていない。
 幼なじみのことは、わかっているつもりでいる。だけど本当はどうなのか、わからない。わからなくなってしまった。
 友達だからって、何でも知っているわけではない。
 例えば、上村と鰐川のこと。
 一緒にいても、人と人の間には線が引かれる瞬間がある。平と釣井は幼なじみだ。ではあの二人はどうなのだろう。
 そう考えてしまった。気づいてしまった。
 同性だから、あるいは友達だからといって、そこにある感情が友情に限られるわけではない。
 釣井が八万のことを、単なる先輩や友人として慕っているわけではないのと同じように、自分の周りにいる人たちの心の中にも、複雑に絡み合った感情がある。
 鰐川は誰に対しても社交的だが、踏み込まれることを拒否をするように、素早く人から距離を置く瞬間がある。
 全員と一定の距離をとっているから誰に対しても平等で、平均的に好かれている。
 それなのにクラスが違う上村とよく一緒にいる。二人を繋ぐ線がある。
 遊園地で本気で怒ってくれた上村は、たぶん釣井が抱くような心を知っている。他人事ではなくて、涙を流すほどに強く感情を動かすこととして理解している。
 釣井が恋をしていることが見ていれば分かるのと同じくらいに、それは簡単にわかることだったんだろう。
 今までずっと目を閉じていただけだ。
 相手を知ること。人を信頼すること。誰かに頼ること。
 釣井にとってそれは、人を知りたいと手を伸ばすことだった。
 自分の中にある弱さを認めて、人に知られることを恐れないこと。
 誰かに、自分が抱えている荷物を渡す身勝手を許すことだと思った。
 だから、踏み込んだのだ。
 人には隠しておきたい傷があることも、それがどれくらい痛いのかもわかってはいなかった。
 そうして友達を傷つけた。
 上村が、あれほど強く想っている鰐川に未だに踏み込めないでいる理由が、そのときになってようやく理解できた。こうなるとわかっていたからだ。二人の縁が途切れてしまうのが恐ろしかったのだ。
 それでもなぜ引かなかったのかと言われれば、手を離せばもうそれが終わりの瞬間になってしまうからだ。平行線を辿っているとわかっていても、引き返せない場所に踏み込んだ手触りがあった時点で、戻るという選択肢がなかった。
 だから、更に踏み込んだ。
 それは鰐川を傷つけて、踏み荒らしたのだろう。
 答えの出ない問は、大抵それを問うた人間の立場が曖昧だからだ。
 何を聞きたいのかが、己でわかっていないからだ。
 だが釣井がそこで吐き出した問は、とうに答えががわかっている類のことだった。
 許してくれ、と鰐川は言った。
 もうここには居たくないと言った。
「祥吾の許してくれは、もうオレに関わらないでほしいっていう意味ですか?」
 聞くまでもない。
「オレが祥吾に手を伸ばしたいって思う限り、責められているって感じますか?」
 わかっている。
 それでも聞いたのは言葉にしてくれれば、楽になれるからだった。
 それを曖昧なままにして抱えて帰れば、苦しいということがわかっていた。
 長い、長い沈黙が二人の間に横たわる。
 校庭から聞こえてくる部活動の音も学校の中にあるざわめきも、静寂を埋めるには足りなかった。
 頭の中を血液が囂々と流れる音がずっと前から鳴っていた。
 この会話を始めたときからずっと心臓が煩くて、鼓動に合わせて血が耳の後ろでドクドクと鳴っていて、鳩尾が痛くて吐きそうだった。
「忍は」
 もうずっと前から隠せなくなっている涙を押さえつけ、鰐川は言葉を絞り出す。
「まだ俺が好きか?」
「祥吾が好きです。でも、祥吾を傷つけたから、祥吾はもうオレのこと見限ってるんじゃないかって、後悔してます」
 釣井がわかっていることを聞いたのと同じく、鰐川にとってそれはもう口に聞いて尋ねるまでもなく、明らかなことなのだろう。
「こんな俺でも好きなんだ?」
 この会話にはもう、意味がない。何を言っても、届かない。
「好きじゃないやつに、こんな風に痛い思いしてまで、踏み込みたいなんて思わないです。手を伸ばしたいなんて、言わないです。だって放っておいて、上辺だけの付き合いしてたらそれで、過ぎてくじゃないですか。どんな祥吾がでてきても、受け止めたいと思ったから。こんな風に傷つけるつもりじゃ、なかったんです」
「そう……、ならよかった」
 嘘のように、鰐川の感情は凪いでいる。
 そう見えるのは、もう完全にその心が閉じているからだ。
「ありがとう」
 断絶。
「ごめんなさい」
 泣きそうになった。
 それを招いた釣井が、ここで泣くのはお門違いだ。声が震えないように、息を深く飲み込んだ。
「何が?」
「いっぱい傷つけたこと」
「俺に必要なことなんだろ」
「オレはそう思ったけど、でも傷つけたのは事実だから」
「そうだな。俺も悪かった」
 心の表面を滑り流れ落ちていく会話を、どうしたら良いだろう。
「祥吾は何も悪くないです。よかったらこれからも、友達でいてください」
 握手のつもりで、手を差し出す。
「うん ありがとう」
 鰐川は手を伸ばそうとして痛みに顔を歪め、反対側の手で釣井の手を握った。傷だらけの手は力なく体の横に垂れている。
 自分を罰するように何度も机に叩きつけた手。オレはその痛みを、半分持つ仲にはなれなかったですね。
「……俺、もう帰るよ」
 一緒に帰りたい。
「隣、いていいですか?」
「……部活は?」
「祥吾の方を選びたいです」
「そうか」
 さっさと鞄を持って出ていく鰐川を追いかける。
 鰐川が駐輪場にある自転車に跨るのを見たときに、動けなくなった。それ以上は追いかける事ができなかった。無意味だ。もう決定的に、変わってしまったのだから。
 あの頃のままならよかったですね。
〝これからも友達〟
〝ありがとう〟
 そんなこと、思ってないですよね。
 これからも友達でいられるなんて。オレの隣に居たいなんて。
 オレがついて行ったとき、嫌でしたよね。
 早く離れてって、言いたかったですよね。
 その全ての言葉を、鰐川は飲み込んだのだ。
 突き放してくれた方が、楽だった。
 もう、それを告げるほどの価値もないと、判断された。
 オレは、それを受け入れなければいけませんね。
 祥吾を傷つけたのは、結局オレがそうしたかっただけで。
 祥吾が言った通り、オレは怒ってたと思います。
 何も言ってくれない祥吾に。
 信用するにも当たらない自分を、棚上げにして。
 きっとオレはそれが許せなかったんです。
 相手の心の裡がみたいから、鰐川 祥吾をズタズタにした。
 釣井 忍は、満足ですか。
 友達の傷を踏み荒らし暴き立てて傷つけて、楽しかったですか。
 身勝手で独りよがり。
 人を認められなくて傷つける。
 それが、汚いオレの本性です。

◇◆◇

 一睡もできなかった。布団の中で丸まって、夜が明けるまでの時間で気持ちを整理しようと努力していた。
 成果はなしだ。朝になってアラームが鳴るまで、釣井の心に折り合いがつく部分は一つもなく、ぐちゃぐちゃのままだった。
 死んだような気持ちなのに、体が動く。体は動くし眠れもしないのに、頭は働かない。ゾンビになったような気持ちだった。
 学校に行く気にはなれなかった。体が重たい。吐き気がする。
 昨日と同じように振る舞える気がしなかった。いつも通りに友達と笑い合っておはようと言って、お昼休みにご飯に誘う。そんなのはとても無理だ。そうしなければいけないというのが分かっている。だからこそ、余計に無理だ。
 心がずたずたなのに押し込めて、鰐川と友達のままの振りをして過ごすなんてできるわけがない。
 全部気のせいだと言い聞かせて朝食を体に押し込み、家を出てバス停までは辿り着いた。そこまでが努力でなんとかできる限界で、乗車することはできなかった。両親が仕事で家を出た頃合いを見計らって、自宅に戻った。
 トイレで吐いて、部屋に戻る。制服のままベッドに潜り込み、眠れもしないのに目を閉じた。
 出席日数は大丈夫だろうか。休むことはほとんどないけれど、授業をさぼることは何度かあるから、仮病を使って休むほど出席日数に余裕があるかどうかわからない。
 スマホが震える。グループにも個人にも連絡が来ていたが、返信できなかった。どんなに時間を掛けても、平静を装った文章を打ち込むことすら難しかった。
 心配する幼なじみにだけ「大丈夫」と返事を送る。
 そうしないと心配して家まで様子を見にやって来かねないからだ。
 昨日の放課後の出来事を反芻していた。自分の罪を考えていた。
 家にいても、修復できない二人の関係のことが頭の中をぐるぐると回る。今日一日休んでどうにかなるだろうか。明日になったら、平気な顔をできるだろうか。嘘を上手に吐けるだろうか。
 明日から上手くやれるように、今までのことを思い出しているだけなのに、友達でいられた頃の事ばかり考えて苦しくなる。
 時間は戻らない。
 横になっている間に、少し微睡んだらしい。
 通知音で目が覚めた。
 何度か連絡が入っていたが、釣井はその全てを見なかったことをしていた。体調が悪いから見ていなかった。それで済ませるつもりだった。
 一番頻繁に連絡が来るのは平からで、ロック画面を解除するときに通知に表示されていたメッセージが読めた。
 釣井の家に向かっているところらしい。
 どうしたらいいだろう。誰とも話したくない。そんなことを伝えたら、何かありましたと言っているようなものだ。どう返事をするのが当たり障りがないか迷っている間に次のメッセージが入る。
『着いたらチャイム鳴らす』
 あまり時間をおかずに、チャイムが鳴った。
 来てしまった平を出迎えるために階下に降りる。
 学校を休んだのに、制服を着ているのはおかしい。泣いていたから目が真っ赤だ。
 迷ったのは一瞬だった。
 平なら、大丈夫だ。どんな自分を見せても平気だ。
 玄関のドアを開くと、平は釣井の顔を見て困ったように眉尻を下げた。用意していた言葉を失ったようで、口を開くまでに間があった。
「なんか食えそう?」
「だいじょうぶです」
 何も食べたくないという否定の意味での言葉だったが、逆の意味にも取られたかもしれない。
 今は誰にも優しくされたくなかったし、気遣われたくもなかった。
 しかし気分が落ち込んでいるからといって、心配してやって来てくれた幼なじみに冷たい態度を取ることなどできなかった。
「……寄ってく?」
 病気だと思って消化しやすいものまで用意して、来てくれたのだ。玄関先で追い返すことなどできない。
「ん、寄ってこうかな。お邪魔します」
 にこと笑って平はキッチンに向かう。自分の家の夕飯の買い物も兼ねているのだろう。袋の中身は多かった。
「色々あるよ〜。何がいい。おかゆもあるし、しっかり食べたいならなんか作るよ」
 彼には自分の家のことがある。
 病気でないことくらい、想像がついているだろう。
 しばらく言葉が出なかった。
「オレ、間違えちゃいました」
 わかって欲しいと思うばかりで、それが他人を傷つけていることに気づけない。触れられたくないと思っているところに、触れてしまった。
 平のことを傷つけて、鰐川のことも傷つけた。加害者になってしまった。
 平は釣井を許してくれた。だが、鰐川とはもうおしまいだろう。決定的に砕けてしまった関係を修復する方法はない。〝優しいしの〟はもうどこにもいない。
「俺はもう色々間違えてて、自分勝手で、いっくんのことも傷つけて祥吾のことも傷つけた。いっくんは、オレのこと許してくれるって言ったよね。今まで通りにみんなと仲良くできなくて一人になるオレとも本当に一緒に居てくれる?」
 怖かった。
「別にしのが変わってもこれからも一緒に居たいと思うよ。それは助けて欲しいって言われたからとかじゃない。助けが要らなくなったとしても普通に友達のままだろ? 幼馴染で、友達」
 それすらも疑われてんの、と平は悲しそうな顔をして釣井の顔を覗き込む。
 友達の優しさすらも苦しくて、涙が溢れる。
「間違えても次に生かしたらいいんじゃない? 祥吾とは、どうなったのか知らないけどさ、しのは祥吾にどうしてほしかったの」
 鰐川とどうなれたら満足していただろう。
 首を振る。今となっては、わからなかった。
 お互いのことを許し合い、理解し合う関係になりたかった。
「オレがいっくんを信じてるみたいになれたらって、思ってたんです。でも俺がしたことは祥吾を追い詰めて傷つけて、踏み荒らしました。オレが人の気持ち待てないやつだから」
 過去に戻る以外の方法で、二人の関係を元に戻す方法が思い浮かばない。
「今、行き止まりにいます」
「しのはその行き止まりで、どうしたいの。乗り越えたいの? それとももうもう諦めたい?」
 泣いているだけでは前に進めないとわかっているのに、進むべき道がわからない。
 好きな人のことも友達のことも、何も知らないのではないかと言われた。
 だが相手を知りたいと思ってとった行動は、鰐川の心の傷を踏み荒らすことと同義だった。二人の関係に何を望んだところで、釣井の言葉は望んだ通りに振る舞ってくれない鰐川をせめているように彼には届くのだろう。
 なら何を望めばいい。
「迷子です。きっと祥吾にも許してもらえない」
「祥吾に嫌なことしちゃったのか、それはちゃんと謝れた? その許してもらえないってさ、本人に聞いたわけじゃないんだろ? ならしのがそれ決めつけちゃだめだよ」
「それくらい傷つけたんです。もう話しかけられるのも、嫌だと思う。そう言ってくれれば諦められるのに、オレはまだ祥吾が好きで可能性に縋りたい」
「縋っちゃえばいいじゃん、好きなら」
 そんなに簡単な話ではない。
 あのとき感じたのは断絶だ。
 好きの反対は無関心と言ったのは、誰だっただろう。
 言葉にして伝えるというのは、相手に対する興味の発露に他ならない。鰐川はもうそれを釣井に対してしなくなっている。
「俺さ、祥吾のこと大事な友達だと思ってるし、しのもそうだと思う。でも俺しのの方が大事だから、そんなに苦しむなら諦めちゃえばって思っちゃう」
 驚きで、釣井は目を瞬いた。
 彼らしくない、と思った。
「いっくんが、そんなこというの、意外でした。オレの方を諦めると思ってました。友達を傷つけて裏切ったの、オレだから」
 善悪を問うのなら、釣井の方が悪だろう。
 正誤を問うのなら、釣井が行動を間違えたのだ。
 だから、庇う余地などない。
「ンー、しの、なんでさっきから全部祥吾のせいにしたがんの? 祥吾が嫌だって言わないから、許して貰えないからとか。祥吾のこと諦める理由を探してるじゃん。……こんな冷たいこと言うの、俺らしくない?」
 釣井の内心を見透かしたようなことをいい、平はニコと笑って見せた。
「別にそういうわけじゃ……」
 感情的に否定しかけて、口を噤む。
「今のオレは、祥吾のせいにしてましたか」
「……俺、全部は知らないから間違えてるかもね。でもそう見えたよ」
 それが本当だとするならば。
(オレ、本当に嫌なやつだな)
 だって苦しいのだ。
 今まで通りに話しかけたい。元の通りに、なりたい。
 だがそれはできない。過ぎた時間は戻らない。
 自らの意思で踏み込んで相手のこと傷つけただけの釣井が、こんなこと言う資格はない。ここで自分の痛みを語るのはお門違いだ。
 だが、相手を信じて手を伸ばして、拒否をされて、断絶を告げられた。
 それに苦しまずにいられるほど、強くはない。
「オレの言ってること、たぶん、一つも伝わってなかった。辛くて苦しいからやめてくれって、跳ね除けられた。俺はそれが、すごく苦しかった。また声かけて手を伸ばして、振り払われるの、怖いから嫌だよ」
 まだ胸の傷は、鮮やかに痛む。
 その受け止め方すらわかっていない。
 元に戻そうと願ったら一体どれくらいの傷を負いながら、手を伸ばし続けることになるのだろう。
 少なくとも、今それを考えられる状態にはない。
「じゃあ、諦めるの? しのの祥吾への好きって、怖いから諦められるくらいなの? 諦められないから泣いてるんだろうけどさ」
 平の指先が、こぼれた涙を拭う。
「しのは自分で解決したい? 俺も手伝っていい?」
「手伝って欲しい。けど、たぶん今は、俺も冷静じゃない」
 自分一人では、無理だ。だが他人に触れられたら、きっとまた傷が痛む。
 今はたぶんお互いに、何が起こっても感情的になってしまうだろう。
 気持ちを整理して、受け止め、考える時間が欲しかった。
「明日はちゃんと学校いくから」
「無理はすんなよ。……直接会って言うのも大事だけど、文章にまとめるのもありかもなぁ。そしたらゆっくり考えられるしな」
「いっくんもいつも後回しにしてる自分のこと、文章にしたらちゃんと言えるようになる?」
 自分が水を向けられると思っていなかった平は、驚いた顔をした。
「え? ……あー、なる、かも。うん、俺もやってみるよ。言い出しっぺだしね。書いたら読んでくれる?」
「読むよ。読む。すぐ読みたい」
「んふふ、そっか。……ありがとう、しの」
 子供にするように、平は釣井の頭を撫でた。それに一度は身を任せたが、気持ちが落ち着いてくるにしたがって、恥ずかしくなって来た。
 昨日からずっと泣いていたから、目が真っ赤に腫れている。
「オレ今、変な顔してますよね」
「しのはいつもカッコイイよ。でも目赤いと可愛いから、目冷やそう」
 冷やしたタオルとレンチンしたタオル交互に当てたら明日楽だよといいながら、平は早速キッチンに向かっている。
「かっこよくない」
 その背中に抱きついて頭突きをする。
 平は下を向いて小さく震えたあと、堪えきれなくなったように吹き出した。
「あっはっは! んふふ……ははは! 可愛いのは否定しないの?」
 手を後ろに回して背中をポンポンと叩かれる。
「かわいくもない‼︎」
 首に抱きついてぶら下がる。
「わっ……やったな⁉︎」
 後ろに回した手で釣井を捕まえて、平がその場でぐるぐると回って振り回す。
「重てぇ!」
 すぐにバランスを崩して二人で床に倒れ一頻り笑ったあと、平は釣井に手を貸しながら立ち上がった。
「……よし、俺も流石に帰るよ。しのも休みたいだろうし」
 袖を掴む。 
「もう少し、一緒に居てほしいです……一人だから」
 今までの釣井だったら、引き留めなかったかもしれない。わがままだったが、平が嬉しそうな顔をしたので口に出してよかったと思った。
「ン、もちろん。俺も一緒に飯食っていい? プリントとかも持ってきたし宿題もやっちゃお。何なら食べれる?」
「体調は、大丈夫です。今日は、自分のこと何もかも嫌になって、学校行く気がしなかっただけ。……単なるずる休み」
「しのは真面目だからなぁ、たまにはそれもいいと思うよ。毎日学校行ってたら考える時間ないしね。じゃあ……」
 釣井の手を握った平は、赤く腫れて瘡蓋がそのままになっている釣井の手を見て顔をしかめた。
「先に、手消毒しようぜ。痛そうだ」
「でも祥吾の方がもっと痛かったんです」
「祥吾も怪我してんのか。……ちゃんと手当てしてたらいいけど」
 消毒液を探す平に代わって、救急セットを出してくる。
 流石にキッチンのものと違って、普段出番がないものだから場所は知らないのだ。
「ん、自分でできるから平気だよ」
「そう? 絆創膏とか貼るときは声掛けて、やりにくいだろうし」
「いっくんは、俺に優しすぎるよ」
「いつもそれ言うよな。俺の一番の自覚持ってくれよ」
 一番。
 正しさよりも、釣井を選んでくれる幼なじみ。
「……ごめん。変わりたい」
「ン、そりゃ自信もってくれたら嬉しいけどな。負担に思うくらい変えるのはよくないからさ、ちょっとずつやっていったらいいんじゃね?」
「ゆっくりとか、待つとかそう言うの。オレに足りてない。変わっていくの、難しいね。変われない自分がすぐに許せなくなっちゃうんだ」
 相手が話してくれるまで待つということや、心が動くまで待つということ。
 時間を掛けてゆっくり向き合う、というのが釣井は苦手だ。
 すぐに結論が欲しくなる。答えを望んでしまう。
「俺はしののそういうところ見習いたいけどなぁ。なんでも後回しにしちゃうし、自分で変わりたいって決めたのがホントにすごいよ」
「だって変わらないと、オレがみんなを傷つけるんだ。今だってほんとは、殴って欲しいよ。こんなオレなんてめちゃくちゃにして欲しい。でもオレはそうやっていっくんを傷つけるんだ」
「俺が選んだことだって言ってるだろ? 提案したのはしのだけど、決めたのは俺なんだって」
 平は釣井の顔を覗き込む。
「……殴って欲しい?」
 その顔には不安と求めていることに応えたいという、僅かな期待が混じっているように見えた。
「……うん。本当はね。でも、それってオレが楽になりたいからなんだ。だから、変わりたいならダメだと思う」
 自分が抱えている痛みだけを、唯一のものとして世界で一番苦しいもののように抱きしめてしまう。
「しのが楽になるならって返したいところだけどしのは変わるために頑張ってるんだもんな。なら幼馴染として前に進むのを助けるよ。どうしても許されたくなったら、そのときは、まあ、頼ってよ」
「うん。オレが一人で立てるようになっても、手を離さないで。いっくんとは、ずっと一緒がいいよ」
 肩に顔を預ける。
「しのが変わろうと変わらなかろうと、俺はしのの味方だよ」
「いっくんは何があっても絶対にオレを見捨てないし、裏切らない。だからオレはいつまでも、いっくんのしのです。手を離すつもりなんて一生ないです。いっくんのこと一番傷つけるのも、傍にいて助けるのもオレです。……オレはすぐ泣くけど、でもいっくんの泣き顔を見て良いのは、オレだけですから」
 自分を一番大切にしてくれる人がいるから、釣井は安心して立つことができる。
 それは汚い独占欲だ。
 だがそれすらも許すように、平は釣井の両手を握り締めた。

Page Top