海が全てを飲み込んでいた


Tidalwave_逃れようのない波
 ゴールデンウィークが終わって程なくすると、臨海学校がやってくる。
 五月十五日から三日間続くその行事は、三学年に跨って全校生徒が参加するミズノエ高校の一大イベントだ。
 非日常を前にして、クラスメイトはみんな浮き足立っていた。
 かくいう釣井も貴重な海で遊ぶ機会を、心の底から楽しみにしていた。
 平穏な日常が、そうやって続けばいい。
 実際、続くと思っていた。
 釣井の生活が常に心穏やかなわけではなかったし、生きているだけで様々なことが巻き起こった。
 友達や家族のこと。学校や進路のこと。
 そして好きな人のこと。
 一日として、昨日と同じ自分ではいられなかった。
 前に進もうとして、失敗して、後悔して、苦しんで、亡くして。
 楽しいことも嬉しいこともあった。
 それでも様々な変化を飲み込み、日常は続いていた。
 学校生活が終わる前に、答えを出さなくてはいけない問題がいくつもある。
 今日という日が終われば明日が来て、日々は少しずつ進んでいく。
 だがそれはあくまで今日の続きで、決定的なことが起こるのはもっと先だと思っていた。
 好きな人が学校を卒業してしまったり、友達と離れ離れになってしまったりするその瞬間まで悩み、考え続けていられると思っていた。
 そのときになったら決めればいいなんて甘い考えをして、結論を出すことを先送りにしていた。
 今日と同じ明日が続いてくれる保証なんてないのに。
 突然そのときが来たら、どうする。
 何を選ぶ。
 釣井 忍は自分で決めて、選べるのだろうか。
 宿泊の荷物を持って、いってきますと家を出る。
 日曜日であることを除けば、それはいつもと変わらなかった。バスに乗って学校に向かい、教室に集合する。
 早速浮き輪を膨らませている気が早い生徒などがいて、学校は既にお祭りムードが漂っている。去年と同じ話の繰り返しだから、教師の説明はみんな話半分にしか聞いていない。
 早くバスに移動したいと、そわそわしている。
 時刻は朝の七時を迎えたばかりだった。
 ……。………。
 ざわめきで、目を覚ます。
 頬に机の感触がある。クラスメイトの声。
 授業中に寝てしまったのか。
 ――あれ、今日から臨海学校じゃなかったっけ。
 ぼやけていた意識が明瞭になるに、記憶が戻る。現状との整合性を取ろうと、時系列を辿る。
 朝、荷物を持って学校にやってきた。
 そこから先の記憶が途絶えている。
 教室の中は、夜のように仄暗い。
 クラスメイトが一様に、窓の方を見ている。
 釣られるように彼らが見ている方に視線を辿り、絶句した。
 目に飛び込んでくる青。
 水。
 回遊する魚までも、はっきりと目にすることができる。
 それは海の予行演習といって友達と行った水族館を思わせた。
 だが、ここは水族館ではない。三階にある二年生の教室だ。
 襲いくる非日常。
 戸惑う心を置き去りにして、波が全てを飲み込んでいた。
 学校が海に沈んでいる。到底信じられることではない。真っ当な感覚を持った人間ならば、夢を疑うだろう。
 ただ夢から覚める瞬間は存在せず、目の前で起こっていることがまやかしではなく現実なのだと信じざるを得ないあらゆる証拠が、そこにはあった。
 窓の外には海があり、生きている魚が泳いでいて触れることすらできるのだ。同じものを全校生徒が認識していて、触れることができた。
 どれほど疑り深い人間に対しても、実際それがそこにある以上の証明は必要なかった。更に何かを疑うのであれば、正気を保っているのかという問題になってくる。
 臨海学校などという小規模なものではなく、本物の非日常がやって来ていた。
 非現実な光景を前にした教師や生徒の反応は、様々だった。
 その中で釣井は、消極的な反応を示した側に属した。つまり驚きと喜びよりも、不安と恐怖が先に立った。
 とはいえ平気そうな顔をしている人が、実際に大丈夫だなんて思うほど、釣井も能天気ではなかった。心の中なんて、どんなに言葉や表情を読んだところでわかりはしない。
 はしゃいで見えるけれど不安を跳ね除けるためにそうしなければいけないだけかもしれないし、気丈に振る舞っている先生たちだって背負っているものが生徒たちより多い分、プレッシャーも大きいだろう。
 そういった全てのことを飲み込んで、大人たち――つまり学校は、努めて冷静に平常通りに動くことを決めたらしい。
 脱出の手段はない。外部との連絡は取れない。今日明日で現状が改善する見込みはない。学校の中には全校生徒がいる。中には体調面で不安がある生徒も。
 これ以上の混乱を避けるために、そうせざるを得なかったのだろう。
 臨海学校のために用意した宿泊道具は、そのまま学校に泊まり込むために流用されることになった。
 男子と女子で別れて宿泊場所に移動する。
 校舎を歩けば、学校が水没しているということを、否が応でも思い知らされる。どこに行ってもただひたすらに青い世界。
 ただ青いだけなら、何かしら自分に都合がいい理由を見つけられたかもしれない。ただの映像だとか、空の具合がおかしいだけとか。だが魚が泳ぎ、窓には蛸が張り付いているとなると、そこが海の中であるということを信じないのは難しかった。
 宿泊場所に荷物を置く。
 既に外との連絡は散々試みられたのだろうが、つい自分の目でもスマホの画面を確認してしまう。少し迷って充電を温存するために機内モードに変更する。
 正しい判断は、そのまま教師からの指示があるまでじっとしていることだ。
 しかしもはや学校内にそんな秩序は存在しなかった。
 釣井もまた、不安が駆り立てるままに割り当てられた場所から腰を浮かせた。
 海のどこかに消えた世界より気に掛かったのは、目の前の幼なじみの背中だった。家族よりもよっぽど近くで釣井を見守ってくれていた人。それがこの状況でも側に居てくれたことは、異常の中に残った一番の幸いと言ってもよかった。
「大丈夫ですか?」
 そう言葉にしてしまってから、間違いを悟った。
 平は大丈夫じゃないなんて、口に出して言える人じゃない。こう聞いたら絶対に大丈夫だと答えるに決まっている。
「怪我とかじゃなくて、不安とかそういうの」
 なんと伝えればいいのかわからなくて、意味のない言葉を付け加えた。平に無理をして欲しくないのだ。
「……うん。びっくりしたけど、大丈夫。しのは?」
 何ができる。幼馴染を離さないでいるために、どうしたらいい。
「……大丈夫じゃない。こわいよ、いっくん。そばに居て」
 泣きそうになりながら、平の手を握る。
「いっくんは本当に大丈夫?」
「ん、手冷えてる。俺、しのと一緒に居るから。……知らない場所みたいだね、全部青い」
 窓から差し込むはずの光は水に遮られて、地上に近いところにある体育館は、電気をつけても薄暗い。掴んだ手を平が握り返す。背中をさする手が緊張で冷えた体を少しずつ温めていく。
「ちょっとだけ不安。家のことが気になる。この時間なら、まだ一華も家だろうし」
「そう、だよね。オレよりいっくんの方が大事な人が多いもん、平気なわけないよ」
 彼がしてくれたように、背中に手を伸ばして撫でる。
「でも大事なもののひとつが目の前に居るからまだマシ。しのがいてよかった」
 きつく体を抱きしめたあと、肩のあたりでゆっくりと息を吐く気配があった。
「無理はしてないよ。ちゃんと頼るっていっただろ?」
「……おれもいっくんが大事だから、いっくんが居てくれれば安心する」
 他の誰に手を貸してもいい。誰の助けになってもいい。彼がそうしたいと思ったのであれば。
 でもその不安を吐露するのも涙を見せるのも、釣井であって欲しい。壊れる前に、絶対に隣に戻ってきてほしい。
 平の手をしっかりと握った。
 じっとしていても落ち着けないから、別世界になった学校の中を二人で歩いた。
 青く染まる校舎内は異世界じみていて現実感がないが、握り締めた幼なじみの手だけが確かなものとして存在している。
 恐怖や不安が顔に出てしまっている気がして、釣井は早々にセットしていた前髪を下ろしていた。平に知られるのは、構わない。だがいきなり人に触れられて素直に明け渡せるほど、まだ己の中の感情を整理できていない。
 顔を見せないというのは、ときに心を守る鎧になる。
 校舎の下の方にいると息苦しい。気圧の問題ではなくて、周りを海に閉ざされた暗くて深い場所にいるというのが気詰まりなのだ。
 階段を登って、上に向かう。
 ふと、二人の足音しか聞こえなかった階段で、何かが聞こえた気がした。
 ――予定が狂いました。
 ――そのうち迎えにゆきます。
 ――親愛なるタイダルウェーブへ。
 男なのか女なのかもわからないほどに幽けき声なのに、なぜかはっきりと意味が読み取れる。
 思わず足を止めた。
「どした、しの」
「今の、聞こえませんでした?」
 平は首を傾げる。
「なんか聞こえたの?」
「人の、声が。今の聞こえなかったですか」
 あんなにはっきりと聞こえたのに、平は不思議そうな顔をして釣井の顔を見つめ返すばかりだ。それらしい物音すら思い当たる様子はなさそうだ。
 確かに聞こえたはずだと断言できるほどの確信はなく、黙ったままでいると平の表情が気遣わしげなものに変わった。
 様子がおかしくなったと思われたのかもしれない。
「声が聞こえた気がして、あのちょっと教室とか覗いていっていい?」
 誰かが居てくれたら、その人の声が聞こえたということにしよう。階段を登って一番最初にあったドアを開ける。
 ただの備品倉庫で流石に人が居るわけがないと思っていたのだが、予想に反してそこには人がいた。
 驚きで目を見開いたあと、眉間の皺を深くしたのは千鳥先生だった。
 そうやってすぐに険しい顔をするし、物言いも厳しいからあまり得意ではなかったが、こんな状況だと平時と変わらない態度の大人がそこにいるというのは安心する。
 学生は倉庫に用事はないが、教師陣には諸々の仕事があるのだろう。
(流石に千鳥先生の声じゃなかったな)
 釣井が知る限り、千鳥 漣士朗という人物は相手が誰であれ、あんな殊勝な喋り方はしない人だ。
「……なんだ」
 じっと見つめる視線が不愉快だとでもいうように、舌打ちをする。そういう態度が苦手で仕方がないのだが、こんなときばかりは本当にこの人はいつも通りなのだと再確認して、心の底から安堵した。
「あの、先生……。こんな、こと。こんなことってあり得ると思いますか? 街にいた人とかオレの家族とか、どうなっちゃったんでしょう」
 千鳥先生の言葉はいつも鋭くて、釣井の心を引っ掻いた。だが、だからこそ気休めも慰めも言わないだろうと思った。残酷なことを告げてもらうならば、他にいない。
「実際なってる以上、あり得るあり得ないの話は無意味だろ」
 その言葉は淡白だった。
「仮にあの一瞬で大きな津波があったとして、近隣の建物の残骸がないのはおかしいし、そんな津波にこの学校程度の建築が耐えられるはずがない。見たところ人間の死体も浮いてないんだ。生きてるんじゃないか?」
 諦めろと言われると思っていた。全部が海に沈んでいるのに、家族や外の世界など絶望的だということを、理路整然と語られるのかと思っていた。千鳥の言葉は楽観的ではないが、客観的だった。
「そうか……。そうですよね。災害でどうにかなったのならこんなことになっていないですもんね。……なら、よかった」
 心が、軽くなった。
 何かの奇跡か超常現象としか思えないような現実ではあり得ないことが起こっている。理屈も理由も抜きにしてそんなことが起こるのだから、実はどこかでみんなが生きているという嘘みたいなご都合主義もあるかもしれない。
「やることがないなら、勉強でもしとけ」
 蝿を払うかのように指で追い払われて、釣井は倉庫の扉を閉めた。
「勉強、します?」
 隣の平の顔を見上げる。
 平は肩を竦めた。
 この状況で、勉強を?
 いつも通りに。学校生活の真似事を。
 それもいいのかもしれない。せめて形だけでも、いつもの通りに。
 申し合わせたように廊下の掲示板が目に入る。青く透ける光に照らされた真新しい張り紙。
 『特別英語講座』
 櫻葉先生の名前がある。
 普段厳しい先生ほど、こういうときに頼りになるな。
 学校内を見て回って安心できるわけでもないし、やってみるのもいいのかも。
 火曜日。二年生の空き教室。場所と日時を記憶に留める。
 釣井は学校がこうなる前からずっと、日常の振りを続けていた。
 友達でなくなった人と友達の振りをしたり、好きな人を好きでない振りをしたり。
 海が全てを飲み込んでようやく理解できた。
 昨日と同じ今日が、当たり前に続いてくれるわけではない。頭で分かったつもりになっているだけで、感情は全くそのことを実感していなかった。
 明日が、来ないかもしれない。
 それはつまりこういうことだぞと、瞬きの間に消えた世界が教えてくれる。
 学校が突然海に沈むみたいなありえないことが現実世界では起こる。
 釣井が好きな人は、釣井のことが好きじゃない。
 友達との仲はもう関係修復が不可能になっている。
 この状態で明日、世界が終わっても後悔しないのか。
 するに、決まっている。
 絶対に嫌だ。
 こんな気持ちを抱えたまま、終わりたくない。
 釣井は、自分が優しいかと言われたら違うと答える。
 ただ八万の言った怖がりという言葉だけは、本当に心の底から正しいと思う。
 明日世界が終わったら後悔する。
 後悔しないためには、進むしかない。
 それがわかっていてもなお踏み出す勇気が持てず、釣井は足踏みをするのだ。
 まだもう少し、猶予が欲しい。
 だから問いを投げかける。
「何も知らない相手に、何かしたいって傲慢だと思いませんか?」
 例えば、踏み込むなという友達に踏み込んだり。
 好きという気持ちを、相手に伝えたくなったり。
 八万は進むしかないと、答えてくれた。
 釣井の心のうちにある感情を知らないから、そう言えた。
 本当に、進んでもいいのだろうか。
「しのは、それで諦められる?」
 相手がどう反応するかわかっていたら、間違えたりしない。関係が壊れる前に引き返すことができる。独りよがりではなく相手の望むことがわかる。そうであったならばいくらでも、相手のためだと言って行動できるのだろう。
 ここから動いた結果、壊れてしまうのが怖いのだ。
 鰐川に踏み込まなければ、彼との関係は平穏なままだった。
 八万との関係が壊れてしまうことを考えると、このままで居た方が幸せなんじゃないかと思えてしまう。
 上村と約束している。もっとできると。
 望む場所に近づくためなら、お互いがズタズタになるまでやると。
 こんなものじゃない。まだできることの全部は、やっていない。手を尽くしてはいない。
 だが、痛みがなくなるわけではない。先が見えない苦しみは心が摩耗する。相手と自分の関係のためだと言いながら、暴力を振るうことになる。
 それは覚悟がいることだし、自分が悪人だと受け入れなければ進めない。
 本当は、苦しいのは嫌だ。
 痛みを受け入れる覚悟も勇気もない。
 たぶん、それが釣井の一番の身勝手で間違いなのだろう。
 身勝手で無責任で傲慢だ。
 相手を傷つけたり、拒否されて自分が傷ついたりする。
 生きているだけで人は傲慢になると考えてしまった時点で生きる方法は、それを受け入れるしかない。
 だが、思うことと行動することの間には、天地ほどの差が存在している。どんな悪であっても思うだけなら、罪ではない。
 だが行うことは、どうだろう。
 明日考えればいいやと先延ばしにしていたら、学校が海に沈んでしまった。
 止まっていたら、後悔する。
 本心を口にするのは、いつだって勇気がいる。
「……諦められない。欲しいです、どうしても。気付いて欲しい。オレのこと、見て欲しい」
 背中を見ていれば満足できたのは、昔のこと。
 傍に居られれば幸せ、ではなくなってしまった。
 強欲で、傲慢なのだ。
 思うだけならば自由だろう。願うだけなら許されるだろう。
 求めて行動に移したときに、許されるのか。
 踏み出すための免罪符は、まだ集まっていなかった。

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