もう夢見心地でいられない


Tidalwave_逃れようのない波
 少し前から躾のなっていない子犬を飼っている。家ではなくて、心の中に。
 制御不能で元気が有り余って、目を引くものがあると周りも見ずに飛び出していってしまう。しばらく前から、釣井の心はそんな感じだ。
「あ、そだ。釣井ちゃん。遊園地とかいく?」
 また、心臓が馬鹿みたいに跳ねる。目の前のボールに飛びついて、じゃれつく子犬のような感情。必死でリードを引っ張る釣井の努力を嘲笑う。
「行きます」
 先走る心は、思考よりも前に返事をしていた。
「即答じゃん」
 先輩と一緒に行きたい。それがどこであっても。
 考えるより先に答えていたから、行くと言ったくせに予定が空いているか確認していなかった。そもそも遊園地に遊びに行くことがあるかどうか聞かれただけで、〝一緒に行こう〟とは一言も言われていない。
 少し遅れて追いついてきた思考が、冷や水を浴びせかけて落ち着かせようと、色んな可能性を探してくる。
「後輩と遊びたいって奴いてさ、一緒にどう?」
「お邪魔、します」
 二人きりではなかったことに、安堵と落胆を同時に覚える。もし二人きりだったら誘ってくれた意図を深読みして、また自宅で枕を殴る羽目になっていたに違いない。
「じゃ、グループ作ろっか」
「はい」
 誰が来るのだろう。女性――というか、八万の恋人が来たら、どんな顔で会えばいいのかわからない。釣井には今から心の準備が必要だった。
 普段使っているメッセージのグループではなく、遊園地のチケットを購入しまとめて管理するための専用アプリがあるらしかった。教えてもらったアプリのダウンロードが完了すると、八万が釣井のスマホの画面を覗き込む。
 友達となら当たり前に接することができる距離感なのに、思いを寄せている相手だと意識してしまう。
 動きにでないように、注意深く自制をする必要があった。息遣いは荒くなっていないだろうか。目線は不自然ではないだろうか。体が強張って変な動きになっていないだろうか。
 画面をタップする指先すら、震えている気がした。
「登録できました」
 これで予約してくれた遊園地のチケットが、グループの全員で使えるようになるということらしい。
「んじゃ、チケット取ったらグループ作るね」
 想像以上に予定が早く固まったので、前もって教室に行って一緒に遊びにいくのがどの人たちなのかそれとなく確かめる作戦は失敗した。
 チケットアプリに先んじて作られたメッセージのグループに挨拶を飛ばしたりスタンプで反応したりしてみたが、顔を合わせるのは結局当日の事になる。知らない名前とアイコンが並んでいて、緊張する。ギクシャクしないだろうか。
 日程が決まってチケットを取ったのはちょうど八万と一緒に屋上にいるときで、目の前で予約が完了した。すぐに釣井の画面に招待が滑り込んでくる。画面をタップすると、グループに加えられた。時間差で他の人たちも次々に参加してくる。 
 行くと即答しておきながら、当日が迫ってくると緊張で後悔し始めていた。
 メンバーが揃ったグループを見る。
 最初に聞いていたよりも、人が増えているような気がした。メッセージグループの方で全く見た心当たりがないのは、女性らしきアイコンとニックネームだ。
 釣井が気にしていることが察せられたのか、八万が困ったように頭をかいた。
「あー、ちょっと一人増えたんだよね。問題ない?」
「オレは構わないですよ」
 笑って答える。笑えていたはずだ。
 その一人は、先輩の恋人ですか。
 聞きたいと思うことを口にせず、胸にしまったままにする。好きな人のことはなんであれ知りたい。それなのに聞く勇気が出ないままだ。
 相手が口にしなかったことを、聞き出す権利は釣井にない。既にこんなに多くを与えられているのに、これ以上を望んで何も奪いたくない。
「あ、そういえば釣井ちゃんは、その後どうなん?」
「その後?」
「恋の行方」
 あなたが好きですと、いっそ打ち明けられたらどんなにいいか。
「やっぱり好きだったみたいです」
 恋だと認めていなかった頃は、八万の隣に誰が立っていても、心がざわつく理由がわからない振りをして目を塞いでいられた。だが、今はこんなに苦しい。
 胸の中には、楽しみと不安が混在している。
 心の準備をする暇もなく、週末がやってくる。
 遊園地へは、地元の最寄り駅で集合してから全員で移動することになっていた。
 高校生という若さは、自分を形作るのに精一杯だ。制服という画一的な記号を与えられているときですら、個性を発露しようと必死だ。私服ともなれば全てのしがらみを捨てて伸び伸びとしている。
 八万の友人たちは、どことなくその傾向が強いように感じられた。つまり外見が派手で保守的な大人の目を引く、ということだ。
 釣井も例に漏れず、普段は外しているピアスを全ての穴につけて、いつもよりも入念に髪の毛をセットしてから、待ち合わせの場所に向かっていた。
 集まっている面々の雰囲気で、同行するのがあのあたりにいる人たちなのだろうなと言うのは想像がついていた。だが八万が来るまでの間に初対面の人たち相手に話題を繋ぐストレスを考えてしまい、全く気がついていない振りをして時間まで待った。
 あの中の誰が八万の恋人なのだろうなんて、余計な勘ぐりをするのも嫌だった。
 駅前のコンビニでカフェオレを頼み、スティックシュガーを入れて混ぜずに飲む。ふわふわの泡の上に、砂糖のシャリとした食感が残るのが好きだった。
 もうすぐ着くというメッセージの通知を見て、時刻表を確認する。この電車に乗って来たのだろうという人の群れが、ホームから流れてくるのを見送った。
 見つけたら無防備な顔を晒してしまうという予感があって、釣井は八万らしき姿を人混みの中に見かけた瞬間、目を逸らしていた。
 人は自分のことには鈍感で、他人のことには聡いものだ。八万本人はともかく、彼の恋人に表情を見られたくはなかった。
 ポケットの中のスマホが震えるのを感じながら、釣井は飲み終わったカフェオレのカップをゴミ箱に捨てた。連続して通知が入る。
『ついたよ』
 グループの面々がそれに次々と返信している。
 ちょうどここに到着したところだという顔をして、釣井も集団に加わった。自己紹介が必要なのは、どうやら釣井と八万の彼女だけらしい。
「はじめまして。釣井 忍です」
 なんの面白味も親しみもない挨拶をした。これでは無愛想だったかもしれない。印象が悪いだろうか。少し考えてから釣井は言葉を付け加えた。
「忍って呼んでくれたら、嬉しいです」
 心が望んでいることをする、ということ。
 それを自分に許すということ。
 どちらも釣井には難しい。
 難しいけれど足踏みをしているだけでは、少しも前に進めない。
 進まなければ、話を聞いて受け止めて、優しく背中を押してくれた幼なじみの言葉を無駄にしてしまう。
「八万先輩も、忍って呼んでくれませんか」
 だから、釣井は昨日よりも少しだけ多くを望んだ。
 好きな人に名前で呼んで欲しい。距離を縮めたい。
 このタイミングであればきっと、初めて会った人たちと打ち解けて仲良くするために見える。そんな打算的な考えでなければ行動できないのはきっと卑怯だが、それでもいいから欲しかった。
「ん? いいよ。じゃ、忍ちゃんね」
 特に気にした風もなく、八万は釣井の名前を口にした。
 釣井は八万先輩と名前を呼ぶだけで、とても大切なものに祈りを捧げているような気持ちになる。
 好きな人に名前を呼ばれるだけで、こんなにも舞い上がってしまう。
 人見知りのくせに、初対面の人と話せるくらいには。
 喜びを顔に出さないようにするのは大変だった。初めて会った人たちには、遊園地が楽しみで舞い上がっているように見えただろうか。
 そのときに見せた笑顔は、紛れもなく釣井の心の底からの笑顔だった。
 八万と同じように、みんなが釣井のことを忍と呼んだ。
 八万の恋人も。みんなよりも高い、女性の声で。
 朝からずっと、釣井は夢の中にいる。
 夢ってなんだろう。
 眠っている間に見るもの。無意識の願い。目指したいと思っている場所。非現実のこと。理想。
 夢のような体験をするために、夢の国に向かっている。
 遠出をしない釣井には、道中の電車から既に非現実だった。
 ずっと意識のどこかがふわふわとして、夢見心地だ。
 好きな人と同じ電車に乗って、ここではないどこかに行く。
 地に足つかないくらい浮ついているくせに、お腹の底に石を一ついれたような重たいものをずっと抱えている。
 人と人は一緒に居ても、ときどき間に線を引く。
 一緒に居る人たちがいくつかのグループに分かれるとき、そういう線が人々の間にサッと引かれる。その線は自動で引かれてしまうもので、どうすることもできない。
 例えば席に座るとき、男子と女子になんとなく別れるとか。
 クラスとか親しさとか。学年とか。あとは恋人同士とか。
 友達四人と一緒に居るときは、釣井と平が幼なじみという括りで区切られる。
 八万 至の隣に座り、親しげに腕に絡みつく女の人は、一つ年が違うだけなのにずっと大人びている。仲睦まじい二人の間に他人が入る余地はない。あちらとこちらの間に引かれている線は、友情の括りと違って他人には踏み越えることが許されないタイプの境界線だ。
 釣井の隣に座ってくれるのは映画好きな三年生で、話が合う。その括りがあったおかげで孤立しないで済んだ。
 初めて話す人だったが、優しくて面白い人だった。映画の話をするのは楽しい。大衆向けエンターテイメントでない映画の話であればなおのこと、話をわかってくれる人は稀で、釣井は彼のことを凄く気に入った。
 だからって、八万との間に引かれた線が気にならないわけではないけれど。
 食事をするとき。
 列に並ぶとき。
 アトラクションに乗るとき。
 縦に並んで歩くとき。
 二人の間に引かれた線が、心をひっかく。
 どうして、楽しいだけではいられないのだろう。
 背中を見ていられるだけで、幸せだったはずだ。
 名前を呼んでもらえて、十分に満たされたはずだ。
 この気持ちはただの憧れで、傍にいるだけで満たされなければいけない。
 釣井と八万の関係性は変わっていない。八万の心にもたぶん変化はない。
 ただ恋を自覚した釣井の心だけが、全く別のところに流されてしまった。
 好きになってしまった。話すたびに会うたびに、もっと強く好きになる。
 楽しげで心躍る音楽。夢みたいな風景。アトラクションに乗る人々の歓声。
 そういうものが全部どうでも良くなるくらいに、焦がれている。
 次、何乗る。
 まだ涼しいから、外に並ぶのしんどくないね。
 春でも日に焼けない?
 あ、チュロスある。
 バケット嵩張るんだけど。
 お昼、何時にする。
 交わされる何気ない言葉たち。
 そういうやりとりの全てに、八万は恋人と二人で線の向こう側から返事をする。
 夢の世界にいるような気持ちと、線のこちら側にいる苦しさがぶつかっている。
「あ、忍?」
 釣井を現実に引き戻したのは、ここで聞くはずのない日常で聞き慣れた声だった。
 緑色に染めた髪の毛。学校にいるときにはできない数のピアスで耳を飾ったその人は、友人の上村 空人だった。
「空人」
「どした?」
 足を止めた釣井に、八万が気が付く。
 八万が、こちらを見ている。
 一番後ろを歩いていた釣井が足を止めたことに気がついて、声を掛けてくれた。ただの錯覚だとわかっていても、二人の間に引かれていた線が少し薄まったように感じて、嬉しくなる。
「あ、あの友達と居合わせて。ちょっと、話してきてもいいですか」
「いよ。じゃ、俺らあっちでお土産見てるわ」
「はい」
 上村の視線が、釣井とその周りの人に向いた。
 彼は聡い。
 人のことをよく見ている。
 彼には話していない。誰かに恋をしているなんて、告げていない。だが一年に近い時間を一緒に過ごして、釣井を見ていてどう思っただろう。
 何を想像したのだろう。
 八万の背中を見つめる釣井の顔。友達と一緒にいるときとは違う表情。
「俺とコイバナする?」
 それは、上村からの答えだった。
 釣井が言わなくても、わかっているし気づいている。
 触れないで。
 そこは触られると、すごく痛いから。
 俯いた。
 目を見られるのが怖かった。釣井が言葉にできないでいることまで、見通されてしまうような気がした。
「答えは、もう出てます」
 相手が何かを言う前に、釣井は逃げた。先回りして物わかりがいい振りをして、自分を隠してしまいたかった。
「今の関係のままで、オレが消えればいい」
 ハ、と乾いた笑いが、間髪入れずに聞こえた。
(なんで、そんな風に笑うんですか)
 その笑いは釣井の言葉を、少しも認めていなかった。
「だ、だって……このままで、十分、楽しいじゃないですか」
 嘘だし、嘘ではない。
 遊園地は楽しい。一緒に出かけられれば嬉しい。
 身勝手と強欲が、そこに水を差しているだけだ。
「そうだね。じゃそれでいいんじゃないかな。お相手さんにとっても素晴らしい愛だと思う」
 空人の声が冷え冷えと響く。
 遊園地の愉快なBGMは空気を読まず、冷え切った二人の間に空虚に響いている。
「先輩のためになるなら、それが一番いい、ですよね?」
 同意をして欲しかった。
 それでこの話はおしまい。
 お互い楽しく、遊んで帰る。それでおしまいだ。
「先輩の為ぇ? かっこいいこと言うじゃん。責任転換や棚上げで良く聞く言葉だ。いいと思うぜ? そのままの忍くんで居なよ。大義名分の影で傷付いてるかっこいい自分に酔ってる忍くんで」
「そ、そんなこと……」
 思ってないなんて言い切れなくて、爪先を見つめる視界が、涙で滲んだ。
 苦しさを先輩のせいにしていれば楽だから、責任転嫁しているだけと言われればその通りだ。
 自分の身勝手を棚上げして傷ついて、痛みに浸っていれば、悪者にはならないでいられる。安全だ。
「なんで、なんでそんなこと言うんですか」
 声も握り締めた拳も、震えている。
「だって、じゃあ、オレなにもかもめちゃくちゃにしちゃえばいいんですか。傷つくのがオレだけなら、それが一番いいっておも……」
 嗚咽を抑えきれず、その先は言葉にならなかった。
 僅かの沈黙。
「知っちゃいたけどお前って俺よりくっそ馬鹿だよな? 再確認したわ」
 上村は怒っている。鈍い釣井にだって、声を聞けばそれくらいはわかる。だが何故なのかわからないのだ。
「いいか? 相手がめちゃくちゃになるって思ってんのはお前の妄想だけだ。〝こうなればいい〟って思ってるからそう思うだけだ。何も、好きな相手の何も知ろうともしないで何も知ってもらおうともしないで、自分一人が全て持ってけばなんて立派なこと言ってんじゃねぇよ!」
 彼の声が涙ぐんでいたので、ようやく釣井は顔を上げた。
 叫ぶように言った上村は、泣いていた。
(なんで空人が泣くんですか)
 釣井に、怒っているはずなのに。
「だって、だってわかんないですよ。わかるわけないじゃないですか、オレなんて、馬鹿で、大馬鹿で、いつも一緒にいる空人がなんで泣いてるのかもわかんないし、先輩のことなんて、もっとわかんない。わかんないのに、好きでっ……」
 わかっていたらこんなに苦しくない。
 上村のことも八万のことも、他の友達のことだって同じだ。何もわかってない。
 それなのに、あの人が好きだという気持ちだけははっきりとそこにあるのだ。
「思ってますよ! めちゃくちゃになっちゃえばいいって!」
 こうなればいいという願いは釣井の心の中にある。答えは出ている。
 だから動けない。動いてはいけない。そうやって自制しなければ、この悪い願いが溢れ出してしまう。
 めちゃくちゃにしたい。
 自分を苦しくするもの全て、壊してしまいたい。
「めちゃくちゃにしたいですよ。先輩の彼女がいなくなっちゃえばいいって、思ってますよ! 隣にいるのは、オレがいい。間に入ってくる人なんて、全部嫌いだ。いなくなっちゃえばいい。そんなこと思ってるオレなんて大嫌いで、死んじゃえばいいって本当は思ってますよ!」
 自分勝手。
 大馬鹿。
 人の不幸を願う。
 それを晒す度胸もありはしないくせに、欲望だけは一人前。
 友達のこと怒らせて、たぶん傷つけもした。
 それもわからないで、自分のことしか見えていない。
 そんな自分が一番嫌いだ。
 釣井 忍は自分が死んでしまえばいいと思っている。
 叫ぶような言葉を聞いて、上村はただ悲しそうな顔をした。その顔にはもう怒りはなかった。赤く泣きはらした目をしていた。
「そんなお前でも大好きだから、俺らはそばにいるんだよ」
 吐き出された言葉は静かで穏やかだった。
「……オレは、空人のこと、泣かせるようなやつなのに?」
 友達に悲しい顔をさせてしまった。
「いや、これは勝手に出ただけで忍に泣かされた訳じゃない」
「空人のこと難しくてよくわかんないです。……オレは自分のこと嫌いです。でも空人のことは、大好きです」
 苦しくなる言葉をぶつけられても、嫌いになんてなれない。
「そ? じゃあその大好きな空人が釣井 忍を大好きなんだから大事にしてくれよ。俺も話すから、お前もちゃんと先輩に踏み込んで自分のこと話せ」
 友達のために。
 自分のために。
 好きな人のために。
 まだ勇気は、出ないけれど。
 いつまでも、逃げていてはいけないんだ。

Page Top