意味のない問いを繰り返す


Tidalwave_逃れようのない波
 学校に行くときは外すと決めていたピアスを、いまだに外せないでいる。
 初夏は過ぎ去り季節はとっくに夏になっていた。八万が言った通り、ニードルで開けたピアスホールは安定が早く、痛みや炎症が出ることもなかった。
 痛むわけでもないのに気がつけばふと指先で弄んでいるのは、新しく加わった存在にまだ慣れておらず、受け入れられていないからだろうか。
 学校では教師の目を憚りながら髪の毛を下ろし、耳を隠して過ごしている。
 なら外して家に置いてくればいいのに、はずせないでいる理由を自問する。
 どうして外せないのだろう。人からの貰いものだからだろうか。
 八万と釣井が共有した時間は、それほど長くはない。
 八万には八万の交友関係がある。
 釣井は釣井で、部活動や友人との予定がある。空いた時間は甘いものを食べにいったり本を読んだり、自分の趣味に費やしている。
 学校のどこかで別々に流れている二人の時間が偶然重なったとき、少しだけ言葉を交わす。それはふらりと屋上に立ち寄ったときや、生徒指導室の前で行き合わせるときだった。
 それだけの縁でもあれから何度か遊びに誘ってもらい、時間が遅くなれば泊まることもあった。事前に連絡をしておけば、親に怒られることはない。
 たぶんなんの変哲もない、ただの先輩と後輩の関係だ。
 授業をサボっているときに感じる背徳感や、教師に見つかったらどうしようという緊張。ピアスを開けてもらったときの僅かな熱と痛み。金属の冷たさ。
 八万の広い背中は、釣井が持て余している様々なしがらみなど、なにも感じていないかのように軽やかに歩いている。それが友達といるときとは全く別の形で釣井の心を揺るがせ、袖を引いてここではない場所に連れて行く。
 少し前を歩く背中を見つめるたびに、羨ましくなる。
 姿が見えると足を早めて、声が届く場所に行こうとする。屋上で本を読んでいるとき、もしかしたら会えるかもしれないと思って、読み終わった章の次のページを捲ろうとする。
 ただ傍にいると嬉しいという気持ちだけが確かなものとしてあるから、追いかけることをやめられないのだ。放課後、昇降口から出たところで八万の背中を見つけ、釣井はいつものように早足になった。
 上履きから外履きに替え、履き古したスニーカーに踵を押し込む。
(八万先輩かっこいい靴持ってたな)
 家に遊びに行ったときのことを思い出す。今度一緒に買い物に行ってもらえないだろうか。
 そんなことを考えながら外に出る。
 夏の日差しは影の落ちる場所とのコントラストで、目に痛いほどだ。
 太陽の元に出た瞬間に、目が眩んで視界が真っ白になる。明るさに目をなじませながら、八万の背中に近づく。
 声を掛けるより先に、爪先は前にでていた。
 先輩と口にし掛けた声が、途切れた。
 プリーツスカートの裾を翻して、髪の長い後ろ姿が八万の腕に抱きつき、親しげに肩を寄せるのが見えた。
 中途半端に上げた手に行き場はない。言葉を飲み込む。目を逸らすべきだ。覗き見るべきではない。
 八万には八万の交友関係がある。二人の時間が交わらなかったのなら、別のことをすればいいんだ。釣井は釣井の趣味を。
 読書でもいい、甘いものを食べにいくとか、友達と買い物、いくらでもあるじゃないか。何にも心が定まらないのは、どうしてだ。
 頭の中で、血が轟々と鳴っている。
(立ちくらみ、かもしれない)
 冷たい汗を全身にかいていた。
 逃げるように家に帰る。
 読書もゲームも勉強も、手を付けてみても集中できず、ベッドに横たわる。
 横になった瞬間に、今日見たことを考えてしまう。

 問、親しげに腕に抱きついてくる異性の存在とは。

 仲のいい異性の友達とか、兄妹とか。
 いや普通に考えたら、一番可能性が高いのは恋人だろう。
 恋人くらい、いる。いて当たり前だ。だってあんなに格好いいんだから。
 釣井にすら優しいんだから、釣井以外にだって優しい。
 枕に頭を固く押し付けると、体の中の海が耳の中でざわざわと波立つ音を立てる。読みかけの本を捲っても同じ場所を何度も繰り返し読んでしまう。確かにそのページの文章を一度読んだはずなのに、目が滑って頭の中に入ってこない。
 整理の付けられない問題が、いつまでも頭の中に居座っている。
 一番理解できないのは、問題の答えは既に出ているのに、納得できずにまた考えてしまうことだ。
 八万先輩には、恋人がいる。
 それだけだ。どうしてそれだけで、納得できないんだ。
 眠れない夜、枕の下でラジオが深夜一時を告げる。
 朝まで、ベッドの中で寝返りを打っていた。
 次の日、寝不足のまま学校にいき、授業に集中できないまま一日を過ごした。
 考えごとをしすぎて寝不足で、朝からぼんやりとしている。提示された問題が曖昧なまま始まった思考に、着地点などあるはずもなく、強引に頭から追い出すことでしか解決できなかった。
 その日ばかりは、屋上に行く気にはなれなかった。まだ昨日の出来事が頭の中をグルグルしていて少しも切り替えができていない。
 だがどうしてなのか、会いたいと思うと会えないのに、会いたくないときにばかり行き合ってしまう。
 放課後、校門の前に八万が立っているのを見たとき、後ろ暗いことがあるわけでもないのに動揺し、咄嗟に目を逸らしてしまった。
 別の学年の先輩にこのタイミングで会ってしまうタイミングの悪さを呪う。お前は問題を先送りにしたんだぞと、神様に釘を刺されたような気分になった。
「やっほ〜、釣井ちゃんいま帰り?」
「はい。今日は部活ないので」
「部活してたんだ」
 放課後も自由にしている時間が多いから、帰宅部だと思われるのも無理はない。
「放送新聞部です」
「へ〜」
 意味もなく校門に佇んだりはしないはずだ。
 八万はここで、誰かを待っているんだろう。
 その相手は釣井ではない。わかっているがもしかしてという一片の可能性を捨てられず、釣井は口を開いてしまった。
「一緒に帰り、ますか?」
 緊張して声が跳ねたような気もするし、他人からすれば気づかないほどの微々たる変化だったような気もする。言わなければよかった。声に出したときにはもう後悔していた。
 言葉を、相手の耳に届く前に捕まえて握りしめてしまえればいいのに。
「んー、今日はちょっと待ち合わせしてんだ。ごめんねー」
 頭ひとつ高いところから降ってくる八万の声は、釣井のつむじのあたりをくすぐっていく。頭を撫でてくれる手は心地よく、もう少しだけそのままで居たくて、撫でやすいように頭を下げた。
「誰?」
 後ろから聞こえたのは女性の声だった。姿を確かめなくてもその声の主を知っている。昨日見たばかりだ。
 地面に向いている釣井の視界に、少し短めのプリーツスカートとすらりとした白い足が通り過ぎていく。シャンプーなのか他の何かなのか、女子の甘い香りが鼻先を掠めていった。
 そっと顔を上げる。
「後輩ちゃん。傷仲間なんだよね」
 八万が親指で帽子をぐいと引き上げると、頭に残る古傷の三本線が見える。
「ヤバ。おそろじゃんウケる。一個下か〜、ちっちゃいね」
 わしゃわしゃと両手で髪の毛をかき混ぜる指は細い。
 背が高いその人の胸がちょうど目の高さにくるので、釣井は顔を伏せて、彼女の気が済むまで足元を見ていた。
「じゃ、そろそろいく?」
 犬のように撫で回してくる手からようやく解放されて、釣井はボサボサになった髪の毛を直した。
 二人が歩いて行く方向は、釣井が八万の家に行くときに歩いた道だ。
 その背中に、また意味のない問いを投げかけるのだろうか。
「また明日」
 様々な感情を押さえつけて、釣井はなんとか言葉を絞り出した。
 口約束の〝また〟なんて、いつ来るかわからない。目まぐるしく過ぎていく高校生の一日は、いつだって取り返しがつかない。
 それなのに、釣井はまた次を期待してしまう。
 明日はもしかしたら、八万の時間をもらえるかもしれない。また家に招いてもらえるかもしれない。
 そんな都合のいい巡り合わせを期待して、何度も夢に見る。
 夢は、寝ている間に脳味噌が記憶を整理しようと思っているから見る。らしい。そう本で読んだ。
 小説の中で見掛けただけだから、扱いやすい空想なのか科学なのかわからないけれど、少なくとも釣井はその俗説を信じている。
 八万の夢を何度も見るのは、彼のことを整理できていないからだ。会ったり遊びにいったり頭を撫でられたりするたびに、処理のできない気持ちが心の中に降り積もっていく。
 頭を撫でることに深い意味などない。友達だって撫でていくし、釣井だって友達の髪を撫でる。
 それなのに八万の手が触れたときだけ、心の内がざわざわとする。
 自室に帰って一人になると叫び出したくなるが、近所迷惑を顧みずに叫ぶ度胸はない。代わりに枕に頭を叩きつけて、息を殺す。
 全然、足りない。
 もっと、触れて欲しい。
(なに、考えてるんだ。オレは……)
 髪を撫でてくれた手が耳や首を撫で、体に触れる瞬間を想像してしまう。
 先輩は後輩として可愛がってくれているだけなのに、こんな汚い感情でその優しさを踏みにじっている。
 押し留めたいのに、一度溢れてしまった気持ちが止められない。
 八万の手の平は釣井よりも大きく関節が太くて、乾いている。夢で見たように服の中に手を入れて、直接肌に触れて欲しい。皮膚と骨を確かめるように体の敏感な場所を指先で辿ってほしい。
 手のひらを想像しながら自分の体に触れるのを、やめられない。
 今日もまたきっとあの人の夢を見る。

◇◆◇


 すぐに帰れるように荷物を纏めて、放送室に向かう。昼休みや朝の当番はあるものの、拘束時間が他の部活ほど長くならないのが、放送新聞部の良いところだ。
 渡り廊下に差し掛かるとついグラウンドや中庭を見下ろして、知った後ろ姿がないか確認してしまう。
 校舎から見下ろす視線に、大抵の人は気づかない。遠くにある後ろ姿をこっそりと覗き見たところで得るものは何もない。不毛な行為だが、相手に気づかれないという安心感がある。
 学年も部活も違うにしては、八万 至の姿をよく見かける。よく会う。
 帰る後ろ姿が見つけられれば良いなと思って、また足を止めてしまう。
 だが探し人は校庭ではなくて思ったよりも近くにいて、釣井には心の準備をする余裕がなかった。
「あ、釣井ちゃんだ。一緒に帰る〜?」
 八万が、手の届きやすい高さにある後頭部を撫でていく。
(オレで良いんですか)
 頭の中に、甘い匂いを纏う女子生徒の姿が掠めた。一緒に帰りたいと思っている人が他にいるのではないのか。金曜日の放課後に帰路を共にするのにもっとふさわしい相手が。
 だが、今こうして声を掛けられたのは釣井だ。優先すべき誰かを差し置いて、言葉を交わしているということが嬉しい。同時に、そんな風に八万に選んでもらえたと感じていることを浅ましいとも感じていた。
 きっと先に釣井の方に出会ったということ以上の理由はなく、偶然ここに立っていたことが幸運だったのだ。
 腹の辺りが、石を一つ入れているように重たい。それなのに体がふわふわと浮いているように、落ち着きなく前に出ている。
 昇降口に、体が向く。そちらは放送室ではない。
「オレ、今日は部活の当番があって」
「そっか。じゃ、また来週」
 用件がある人間を引き止める理由が、八万にはない。釣井と予定が合わなかったとしても別の人間がいるし、一人でも構わないのだろう。
 交わらなかった時間を惜しいと感じるのは釣井だけだ。
 だから引き止めるのは、釣井でなくてはいけなかった。
「でも、今日スイッチ持って来てて!」
 もう一度こちらを向いて欲しい。
 裾をつかもうとしたが、躊躇って手が止まる。いつも釣井は一歩踏み出せず、着地点を見失った指先を、二人の間に横たわる距離の真ん中に彷徨わせる。
「あー、ゲーム」
 釣井は伸ばした手を引っ込めて、肩に掛けたスクールバッグの紐を握り締めた。
「金曜だし、ちょっと夜更かししても平気だから、一緒にやりませんか。当番は、すぐ終わりますから。待たせないです。あっ、でも待ってなくてもいいので」
 八万は振り向いて、首を傾げた。
「じゃ、うち来る?」
「行く! 行きます行きたいです。本当に、オレ行って、いいんですか?」
「良いも何も、前に来ただろぉ」
 なに緊張してんの、釣井ちゃん。そう言いながら、八万は釣井の頭を撫でた。
「すぐに当番終わるので、待っててください!」
「はいはい」
 ひらりと手を振って、八万は釣井を見送った。
 釣井には苦手なものがいくつかある。理系科目と、辛いもの。課題や先生に怒られること。あとは血の色や匂い。
 それから暑すぎる夏。太陽の光と、肌を焦がすような日差し。
 待っている人がいなければ、その中に踏み出す足取りは、軽くなったりしなかっただろう。足取りは軽くとも重たく首筋に纏わりつく湿気と気温で、小走りになるだけで首筋に汗が滲む。
「ごめんなさい。お待たせしてしまって」
「放送の声、釣井ちゃんだったんだ」
 暑い。体が熱を持っている。
 頭がくらくらして、鈍くなった思考がとんでもなく馬鹿なことをうっかり口に出しそうで嫌になる。
「はい。よく、当番代わってもらうので」
 校内放送をするのが好きだ。スイッチを押し、壁越しに自分の声が少し遅れて校舎に響くのを聞きながら喋る瞬間。声が美しく聞こえていることを意識する。
 自分のことがあまり好きではない釣井だが、唯一放送室の中にいるときは好きでいられて、自信を持つことができる。
 それなのに、今日ほど早く当番の時間が終わって欲しいと思ったことはなかった。
 ゲームにそこまで熱烈な情熱を持っていたわけじゃないはずなのに。
 好きなんだねぇ、と呟く八万の言葉に胸がざわざわとする。
 歩き出した背中を追いかける。
 早足になる釣井の靴音のリズムは、心臓の鼓動と速度を同じくしている。
 八万の家に向かう道を最初に歩いたときはまだ春と夏の境目だった。あのときは日が暮れるのが早く、夕日に照らされていた。今はもっと深い時間にならないと、太陽の光は赤く滲みもしない。
 短い影を落とす道を、汗をかきながら歩く。
 もう道は覚えている。少し足を早めれば隣に並ぶことができる。だが釣井は、背中を見ながらついていくのが好きだった。
 八万は生徒指導室に呼び出されるときも家に帰るときも、同じように軽やかに歩いていく。
 その後頭部を見上げながら追いかける釣井は、いつもより少しだけ歩幅が広くて胸を張って歩けている。自信がある人間になったみたいだ。だから、後ろでいい。
 あの日の八万の恋人も、この道を歩いたのだろう。きっと彼女は後ろではなく隣にいただろうし、腕を組んだ二人の歩幅は噛み合っていて早足になる必要もない。
(先輩が歩幅を合わせてくれなくてもいいし、こっちを見てくれなくてもいい)
 ただその背中を見ていることを、許してくれれば。
 八万が不意に振り向いた。
 視線の熱さが届いたのかと思って目を伏せ、スマホを見ている振りをしてしまった。画面に通知なんて何も来ていない。ただ、現在時刻が表示されているだけだ。
「あ、そだ。この間さ」
 その話を、今は聞きたくない。
 あのとき釣井の頭を戯れに撫でていった女性生徒だって、悪い人じゃない。それなのに思い出すと嫌な気分になっている。そんな自分が嫌になる。
「門限とか、大丈夫だった」
 八万の口から飛び出してきたのは、想像していたのと全く別の話題で、一瞬何のことかわからなかった。
 前に遊びにいって、帰りが遅くなったときのことを言っているのだ。
「大丈夫です。大丈夫でした」
 本当は大丈夫ではなかった。日付が変わる時間に近くなって帰宅した釣井は、両親にこっぴどく怒られた。
 嘘をついてしまったという苦々しい感覚が、釣井を責める。両親にも申し訳ない。心配を掛けたいわけではないのだ。
「へー、結構ゆるいんだね。明日休みだし、ついでに泊まってく?」
「いいんですか?」
 なんて連絡をすれば許してもらえるだろう。家に帰ったら、どう言い訳をしよう。本当のことを言った方が良かっただろうか。そんな色んな考え事が吹き飛んで、釣井は即答していた。
 夕食は道すがら、買って帰る。食事をジャンクフードで済ませるのは、普段しないから、罪悪感の分ワクワクする。ハンバーガーショップでもサイドメニューのアップルパイを追加したので、八万に笑われた。
 寝巻きは持ってきていないから貸してもらったのだが、八万が着てもオーバーサイズのシャツはワンピースの丈になった。
 ゲームをしているとあっという間に、夜が更けていく。
 つけっぱなしのテレビから、公共電波のおしゃべりが垂れ流されている。
 深夜と言われる時刻になった中で、八万は部屋の電気を消し、音量を消して寝る姿勢に入った。釣井も家主に習って布団に潜り込む。枕に頭を預けたときに他の人間の香りがするような気がして、過剰なくらい慎重に息を吸い込んだ。
 八万以外の誰かのための充電器は、予備の布団を敷いたときにちょうどいい場所にコードが来る位置に差しっぱなしになっていた。釣井が使っているのと同じ機種だ。
 家に置いてあるCDや学校のこと、テレビに出ている芸能人やコマーシャルの新商品。益体もないことを話しているうちに、微睡が増して徐々に口数が減っていく。はしゃぎ過ぎて疲れていたが、同じくらい目が冴えていた。
 しばらく前から八万は無言だ。寝ている場所はベッドといっても高さがないから、マットレスの高さくらいしか釣井と距離は隔たっていない。毛布の外に出ている指にそっと手を伸ばした。力の入ってない指先は緩く曲がっている。
 軽く引っ張ると八万が身動ぎをしたので、慌てて手を引っ込める。
「ん……どした?」
 体が釣井の方を向いて、気がついたようにつけっぱなしテレビのスイッチを切る。
 息を吐き布団に身を落ち着け、いよいよ寝る体勢に入ったらしかった。
「もう、寝ちゃったのかわからなくて」
「あはは、なにそれ」
 いつまでも話していたいような気もするし、八万がそこにいるという安堵を胸に抱いたままずっと眠っていたいような気もする。
 会話がなくなると夜は静かで、突然に孤独になったような寂しさを感じてしまう。
 昼間よりもワントーン低い声が答える。
「じゃ、寝落ちるまで話す?」
「お願いします」
「放送新聞部って、休日活動とかないよな」
「はい。でも大会はあるんですよ」
「あ、そなの。何してんの」
「部門がいくつかあって。アナウンスとか朗読とか。あと作品を作って応募したりとかもできます。オレは朗読とアナウンスにでます。優勝すると甲子園いけるんで」
「甲子園?」
「甲子園のアナウンス、放送大会で優勝した生徒がしてるんですよ」
「へー」
 喋り過ぎていると思った。普段の釣井は、こんなに饒舌ではない。相手に伝えるべき自分を見失って、すぐに口籠ってしまう。この時間を途切れさせたくなかった。眠りに落ちかけて、いつもより低い声で喋る八万の相槌をもっと聞きたい。
「ニュースの声とか、聞くの好きで。オレもアナウンサーとか人に声を聞かせる仕事がしたいって思ってるんです。オレなんかが届くかわからない、狭き門だってわかってるんですけど」
 夢を語った気恥ずかしさを隠すように、現実を付け加える。今の釣井では実力も学力も足りていない。それはわかっている。
 人に否定されるより、自分で否定した方が心が楽なのだ。
「いいじゃん。なんか聞かせてよ」
「じゃあ、課題の本読みます」
「暗くない?」
「電書なんで、平気です」
 寝ている姿勢も、苦にはならない。仰向けになると腹式呼吸を意識しやすい。
 マイクはないから、距離は意識しなくてもいい。吐息が耳障りを悪くするから、息は深く太く吸い込む。横隔膜を意識して、声が揺れないように腹筋でしっかりと支える。アクセントが頭に集中して呼気が鼓膜を叩かないように、喋り出しの発音は柔らかく。音は甘くなるように。
 放送室にいるときに感じるのと同じ高揚と緊張。
 釣井は課題本の中でも、一番お気に入りのページから始めた。
 読み終わる頃には、八万は目を閉じていた。
「おやすみなさい、先輩」
 小声で話しかけても返答はない。安らかな寝息が聞こえている。
 スマホの画面を暗くして、枕元に戻す。
 横を向けば八万の顔がある。
 憧れと尊敬の入り混じった感情を向けている人の無防備な表情を見ると、何故か胸の奥がぎゅうとする。いよいよ眠れないような気がして、釣井はもう一度八万に手を伸ばす。指先をそっとつかんでも、反応はなかった。
 爪の形。指の形。関節の太さを、暗闇の中で手探りで確かめる。
 片手をそっと引き寄せる。眠ったばかりの人を起こさないように、慎重に。
 借り物の布団から身を起こすと、釣井はベッドの縁まで引っ張り出した八万の手に顔を近づけた。頬を摺り寄せ、手のひらにゆっくりと唇を落とす。
「八万、至……先輩」
 二人の間にある距離を見失わないように、先輩という言葉を付け加える。
 この手のひらで、何度でもその名前を呼びたい。
 頬を寄せながら、釣井も気がつけば眠りについていた。
 体に先駆けて意識が覚醒する。
 波間に漂っているような心地よさに揺られ、深い眠りに落ちたまま動かない体で夜明けの物音を聞く。まだ目蓋は開かない。
 微睡の向こうに、人の気配を感じた。身に馴染んだ自宅の匂いではなかったが、不思議と安心できた。
 頬に触れる体温が心地いい。それが動いたのが、釣井の意識を呼び戻したらしかった。頬にあった手が、後頭部に移動し髪の毛を撫でる。刈り上げを撫でた手の大きさと感触が、ぼんやりとしていた昨晩の記憶を浮上させた。
 無防備な手の平の頬を寄せて名前を呼んだ。肌に触れる体温が心地よく、そのまままぶたを閉じた。そこから先は眠りに落ちて記憶にない。
 ベッドの上で体重移動をする布ずれの音がする。
 普段の寝起きの悪さが嘘のように、釣井は飛び起きていた。
 肩に布団をかけようとしていた八万と、ぶつかりそうになる。顔の近さに顔が赤くなる。限界まで後退り、端に寄せてあった机に頭をぶつけた。
「あ、あの」
 テーブルの上で倒れて転がり落ちてきたペットボトルを手に取り、寝起きで乾いた口を潤す。妙な体勢で寝ていたから、体があちこち痛い。
 あの奇妙な格好を見られてしまったわけで、なんと言い訳をしたらいいだろう。頭がまだうまく動かない。
「オレ、顔洗ってきます」
 立ち上がり洗面所に向かおうと立ち上がった釣井は、ズボンの裾を踏んで転んだ。八万から借りた寝巻きはサイズが大きすぎる。
「朝から元気だね、釣井ちゃんは」
 寝起きの八万は、まだ眠たそうにしている。
「すみません、騒がしくて」
 八万にも、そして下の階の人にも申し訳がなかった。
 寝起きから醜態を晒してしまったことに気恥ずかしさはあったが、朝の大騒ぎで釣井の奇妙な行動はうやむやになった。
「釣井ちゃん、変な格好で寝てたね」
 うやむやにできていなかった。
 借りたジャージのジッパーを上までひっぱり、襟で鼻まで覆い隠した。体も痛い。人の体温を感じながら寝るのが好きなのだと気づいたのはごく最近。臨海学校に行ったときだ。
 音量を絞ったラジオの音や音楽よりも、気持ちよく眠ることができる。
「ちょっと寝ぼけてました」
「体痛くなってね?」
「大丈夫です」
「若いもんな」
 八万だって、ほぼ同じ歳だ。
 釣井が長い裾を持て余しながら洗面台に向かい、顔を洗って身支度を整えている隙に朝食が用意されていた。
「先輩は、料理できるんですね」
 ホットケーキが上手に焼けるかどうかで一喜一憂しているレベルの釣井は、きっと一人暮らしなんてしたらすぐに食べるものがなくなってしまうに違いない。
 恐縮しながら、手を合わせた。

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