まだ燃えもせぬ小さな火花が


Tidalwave_逃れようのない波
 桜の名残は街から消え、ミズノエ市は五月を迎えていた。若葉の色は日の光を浴びて瑞々しく輝き、道に木漏れ日を投げかけている。
 朝夕になるとまだ気温はぐっと冷え込むが、昼間になると初夏と形容するにはいささか暑すぎる日差しが照りつける。寒暖差に振り回されるのは、海から遠い内陸県の宿命である。
 釣井 忍はこの四月に高校生になった。
 なんとか希望通り、ミズノエ高校に進学することができた。公立ながら市内では偏差値が高い進学校だ。
 新しい環境と見知らぬ人たちの中で、馴染むのに必死になっているうちに最初の一ヶ月は過ぎていた。そうこうしているうちに早くも中間テストの時期が迫ってきているし、その前に臨海学校という大きな学内イベントを控えている。
 放課後の部活動を終えたあとは、真っ直ぐに駐輪場へ走る。
 課題に手が回っていないから、今日は寄り道せずに帰って勉強しないといけない。教科書とノートが重たい上に、図書館で本をたくさん借りてしまったから、籠に突っ込んだスクールバッグは重くて、こぎ出しにふらついた。
 汗がにじむ。
 下り坂に辿りついてしまえば、しばらくは重力に身を委ねていればいい。坂道を勢いよく下るときに額を撫でて行く風が心地よく、目を細めた。
 スマホが震える。
 メッセージを確認する。
 あとで返事をすればいい内容だった。ポケットにスマホを押し込み顔を上げる。
 横断歩道の信号が赤に変わっていた。
 交差点にはトラックが迫りつつある。慌ててハンドルを握り込むが、重たい荷物を載せた自転車のブレーキの効きは鈍い。無理やりタイヤの回転を止めようとする、耳障りで甲高い音が響き渡った。
 自転車は止まらない。
 慌ててハンドルを切ると、籠の重さに引っ張られて、自転車が倒れる。
 路肩のコンクリートブロックが迫ってくるのが、やけにゆっくりと感じられた。
 減速した世界は衝突と同時に元の速度に戻り、釣井を置き去りにする。
 衝撃。
 それは、釣井の世界が変わってしまった瞬間だった。
 痛みで体が動かなかった。
 額に心臓が移動してきたようだ。鼓動に合わせてドクドクと脈動している。熱く感じる額を押さえ、体を丸めた。指の間から血がだらだらと垂れて、指先を濡らしている。
 人の声がした。誰かが釣井に呼びかけている。
 心配して声を掛けてくる存在は感じていたが、まだ声を出すことができず、指一本動かせずにいた。
 痛い。それだけで頭がいっぱいで、呻き声しか漏らすことができない。
 気がついたら、救急車のサイレンの音が近くに来ていた。
 何を聞かれ、何を答えたのかよく覚えていない。名前とか年齢とか。あとは家族の連絡先とか。あれこれ、聞き出された気がする。
 搬送される間、釣井はずっと痛みに涙を流して、涙と血が混ざり合ったもので顔をぐちゃぐちゃに濡らしていた。
 気がつけば病院で、仕事先から駆けつけた両親と一緒に怪我の状態についての話を聞いた。
 幸いなことに、見た目の派手さに比べて怪我はそこまで深刻ではなかった。ただ頭をぶつけていたので検査をして結果を見る必要がある。
 それに目元の傷だったので、しばらくは生活が不自由だった。
 だが、若いから怪我の治りは早いでしょうという医者の言葉の通り、次の通院のときにはもう傷は安定していて抜糸ができる状態になっていた。まぶたの皮膚の薄いところはサージカルテープで止めてあり、剥がすときに皮膚が引っ張られる感覚がある。
 眉毛のすぐ上のあたりで鋏が動くので、背筋がぞわぞわとした。膝の上で握りしめていた手が、所在なさげに爪先を弄んで糸を抜き終わるまでの時間を耐えた。
 釣井は数日ぶりに、右目で外の世界を見た。
「傷痕は残るんですか?」
 そう聞いたのは釣井ではなく、付き添いで来ていた母だった。鏡がないからガーゼを外したときの自分の顔や傷跡がどうなっているのかわからない。怖いから家でも親に交換してもらって、自分で傷口は見ていなかった。
 放任主義で大雑把だと思っていた母が、柄にもなく出した心細い声色で、わけもなく不安になった。
 今ほど目立たなくはなるが、傷痕は残る。それ以上の治療となると、外科ではなく皮膚科や整形外科の分野になるから、傷が治癒してから改めて該当科を受診することになる。
 医者の答えは淡白だった。
 淡白と感じたのは釣井が怪我の当事者だからで、わかっていることを誤解ないように正確に伝えられただけだ。
 軟膏を塗って傷を保護したら、その日の診察は終わりだった。
「忍、前みたいにしなさいよ」
 待合室の椅子に座って会計を待っているときに、母が言う。最初、なんのことを言われているのかわからなかった。
「頭、中学のときみたいに。そしたら傷も目立たないでしょ」
 高校生になって髪型を変えたし、ピアスを開けた。それらの変化を、両親は軽く流している風に見えたが、許してくれているわけではなかったのだと、今更ながらに気がついた。
 顔を隠す重たい前髪を思い切って後ろに流したときなど、高校デビューじゃんと揶揄うように言われたものだ。嫌な言い方をするなと思ったが、あれは紛れもなく嫌味だったのだ。
「別に、オレ気にしないし」
 正直なところ気にしていた。
 だが自分で選んだことを否定的に言われると、意地でもこのまま貫いてやるという気持ちになっていた。
「派手な格好して。すぐに飽きるわよ。あんた向いてないもの」
 母はすぐに結論を出し、断定する。困ったことにそれは大概が正しいのだが、今回ばかりは予想が外れていた。
 母は、釣井の胸の中にある憧れを知らなかった。
 そして釣井自身も無自覚で、それを親への反抗心としか考えていなかった。
 ピアスもオールバックも似合っていないのはわかっている。外見に性格が追いついていない。釣井は内向的で人見知り、そして臆病だ。
 だがそれでもああなりたいという人がいて、その憧れを諦められないでいる。
 初めて見かけたのは、入学式のときだった。
 なぜか入学式に参加する新入生と同じ時間に校門のところにいて、遅刻だというのが先生の怒声でわかった。釣井は自分が怒られているわけでもないのに、怒声を聞いたらそれだけで萎縮してしまう。
 だがその人は笑って先生と話していたし、甘えるように顔の前で両手を合わせて謝ると、手を振ってのんびりと教室に向かっていた。
 その背中は、軽やかだった。
 反抗するでもなく自分の意思を折るでもなく、柔らかく受け止めてなんでもないように流してしまう。
 その生き方が羨ましかった。釣井にはないものだった。だから憧れた。
 変わるなら、あんな風に変わりたいと思った。
 外見だけそれらしく繕ったところで、中身が変わるわけではない。それでも憧れの火がまだ胸の中から消えていない。
 似合っていないと言われても、傷を隠した方がいいと言われても、今の見た目を変えるつもりはない。
 それは釣井の反抗期が、初めてまともな形になって表れた瞬間だった。
 抜糸からさらに数日後には、額のガーゼが取れた。
 まだ傷が突っ張る感じはするものの、運動しても問題ないと医者からも言われている。
 痛くはないが、顔を洗うときに指先が触れる。ひきつれの感触とまだ敏感な皮膚に物が当たったことの両方に驚いて、寝巻きがわりのジャージをびしょびしょに濡らしてしまった。
 ため息をつきながら、脱いだ服を洗濯機に突っ込む。
 いつもより早めに家を出なければいけないのに、余計な時間のロスだった。
 自転車は使える状態だが乗るつもりにはなれない。怪我した直後は親に送ってもらっていたが、今日からバス通学だ。
 学校に着いて昇降口に向かったところで、鰐川と上村が話しているのを見つけた。
 高校に入ってからできた友人で、二人とも背が高いから揃って並んでいると釣井にとっては壁だ。見た目が派手な二人だが、中身は優しいし至って真面目な性格をしている。
「おはようございます」
 声を掛けると二人揃って振り向いた。一瞬ガーゼの取れた傷口に視線がいったが、すぐにきちんと目があった。
 鰐川が、普段通りの笑顔で片手を上げた。
「おはよ。男前になったな」
 その気遣いが嬉しかった。痛ましいものを見る目で距離を置かれると、どんな顔をしたらいいのかわからなくなってしまう。その手の同情は、怪我した直後の一週間でたくさんもらって食傷気味だ。
「心配しただろ」
 上村が腕を乗せるのにちょうどいい高さにある釣井の肩を捕まえて、朝セットしたばかりの髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回す。
「すっげー痛かった、です」
 柄になく砕けた口調は、そうやって強い誰かの言葉を借りなければまだ怪我の痛みを思い出してしまいそうになるからだった。
 幼なじみの平は休みのときに顔の傷ができた釣井と既に顔を合わせていたから、いつも通りに教室に入る釣井を受け入れてくれた。
 そうやって思ったよりも簡単に、日常に帰ってきた。
 そうなると救急車に乗ったという思い出はいい話のネタなのだが、ずっと目を瞑っていたからろくに記憶に残っていない。
 もともと柔らかい印象の顔立ちではなかったが、傷ができたせいで余計に印象が厳つくなったような気がする。
 病院で額に貼り付けられた大袈裟なガーゼは、しばらく免罪符として機能してくれていた。それがある間は体育の授業は見学でも許されたし、注意力散漫でも見逃された。しかし免罪符の効力は儚い。もうガーゼは剥がれてしまい、体育はともかく座学をするにはなんの問題もないことははっきりしている。
 一週間もすると釣井は早速、職員室に呼び出されていた。
 扉の前までやってきたはいいが、中に入るのを躊躇った。
 何の用件で呼び出されたのかは明らかにされていないが、滞納している課題の件に違いない。半分が手付かずで残っているから、今日のところはいかに締め切りを伸ばしてもらうのかの交渉が鍵になってくる。
(どうしよう。何が最優先だ。英語……? 時間掛かるから数学かな)
 うまい言い訳を思いつかないし、諦めて中に入る勇気も出ない。
 誰だって怒られるのは嫌だ。怒られるようなことをしているのは、釣井なのだが。
 扉を開ける勇気が持てず、上履きの爪先をじっと見つめて心の準備をする。
 視界の端に別の上履きが映った。
 邪魔になるなら先に道を譲ろうと、一歩退がる。
「釣井ちゃんも呼び出された?」
 ひらと手を振ったのは、一つ上の学年の八万至だった。部活動も被っていない先輩の顔を見知っているのは、以前も同じようにここで顔を合わせたからだ。
 そのときにお互いに名乗ったが、実はその前から彼の名前と顔は知っていた。入学式のときに見かけたこうなりたいと思う相手であり、釣井の憧れの人だったからだ。
 生徒指導室の常連でもあるらしく、放送当番などしていればすぐに顔と名前は一致した。
 それに彼は目を引く――というより奪うような外見をしていた。表情豊かで余裕に満ちた目元は、捕食者のように挑戦的だ。
 頭ひとつ分背の高いその人を間近にしたとき、最初は足が竦んだし、恐ろしく感じられた。だが話してみれば気さくな優しい先輩で、その人柄に触れて余計に憧れを強くした。
 本当は見習ってはいけないのだろうが、自動販売機にいくような気楽さで職員室に入っていく姿をみると、あんな風になりたいと思う。少しばかり背伸びをした外見で見栄を張ってみても、内向的な小心者がすぐに変われるわけではない。
 目が合うと、八万は片眉を上げた。
「あれ〜、前そんなのあったっけ」
 とんとんと指で示したのは額だ。
 怪我しているときは色々と許されていたから、事故のあと呼び出されるのは初めてで、久しぶりに先輩と顔を合わせる。
「自転車で転んで、やっちゃいました」
 しかも不注意から来る単独事故である。人に迷惑を掛けずに済んだことだけは、不幸中の幸いだった。
「自転車ァ? やば、絶対いてーじゃん」
 気遣いはあっても、話したこちら側が申し訳なさを覚えるような深刻さはない。
 そう話す彼も、側頭部に傷痕がある。爪で引っ掻いたような三本線の由来は知らない。だが、そこだけ髪が生えてこない分、釣井の怪我より目立った。
「お揃いですね」
 八万がそうしたように、額を指で示す。
「確かに。オソロ同士傷舐め合っちゃう〜?」
 取り出したスマホは、釣井の顔の高さにある。
 画面にQRコードが表示されていた。スマホをかざそうとすると胸の高さまで降りてきて、カメラを向けやすい位置になった。
 読み取るとラインの連絡先が画面に飛び込んできた。適当なスタンプを送りつけると、登録名を見た八万が本名じゃんと笑った。
 ただ顔を合わせるだけだった先輩と、連絡をとるようになったきっかけは、たったそれだけのことだった。
 憧れが思わぬ近さに飛び込んできて、胸が踊った。

◇◆◇

 暦の上では初夏のはずなのに、晴天から降り注ぐ日差しの下にいると首筋から汗が滲む。襟元がじりじりと音を立てて、焼けつくような気すらしてくる。
 日が当たるところでは眩しすぎて、読書もままらない。日陰に移動した。影に入ると照り返しの明るさが、読書にちょうどいいくらいの明るさになる。
 炙られて灼けたコンクリートは、夏の匂いだ。
 自販機が吐き出したばかりのペットボトルは、あっという間に汗をかいて水浸しになる。気温に冷たさの全てを奪い取られてしまう前に、首筋に当てて涼を取った。
 ワイシャツの襟元が濡れたが、それすらも心地よく感じた。階段を登ってきた体の熱が引くと、風を涼しいと感じるようになってきた。
 一息ついてから、制服のポケットに突っ込んであった文庫本を取り出した。古本屋で手に入れたそれは、裏表紙に百円の値札シールが付いたままで、開くと中指の腹に当たる。
 古本は適当に扱っても、もったいない感じがしないからいい。
 予鈴はしばらく前に鳴っていて、生徒は屋上にいてはいけない時間帯だ。わかっていても、どうしても本の続きが気になるのだ。栞がわりのレシートを、ページの間から引っ張り出す。
 物語の世界に没入しようとしたとき、屋上のドアが開く音がした。こんな時間に生徒が屋上にくるわけがない。
 本を閉じ、腰を浮かせた。見つかったらまずい。呼び出し待ったなしだ。
 逃げる場所も隠れる場所も見つけられずにいると、階段小屋の影から現れた人影が釣井を見つけた。
 制服。先生ではない。
 顔を見上げる。そこにあるのが八万 至の姿だったので、安堵の息を吐いた。
「八万先輩」
「なぁにしてんの」
 笑いながら隣に腰を下ろす。今の時間に屋上で快適に過ごせる場所は、そこしかないからだ。
「どうしても、続き読みたくって」
 手に持っていた文庫本を見せる。
「留年だけはすんなよぉ」
 冗談か本気かわからない調子で笑いながら、手にしている本を覗き込む。顔を寄せた八万が、ふと何かに気づいたように釣井の横顔を見た。
「釣井ちゃん、穴開いてっけどつけてないよね」
 耳を指す。そういう八万の耳には、ピアスが付いている。
「学校なので、一応」
 それでも呼び出されてばっかりで、服装を整えたところでどれほど内申に貢献しているのかわかったものではない。
「本当はもう一つくらい開けたいんですけど、昼間外してるからか、穴が安定してくれなくて。ちょっと怖いんですよね」
 痛いのも嫌だが、血が出るのも苦手だ。臭いを嗅ぐだけで気を失いそうになる。
「あー、ピアッサー?」
「はい。自分で」
「ニードルの方が向いてんのかもね」
「やってみたくはあるんですけど、針刺すのが怖くて」
 自分で見えない場所に穴を開けるというのが怖い。スタジオで開けてもらえばいいのだが、そこまでのお金もない。
「やってやろっか?」
「……いいんですか」
 経験者にやってもらえるなら、いうことはない。
「いーよ」
 交換したばかりのラインで放課後に連絡を取り合って、合流してから家にお邪魔することになった。知り合ったばかりなのに、いいのだろうかという不安はある。
 だが八万の言葉には、気にしすぎる性質の釣井ですら本当に構わないのだと思わせるだけの説得力があった。そういう部分も含めて、彼の人柄の良さなのだろう。
 次の授業にはちゃんと出席するために、予鈴を合図に教室に戻る。
 成績はお世辞にもいいとは言えないが、さぼるのは出席日数が足りる程度に留めていた。怪我や病気で止むを得ず休むことがあるから、少し余裕を持たせる。怪我で休んでしまったから、しばらくは真面目に授業に出ないといけない。
 まだエアコンの使用が許可されていない教室内では、全開にした窓から吹き込む風だけが唯一の涼だ。使い込まれて汚れたカーテンの裾が翻るたびに、窓枠に切り取られた鮮やかな外の景色がチラつく。
 外では体育の授業をしているようで、定期的にホイッスルの音とボールか何かを叩く音が聞こえ、空気を読まない廃品回収車がいつもと一言一句変わらない文言を垂れ流しながら通り過ぎていく。
 釣井は開いて立てた教科書を目隠しにして、机の上に文庫本を広げていた。教科書の白いページと並べると、縁が黄ばんでいるのがよくわかる。読み切ってしまうつもりで前の授業を休んだのに、ろくに進んでいなかった。
 つい八万と話し込んでしまったせいだ。自分でも意外なほどに、読書の中断をされたことを気にしていなかった。むしろ今も、本の内容よりもスラックスの中で震えたスマホの方が気になっている。
 画面を確認する代わりに、ピアス穴に触れた。指先の比べて耳たぶは冷たい。学校にはピアスをつけてきていないから、小さな穴があるというのが感じられるだけだ。
 今日ここにもう一つ穴が開く。放課後にファミレスに寄るような気軽さで決断できてしまった。慣れたからなのか、わかってくれている人がいるという安心感があるからだろうか。
 最初にピアスを開けたときは、心の準備が必要だった。あのときは一人でやらなければいけなかったし、初めてだから怖かった。
 首筋には屋上から持ち帰った熱が残っている。少し日に焼けたのかもしれない。
 インドア派で運動部よりもワントーン肌の色が明るいから、クラスメイトよりも一足先に夏の色になるくらいでちょうどよかった。
 もう一度ポケットの中で、メッセージが届いたことを知らせる通知が、マナーモードの振動のみで感じられた。釣井は文庫本とスマホの場所を入れ替えた。思った通り八万からだった。
 メッセージを開いた途端に表示されたスタンプを見て、にやけた口元を手で隠す。ちらりと教師の様子を確認する。黒板に向かって板書をしているところで、にやけ顔は見られずに済んだ。
 お返しとばかりにネタスタンプを送り返す。何往復かあとに、動画のURLが届いた。音を消しているから大丈夫だろうという根拠のない自信でリンクをタップする。
 昼下がりの気怠い教室に、釣井のくぐもった笑い声が響き渡った。
 無論、授業が終わってから呼び出しを食らった。

◇◆◇


 職員室に向かうと、珍しく八万の方が先にドアの前にいる。
「やっほー、釣井ちゃん」
「また、お会いしましたね」
 なんとなく原因が察せられる釣井は、含み笑いで応じた。
「放課後になる前に合流しちゃったな。このまま一緒いくか」
 八万は呼び出されたことなど、なんでもないかのようだ。実際あまり気にしてはいないのだろう。教師に一通りの注意を受けたあと、呆れたようなため息と共に解放された。
 いつもと違う道を歩くと、実際より長く感じる。
 ファーストピアスを買いに店に寄ったついでに、お菓子と飲み物をいくつか買い込んだ。ビニール袋を手にぶら下げて歩き出した八万に、荷物くらい持ちますよと言うこともできず、後ろをついて歩く。
 二人横並びになると人とすれ違えない広さの歩道で、しばらくは横に並ぼうとしたが追いついたり後ろに下がったりして歩いているうちに、後頭部を見ながら歩く位置に落ち着いてしまった。
 冬の間に剪定され、まだ枝葉の生えそろっていない街路樹は、斜めに差し込む日差しを幹で遮って、歩く道をストライプにしていた。
「ついたよォ、ここの五階ね」
 少し先にある建物を示す。腕を上げた拍子に、ビニール袋がガサと鳴った。
 そこは釣井の知識で見る限り、単身者向けのマンションだ。
 高校生が一人暮らしであるということに、ささやかな衝撃を受けた。
 おそらく一人暮らしをしている高校生自体は、友達にもクラスメイトにもいるんだろう。釣井も進学をしたら地元を出るから、一人で生活を始める。だがそれは、もっとずっと先のことだ。親掛かりで生活している身の上では、学校に行って遊ぶ時間も確保した上で、どうやって生活を保っているのか全くわからない。
 釣井には、自力で生活をしていることが、一足先に大人になっていることの証左のように感じられた。
「お邪魔します」
 控えめに声を掛けてから、玄関に入って靴を脱ぐ。他人の家に入ると匂いが違う。別の人の生活空間に、入り込んでしまったのだというのがわかる。
 昼間の間ずっと締め切られていた室内は、静かで空気が淀んでいる。
「奥、座っといて。あ、やっぱり窓開けといて。まだ夏じゃないのにアチーよね」
 八万は袋の中からアイスを取り出して、冷凍庫に投げ込む。
 釣井はその後ろを通って、恐る恐る八万の部屋に上がり込んだ。
 おもてなしされているばかりでは悪い。何かしなければと思うのに、やってもらってばかりだ。焦ったところで、初めて入る他人の家で具体的に行動できる何かがあるわけもなく、部屋の中を見回して窓を開けた。
 風が首筋を撫でていく。
「痛くなったらアイスについてた保冷剤だすから」
「はい」
 テーブルの上に、買ってきたお菓子とペットボトルが二本乗る。
「ちょっと準備するから、待っててー」
 手持ち無沙汰を埋めるために、炭酸のペットボトルのキャップを捻る。空気が抜ける音が、釣井を失笑しているように聞こえた。小心者で気にしすぎるくせに、気遣いができるわけではない。
 普通にしていればいいんだ。自分に言い聞かせる。
 それこそ本でも読んで待っていればいい。それを思いついた頃には、準備が終わっている。
 耳に触れられるように、隣よりも少し近い場所に八万が腰を下ろした。
「釣井ちゃん、ヤベー緊張してない?」
「血が苦手で」
 それは本当だ。臭いだけでも無理だった。緊張の理由は、それだけではないような気がしたが、口には出さない。
「たぶん、そんな出ないから」
「目、閉じててもいいですか」
「開ける場所決めたらいーよ」
 耳たぶを消毒液が拭い、ひんやりとする。最初のピアスホールの隣に、マーカーをつける。ニードルの先端の鋭さが目に入る前に、目を閉じた。
 位置を確かめるように、耳たぶを触る指。
 あまり意識しないように、別のことを考えようとしたが上手くいかなかった。針の先端が皮膚を破るぷつりという感覚のあと、金属の冷たさがするりと肉の内側を撫でていく。ファーストピアスが穴に押し込まれるときも、痛みは感じなかった。ただ圧迫感はあった。
「痛くない?」
 その声は思ったよりも顔に近い場所で聞こえた。
 首を横に振ろうとして、押さえられている耳たぶが引っ張られる感覚がある。まだ動かしてはいけなかったらしい。
「今、首振ろうとしたっしょ」
「すみません、つい。痛くは、ないです」
 だが穴が開いた場所は、今まで感覚がなかった場所に血が通い出したように、鼓動に合わせてじわじわとする。
 八万の手が耳から離れたのでおそるおそる目を開ける。
 テーブルの上には、買ってきたファーストピアスが未開封で残っていた。
「あれ?」
 耳に触れる。そこには確かに金属の感触がある。
「それ、似合うから釣井ちゃんに上げるね」
 耳に開いた真新しい穴とは別の場所が、じんわりと熱を持った。
「ありがとうございます」
 絞り出した声が思ったよりも掠れていたので、ペットボトルで喉を潤した。
 冷凍庫にアイスをとりに行った八万は、釣井の方を振り返った。
「冷やす?」
「大丈夫そうです。今のところ」
 穴の空いたばかりの耳は熱を発してきていたが、痛みは記憶の中よりも薄い。ピアスの重さはほんの爪先ほどの存在感を持って、耳たぶに存在していた。
 二人で買ってきたアイスを食べながら、改めて部屋の中を見回した。
 当たり前だが、自分の部屋とは雰囲気が違う。
 本はあまり読まないのかなと、本棚を埋めるCDケースを見る。
「折角来たし、ついでに夕飯食ってく?」
「あ、え、いいんですか?」
「釣井ちゃん実家暮らしだっけ。おうちにご飯ある?」
「今、連絡すれば大丈夫だと思います。本当に、いいんですか?」
「いーよ。何食べる」
 家に気軽に人を招くことができるのは、一人暮らしだからだろうか。あるいは、そもそもの性格の違いかもしれない。
「ピザ、食べたいです」
 折角だから、家であまり食べないもの。釣井は即答した。
 顔を突き合わせて、注文するピザを選ぶ。普段覗かないピザ屋のメニューは見ているだけでワクワクする。好きな味を選ぶのに、八万よりも時間がかかった。
「あ、店までいくと半額になる」
「取りに行きますか」
 高校生の財布はいつだって逼迫している。安く済むならそれに越したことはない。
「釣井ちゃん、何食べるか決まった」
 シーフードと野菜スペシャルをハーフ&ハーフで。
「あ、あと」
 食べ過ぎだろうか。指を差しかけて途中で止まる。
「ん、どした? サイドメニューもいっちゃう?」
「アップルパイ、いいですか?」
「釣井ちゃん、甘いもの好きなんだね」
 笑いながら八万が、アップルパイを注文に追加した。
 テレビを見ながら話し込んでいたら、思ったよりも遅くなってしまった。
 夕食のあとは、最寄りのバス停まで八万が送ってくれた。
「遅くなっちゃったけど大丈夫?」
 大丈夫ではないかもしれない。着信が何件か入っている。だが遅くなったから親に怒られますなんて言ったら、もう呼んでもらえないかもしれない。それにいつまでも親掛かりみたいで、子どもっぽくて嫌だ。
 もっと八万と喋りたかったし、知りたいと思っていた。知ったところで、彼になれるはずもない。だが、彼と友人になれたら素敵だと思う。
「またね」
 別れの言葉はそれだけだ。
 帰りのバスは友達と別れて帰る道より寂しい。
 暗い街並みが窓の外を流れていく。
 そして釣井は、次の日も屋上に向かっていた。
 出席日数のことは頭の中にあったが、それでも二日続けて授業をさぼった。
 自分の行動に、まだ本を読み終わっていないからと心の中で理由をつける。
 教室では集中できないから。
 続きが気になるから。
 物語の世界に没入するときに必要なものは、人が来ない静かな場所と喉を潤す飲み物。
 予鈴が鳴ったのを知っていながら、そのまま屋上にひっそりと隠れていた。昼食を食べたり休憩したりするために同じ場所にいた生徒の、あの子教室に戻らないのかなという視線は感じていたが、誰も話しかけないでくれと念じながら、手元の本に目を落としてやり過ごした。
 暑くなってくると立ち上がった瞬間にくらりとくるから、よく冷えたペットボトルは必須だ。それが温くなるまで、冷たさを享受する。
 首筋に当てたペットボトルがピアスにぶつかり、水を伝わる振動は少しだけ大袈裟にその存在感を知らせた。結露が濡らした首筋をハンカチで拭い、そっと耳たぶに触れる。
 今日は学校にピアスをつけてきていた。
 穴を開けたばかりで、外していると塞がってしまうからだ。髪の毛を下ろして、少しでも目立たないようにする。ピアスを開けているだけならば、どうということはないのだろう。
 釣井が呼び出されるのは、こうして本を読みたいという理由で授業をさぼったり、課題を滞らせたりしているからだ。
 これ以上、内申を下げるような事柄を作らない方が、無事に卒業するためにはいいだろう。
 せめてキリがいいところまで。それで諦めよう。
 そう思ってページを捲る。
 一つの章を読み終え、立ち上がろうとしたがまた腰を落とした。
 今日は、こないのかな。
 耳につけたピアスの重みはまだ体に馴染んでいない。気に掛かる。常に同じ時間にさぼっているわけではないし、生徒指導室常連の先輩が真面目に授業に出席しているなら、それは喜ばしいことだ。
 もう少し、待ってみたらくるかも。
 まだ飲み物も残ってるし、本も読み終わったわけじゃない。
 釣井は再び、文庫本を開いた。
 教師が来たら隠れればいいのだが、釣井はいつも読書に没頭するあまり周りの人間の存在を忘れてしまう。
 隣に立って肩を叩かれるまで気づかないということもしばしばだった。
 だからそのときも釣井は、肩を叩かれるまで八万が隣に座っていることに気づかなかった。
 いきなり隣に出現したように見え、思わず本を取り落とした。
「うわぁ!」
「釣井ちゃん、声でかいよー、見つかっちゃうって」
 唇の前に指を立て、悪巧みするように笑う。
 八万は釣井が落とした本を拾い上げた。
「また本読んでんだ」
「あ、はい」
「んー、俺も人のこと言えないけどあんまさぼると怒られるぞー」
「今なら先輩も一緒に怒られるから、オレのダメージは少なくて済みます」
「俺の方が怒られること前提かよォ」
 八万はコーラのキャップを捻る。それはたぶん自動販売機が吐き出したばかりでよく冷えている。その代わり少し揺すられているから泡が出て、一度キャップを閉めて落ち着かせてから開封をした。
「お、つけてんね」
 指先が髪の毛を退けて、耳たぶを見る。
「痛くならなかったし、今のところ腫れてもないです」
「よかったねー」
 どこか他人事のように笑うが、それは八万が開けてくれた穴だ。彼がつけてくれたファーストピアスは、帰りがけに買ったものよりもずっと上等なものだった。
 耳を貫く針の痛みとともに、胸の中で火花が燃える。
 釣井はそれがただの憧れだと、信じて疑わなかった。

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