薄氷を踏むような臆病さで


Tidalwave_逃れようのない波
 季節が巡るのは早い。
 日暮れから降り出した雨は、日付を越えたあたりから音もなく雪に変わった。枕の下から聞こえるラジオの音に通知音が挟まり、微振動を感じた。本を読んでいた釣井はページに栞を挟んで、ラジオを流していたスマホを取り出す。
 雪が降り出したことを伝える端的なメッセージは八万から届いたもので、夜中に彼が連絡をする相手が他の誰でもなく自分であることに、仄かな優越感を覚える。
 その甘みは、恋人がいる人相手にそんな気持ちを抱いてはいけないという罪悪感の苦味を伴っている。
 カーテンを開け、暗闇からすぅと白く雪の粒が舞い降りてくるのを暖かい部屋の中から見る。窓ガラスについた瞬間に溶ける氷の粒が、ガラスで隔てられた外との気温の差を感じさせる。
 きっと外は息も凍りつくほどに、寒いのだろう。
 先輩もきっと今、同じものを見ている。
 浮ついた気持ちを抱いたまま眠りたくて、いくつかメッセージのやり取りをしたあと、釣井は閉じた本を開くことなく部屋の電気を消して眠りについた。
 翌朝は、布団から出るのが嫌になるくらい寒い。まだ寝ていたいと訴える体を布団から引き剥がし、身支度を整える。タンスの中にあったマフラーを出して、いつもより入念に防寒具を整えた。靴を履いて玄関を出た瞬間に、転びそうになった。
 道路に降った雨が凍りつき、その上に雪が薄らと積もっている。いつもの靴を履いて家をでたことを後悔し、しかし今更家に戻って靴箱の奥にしまったままになっている冬用のブーツを出すのも嫌で、学校に着くまでの間に何度か転ぶことを覚悟した。
 冬の備えをする暇もなく訪れた初雪のせいで、朝の街は機能不全だった。誰も彼もが抜き足差し足、子鹿のような足取りで歩いている。
 なんとか無事に学校にたどり着く。早く教室に行って温まりたかった。
 冷たい空気の中にいると、なぜか孤独を感じる。
 子供の頃、寂しいというのが恥ずかしくて、しきりに寒いと言って誰かに傍にいてもらおうとしたときのことを思い出す。あの寒さは、ストーブの傍に置いてもらっても、毛布をもらっても解決しなかった。
 今もそれが寒さではないと知っているだけで、時折あのときのような孤独が胸の中に差し込んでくる。全ての人間関係を一緒にいて楽しいという感情だけで済ませられれば、どんなにか良いだろう。
 それではいられなくなってしまったことが、苦しいのだ。
 八万の隣にいるとき、心の内側には良いとも悪いとも言い難い複雑な感情が層をなして折り重なっていく。
 彼の隣にいるのが釣井以外の誰かであるときは、もっとわかりやすく苦い気持ちが降り積もる。それが何に由来する感情なのか名付けられないでいた。
 わかりやすい答えとして、釣井が他人の幸せを喜べない人間なのだという結論にたどり着き、自己嫌悪で終わるのだ。心の中に特別を作らなければ、こんな浅ましさに気づくこともなかった。
 似たような気持ちを今年の最初に味わったことがある。
 幼なじみの平に恋人ができたのだ。今までずっと隣にいてくれた大切な存在に、他に優先するべき人ができた。あのときに感じた感情は、親友を奪われたことに対する嫉妬だった。
 程なくして二人は別れて、単なる友達同士に戻ったらしいのだが、それを知ったとき、釣井は心の底から安堵した。
 そして、こんな人間は最悪だと思った。幼なじみが恋人と別れたことを喜ぶような汚い心を自覚して、己の浅ましさに絶望した。
 それを平にだけは知られてはならないと思っていたが、聡い幼なじみに対して隠し通せていたのかどうか自信はない。もしかしたら、二人が別れた原因の一端になってしまっていたのかもしれない。
 そんなことを、本人に聞いて確かめる勇気はない。
 ただそれ以来釣井は、誰かを大切に思ってしまうことが少しだけ怖くなった。
 八万に向ける感情も、あのときに感じていたそれと似ている気がする。
 しかし、彼は釣井の特別な人だったわけではない。ずっと一緒に過ごしてきたわけではないから、お互いのことはほぼ知らないに等しいままだ。恋人だって、釣井と知り合う前からいた。他の人に二人でいる時間を取られているわけではない。むしろ釣井が二人の時間を邪魔しているのだと言って良い。
 何に嫉妬しているというのだろう。
 暇な時間があれば教室の窓から外を見るのが癖になっている。
 望んでいるものが見えるときもあれば、見えないときもある。
 季節は冬を迎えている。室内と室外とを隔てる窓は冷えていて、額をつけると頭を冷やすのにちょうどよかった。ガラスの厚みの分だけ薄青くなるガラス越しに、遠くを見る。
 運良く八万の姿を見つけられたら、嬉しい。見つけられなかったら、校舎の中で会えるかもしれない。それが放課後なら、運良く一緒に帰ることができる可能性だってある。たまに、家に遊びに呼んでもらえる。
 そういうとき、隣にいるべき大切な人の代わりに選んでもらったような気がして、胸を踊らせてしまう。
 運命を占うような気持ちで、昇降口から出ていく人の中に求めた背中を探す。校庭には部活動に出てきた生徒。帰路を急ぐ人は、これから学習塾にいくのかアルバイトがあるのかもしれない。
(あ、八万先輩)
 釣井は遠くにあって、指と同じくらいの大きさに見える人の中から、絶対にその背中を見分けることができる。隣に立つ人がいるのかどうか確かめる前に、釣井は目を逸らした。
 先に帰ってしまった。今日は、一緒に帰るのも家に遊びにいくのも、なしだ。校舎の中ではもうどれだけ待っても会えない。
 胸が重くなるし、どうせ答えは出ない。それならば、触れない方がいい。
 窓ガラスについた額の跡を、袖で拭う。
 教室に目を戻すと、平がいた。ひらりと手を振って、俯く顔を覗き込んできた。子供の頃からずっと側にいてくれた幼なじみは、誰よりも釣井のことを知っている。
 無防備な表情を悟られてしまいそうで、思わず顔を逸らしてしまった。
 なんでもわかってくれるから、信頼している。だが、何もかもが知られてしまうから、姿を見られるのが怖い。
「放課後部活は?」
「今日はないよ。一緒に帰りますか」
 荷物を纏めて、スクールバックを肩に掛ける。
 今、どんな顔をしているだろう。
 意味のない問いを繰り返してしまう理由を考える。
 眠れない夜を越える手段を探す。そういうとき、ちゃんと笑えているだろうか。
「なぁ、しの」
 平の声は柔らかい。傷に触れようとするかのように優しくて、泣きそうになる。
 この声に何度、暖かい場所に導いてもらったことだろう。
「最近、なんか悩んでるか?」
 ぎゅうと胸が鷲掴みにされたように傷んだ。
 毎日、苦しい。自分が嫌いになりそうだ。
 この気持ちの正体が知りたい。
 でも自分でも分からないでいることを、人に言ってどうなるんだろう。
 胸を開いて心の中を見てもらえるわけでもないのに。甘えて、頼って、それでどうしてほしいんだ。
 釣井は開きかけた口を閉じて、胸の痛みを押し留めてからもう一度口を開いた。
「何にもないよ」
「……うん。わかった」
 平は口を開いて、何も言わずに閉じた。困った顔をして頷いただけだった。
 気づいていることがあるし、言いたいこともある。だが、言いたくない釣井の気持ちを考えて口に出さないでいる。そんな表情をしていた。そのまま鞄を肩にかけ、踵を返す。
 教室を出て行こうとした平の裾を、咄嗟に掴んでいた。
 それは昔からの癖だった。心を押し留めようとしてうまくいかない。気持ちをうまく言葉にできなくて、体が先に動く。
 苦しい。助けてほしい。このままじゃ、自分のことを嫌いになりそうだ。
「いっくん」
 平が、振り返る。袖をつかんでいた手が、暖かい手に包まれた。
「どした、しの?」
 薄氷の上を歩くような気持ちを、この先何度味わうのだろう。体重を乗せたら足の下でパリと砕けてしまう瞬間の儚さとあっけなさを、知っている。自分の思いを伝えたり誰かに知られたりすることが、何かを壊してしまうのを恐れている。
 心なんて重すぎて、誰にも受け止められない。時が過ぎ去っていくのは早すぎて、釣井が曖昧な感情を認めて言葉にできるようになるまで待っていられない。
 だが幼なじみなら。
 どんなに時間がかかっても、言葉を待ってくれている。
「わからないままにしていることが、あるんです。ずっと頭の中にあるのに、答えを出すのが怖くて先延ばしにしてます」
 うっすらと降り積もる雪の上に、おそるおそる踏み出す。氷が割れてしまうかもしれないと、思いながら。
 本をいくら読んでも、自分の気持ちは言葉にできない。実感が伴わない感情を本で摂取したところで、心は強くならない。
「一緒に居てすごく楽しいのに、同じくらい苦しい。嫌なら距離をおけばいいって、わかってるのにできないんです。会えるかなと思ったら予定を少し伸ばしたり、目で追いかけてしまったりする。こういうの、何て言えばいいのかわからなくて。オレ、おかしいんです」
 釣井にとって平は一番近しい友達で、彼が受け入れてくれないのならたぶん他の誰も受け入れてはくれない。
 冷えた廊下の空気の中で、吐き出した息が白い。顔の前に広がっては消えていくのを見つめながら、答えを待つ。それは一瞬だったはずだが、ぐるぐると一人でよく回りがちな釣井の思考が走るには、十分な時間だった。
 答えの出ない問いなんて、存在しない。あるとすればそれは問いを発した人間の立場が曖昧だからだ。
 卵が先か鶏が先かの問いだって、ずっと昔に答えが出ている。遺伝学的には卵が先だし、生化学的には鶏が先と言える。答える人間が、何を鶏と思っているのかで、答えは変わる。
 テセウスの船の問題だって、船の何に価値を見出して、どうそれを定義をするのかという問題でしかない。答えの出ない問いを誰かに投げかけるとき、正しい解答は答えた人間ではなく発した人間の中にしか存在しないという逆説が存在する。
 ならば釣井の問いは?
 無論、訊ねる前から答えはでている。わかっていて卑怯な問いを投げる自分を、殴り飛ばしたくなった。
「確認だけど、その人のこと嫌いではないんだよな。一緒に居たいんだもんな」
「ずっと、一緒に居たいです」
 放課後にあの人の隣を歩くのが、釣井であればいいと思ってしまう。
 どうしてそんなことを求めてしまうのか、答えを先送りにしたまま、苦い気持ちと浮つく心を胸に日々を過ごしている。
「あのさ、俺、なんとなく相手わかる。わかった上で言うよ」
 きっと平は答えをわかっている。
 それを突きつけられるのは、怖い。優しい幼なじみに、味方になってくれるような答えを強制していないだろうか。
「や、やっぱり」
「いーや、聞きなさい」
 逃げようとしたが手を取られた。両手がしっかりと掴む力は強くはないが、釣井が逃げていかないようにその場所に留めていた。
「まず、俺はしのがそんな大事なことを俺にいってくれたのがすごく嬉しい。それはわかってな」
「はい」
「俺もそんなに経験あるわけじゃないけどさ、でもたぶんそれ、その人のことが好きなんだなぁと思うよ。それも、すごく。大切な人なんだろうなと思う」
 ずっと釣井が認められないでいたことを、平はあっさりと口にした。ずっと前からお見通しだったんだろうか。
「しのが好きになった人なら、きっとすごく素敵な人なんだろ。話したことねぇけどたぶんそうだ。苦しいけど幸せだろ。それを恋って言うんじゃないかな。後悔しないで欲しいなぁ」
 顔を伏せたまま、釣井は平の肩に額を預けた。握ってくれている両の手がじんわりと暖かい。緊張で冷え切った指先に熱が通っていく気がする。
「オレは、八万先輩が好き」
 確かめるように平の言葉を反芻する。
「俺はそう思ったけど、言わない方がよかった?」
「そんなことないです」
 首を振る。言ってもらわなければ釣井はいつまでもそれを認められず、前に進めないでいた。
 平が八万のことを素敵な人だと言ってくれたとき、まるで自分が褒められたときのように嬉しくなった。
 その感情を、釣井はずっと名付けられずにいた。
 恋なんてしたくなかった。
 恋でなくても自分の心を激しく動かすものが、怖かった。一度踏み込んでしまったら、もうそれを知る前には戻れない。世界を変えたくない。
 物語の中で読むそれは、息を止めてしまうようなものだった。世界の色を変えてしまい、全てを捨てさせてしまい、胸を引き裂くような痛みを伴う。そのためなら人はどんなことでもできてしまうような、強い力だった。
 きっと恋をしたら、感情を制御する術を失う。心に振り回され、冷静な判断も合理的な思考も失って、愚かになる。
 恋でないならそれはなんなのかと聞かれても、答えられはしない。ただ恋と認めてしまうともう引き返せないから、ずっと否定していた。
 だって、恋をしても世界は薔薇色になったりはしなかった。物語の中にあるような、激烈な何かは一つもなかった。この瞬間が恋だと自覚できるような何かは、なかったのだ。
 最初は恋ではなかったはずだ。ただの先輩と後輩の関係。それ以上のものではなかった。少しずつ深みに沈むように滑り落ち、気がついたらこの場所にいた。
「いっくん、オレ本当はいっくんが思ってるよりずっとわがままで自分勝手ですよ」
 空想の中でその人を、汚すくらいに。
 隣にいられるだけで幸せだ、なんて聞こえのいいことを言いながらそれ以上を望んでいる。たくさんのものを貰っているのに、満足できないでいる。
 振り向いて欲しいなんて、願っているのだ。
 八万と付き合っている誰かの不幸なしには叶わないことを、願ってしまっているのだ。それはとても罪深い願いだ。
 善良でありたかった。いい人間でいたかった。だが気がつけばこんなにも、浅ましくて醜い人間になってしまった。
「じゃあ、もっとだな。隠すなよ、しの。いろんなこと、もっと口に出していいんだ」
 幼なじみは、釣井に甘い。大事にされているんだという確信をくれる。
「ありがとう」
 彼の優しさは、臆病な釣井を少しだけ強くしてくれる。
 勇気がなければこの先には進めない。
 好きだと思っている相手のことを何も知らない。知りたいと思いながら手を伸ばすことを恐れてきたから。
 引き留めない。踏み込まない。浅ましい心を隠し、後輩の立場を利用して隣に立つだけの無害な存在をずっと、演じてきた。
 元来、二人の間に接点はない。学年もクラスも違う。部活動も違う。廊下ですれ違うだけの関係。可もなく不可もない存在だっただろう。
 思いを伝えるということは、今の関係を捨てるということだ。釣井が思いを伝えて干渉してくる何かになったとき、八万にとってはもう今までの後輩ではないだろう。それを拒否されたとして、仕方がないことだと思う。
 ――恋は罪悪ですよ。
 有名小説の一節が頭に浮かぶ。
 ――そうして神聖なものですよ。
 大嫌いな自分を許せる理由を、ずっと探している。
 神聖なものに触れるに足るだけの正しさを、見つけられていないのだ。

◇◆◇

 もうすぐバレンタインがやってくる。
 去年は市販のチョコを友達に配るだけだったが、今年はもう少し凝ったものを用意して手作りお菓子のやり取りに加わりたくなって、平の手を借りることにした。クッキーならば暖房が効いた室内でも融けることはないし、型を用意する手間がない。
 美味しそうな色に焼き上がったクッキーの熱が取れるのを待ちながら、アイシングの準備をする。言われた分量の水を加えてハンドミキサーでかき混ぜる。
 料理がヘタクソなりに、いろいろやりたいという気持ちだけはあり、平の助けを借りてアイシングクッキーの作り方を教わっているところだった。家庭部に所属している彼の助けがあれば、流石にクッキーを焼くくらいは失敗しない。
 問題はアイシングの方だ。アイシングパウダーなる便利なアイテムの助けを借りてもなお、不安が残る。
「しのは何色が好き?」
 平が着色料を用意しながらボールの中を覗き込み、アイシングの硬さを確かめた。
 無心でハンドミキサーでアイシングを泡立てながら、好きな色を考える。
 青が好きだ。
 深い水のような、夜明け前の空のような青。でもこれはクッキーの色を聞かれているわけで、食べ物に青は一般的には歓迎されない色のはずだ。
 OKサインをもらったので、ハンドミキサーのスイッチを切る。ただの白砂糖に見えたアイシングシュガーパウダーは滑らかなペーストになっている。
「海、みたいな色が好きなんですけど、食べ物っぽくないですよね」
「別にいいんじゃない、青。海っぽくするなら、全面青じゃなくてもいいし」
 アイシングを立体的にしたい場合は、まず土台を塗って乾かしてから改めて模様を引いていくらしい。だが、それだと一日で終わらないから、今回は土台塗りに模様を入れる。と言うのが平から受けた説明だったのだが、作業工程を知らないので土台塗りがなんなのかもわからない。
 釣井は言われるままに頷いた。
 土台塗りは一日乾かす、とメモをとる。
 固めと柔らかめ二種類のアイシングが小分けにされて、それぞれに色がつけられていく。一番量が多いのは夏の浅瀬のような綺麗なブルーだった。
 外周を縁取りしてから内周へ。青を乗せたあと白で線を引き、爪楊枝で引っ張って波の模様にする。
 平は簡単なことのようにするするとクッキーを塗り、波の模様を作っていく。
 対する釣井は、名称不明の小さな絞り袋を持つ手を震えさせながら、おっかなびっくりの作業だ。
 枠が曲がり、輪郭がはみ出してしまう。まっすぐに線が引けない。波にしたいのにどんどんと色合いはよれよれになっていく。
 平が不安がる釣井を励まして、大丈夫大丈夫と背中を叩いてくれるものだから、線はさらに曲がっていった。
「いっくん、オレにはやっぱりちょっと難しい気がします」
「慣れればいけるって、ほら。練習練習」
 言われるままに何枚か練習を重ねる。
 たくさん焼き上げたはずのクッキーはみるみる枚数を減らしていく。
 なんとかそれなりに波っぽく見えるような模様ができるころには、絵柄を描きこまれていないクッキーは、残り一枚になっていた。
「できた、気がします」
「うん、できてる!」
 そう言ってもらえると、少し自信が出てくる。
「どれが一番綺麗にできた?」
「これです」
 一番最後に絵をつけたクッキーが一番、綺麗にできた。
「乾いたらラッピングして持ってくね」
 たくさんできたから、友達に渡すこともできる。
 次の日、釣井は完成が待ち切れずに平の家まで取りに行った。
 完成品を受け取り、釣井は首を傾げた。
 一番上手にできたアイシングクッキーは綺麗にラッピングされている。そこにEAT MEの文字が追加されていた。海の色合いと混ざり合うパステルカラーで描かれた文字は可愛らしい。
「これは?」
「ほらアリスの」
 不思議の国のアリスに登場する体の大きさが変わる魔法のケーキに確かこんな文言が書いてあるんだっただろうか。
(可愛らしいことを考えるんだな)
 釣井にはまだ到底手の届かない技術だ。一番綺麗にできたクッキーを誰に渡そうか考えながら、それを受け取った。
 平と一華の分はその場でプレゼントし、残りは翌日学校に持っていく荷物の中に入れた。仲のいいクラスメイトに渡したあとは、昼休みに会った鰐川にも渡すことにした。丁寧に一つずつ包装にしてもらったから、友達に配る余裕は十分にあるし、何なら自分で食べる分もある。
 上手にできたから、両親にも食べてもらいたかった。
 一番綺麗に焼けたクッキーをどうするかは、まだ決まっていない。味は一緒だろうから、ひっくり返してシャッフルしてから渡せばいいか。
 椅子に座る背中に、後ろから抱きつく。
「祥吾、今日はなんとプレゼントがあります」
 クッキーを手渡す。
 鰐川はラッピングされたクッキーと釣井の顔を交互に見たあとに、やれやれと言いたげに肩を竦めて、ため息をついた。
「ダメだぞ忍。これは俺には受け取れない」
「え、でもいっくんと一緒に作ったので、味はいいと思います。これが一番綺麗にできたので」
「ならなおさら、食べてほしい人がいるんじゃないか」
 アイシングで描かれたEAT MEの文字を指差す。
「いや、あのこれはただのモチーフで……」
 そんな深い意味はない。ないはずだ。釣井はないと思っている。だがもしかしたら受け取った側に、そうは思われない可能性があるのだろうか。
 だったら、誰に渡す?
 俄かに羞恥が込み上げてきて、耳が熱くなった。
 普通のクッキーと交換して、そそくさと自分の教室に帰る。
 結局、放課後になっても渡す相手を決められなかった。浅葱の浜辺のような模様とEAT MEの文字が描き出されたアイシングクッキーは、袋の中に入ったままになっている。
 釣井は普段料理をしない。製菓もなおのことしない。だから料理をするとしたら、誰かのためだ。その中で一番綺麗な一枚は、一番大切な人にあげたい。だが、指摘されて改めて考えてみればEAT MEの文字は妙に思わせぶりだ。
 深い意味はない。
 そもそもそれを描いたのは釣井ではないし、ただの本に出てくるモチーフだ。薄いブルーはアリスっぽいカラーリングで可愛らしい。せっかく平が綺麗に飾りつけてくれたのに、自分で食べてしまうのはもったいない。
 あと渡していない人は誰だろう。一番大切な一枚を受け取って欲しい人。
(八万先輩……とか)
 頭の中に浮かんだ背中を、首をふって振り払う。
 会えたら、だ。会えたら渡そう。
 悶々としながら廊下を歩いていると、タイミングを見計らったように大きな手の平が頭を撫でた。顔を見る前にそれが誰だか理解してしまって、首まで熱くなった。
 手の感覚でわかる。触れ方で、その人を覚えている。
「やっほー、釣井ちゃん」
「八万先輩」
 緊張しながら、顔を上げる。
 ひらひらと手を振る八万の隣に、今日は誰もいない。安堵してしまった。
 これは他人の不幸を願ったことになるのだろうか。八万の隣に女性が立っていないと、安堵する。恋人が彼の隣にいなければ自分と遊んでくれるかもしれないなんて、些細な望みにはあまりにも罪深い気がした。
「あの、先輩クッキー食べませんか」
 彼なら文字の意味を深読みせずに受け取ってくれるから、気まずくならない。だから渡しやすいと思った。深い意図があるわけではない。
 誰に聞かれたわけでもないのに、胸中で言い訳をする。釣井にはまだ、その言い訳が必要なのだ。
「クッキー?」
「凄く料理が上手な人と一緒に作ったので、美味しくできてます」
 自分一人で作ったものならとてもではないが人に勧められはしなかったが、平の作ったものならば、安心して渡すことができる。
「へー、あんがとね。あ、それ釣井ちゃんの分もあるの」
「一応、あります」
 釣井は甘いものが好きだ。ファストフード店に寄ったときに、必ず甘いものを一品頼んでしまうくらいには。だから自分で食べるのも、もちろん用意していた。
「じゃ、ついで遊びに来る? 一緒に食わね?」
「お邪魔します」
 八万から誘いがかかれば、常に即答する。それが面白いと思われているのか、八万は返答を聞くたびに愉快なものを見つけた顔をする。
 二人の時間が常に重なるわけではないから、巡ってきたチャンスは大事にしたい。
 最近、声をかけてくれる機会が増えた気がしていて、そのことを喜んでいた。
 連れ立って学校を出る。
 飲み物を買いにコンビニに寄り、ドリンクコーナーを見ていると肩を叩かれた。
 振り向くと、幼なじみの平がいた。
 学校帰りに甘いものでも買いに来たのだろうか。彼も釣井と同じくらい甘いものが好きだ。違う点は彼の好みがアイスに特化している点だ。冬でも関係なく好きらしくて、指先が冷えやすい釣井は、体が冷えないのかと見ていて心配になる。
「やほ。しのもアイス食いにきたの」
「いえ、今日は先輩のとこに遊びに行ってきます」
「そか。いってら」
 平はなぜだか、嬉しそうな顔をして釣井を見ていた。
 釣井は今でも社交的とは言えない性格をしているが、子供のときはもっと友達を作るのが下手くそだった。友達の輪に入れないから、いつも平に手を引いてもらっていた。そのせいだろうか、誰かと遊んでいるところを見ると、優しい目をする。
 今は他の理由もあるのかもしれない。
 それが照れ臭くもあるし、嬉しくもあった。
「あんまり遅くなるなよ。こないだ、しののお母さん怒ってたぞ」
 平はこれから一緒に遊ぶ八万に聞こえないように、耳元に顔を寄せて囁いた。
 親にはいつも平と居ると思われているから、遅くなった日も行動を共にしていると思われたのかもしれない。真っ先に平のところに連絡がいく。
「もしかして、いっくんのとこに連絡行きました? すみません」
「俺はいいけど、心配してたからちゃんと連絡しろよ」
「わかってます」
 励ますように背中を叩くと、平はアイスコーナーに立ち去った。
「釣井ちゃん、買うもの決まった?」
「あ、はい。クッキー食べるので、紅茶にします」
「いいねぇ」
 冷蔵庫に手を伸ばすと、見計らったようなタイミングで横から八万の手が伸びて開けてくれた。コンビニ冷蔵庫の扉は、非力な人間には思いから助かる。
 ありがとうございますといって、釣井はペットボトルのレモンティーを取る。
「今の、友達?」
「はい。幼なじみです」
「いいねぇ」
 会話は聞こえていなかったようだ。クッキーだけでは物足りないから、買い物籠の中にチョコレートとスナック菓子を加えてレジに向かった。
 八万の家はもう何度か遊びに行っているから、慣れてもいいころだ。だが好意を自覚してしまったあとだと、初めて訪問したときとは別の緊張がある。
 以前行ったときには気に留めていなかったことが、妙に意識されてしまうのだ。
 例えば、来客用の布団の位置にちょうどよくある予備の充電器や、八万の趣味とは思えないぬいぐるみ。今ではそれらが意味するものが、わかってしまう。
 胸がざわつかないように、釣井はそれらを努めて意識から追い出す。
「先輩の分は、これです」
「イートミー」
 八万がクッキーの文字を読み上げる。声に出されると恥ずかしい。
 釣井は思わず目を伏せて、赤くなった顔を隠した。
「それ、なんか不思議の国のアリスに出てくるじゃないですか、そういうお菓子が」
 魔法の焼き菓子は、何の効果だっただろう。
「なんか見た事ある、ちっさくなるやつだっけ。あれ、でっかくなるやつ? 器用だな〜」
 確かにアイシングもそうだが、ラッピングも丁寧だ。平の手先の器用さを感じる。
 クッキーは、一噛みで八万の口の中に納まった。
 口が大きい。
 捕食者という言葉が、頭の中に浮かぶ。
 ついじっと見てしまいそうになり、意識を逸らすためにさほど興味がなかったアリスの魔法の効果を調べる。
「大きくなるらしいですよ。先輩が今以上に大きくなったら巨人ですね。うらやましいです」
「縦ばっか伸びても邪魔なだけよ〜?」
 ミズノエ高校は背が高い人が多いから、余計に釣井は自分の低身長が気に掛かる。
 八万くらい背が高ければ、見栄えがするだろう。身長だけではなく八万は体のパーツが骨張っていて男性的で、羨ましい。
 もう一度成長期がやってきて、あんな風に男らしい体になれないだろうか。
 自分の分のクッキーを口に運ぶ。アイシングに手馴れる前に作った少し不器用な海の模様を、釣井は二回に分けて食べた。
「お菓子が作れる人は、可愛いこと考えますよね」
 何を想像したのか、八万はにやにやしながら肘で小突いてきた。
「一緒に作ったの? なんだよモテモテじゃん釣井ちゃん」
 飲みかけのレモンティーを吹き出しそうになる。
「や、違います。思ってるような相手じゃないです。ただの友達なので!」
 その誤解は解かねばならない。平はただの幼なじみだ。
「え〜そうなん? でも渡す用に作ったんでしょ。釣井ちゃんって今好きな人いんの」
 どうして、そんなことを聞くんですか。
 きっと、深い意味なんてない。
 会話の流れで聞いただけだし、ただの冗談だ。ただの世間話。
 それなのに、なんでこんなに傷ついた気分になっているんだろう。
 釣井も軽く答えればいい。イエスかノー。二択問題。簡単だ。
 その簡単な一言が出てこない。
「……わからないです」
 誤魔化しや嘘を、言いたくなかった。そうした瞬間に自分の言葉に縛られて、大切な気持ちが、本当にくだらないことに成り下がってしまう気がした。
 釣井にはまだ、人を愛するという気持ちの正体が、掴めない。
「オレにはそういうのたぶんまだ早くて。でも、傍に居たいって思う人はいて、好きかどうか考えてます」
 なんとか言葉を紡ぎ出すことができた。
 釣井は、ずっと考えている。
 耳たぶに残る熱の正体。答えの出ない問や、ふとした瞬間に胸に差し込んでくる痛みについて。
 今だって、どうしようもなく胸が痛い。
 他に肯定的な感情がたくさんある中で、この人が好きという気持ちを選択したのはなぜなのか。友情や憧れではない理由はあるのか。
 意味がないと知りながら、同じところをぐるぐる回っている。
「ふーん、そっか……」
 顔を上げると、揶揄うようだった八万の笑顔は引っ込んでいた。傷の話をしながらアイスコーヒーをかき回していたときと、同じ表情をしていた。
 八万はたぶん今、釣井の知らない時間のことを思い出している。
「……まだ早いとか思ってると誰かに横取りされちゃうかもよ〜? ……言えるうちに言っといた方がいいよ」
 釣井は首を振った。それはたとえ尊敬する人の言葉でも、飲み込めない。
(だって、もう他の人のものなんです)
 本当はまだ早いどころか、ずっと遅いのだ。
 だが、それで構わない。それならば、諦めがつく。
「オレはその人に全然相応しくないんです。好き、だったとして、じゃあどうしたいとか、その人に何ができるとかわからないです」
「うーん……俺も偉いこと言えた口じゃねえけどさ、相応しいかどうかってのは釣井ちゃんが決める側じゃないんじゃない? どうしたいとか何ができるとか、面接じゃないんだからさ」
 そう語った彼の顔を見るのが怖かったから、釣井はずっと自分の膝を見ていた。
 これ以上、心を揺さぶらないでほしい。希望を持たせないで欲しい。
 握り締めた手に力が篭りすぎて震えていることに気がつき、そっと拳を開く。手のひらには、爪の跡がついていた。
「好きになっちゃってから考えればいいんじゃない?」
 汗ばんだ手の平に飛び込んできた言葉に、思わず顔をあげた。
 八万は過去を懐かしむ目ではなく、いつも通りの顔で釣井を見ていた。
(先輩らしい)
 自由で軽やか。
 それは釣井が憧れる八万の姿そのものだった。先回りして答えを出して、道を塞いだりはしない。行きたいほうに行くのだ。失敗も痛みも覚悟した上で、何も知らない場所に自分を投げ入れることができる。
「先輩は眩しい人ですね」
 何が面白かったのか、釣井の言葉を聞いて困ったように笑った。
「俺は釣井ちゃんのその純真さが眩しいよ……」
 純真なんかではない。汚れている。汚いところを見せる勇気がないから、隠しているだけだ。
 憧れは美しすぎて、まだ手で触れる勇気がでない。
「もし……もしオレが、人を好きになれたら。その上で思いを伝える勇気がでたら、きっと振られるけど、そのときは頭を撫でてくれませんか」
 相手が何も知らないから、こんなことを頼める。
「告白する前から玉砕覚悟って、縁起悪いね……。いーよ、そんときは超優しい先輩が慰めてあげよう」
 嫌悪されても遠ざけられても、その約束に縋り付くことができる。
「お願いしますね、八万先輩」
 優しく笑うこの人は、何も知らない。知ったらきっと釣井のことを嫌いになる。だから、今はこのままでいさせて欲しい。

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