屋上で人知れず桜は朽ちる


Tidalwave_逃れようのない波
 たぶん、釣井がついた下手くそな嘘は、平には全部お見通しなんだろう。些細な嘘も大きい嘘も、幼なじみには通用しない。
 〝寂しくない〟も〝これで平気〟も、バレてしまう。泣き過ぎて赤くなった目元は冷やして誤魔化せても、考え過ぎて頭は痛いし眠りも浅い。
 遊園地に行って楽しく遊んで帰ってきただけならば、そんなことにはならない。
 朝、顔を合わせておはようと言った瞬間に、平は何か言いたげな顔をしていた。釣井はそれを学校で追求されるのが嫌だから、咄嗟に当たり障りのない話題に逃げた。
 それを察して、休み時間もお昼も触れないでいてくれた。いつも通りに一緒に笑ってご飯を食べて、授業を受けて休み時間に笑って会話をする。
 つつがない学校生活を装おうとして途中で苦しくなり、釣井は放課後になるとすぐに屋上に逃げ出した。
 誰かと話す前に、心を整理して感情を落ち着けなければいけなかった。
 ぱらり、と風が本のページを捲る。
 既に何度も読んだ本だから、心の向くままどこから読み直しても構わない。それは釣井のお気に入りの本だった。
 心を鎮めたいときに、一番好きな本を読む。
 屋上に吹き付ける風に寒さを感じて、釣井は膝掛けを羽織った。ついこの間まで冬であったことを思い出すように、春の夕暮れは冷え冷えとしている。
 まだ新しい膝掛けは、屋上にいるときに隣に来てくれる他の誰かのために用意してあったものだが、寒がりの釣井にはちょうどよかった。
 孤独や寂しさを寒いと感じていた頃から、少しも成長していない。
 何度新しい季節が巡りきても、同じ場所で躓いて立ち上がり方を知らない。
 春は音もなく死んでいく。
 風の行き止まりで吹き溜まる桜の花弁が、彩りを失い乾いて朽ちていくように。
 一年の始まりだとか、未来に掛ける期待だとか、胸を踊らせる出会いだとか。
 春の訪れと共にやってきた美しいものはすぐに消え、あとには変色したどろりとしたものが固まっているだけだ。
 胸の中に泥が少しずつ溜まっていく。
 それは釣井が美しいと信じて求めたものの、成れの果てだ。
 みんなはこの感情をどうやって処理しているのだろう。
 おかしいのは自分だけ?
 そんな筈はない。
 心を動かすできごとの一つ一つに、罪悪感が付き纏う。
 休みの日の朝、誰もいない家に寂しさを感じる。静寂を空虚だと思ってしまう。もう十分に愛されて大切にされていることがわかっているくせに、もっと欲しいと思ってしまう。
 恋をしている。人を好きになった。相手のためになりたいし、この感情が綺麗なものであって欲しい。
 願いとは裏腹に、実際は醜い独占欲を孕んでいる。
 一方的な恋慕を募らせて、夢の中でときどきその人を汚す。
 そんなものはありふれているはずだ。
 誰もが抱く平凡な青春な一コマであるはずだ。
 でも、そうでなかったら怖いから聞けない。
 笑い合う友人。食卓を囲む家族。優しくしてくれる幼なじみ。気にかけてくれる先生や、優しい先輩。
 誰も彼も完璧に見える。
 こんな悩みは口に出すまでもないか、抱いていないかのどちらかなのだろう。
 みんな見せていないのだから、釣井も見せない方がいい。
 黙って隠していれば良い。
 それが正しいとわかっているのに、苦しい。黙っていられないのは、どうすればいいんだろう。
 嘘を吐いている。自分だけが卑屈で傲慢だ。
 罪悪感はずっと胸の中にある。心の中に降り積もって少しずつ釣井を責め立てる。
 この荷物を何処かに下ろしたい。
 読む気を失ってページを押さえる手を離した本が閉じる。
 前書きの一節が、目に入る。
 ――罰がなければ。
 罪には、相応の罰が必要だ。
 それが与えられるまで、許されない。
 正しくない自分のことを誰かに罰してもらわなければ、受け入れられない。
 屋上の扉が開く音がして、釣井は本を手にしたまま立ち上がり数歩前に出た。手すりにもたれて景色を見ているふりをした。
 逃げ出したかったのかもしれない。
 今どんな感情が顔に出しているのかわからないから、人に見られるのが怖かった。
「しの、やっぱここにいた」
 屋上に来たのは、平だった。
「どうしたの?」
 隣に立って風に翻っていた膝掛けの裾を捕まえると、釣井の胸の前で結ぶ。
 寒がりの体が、これ以上冷えないように。
「一緒に帰るかなと思って、返事なかったからここかなと思った」
 そういえば何度かポケットの中のスマホが震えていた。
「ごめん、気づかなくて」
「ん、いいよ。しのから返信がないときは本読んでるときだろ? 今日は天気が良いから、たぶん屋上だってわかった」
 そんなことを言って本当は、教室と図書館も探してくれたんじゃないだろうか。
 だとしても、平はそんなことは口には出さない。探し回ったよなんて相手に悟らせたりしないのだ。
 屈託のない笑顔は眩しくて、愛しさと嫉妬を同時に覚える。どこまでも優しくて強い、大好きな幼なじみ。
「何読んでたの?」
「もう、いいんだ」
 柵の向こうに伸ばした手を離す。
 平があっという顔をして掴もうとするが、もう遅かった。
 文庫本は釣井の手を離れて、風に煽られながら何処かに落ちて行った。
「何で? 大事な本じゃないの」
 今すぐにもで拾いに下に降りていきそうだった。
「大事だから」
 もっと傷つくべきだ。こんな人間は。
 平の足が止まる。その顔は、悔しそうで苦しそうだった。
 釣井が自分を傷つけると、釣井のことを大切にしてくれる平が傷つく。
「俺は、しのにもっと自分のことを大事にして欲しいよ」
 どれだけ酷い人間か、知らないくせに。
 そうやって優しくしてくれるから、甘えてしまう。
(またオレは酷いことを考えた)
 幼なじみの皮をかぶった人間の本性を、平は知らない。
 釣井 忍の内側がどれほど泥に塗れているか、知らない。
 どれほど残酷に人を傷つけられるかを、知らないのだ。
「……遊園地いったとき、上村と会ったんだよね」
 その話を切りだされたとき、釣井は緊張した。
 上村は、何も言わなかっただろうか。汚い部分が知らない間に他人に明かされていて、それを隠したまま生活している滑稽さを笑われていたらどうしよう。
 二人がそんなことをする人ではないことは、よく知っている。わかっていても不安になってしまうのだ。
「なにか、聞いてるんですか」
「なんにも。上村はそういうの、勝手に話すタイプじゃないでしょ。てことは、やっぱり何かあったんだ?」
 言葉を探した。
 何があったといえばいいんだろう。何が起こったというのが、正しいんだろう。
 遊園地に行った。楽しかった。
 上村と会った。二人で話した。
 そして喧嘩をした。自分本意な考え方を詰られた。彼を泣かせた。
 近しい人のことを、何も知らないでいた。
 死にたくなってる。
 そんなことを話したら、きっと平は怒る。誰よりも釣井を大事にしてくれている幼なじみだから。
「なんでも、ないです」
「俺はしのにとって全部話せるほど信頼できる人間になれなかったか?」
 平の表情が苦しげに歪み、視線逸らした。
 そうじゃない。その優しさと人に尽くすときの無償を、誰よりも信頼している。
「いっくんは、オレのこと、大事にしすぎるんです。オレはこんなに、酷いやつなのに……」
 だから、言えない。
 罰されたいのに、彼の優しさは甘すぎる。
 例えば、今日みたいに落ち込んでいるときに、助けを求める前から声を掛けてきてくれる。人に聞かれたら困るから、二人だけの場所を用意してくれる。
「でもしのも俺を大事にしてくれてるよ。しの、なんで自分が酷いやつだって思うんだ」
「大事にできない。いっくんが大事にしてくれてるオレのこと」
 それが幼なじみを傷つけるとわかっていてもなお、そう振る舞ってしまう。
 自分の痛みが、一番大事だからだ。
 この重たい荷物を、身勝手にどこかに捨てたくてたまらない。
 ひどい自分を罰していた方が心が楽だ。上村が言った通り、そうやって自分を罰して不幸に浸っていれば、どこに辿りつくことができなくても満足なのだ。
 釣井の言葉はやはり平を傷つけて、ひととき彼から言葉を奪った。
「なんでそんなこと言うんだよ。ああもう、いいよ。俺が勝手に大事にするから」
 なぜと言われれば、〝だからだよ〟としか答えようがない。
 そうやって。いつも大事にしてくれる。
 自分を愛せない人間には、人に愛情を向けられる資格がない。
 受け取った愛情を大切にできない。友達の気持ちを、蔑ろにしてしまう。
「オレがどんな選択をしても、いっくんは許してくれる?」
 平を目を、じっと見つめた。幼なじみに嘘は吐けない。
 それがどんな選択であるのか、想像できるはずだ。
「許せないかもね。でも否定はしないよ、しのが真面目に考えて決めたなら。でも言ってよ、決めたなら。ちゃんと先に言って」
 まだ何も決められていない。
 まだ何も為せていない。
 そうやって何かを選び取って進むだけの覚悟がない。起こった結果を受け止める強さすらもない。
「空人に怒られちゃったんです。怒られた、のかな。呆れられたのかも」
 少なくとも、泣かせてしまったのは釣井だ。
 今でも結局、何が彼に涙を流させたのかはわからないままだ。
 釣井と直接は関係ないと言われたが、そうであるならなおのこと、なぜかわからない。直接ではなくても発した言葉が、心の傷に触れたのならそれはやはり釣井が泣かせたのだ。
 この釣井 忍という人間のあり方の無神経さが、人を傷つけたということだ。
 わかるようにならなければいけない。友達のことも好きな人のことも、理解して思いやれるようになりたい。
 それでも目指すべきところを理解したとして、感情が消せるわけではない。
 自分のことが嫌いだ。酷いことを考えている。
 そんな人間は死んでしまえばいい思ってる根底は、変わってない。
 怒りは今も、胸の中で燃えている。
 友達や幼なじみが、傷つくとわかっているのに。
「……しの、もし上村が怒ったのが、しのが死んでいいって思ってることなら、俺もそれは怒るよ」
「空人が、怒ってる理由は、わかんない、です。でも、そうなのかもしれない」
「上村が怒ってる理由は本人に聞かないと分かんないから、今はいいや」
 平は慎重に言葉を選んでいた。
「……ごめん、さっき言ったの撤回するわ。悪いけどしのがもし本気でそれをするつもりなら俺、許せないし背中押してやれないよ」
「だから、いっくんには言いたくなかった。オレのこと、嫌いになっていいです。もう、大事にしないでください」
 誰も大切にしたいと思わないし、誰からも見捨てられるような人間ならば、平気で捨ててしまうことができるのに。
 どこへなりとも投げ込める。
 助けてという相手がいなければ、助けてなんていって人に縋らないで済む。
「や、ならねぇよ。そんなん言われてはいそうですか、じゃあ明日から釣井くんって呼びますなんて言われたいの?」
 嫌だ。
 絶対、嫌だ。
 平が突然そんな風に遠ざかってしまうなんて、耐えられない。
 考えただけで、涙が止まらなくなる。
 でも言い出したのは、釣井だ。
 嗚咽で声がうまく出なかった。
「いいです、それで。いいよ」
 本当に起こったら耐えられないくせに、口にする。
「俺はやだね。しのが俺のこと平さんなんて言い出してもしのって呼び続けるよ、俺はしののこと大事にしたいから。あぁもう、泣くくらいならそんな嘘言わないでよ」
 顔もあげられないで泣く釣井の背中を、平が撫でる。
「オレは自分のこと大事にできないから、いっくんが傷つけて」
「自分が大事にしたい人自分で傷つけるの、意味無いじゃん」
「そうじゃないと、オレは自分を許せない」
 平はそんなことをしたがらないというのは、誰よりも釣井がよくわかっていた。
 だが、頼めば断れないだろうということも、よくわかっていた。
 目が泳いでいた。釣井の言葉を悩み、考えていた。
「……俺がしののこと傷つけたらさ、自分で傷つけることは、減らせる?」
「たぶん、少しだけ」
 与えてくれた罰の分だけ。
「そっか」
 何かを飲み込むように、平は頷いた。
「傷つけるって、例えば? 殴ったりするのか、それともひどいこと言うのか」
「両方、して。いっくんが思いつくこと全部して」
 積み上げられた罪から自由になるために、思いつく限りの全ての痛みが必要だ。
「……、しの、ごめん」
 手の平が小さく頬を打つ。痛みとも呼べない衝撃が、頬を痺れさせた。
「そんなんじゃ駄目だよ、いっくん。もっとひどくして」
 殴られた側なのではないかと思えるくらい、平は苦しそうな顔をしていた。
 頬を殴る力が少しだけ強くなる。
 バチンという殴打の音のあと、左側の音が遠ざかった。表面を叩いた痛みが、熱を伴ってじわじわと内側に染み込み、音がゆっくりと戻ってくる。
「いっくん、オレもっとひどいやつだよ」
 傷を労わるように頬に触れた手に、手の平を重ねる。
「ひどくない、ひどくねぇよ。しの、ほんとにずっと優しい、俺の大事な幼なじみで」
 逃れるように、拳を振り上げた。喧嘩慣れしていない平の拳は、無意識なのか顔を逸れて肩に当たった。
 骨にまで響く衝撃があった。
 よろめいて柵にあたり、そのままずるずると崩れ落ちる。
 痛みで腕が動かなかった。だが、殴られた場所の痛みよりも、平のことが気がかりでずっと目を離せないでいた。
 俯いた平の両目から、涙が落ちた。ずっと堪えていた涙は一度溢れると止まらず、あとからあとからこぼれ落ちた。
 体から力が抜けて崩れ落ちたのか、倒れた釣井を助け起こそうとしたのか、わからなかった。ただ彼は釣井の前に膝をついて、泣いていた。
 子供の頃にずっと一緒に居たのに、泣くところを見たのは初めてだった。
 それだけ深く彼を傷つけた。傷つくことがわかっていたのにそうさせた。
 わかってやったのに、平の涙は思った以上に釣井の心を動揺させた。
「ごめんねいっくん。ごめん」
 優しいところなんて、本当は一つもない。
「ひどい奴だよ。いっくんのことこんなに泣かせるような」
 動く方の手で、座り込んだ平を抱き寄せ背を撫でる。
「オレ、自分に許せないことたくさんあるんだ。でも、誰もオレのこと、罰してくれない。みんな優しいから。だから、いっくんに、させた。ごめんね。痛かったよね」
「ひどくない、ひどくねぇよ。おれが、かってにきめて、う……。……はぁ、勝手にやってんだから」
 泣きながら、平は釣井を抱きしめた。
「どうしたら、よかったんだろ」
 ずるいから、平が手を伸ばしてくれるのをわかっていて、試すようなことをする。
 助けてくれる手があるから、釣井は甘えてしまう。
 どんどんと卑怯になって、自己嫌悪を募らせていく。
「言ったらいいじゃん、全部。俺なんか小学生からの付き合いなんだぜ。一人でずっと考えてるとさ、とんでもないところまで勝手に考えが飛ぶんだよ。声に出してみたらさ、案外簡単に答えが見つかるもんだよ」
 助けてもらってばかりで、甘えてばかり。
 ずっと弱くて卑怯なままだ。
 逃げ道がある限り、きっとそこに逃げ込む。平の隣は、居心地が良すぎるのだ。
「いっくんだって、オレに言ってくれてますか。オレばっかりいっくんに守られて、甘えて、そんなの、おかしい。いっくんは苦しいことがあっても、飲み込んじゃって言わないじゃないですか」
 泣きたくなるくらい嫌で苦しいことがあっても、他人のために我慢してくれる。
 平に笑えなくなるときがあるのを知っている。
 疲れてしまうときがあることがわかっている。
 それはきっと偽らざる本心だ。自分のことに精一杯の釣井は、彼の言葉を引き出す存在になれてはいない。察してあげることもできない。
 だから、心が回復するまでずっと傍にいるだけで、無力だ。
 それは本当に対等な友人関係なんだろうか。
 二人の間にある絆は、強いように思っていたけれど本当はとても脆くて盲目的な何かだったんじゃないだろうか。
「しの、違うよ。甘えてるのは俺の方だ。苦しいときにすぐにしのが気付いてそばに居てくれるから、それに甘えて言葉にすることを放り出してた」
「オレや一華さんが、先に泣くからいっくんは泣けないんじゃないんですか」
 口に出すのは、いつも釣井が先だ。
 寂しいも、助けても、一緒に居て欲しいも。
 平の言葉を待たず、気持ちを置き去りにして先に口にしてしまう。
 求めれば、平はそれに絶対に応えてくれる。
 だからその下にある心がなんなのか、わからない。
「……違うとは言えないかもね。元々あんま泣かないけど。でも俺は一華もしのも、大好きだからさ。泣けないんじゃないよ、泣かないんだ」
「オレを大事にすることで、いっくんが自分のこと大事にできないなら、オレは自分なんていらないです」
 一方的に奪うだけだ。
 支えてくれる人にもたれかかるだけの歪な関係だ。
「オレ、好きな人がいるんですよ。その人のことが大好きで、そのためなら何もかも捨てられるんですよ。いっくんのこと、一番大事にできなくなる。それなのにいっくんが、オレのことずっと一番大事にしてくれるのは、おかしいよ」
「違う。……ああもう、なんて言えばいいんだ」
 平が苛立ったように頭を振った。両手を取る。
 一番大事な話をするとき、そうやって手を握って話す。
 体温と言葉と、相手に向けている気持ちがちゃんと伝わるように。
 話している相手から目を逸らさず、お互いをきちんと見つめるように。
 言葉を受け止めたときの相手の感情を、一つも取りこぼさないでいられるように。
 少しだけ背中を丸めた平が、釣井に額を合わせる。
 ほら、嘘じゃないだろとその目が言っている。
「俺は、しののこと大事にできない自分の方がもっと嫌だ。守ってやらなきゃもあるよ、でもそれ以上に自分が苦しくなるよ。別に一番じゃなくていいよ。むしろ俺はしのにそれくらい大好きで、大切な人ができた方が嬉しい。確かに今の俺の一番は、しのだよ。でも、俺にもしのみたいに好きな人がきっとできる。しのが先にそれが来ただけだ」
 伝えたい言葉の一つ一つが、ちゃんと届いているのか確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「先輩が、好きです。でもいっくんとずっと一緒だったじゃないですか。いっくん、一人にするのやだよ。一緒がいい。オレ、わがままなんです。どうしたらいいのか、全然わからない。矛盾してますよね。おかしい」
 一人で遠くに行きたい。離れたくない。見捨てないでほしい。もう大事にしないで欲しい。どれが自分の本当の気持ちなのかもわからない。
 平が眦を下げる。その顔は困っているけれど、少しだけ嬉しそうでもあった。
「……俺も、やだよ。いきなり現れた人にしののこと全部持ってかれちゃったし。わがままも別におかしくないよ、人間なんだから。……しの、一緒にどうしたら両方手放さなくて良いか考えよう」
「そんな贅沢、オレなんかに許される? みんな他に大好きな人がいるオレでも許してくれるかな」
「俺は許すよ。……でもほったらかしは嫌だぜ?」
 冗談めかして言う。
「やに、なるくらい、いっくんに構います」
 平の体に身を預ける。背中に腕を回し、抱きついて泣いた。
「嫌になることなんて今までもこれからもなかったし、ないよ」
 平は落ち着くまで釣井の背中を撫でながら、泣き止むのを待ってくれた。

 涙が止まると、頬と肩にそっと手が当てられる。
「しの、しのは痛くないか。俺、結構な力いれちゃったから……ごめん、ほんとにごめん」
 謝るべきことなんて、一つもない。彼は、頼みを聞いただけだ。本当はやりたくないのに、わがままを聞いて助けてくれただけだ。
「ゔー、いっくんはまたオレのこと心配する」
 抱きついたまま、威嚇する。平はやっぱり自分のことを後回しにする。
「んはは、そりゃしののこと大事なんだもん。俺はちょっとまだ悲しいけど大丈夫」
「いっくんはどうしたら悲しく無くなる?」
「しのが自分のこと嫌いにならなくなったらかな。俺の大事な幼なじみのこと悪く言わないでくれよ」
 それは、できない。
 簡単なことなのに、難しい。
 笑顔をうまく作ることができなくて、ぐしゃぐしゃの笑顔を平に向けた。
 だよなぁと、平も笑う。
「オレ、頑固なんです」
「んふふ、知ってる。諦めて欲しくないところ諦めんのに、決めたことは絶対に譲らねぇの」
 変わるのは難しい。でも変わってしまっても、変わることができなくても平は傍にいてくれる。
 自分を許せるくらい、強くなりたい。
「ありがとね、いっくん。オレのこと許してくれて」
「……うん、そう、それでいい。俺こそ、頼ってくれてありがとう」
 泣き止んだ平は両手で頬をペチと叩いて気持ちを切り替えたらしかった。
「っし、帰ろうぜ。今日家来る予定だったろ?」
「うん」
 鞄を持ち上げようとしたが、腕が上手く動かずに落とした。
「しの、カバンちょうだい。あと、帰ったら湿布な」
 返事を聞く前に、スクールバックが平に回収された。
「う、オレかっこ悪いじゃないですか、いっくん」
 自分で殴ってと頼んでおいて、痛くて鞄も持ち上げられない。
「カッコ悪くてもずっとカッコイイよ。俺の幼馴染は。あと俺に頼るって言ったろ」
「……うん」
 そう、頼ると決めたのだ。自分が抱えていられない荷物を押し付けた。
 人に背負わせた痛みの分だけ、前に進まないといけない。
 心の中に溜まっていく泥を、一人で抱えていてはいけない。
 自分のことを許していないから、愛せない。大切かどうかわからない。
 だが幼なじみのことだけは確信を持って、大切だと言える。守りたいと言える。
 ずっと、隣で歩きたい。
「いっくんも、オレのこと頼ってね」
 平が笑う。
「俺、めちゃくちゃしのに頼ってるし助けられてるからなぁ」
「いっくんのは、わかりにくいんですよ。俺たぶんまだ全然いっくんのことわかってない気がする」
 何も言わなくてもわかるつもりでいた。
 わかってくれると思っていた。
 そうではないのだ。心の内側は、そんなに単純ではない。
「しのは俺の事よく見ててくれたよ、本当に。誰よりも分かってるよ。これは本当のこと。もっと知ってもらいたいからさ、ちゃんと言葉にするよ」
「待ってます」
 心の内側にあるものを、釣井もちゃんと言葉にできる日がくるだろうか。
 そうやって明け渡すことができたら、いつかこの泥のような気持ちも別の何かに成長してくれるのだろうか。

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