飛ぶのに片翼では足りない


Tidalwave_逃れようのない波
 机の横に引っ掛けたスクールバッグのサイドポケットの中で、スマホが震える。マナーモードの微振動を、釣井は鞄に触れているふくらはぎで感じとった。昼食を心待ちにして項垂れる頭を、少し横にずらして覗き込むと鞄に隠れた液晶に、名前の下半分が見えていた。
 八万 至。
 名前を認識した瞬間に、スマホを手に取りチェックしていた。教師に見咎められかねない勢いだったが、幸い教師は板書をしている最中で教室の方を向いていない。
 スタンプだけのメッセージに、スタンプで返す。
 こんなことをしていたら、また生活指導室に呼び出しを食らってしまう。
 授業が終わってから確認すればいいとわかっているのに、つい手にとってしまう。
 八万から、緊急の連絡が届くことなどない。込み入った話をするような深い間柄ではないし、予定を合わせて何かをするような繋がりも薄いからだ。
 それでも釣井は、通知が来たときに彼からであることを期待してしまうし、届いたメッセージが八万からであることを確認すると、すぐに返信せずにはいられない。
 ――見つかったら、また怒られますよ。
 見つかって怒られて、内申点が下がる。それも、些細なことではあるが。
 送った瞬間に既読が付くメッセージ。
 彼も今画面を見ている。だから釣井もすぐに返事を返したい。
『今サボり』
 ――屋上ですか?
 正解、と知らない二次元のキャラクターが褒め称えてくる。
 ほぼ同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 教師の今日はここまでという言葉も聞かずに、みんなもう教科書とノートをしまい始めている。学生の休み時間は忙しいのだ。
 授業が締め括られた瞬間に、釣井は誰よりも早く教室を飛び出していた。
 屋上に続く階段を、一段飛ばしで駆け上がる。
 ドアに手をかけたところで、一時休憩。
 急に運動をしたせいでバクバクする心臓と、上がった息を整える。肩で息をしないで済むようになってから、釣井は屋上に入った。
 八万のいる場所。
 直射日光に晒されないところ。水たまりができないコンクリート。ドアに入ってすぐに目に入らない位置。
(つまり、ここ)
 思った通りの場所にその人はいた。向こうも気がついて片手を上げた。
「釣井ちゃんだ。やっほ」
「隣、いいですか」
「いーよ」
 八万は充電の表示が半分になっているゲーム機を傍に置いた。釣井は今日は、ゲームを持ってきていない。ついでに言うと昼飯も、飲み物もない。
「先輩、お昼は?」
「んー、買いにいかないとないんだよね。財布教室に置いてきちゃったし、そろそろ戻るかぁ」
「待っててくれたら、買ってきますよ」
「え、やー悪いでしょそれは」
「オレもちょうど、買いに行こうと思っていたところなので」
「はは、買ってから来ればいいのに」
 だって購買に並んでいる間に、八万が屋上から移動してしまうかもしれない。
 クラスに戻って友人と共に食事を摂るなら、釣井は割り込めない。そうする理由もない。ついででもなんでもいいから、じゃあ一緒にと言うための理由が欲しいのだ。
「食べたい物、教えてください」
 買ってきたら、じゃあさよならとはならないはずだ。心の中には打算がある。
「いい子だな、釣井ちゃんは」
 八万の手のひらが頭を撫でる。前髪があると幼く見えてしまうから、釣井はそそくさと乱れた髪の毛を後ろに撫でつけた。
「待っててくださいね」
 念押しをしてから、購買に駆け下りる。
 昼休みになってから走り通しだから、心臓がいつまでも騒いでいる。
 八万の体格にやきそばパンだけでは少ない気がする。いらないと言われたら自分が食べればいいからと、おにぎりを追加する。お茶のペットボトルを掴む。レジに向かおうとして、自分が何を食べるか何も考えていなかったことに気が付く。考える時間も無駄に思えて、手の届く場所にあったパンを適当に掴んだ。
 息を切らして屋上に駆け上がる。昼休みになったから他の生徒もやって来て、さっきよりも少し賑わっていた。八万の隣はちゃんと空いていて、そのことに訳もわからず安堵した。
「おかえり。いくらだった?」
「忘れました」
 その答えは半分本当で、半分は嘘。
「んー、じゃ適当に千円」
「いらないです。このくらい」
「駄目でーす」
 胸ポケットにお札がねじ込まれそうになる。両手が塞がっていて拒否もできず、大人しくレシートを提出した。釣井の昼食を見た八万が片眉を跳ね上げる。
「クリームパンとジャムパン? 釣井ちゃんほんと甘い物好きだね」
 適当に取ったら、似たようなものになってしまった。間違えましたとも言えずに、菓子パン二つを頬張る。甘いものが好きなのは本当だし、別に構いはしない。
「穴、流石にもう落ち着いてるっしょ? ずっとつけてんねソレ」
 八万がパンを頬張る釣井の横顔を見ながら言う。
 指先が向いている場所がわかって、心臓が騒いだ。
 ソレというのは、新しい穴を開けたときに付けてもらったピアスのことだ。
 教師に見咎められないように、学校にいる間はピアスを外している。だが、新しく穴を開けたところはそうするわけにもいかず、髪の毛を下ろしたり隠したりしてやり過ごしてきた。
 一ヶ月は過ぎて、もう穴は完成したのだから、外しても構わない。構わないのにいまだに外せず、学校につけて来てしまっている。
「気に入って、いるので」
 金属の針が耳を貫いたときの熱さを思い出そうとすると、なぜか耳たぶではなく胸の奥が熱くなる。ピアスは熱を追いかけるための道標で、ずっと釣井の耳にある。
「新しいのとか欲しくならね?」
「あ……じゃあ、先輩。あの」
 断られたときに胸が痛まないように、心の中で幾重も断られて当然だと思えるだけの理由を書き連ねて予防線を張った。
「一緒に買いに、いきませんか」
 努めてなんでもないことに聞こえるように、注意深く口にした。
 期待も興奮も真剣さも、混ぜたくなかった。気遣いでも社交辞令でもない言葉を、もらいたかった。
(オレは、傲慢だな)
 八万の傍にいると、いつもより自分本位になる。
 隣で話していて感じる喜びと、身勝手な自分に対する嫌悪でぐちゃぐちゃになった感情は、次に会うときまで整理できないまま放り出してある。
「いーね。週末とか出かける?」
「はい!」
 あれほど感情に注意していたのに、応じる声が弾むのを抑えられない。釣井という人間は、どこまでいっても詰めが甘い。
 週末に他の予定は入っていない。たとえ予定が入っていても、いつでも空いていますと答えてしまったに違いない。
 週末はすぐにやってきた。
 休日の駅前にどれほど人が多くても、普段と違う格好をしていても八万の姿を見間違うことはなかった。背が高いからではなく、その立ち姿が目を引くからだ。
 隣に立つのが釣井で、見劣りしないだろうか。ショーウィンドウに映る姿は呆れるくらいにいつも通りだ。
「八万先輩」
 声を掛けると手を振って応じる。
 いつもより丁寧にセットした髪の毛を乱さないようにしたのか、近づいても頭を撫でてはくれなかった。そのことを少し、物足りないと感じる。
「先輩の私服、格好いいです」
「でしょ?」
 冗談と思ったのか、真面目に受け取ってはもらえなかった。
 学校にいるときと同じく、私服のときも帽子を被っている。
 傷を隠しているのだろうかと、つい余計な勘ぐりをしてしまう。それを余計と感じるのは、釣井が怪我の件を人に聞かれるのがあまり好きではないからだ。
 聞かれることや話すことが苦になっているわけではない。痛かったが、ただの怪我だ。自転車が苦手になったが、とりわけひどい思い出ではない。結果として、事故の規模に比べれば、大きな怪我ではなかったと思う。
 だからこそ痛ましいものを見る顔をして同情されてしまうと、返答に困る。そこまで大袈裟に哀れんでもらうほど、大変でも痛くもなかった。
 ありがとうございます、は違う気がする。
 別に痛くなかったですよ、も相手の言葉を否定しているようで印象が悪い。
 そうなんですよ、も不幸自慢をしているみたいで鼻に付く。
 そうやって返答に困った顔をしていると、聞いた相手も困った顔をするのだ。気持ちは嬉しいが向こうから触れて来たくせに、思ったような感情が返ってこなかったからといって投げ出さないで欲しい。
 そういう気まずさは怪我をしてから今日までの間に、少しずつ積み重なってきた。誰かが悪いわけではない。心配してくれているだけだ。釣井自身も逆の立場になったら何も考えずに痛くなかったですかとか、大丈夫ですかとか聞いて、相手を困らせてしまう。うまくできる自信はない。
 だから相手が望んで語らなかったことには、触れないようにして生きてきた。
 一番の正解は、八万のような態度なのだろう。気にかけてくれるけれど、申し訳なくならない程度の気軽さであとに引き摺らないし、掘り返してきたりもしない。
 同じようにできないから、釣井は聞けないでいる。
 先輩の傷は、どうしたんですか。
 一度も訊ねたことはないが、気になっていないと言えば嘘になる。じっと見つめていると、八万が首を傾げた。
「んー、どした?」
「あ……の、聞いたことなかったんですけど、先輩の怪我はどうしたんですか?」
 何を言われても同情しないし、苦しそうな顔もしないと心に決めていた。
「あーこれ?」
 ぐいと帽子をずらして、側頭部に残る三本線を見せてくれる。
「熊に襲われたんだよね」
「く、熊?」
 釣井は目を瞬いて、顔を見つめ返した。想像したどれとも違う。
 びっくりして何も言うことができないでいると、釣井の驚く顔を見て満足したようにニコと笑った。じゃ、行こうかといって先に歩き出してしまうので置いていかれないように、慌ててその背中を追いかけた。
 駅前の商業施設内の店をいくつか回ったが、女性向けの雑貨屋が多く品揃えが今ひとつだ。商業施設を出て、この近くにあるハンドメイドアクセサリを扱う店に行くことにした。
 八万の行きつけの店だという。
 陳列された商品を眺める横顔をこっそりと盗み見ながら、八万の言葉を反芻する。
(熊に襲われるなんてことが、あるんだろうか)
 たまに、彼の発言が冗談か本気かわからなくなる。その指先が一つのピアスを選び取ったのを見て、思考は一時中断された。
「それ、買うんですか」
 横から覗き込む。爪先ほどの小さな翼が、その手に乗っている。
「ちょっと気になってる」
 翼のイメージは、八万によく似合うと思った。自由な、空。釣井にとっても、彼はそういうイメージだ。
「オレがプレゼントしても、いいですか」
「ん、駄目」
 笑顔を少しも変えないまま断られた。
「や、でもピアス、貰っちゃってるので。お願いします」
 一緒に買い物に行きたいと言った下心は、そこにあった。ピアスを貰ってしまった分、何かを返したい。彼に何かを受け取ってほしい。
 贈る方が頼み込んでいるのも、おかしな話だ。
 八万を言いくるめる自信がなかったので、話の途中でさっさとレジに向かった。
 合わせた様子で会計をする釣井に不審そうな目を向けてくる店員にお札を突きつける。贈り物ですかと聞かれ、確かに贈り物なのだが凝った放送はいらないから首を横に振った。
 会計済みのシールを貼ってもらったら早々に引き取り、八万のところに戻ってピアスを押し付ける。
「もう、買っちゃったので、受け取ってください」
 そこまでやっておいて、釣井は先走ってしまったことを後悔していた。
 気になってるイコール欲しいではない。
 よく考えなくても、こんなことをしたら迷惑じゃないか。ただお礼がしたかっただけで、困らせたかったわけじゃない。一人で突っ走ってバカみたいだ。
 表情を確認する見る勇気がなかったので顔を伏せ、床を見つめながら反応を待つ。
 ため息が聞こえたので、肩がびくりと震えた。
「あんまそういうことしちゃ駄目だよ、釣井ちゃん」
 その声は穏やかで、少しの呆れを孕んでいた。髪の毛をくしゃくしゃにするように頭を撫でられる。
 八万が釣井の指先ごとピアスを受け取る。いつも冷えがちな指先は、八万の手と同じくらいの温度になっていて、走ったあとと同じくらい高揚していたのだとわかる。
「すみません。困らせたかったわけではなくて、何か返したかったんですけど。いらなかったら、オレが使うので」
 受け取ってもらってから言い訳をしても意味がないのに、今更口がよく回る。
「じゃー、なんか食べに行こうよ。そんでそっちは俺が払う」
「はい」
 ちょうど近くに喫茶店がある。
「ピアス、今つけてもいいですか」
「いーよ」
 手洗いを借りて、ピアスを台紙から外し洗い流す。席に戻ってからテーブルに備えてあった紙ナプキンで水気を拭き取る。身を乗り出すと、八万が耳に触れやすいように顔を横に向けて屈んでくれた。
(この間と逆だな)
 あのときは、彼が釣井の耳にピアスをつけてくれた。すでに空けた穴に金属を通しても、痛みも熱もない。八万は釣井に与えたものに気づかないままだ。
 頭の傷を間近に見ながら、片方のピアスをつけ終える。
 もう片側も。
 だが、その前に聞きたいことがあった。
「八万先輩の傷、熊じゃ、ないですよね、たぶん」
 確かめるように一言ずつ、区切って口にした。
 ミズノエ市に熊はいない、たぶん。
 知る限りニュースや目撃情報が出たことはない。それに熊に子供が襲われたというのは、大きな事件だ。釣井が幼かったとしても、もっと大きなニュースになって耳に入っていたはずだ。
 根拠を話し終わりふと顔を上げると、八万が机に突っ伏し細かく震えている。
「ちょ、待って、すげー真面目に考えてんね」
 どうしたのかと思えば、腹を抱えて声も出さずに笑っていた。ここがお店でなかったら、大笑いしていたのかもしれない。
 何が面白いのか分からないまま、釣井は話を続けた。
「言いたくないことだったら、無理に聞くつもりないんです。オレも怪我どうしたのって、聞かれ飽きてちょっとうんざりしてたとき、あったから」
「いや、全然そんな大したことじゃねーよ。真面目だなー釣井ちゃん」
 笑いすぎて涙目になりながら、八万は顔をあげる。
 アイスティーで喉を潤すと、ストローで氷をかき混ぜた。
「ガキんときに階段から落ちたの。そんだけ。熊に襲われたってのは、なんかそっちの方がいいじゃんってなってさ」
 カラカラとグラスの中で氷が回るのを見る。八万は、どこか遠くを見る目をしていた。彼が思い出しているのは、たぶんここではない場所と時間で、それは釣井が知らないことだ。
 他の誰かと、どこかでそんな話をしたことがあったのだろう。それを今でも覚えているのだ。
「いいですね、それ。深刻に、ならなくて」
 冗談めかして、空気を軽くしてくれる。
 何事も気負わない八万らしくて、凄く良い。
「釣井ちゃんは深刻だったけどね」
「う、すみません」
「かなり面白かったけどね。信じた人初めてだったよ」
 反対側をつけるタイミングを逃して、釣井は外したピアスと一緒にもう片方の翼を八万に返した。
 片翼では、飛べない。
 八万に自由を与えられるのは、きっと釣井ではない。

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