波間から光が届くのを祈る


Tidalwave_逃れようのない波
 エラで呼吸する生き物と肺で呼吸をする生き物が、同じ海中で生活している。
 水圧も気温も温度も関係なく、命は等しく存在を許されている。それでも海に入るときは緊張する。本当に海の中でも息ができるのだろうかという不安と、海そのものに対する恐怖。そして人間の優位性が剥ぎ取られ、今まで食べていた魚やエビや貝と同列にされてしまったことに対する居心地の悪さ。
 前を歩く八万の背中だけを見ている。腕が震えるのに気づかないふりをする。
 体を波に沈める瞬間に目を閉じて、瞼の裏に焼き付く姿だけを思って足を前に進める。服と肌の間に海水が満ちて、体に纏わりつくもの全てがふわりと重さを失う。
 夢の中を歩くような、月に辿り着いたような足取りの中で目を開けば、青い世界の中に目を閉じる前と変わらない八万の背中がある。
 縁にされていることを、きっと彼は知らない。
 ただその人らしく居てくれるだけで、どれほど助けられたか。
 その背中を追い駆けるためなら、どこにだって行けるような気すらしてくる。だから今も正気を失わず恐怖に押し潰されることもなく、歩くことができている。
 肺呼吸の生き物が口から吐き出した息が空気の塊になって、海中を漂う。前に進む体の後ろにできる波に巻き込まれ、水の中をくるくると回って僅かな時間だけ留まってから天井に登り、やがては海面に出ていく。
 泡の軌跡を追いかけるように、海の中を泳ぐ。水掻きのない手で海を掻いても、進みはあまり早くはならない。
 八万の吐息の泡が波をかき分ける指先で二つに割れ、手に平をくすぐっていく。
 傍にいても心を伴わない二人の距離を埋める方法は、思い付かない。終わりが見え始めた今になっても、わからないままだ。
 今は少しだけ、遠ざかったような気すらする。
 少しでも傍を離れれば、青い人魚が八万の傍に来ている。
 人でないものが八万に興味を持つ様は、釣井にとって恐怖でしかなく、見るたびに不安を煽る。やめてくださいと叫びたくなる。
 大切な人に触れないでほしい。
 海が流れ込んだ学校は、ガラス窓のこちら側と向こう側に区別はない。学校の敷地の外と中にも区別はない。人魚の不思議な力が隔ているだけだ。
 自分たちには理解できない大きな力を持っている、根本的には理屈が通じない何かの庇護下にあり、その範囲でのみ生きていられる。校舎はまるで人を飼うための水槽だ。うっかりヒーターをつけ忘れたり餌をやり忘れたりしただけで全滅する、愛玩生物と変わらない。
 人間のことを、どうせ生き返るから死んでも構わない存在として扱う生き物が、八万に興味を持っている。その興味が行き着く先は、全く予測がつかない。何よりも嫌なのは、八万がその人魚の存在を拒否していないことだった。
 吐息の手触りすらも伝えてくる水の中は、空気の中よりよく音が聞こえる。声も耳の中までよく聞こえてくる。
 引き離されてしまった八万に追いつこうと廊下でばたついていると、教室の中から聞こえたのは話し声だった。
「海がきらいなの?」
 楽しげな少女じみた高い声は、青い人魚のものだ。
 何度も聞いたから、すぐにわかった。
「別に」
「じゃあどうして泳がないの? みんな楽しそうなのに!」
 イルカが鳴くのに似た声は、水の中でよく通る。不可思議な音を含んでいる。人魚たちはたぶん人に話し掛けるのとは、別の言語を持っている。
「……余計な事思い出すんだよ」
「思い出したくないこと?」
「そう」
「ふーん、それって忘れたいことなの?」
 答えないでくれと、強く願った。
 それは釣井が知らない八万のことだ。聞いたことがない話だ。
 聞く勇気がなかったこと。聞く資格がないこと。過去にはぐらかされて、それ以上踏み込めなかった部分だ。他の人に勝手に暴かないで欲しい。
 盗み聞きのように耳を澄ませることをやめられない。
 八万の沈黙だけが救いだった。
 どうしてですか。 
 どうしてあなたは、それほど多くを彼女に許すんですか。
 どうして、そこにいるのはオレでは駄目だったんですか。
 教室に入ることができず、声にできない言葉が口から出かけて再び口を閉ざした。釣井の唇から、透明な泡が一つ溢れた。
 俯いたまま吐き出した息が、涙のように睫毛に絡む。瞬きをすると目元の泡は額の傷と前髪をすり抜けて、登っていった。
 人が来たとわかるように、教室に入る前にわざとドアにぶつかって音を立てた。
 八万は沈黙したまま、釣井の方を見ていた。その後ろには青い人魚が漂っている。女王はかなり大柄だが、彼女は教室の中に入ることができる大きさだ。だからなのかよく学校の中に入り込んでいて、しかも八万の近くにいる。
 今はやってきた釣井に親しげに手を振っていた。
 釣井はそれが見えていながら、気がついていない振りをした。人外の存在でも言葉が通じる相手で、顔立ちだけ見れば人によく似ている。無視をして態度で拒否を示していると、こちらが悪いことをしている気分になる。
「このヒトは、遊ばないの?」
 海の中は彼らが存在するべき正しい場所で、人魚は滑るように滑らかに動く。するりと頭の上を泳ぎ越えられて、視界に影が落ちる。肩を震わせた釣井の動きは水の中に波を起こしたが、小さな波は人魚の鰭に優しく受け止められて霧散した。
 笑っていても、釣井にとっては怖い。
 相手はこの人魚ではなかったが、手を掴まれたときの痛みが記憶に新しい。それを上書きするように、無意識に手首を強く握りしめていた。指先がぬるりとしたのは、傷が開いたからかもしれない。
「オレは、嫌です」
 目を合わせない。なんとかそれだけ言葉を絞り出す。
「ふ〜ん、そっかぁ。また今度ね」
 青い人魚が開け放った窓から、外に泳ぎ出ていく。
 もう戻ってこないように窓を閉め、鍵を掛けた。
「先輩、用がないならいきましょう」
 腕を引いても八万が動かなかったので、釣井の体だけが床を蹴った分だけ後ろに流れた。
 拒絶をされたように感じた。人魚には許されて、釣井には許されていない。
「……八万先輩。ごめんなさい、さっき話していたこと、オレ聞こえてました。思い出したくないっていう、話」
 海が嫌いで、あの人魚に優しいのは、それが理由ですか。
「オレが聞いても、答えてくれますか?」
 それともはぐらかすんですか。
 せめてこちらを向いてくださいと、胸の中で祈った。
 何もかもが青く塗り込められた景色と向き合った一ヶ月。
 人魚の女王の来訪からは、一週間が経とうとしていた。今更、窓の外に目を引くようなものはないはずだ。慣れるかあるいは飽きることがあったとしても、馴染むことはあり得ない。
 それでも八万は窓の外を見ていた。振り向いてはくれなかった。
 一人になりたいと八万は言った。それでも傍にいたいと釣井が願った。心ここに在らずでも、仕方がない。
 周りに人を感じるのが重たいのか、それとも青い人魚が戻ってくるのを待っているのか。後者だとは、思いたくない。
「……つまんない話だよ」
 独り言のような呟きだった。
 答えてはくれないのだと諦めるほどの時間を置いてから、八万は口を開いた。
「あの人魚、中学のときのクラスメイトに似てんだよねー」
 声の調子を軽くして続けた顔は一時、釣井がよく知る八万に戻った。それで満足できればいいのに、今は誤魔化しのように感じられてしまう。
「八万先輩は……その人のことが大切でしたか?」
 どれほど人に似ていても、人魚は人間ではない。別の生き物であることを、頭では理解できているはずだ。顔が似ていてもそれは別人だ。にも関わらず心の内側に踏み込むことを許してしまうというのなら、それはたぶん似ているというそのクラスメイトが、深い場所にいるからだ。
 少なくとも釣井にとっては、そこまで許す他人というのは特別な存在だ。
「どうだろうね」
 持ち直したように見えた声は、どんどんと鮮やかさを欠いていく。
「ほんと、ただのクラスメイトの一人だよ。顔だってハッキリ覚えてなかったし」
 繋がりの曖昧さを告げられるほど、会ったことのない彼女の特別さがわかる。恋人だったからではない。幼なじみだったわけではない。親友だったわけでもない。
 それでも見た瞬間にその顔を思い出し、心を奪われている。そのことにもしかしたら、八万自身は無自覚なのかもしれない。
「でも、よく一緒にいるのは、気になってるから、なんじゃないですか」
「……わかんねーよ、自分でも。覚えてても仕方ねぇことなのに、脳みそが勝手に記憶してる。勝手に〝思い出せ〟って命令してくる」
「他人の空似で終わらせられないくらい、強く頭に焼きついてることなんですね」
 顔も知らない八万のクラスメイトに、嫉妬をした。
 傷でも愛情でも、それほどまでに心に爪痕を残す存在。
「………呪いじゃんね、そんなの」
「苦しいですか?」
 鮮やかに染めた青い髪は、こちら側よりも向こう側の方がよく馴染む。
「……忘れたいですか?」
 海の向こう側とこちら側の境目は、曖昧だ。
 ふと腕を引かれた瞬間に向こう側にいってしまうんじゃないか。不安に駆られて、八万の手を握っていた。
 隣に立ち、恐る恐る顔を見上げる。
「……忘れさせてよ」
 ようやく目があった。釣井を見下ろすその顔は、困ったように眉尻を下げていた。
 助けを求めるような言葉を言うが、本当に求めてはいなかった。声に滲む諦念は、釣井にそれができるとも思っていない。
「オレの知ってる八万先輩は、忘れたり無くしたりしないと進めない弱い人じゃないです」
 その心に残った痕を消す方法など、ない。
 心の形は他人にはわからないし、触れられることもないのだから。
「俺はそんなに強い人間じゃないよ」
 釣井は人に期待をしていると言われたことがあった。無意識のうちに、相手に多くを求めすぎている。強い人であること。優れた人間であることを欲している。
 だからそれが相手に負担になる。
「強くなくても、オレは好きですよ」
 強くあってくれることを期待して、心に重石を載せたいわけではない。
 背負っているものを、捨てて欲しいわけでもない。
「……先輩が、忘れてしまいたいならオレはオレにできることをしますよ」
 人に何かを伝えるとき、言葉が届いているかどうかがわからなくて、いつも怖い。
 八万が望むことをしたい。
 だが、どれほど望んだとしても他人のためにできることは、そう多くはない。
 本当に忘れたいと思っていて、釣井がその助けになれるというのなら、そのためになることをしたい。どんなことでもできるつもりだ。
 だが人の心は捉えがたく、本人ですらわからない。だから口に出した言葉ですら、そのままの意味で受け取っていいわけではない。
(本当に、忘れてしまいたいんですか)
 それがどれほどの重みなのか、手放して後悔しないのかどうかも、決められるのは八万だけだ。
 苦しみは孤独だ。
「あーーー……」
 八万が苛立ちとも怒りともつかない声を上げたので、釣井は思わず手を離した。答えのでない葛藤を、言葉にできないまま吐き出すような呻きだった。
「もうなんか、わかんねぇや。……マジで最悪」
 頭をガシガシとかいて項垂れる。足から力が抜けて、ずるずると座り込んだ。
 今の八万にとって、釣井の存在はノイズだろうか。今は他人の手や言葉ですらも、煩わしく感じられてしまうだろう。それでも一人ではないということを伝えたくて、手の高さにある頭をそっと撫でる。
 坊主頭のざらざらとした手触り。
 額の傷から耳へ。指先がピアスに触れる。
 金属の小さな翼。
 あのときはまだ、こんな関係になるなんて思ってもいなかった。釣井は自分自身の心の正体もわからず、八万の軽やかさにただただ憧れていた。
「先輩にとってそれは枷になりますか? 重くて、自由に飛べないですか」
 傷痕に触れる。
 指でなぞる。
「俺が勝手にそうしてるだけだよ。よく分かってる。俺が勝手に……好きで、やってるだけだ」
「……先輩はそれを忘れるのはダメなことだって、思っているんですか? 軽くして前に進んでしまったら、蔑ろにした気持ちになりますか?」
 きっと呪いを掛けているのは、八万自身だ。苦しいから逃れたいと、苦しくても逃れたくないは、矛盾するが両立してしまう。だから、がんじがらめになって苦しい。
「俺が持ってなきゃいけないと思う。俺が覚えてないと、あいつの全部が、海に持ってかれる気がする」
 青い人魚と同じ顔をしたクラスメイト。
 今はいない人。
「なんの話ししてんだって感じだよなぁ、ごめん、忍ちゃん」
 疲れたような声で笑う。
「いいんですよ。先輩がそういうの、話してくれて嬉しいです」
 偶像崇拝のような恋心を抱いているだけでは、聞かせてもらうことはできなかっただろう。八万の人間らしい部分を、今だから教えてもらうことができた。
「それが本当に先輩だけが抱えるべきことなのか、オレにはわかりません。でも先輩が、そうしなくちゃいけないと思ったんなら、それでいいと思います。忘れたいくらい苦しくても、手放せないんですよね?」
「そうだな、手放したく、ねーんだよな。……。……なー忍ちゃん、これってさ、浮気になる?」
 ならない。そう答えるのが正しい。
 人間関係を滑らかにできて、相手に寄り添った優しい答えなのだろう。
 しかし、それは嘘になる。
 八万が好きだ。心の底から彼が欲しいと思っている。その相手をこれほど強く縛り付けている存在を、なんでもないような顔をして受け流せるはずはない。絶対に嫉妬してしまう。
 八万の心を否定したくないから、受け入れる努力ができるだけだ。
「……なるかも、しれないですね。それだけ思い入れているんですから。正直、羨ましいです」
 相手を気持ち良くして、自分を大きく見せるためだけの嘘は、言いたくなかった。
「でも先輩、オレがあなたに好きだっていったときのこと、覚えてますか? オレも他に大事なものがたくさんある。でもあなたのことを好きになったオレは、そういうの一つも手放すつもりないんです」
 手放したくないものは、放さなくていい。
 釣井は矛盾を抱えていて、正しくなれなくて、強欲だ。そんな弱い人間であることを許してもらったから、前に進むことができた。
 だから八万の弱さも、受け入れたい。受け入れることができる人間でありたい。
「好きって何なんだろうな。重すぎんだよ、たぶん、俺には、そういうの。もう会わない奴の事すら、抱え切れてなくてさあ。向いてねーんだって」
「……先輩は、優しすぎますよ」
 抱えきれないことがわかっているのに、背負ってしまう。関係がないと無視することができないし、背負いきれないと手放すこともできない。
「オレの気持ちも、重たいですよね。突き放せば、よかったのに」
 釣井の恋心も、きっと八万は受け止めきれない。その癖、手放せもしない重荷になるのだろう。縛り付けてしまうのだろう。
「はは、……そーだな」
 否定しなかった。
「男が男に告白するとかさあ、普通無いじゃん、あんまり。すげえ覚悟いるだろ? ちゃんと、考えねーとなって思ったんだよ。たぶん、なんか変わるんじゃねーかなとも、思ってた」
 その期待に応えることはできただろうか。
 ただがむしゃらに、望みを追いかけることしかできない釣井は、一体に好きな人のために何ができたのだろう。
「なにか、変わりましたか。それともオレはあなたを苦しめただけでしたか?」
「……変わったんかな。あんま分かんねえけど。今は、ここに居てくれて良かったと思ってるよ」
「オレは……、オレも」
 何か少しでも八万のためになれたのなら、よかった。
 八万のためになれることなら、なんでもしたい。
 紛れもない本心で、釣井の独りよがりでもある。
 それもまた八万にとっては、重たい感情になるのかもしれない。そう思うと言葉が出てこなくなり、全ての感情を飲み込んだ。
「……幻滅した?」
 だが、八万の言葉が想定外すぎて、飲み込んだ言葉を慌てて吐き出した。
「な、何でですか?」
 動揺して、意味をなさないジェスチャーをしてしまう。
「先輩の話が聞けて嬉しいし、オレが役に立てていたのなら、嬉しいと思います。幻滅なんてしません。前と変わらないし、前よりもっとあなたのことが好きなんです」
 釣井の必死さが面白かったのか、ずっと項垂れていた八万は、表情を和らげた。
「ジョーダン。言ってみただけだよ」
 声に、少しだけ明るさが戻った。
「なんつーか、俺が思ってるより俺のこと大好きなのね、忍ちゃん」
「ふふ、ようやく伝わりました?」
 それでもまだ、全ては伝わっていないのだろうと思えるくらいには好きだ。
 幻滅なんて、あるはずがない。
「……もしかして俺、恥ずかしいこと言った?」
「恥ずかしくないですよ。オレは八万先輩のことが大好きです。ずっと前から、当たり前に」
 本音だったけれど、あえて揶揄うように口にした。
「はいはい、よく分かりましたって」
 釣井の言葉に照れる八万の姿が新鮮で、もっと見たくなったのだ。

◇◆◇


 学校が海に沈んでしまってから、傍で見守るというのを大義名分として一緒に夜を過ごしている。寝顔を見るときに感じるのは、優越感だ。
 八万が眠っている間、釣井は今まで通り本を読みながら過ごす。
 異変を感じたのは、夜が明けてしばらく経ってからだった。夜遅くまで起きていることもあり、起床時間は遅い。アラームを掛けることもなく、八万が自然に目を覚ますまでそのままにしてある。
 床を湿った何かが這い回っている。それは舌を絡めたときのような、粘膜が触れ合う音に似ていた。
 教室を見回すと、隅に黒く蟠るものがある。ずるりと這い出してきたのは、黒い触手だった。
 学校が暗い海だったときと同じものに見える。遭遇するのは二度目だ。それは異形だったが、恐ろしくないものだというのは、過去の経験から既に分かっている。
 最初に見たときのような恐怖や嫌悪感は抱かなかったが、不安を感じた。黒い触手は海の様子が変化して以降、見えなくなったはずだ。そのタコ足が再び学校の中に姿を現したのは、何かを示唆しているように思えた。
 少し迷ったあと、釣井は八万を揺り起こす。
 毛布を頭まで被った八万は呻きながら身動ぎをした。何かが起こったら、起こすと約束した。
 今日は眠れないかもしれないと思った。いつもは昼間になってから寝ていたが、学校の様子が変わったのなら明るくなってからは情報収集をして動き回る。それにみんなの無事を確かめないといけない。
「先輩。八万先輩、起きてください」
 毛布を引き下ろすと、寝ぼけ眼が釣井を見つめ返した。
「ん、どうした〜?」
「学校の様子が、おかしいんです。起きてください」
 海が変わったわけではないが、今起きていることも異変だ。
 今の学校の中で何かが起こるとして、それらはきっと釣井にも八万にもどうすることもできないことだ。だが知らないところで大事な人に何か起こって、あとから取り返しがつかないことを知るくらいなら、せめて自分の目で見て受け止めたい。
 どうするべきか判断に迷っていると、スピーカーがノイズを吐き出す。少し間を置いてから、人魚の女王の声が流れ出した。
 来訪した日から、二度目の放送だった。
 感情のない女性の声は、姿を似せているだけで人ではない生き物の言葉を吐き出した。人間の心など理解できはしない生き物の理屈を掲げていた。
 学校が元に戻る日取りが決まった。
 時間すらも超越し、ミズノエ高校の中にいた人間は例外なく過去に戻るらしい。
 だが、それに伴って記憶は削除される。
 ――全て忘れてしまう。
 心を砕かれるような痛みが、釣井を貫いた。
 死んだ記憶が消えたら、何の懸念もなく日常に返ることができる。それは歓迎すべきことだ。
 だが、安堵よりも喪失感を与えた。
 現実に戻りたいと思いながら駆け抜けた一ヶ月半の間、様々なことがあった。全力で目の前の人と向き合っていた。
 クラスメイトの秘密、友人との関係、分け合った思い出、八万との関係。
 それら全てが掛け替えがなかった。
 学校が海に沈む前の釣井は、どうだっただろう。
 今のように、前に進むことはできていただろうか。
 臆病で自分勝手だった。思いを伝える勇気はなかった。自分の苦しさだけが一番大切だった。友達と仲直りもできていなかった。
 記憶をなくしたら、そんな弱くて卑怯な釣井に戻ってしまう。
 何より八万との関係に、まだ答えが出ていないのだ。
 全てが終わったあとに、仮初の恋人関係の結果を聞くつもりでいた。答えをもらいたいと思っていた。
 だが、忘れてしまうのなら何の意味もない。二人の間に何が存在していようと、どんな答えを出そうと、全てはなかったことになる。
 誰も知らないことは、ないのと同じだ。
 何もかもが消える。
 八万と交わしたことは、一つとして溢したくはない。告白に応じてくれたときの真摯な言葉、呆れたように釣井を宥める声、何気なく交わした冗談。
 そして彼が見せてくれた不安定さ。
 ただ憧れているだけでは教えてもらえなかったこと。恋人だから許してもらうことができた触れ合いや約束。
 何もかもが愛おしかった。
 だがどんなに願ったとしても、覚えていることはできないのだ。
 こちらの事情など無視して、なかったことにして日常に送り返される。
 逆らえない力によって、道が定められてしまっている。
 途切れた縁を、もう一度繋ぎ直せるだろうか。
 胸に染みてきて肺をいっぱいにしようとする絶望に抗って、もう一度声を上げられるだろうか。
 苦しい。
 声が出なかった。
 沈黙を破ったのは、八万の笑いだった。
「はは、やったー、戻れんだね」
 その声は、乾いていた。
 笑っているように見せているだけで感情を伴わず、心の表面を滑って床に落ち、波の音にかき消されていった。
「そう、ですね。記憶なくなっちゃいますけど」
 呪いだけが残る。
 それを打ち明けてくれた弱さも、聞くことを許された事実も無くなってしまう。
「え? ああ、記憶? どうでもいいじゃんそんなの。忘れた方がいいことは忘れられなくて、忘れちゃいけないことは忘れさせられたら、どうしようもねーもんな」
 八万の言葉は投げやりだった。心を閉ざして遠ざかってしまったということはわかるのに、近付くための道が見えない。
 この一ヶ月は意味がないものに成り下がったのだろうか。
 忘れるのなら、初めから近づかない方がいいのだろうか。
 そうは、思わない。
「忘れたいことは、オレが忘れさせてみせます」 
「はは、言うね〜」
 そんなことができるとは、少しも思っていない声だった。
 釣井自身も、それはよく分かっている。
 そんな力はない。
 一ヶ月をかけて、ようやく忘れたいことがあると打ち明けてもらえるようになったばかりの関係だ。忘れられるならもっと前に、抱え込まずに捨てていただろう。
 そして八万自身が、どれほど苦しくても忘れることを望んではいない。
 苦しくて抱えていられないのなら、腕の中から奪い取っていく。
 忘れたくないのなら、手を伸ばして大切なものを掴み続ける。
 忘却を乗り越え、無駄ではなくなるように最大限の努力をする。
 だから八万にも諦めないで欲しかった。
 だがそんな子供じみた精神論や根性論で、何も変えられないことはわかってる。現実も人が抱えた過去も心も甘くない。
 人魚の力はその時が来たら、全てを無視して容赦無く奪い去っていくだろう。
 それでもと手を伸ばすのは、愚かだろうか。
「この海に来る前から、オレは八万先輩が好きでした。初めから、諦めが悪くて身勝手で傲慢でした。だから全部が無かったことになっても、また一から始めます。振り向いてくれなくても応えてくれなくても全、部無駄って言われても、もう一度この関係に届くまで走り続けられます」
「……ま、期待してるよ」
 言葉は裏腹だ。本当は八万は釣井に期待してなんかいない。
 それでもいい。
 それに本当に全てを忘れるのなら、傷つく人間も傷つける人間もいない。
 無為になることがわかっていても、進めるのかという覚悟を、問われるだけだ。
 それに八万に大切に思ってもらっていることは、遠回しではあるが伝わった。
 どうでもいいことならば、忘れてもいいはずだ。全て無駄だったのだと諦めたり、投げやりになったりはしない。
 なんのデメリットも背負わず、不自由もなく現実世界に帰れるのだと喜べばいい。
 だがそうではないのだ。
 八万は忘れたくないと思ってくれている。釣井との間に起こったことの全てを、真面目に受け止めて、答えてくれるつもりだったのだ。
 重たいものなんて、抱えたくない人なのに。
(今のオレには、それで十分です)
 望むべき場所がある。
 そこに辿り着くためならば、どんなことでもできる。
 無為に向かって踏み出し、いずれ失われるものに心を砕く。そうして傷つくのが釣井だけならば、それは足を止める理由にはならない。
 どれほど痛む道でも、足を止めずに歩き続けられる。
 ――その果てに、もう一度あなたに好きだと言わせてください。
 潮騒と共に遠ざかり、忘却の彼方に流れ去るたくさんの記憶の欠片のために、言葉を尽くします。
 いつか意識の浜辺に、この想いが流れ着くことを願っています。
 あなたがくれたたくさんの思い出が、呪いを過去に変えてしまうくらいに強く、あなたの心に焼きついてくれますように。
 朝日と共に学校を飲み込んだ海。
 真昼の光で鮮やかに光る熱帯魚。
 夕暮れの暗さの中で泳ぐ古の命。
 夜の帳が如く記憶を閉ざす人魚。
 全ての記憶が流れ去るでしょう。
 それでも夜明けを待っています。
 波間から光が届くのを祈ります。
 美しい思い出の全てが、忘れてしまうなら無意味だったとは、オレは思いません。
 八万先輩は、どうですか。
 手を伸ばす。
 二人の間に満ちる水が、指先よりも早く相手の肌に触れて動きを伝える。手を繋ぎやすい様に動かしてくれた様に見えたのは、気のせいだろうか。偶然を都合よく捉えているだけなのかもしれない。
 全てが消えてしまうまでの時間を、どうしたらいいのかわからずにいる。
 伝えるべき言葉は、伝えた。あとは起こる事を待ち、受け入れるしかできない。
 残りの日々は、八万と大切に共に過ごせたらいいと思う。
 どうするべきか迷って、結局釣井は普段通りにしようと決めていた。
「ご飯、食べましょう」
 息ができるのと同じく、海の中でも食事はできる。だがなんとなく海水が口に入ってくるのが気になるし、原理が不明すぎて馴染めない。食べるときは寝るときと同じく上の階に登るようにしていた。
 廊下にでたところで魚影が行く手を塞ぎ、釣井はドアに掴まって体を止めた。
「あら、どこに行くの?」
 人魚だった。
 今までも、うっかりで人間を傷つけてくることはあった。しかし女王が校内放送をしてからは、もっと直接的に人に危害を加えてくるようになった。いわく、機嫌を損ねると五感や体の一部の感覚を奪われるという。
 人と全く違う感性の生き物の機嫌など、どうやって慮れるというのだろう。
 記憶を飛ばすことも同じだ。彼らの理屈を強引に押し通してくる。理不尽だ。
 咄嗟に手を繋いでいた八万を教室に押し込んで、後ろ手に扉をしめた。
「な、なにか、御用ですか」
 声が裏返る。
 微笑んで受け答えしようとしたのだが、顔が強張った。八万が扉を開けようとしていたので手で押さえる。彼には人魚に、関わらないで欲しい。
「ねぇ、どうして後ろの人を隠すの。あなたも私が怖い? 仲良くしたいだけなのに」
「隠した、わけじゃないです」
 怖いの部分を、即座に否定できなかった。
「怖くは、ないですよ」
 人魚がにこりと笑う。
「嘘つきね。あなたのいうこと、全部嘘」
 笑顔を崩さないまま、人魚は爪の長い指先で釣井の首を掴んだ。息が止まる。泣きそうになったが水の中だから、涙を流したところで見えはしなかった。
「ほら、本当は怯えてるじゃない」
 そんなことはない、と言おうとした。声が出なかった。血の気がひいた。
「もう喋らないで。そのままずっと、喋れなくなっちゃえばいいのに」
 人魚の指先が首から離れていく。無造作な爪先が肌を引っ掻き、赤く筋を残していった。
 奪われ手の中で握り潰された声は、目には見えない。
 人魚が立ち去った途端、体から力が抜けて釣井はずるずると床にへたり込んだ。
 声を奪った人魚はもう釣井への興味を失って、見向きもせずに泳ぎ去る。鰭で殴られないように頭を庇って床に伏せた。
 その後ろで教室のドアが開く。
「何してんの」
 その声色に普段の柔らかさはなかった。感情を押さえて平坦にしたような低い声をしている。腕を掴んで助け起こす動きも、有無をいわさぬ調子だった。
 首の傷から血が滲んで水に広がっていくのを見て、八万は更に眉間のシワが深くなる。怒っているような気がする。
 返事をしようとしたのだが、声が出ない。
 何度か口をパクパクとさせたあとジェスチャーで意思を伝えようと試みる。うまくいかなさそうだったので、諦めてスマホを取り出した。
「喋れねぇの?」
 頷く。
「もうこんな事すんなよ、分かったな」
 念を押すように言われるが、それには頷くことができなかった。痛いのは嫌だが、八万が同じ怪我をするのはもっと嫌だ。きっとまた人魚が二人に近づいてくるようなことがあったら、釣井は絶対に前に出る。
「マジで頑固だよな、すんなっつっても聞かねーんならどうすりゃ良いんだよ」
 喋ることができないので、メッセージで返事を返す。
『あなたのことが大事なので、絶対に譲れないです』
 送受信の間を置いてから、八万のポケットの中で通知音がなる。スマホの画面を釣井が示すとメッセージを確認してくれた。
 文面を読んで、深い深いため息をつく。
「なんでそんな……。や、いうだけ無駄か。保健室いこうか」
 女王のところと言われなかったので、安堵した。怪我を治す力があるのは疑いようがなかったとしても、人魚という種族に対する恐怖は決定的だ。
 この状況を作りだした張本人とも言える相手に、身を任せる気にはなれない。
 養護教員の凪本先生の様子がおかしいというのは、聞いていた。
 保健室には化け物がいるという噂が、耳の早い生徒から回って来ている。学校にかつて出現し今もいる触手の正体が、凪本先生だというのも聞いていた。
 だから覚悟はしていたが、保健室でその姿を見たとき釣井は思わず目を逸らしてしまった。
 怪我をしている釣井の手当てをしてくれたが、その間中、視界の端でチラつく触手が怖くて、思わず目を瞑ってしまった。
 襟に血がつき、処置の邪魔にもなるので一度服を脱ぐ。触手が肌の近くで蠢くのを感じて、体が強張った。結局、釣井は治療が終わるまで触手を生やした凪本先生の姿を直視できなかった。
「少し、休んで行け」
 怖がられていることを察したのか、手当が終わると席を外す。保健室の外に用事があるとも思えず、気を遣って出て行ってくれたのは明らかだった。
 保健室には、八万と釣井の二人だけになった。
 次があるのなら、先生に謝りたい。
 いっぱい助けてもらったのに、怖がってごめんなさい。
 目を逸らしてしまって、ごめんなさい。
 先生に代わって、八万が釣井に確認をした。
「他は痛いとこ無い?」
 大丈夫ですと入力したあと、メッセージを消して入力し直す。
『ひっかかれたところが、ちょっと痛いです』
「他にもひっかかれてんの。つか、そのガムテープなに」
 服を脱いだから、手首のガムテープが隠せなくなっている。それにテープの幅よりも人魚の手の幅の方が大きいから痣がはみ出している。
 ベリベリとテープを剥がし、傷を洗う。消毒をしてガーゼを貼り付けてテーピングをしてもらう。一連の処置の間、八万が睨み付けるような目つきで釣井を見ていた。
 真顔になると目つきの鋭さが目立つ。
『怒ってます?』
 八万は手当てしながらでもスマホを確認しやすいように、机の上に置いた。
「わりと」
『どうしたら、許してもらえますか』
「もうしませんって、ちゃんと口で言ったら」
 口で言いたいが、まだ声が出ない。
 泡を吐き出し、釣井は口を閉じた。喋れるようになったらもう一度、きちんと伝えるつもりで、今はメッセージを送る。
『もうしません』
 救いを求めるように八万を見上げ、袖を引く。
 今はこれで許してもらえないだろうか。
「……普通に心配になるんだよ。ちゃんとわかってよ」
 八万は駄々をこねる子供に言い聞かせるように、声を柔らかくした。
 何がいけなかったのかはわかっているつもりだ。それは八万が怪我をするのを看過できないのと同じ理由だろうし、他の人間が同じことをしたらきっと釣井も同じように怒った。
 だが大切に思っていればこそ、あの状況で動かないという選択肢はなく、もうしないというのは嘘になってしまう。
『オレも先輩のこと大事だから、放っておけないです』
「……あっそう、じゃあお互い様だ。片方だけが無茶すんのはなしな」
 八万は釣井の返答を見てからスマホを海中に投げ出した。水中で翻り、ゆるりと漂いながら床に落ちる前に慌ててキャッチする。
 返事を拒否されたように感じて、泣きそうになった。
 許してもらえなかったんだろうか。
 頬を八万が両手で挟む。
 促されるまま顔を上げると、唇にむにと柔らかいものが触れた。
 目を見開くと、睨みつけるような八万の瞳と驚くほど近い場所で目が合う。
 舌が唇をこじ開ける。
 口の中を嬲られて、体が跳ねる。舌が絡め取られ口の中に招き入れられ、乱暴に弄られたかと思えば優しく吸われる。
 気持ちが良くて、体を引き離そうとする手から力が抜けていく。
 息継ぎをするときの声すらも出ず、解放されるまでなすがままだった。
 唇を離すと、八万は動けなくなった釣井を見下ろす。
 その顔は相変わらず不機嫌そうに眉間に皺を寄せたままで、行動の動機が全くわからない。釣井の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
 顔が熱い。海水でも冷やせない。
「どう、声出んの」
 声を出してみようとしたが、無音だった。
『なんでいま』
 震える手で何度も誤変換と誤入力をしながら打ち込む。
 八万のスマホを本人に返す。
「ムカつくなって思ったから、なんとなく」
 ムカつくとキスをされてしまうんですか。
『八万先輩、難しいです……』
 間の抜けた通知音が、返事の代わりにスマホから鳴る。
「簡単よりは良いでしょ? だってドキドキしてんじゃん」
『どきどきしてます』
 なんでわかるんですかなんて、聞くまでもない。
『けど、先輩はずるいです』
 八万はしばし沈黙した。
「俺ってずるいの?」
 首を傾げて問い返す。返答に悩んでいる間の唸り声が、喉から出た。
 気がつけば声が出るようになっている。人魚の呪いは解けたらしい。
「ずるい、と思います」
 ずるくて、格好いい。
「でも、そういうところが好きです」
「何回も聞いたよ、それ。ちゃんと覚えてるから」
 八万が呆れたように笑う。
「でも」
 もう少ししたら、何もかも忘れてしまうじゃないですか。
 口を突いて出かけた言葉を、飲み込む。
「……はい。覚えていてください」
 今は、それしか言えなかった。
 どんな言葉を尽くしても、忘れてしまう。
 大丈夫だ。何も残らなかったら、もう一度始めればいい。
 きっと何度でも、八万のことを好きになる。
 その生き方に憧れた。憧れた通りの人ではなかったけれど、そこも好きになれた。それを知ることができたことが、嬉しかった。
 無意識に耳のピアスに触れていた。
 ずっと前から、あなたのことが好きでした。
 ひたすらにその背中を追いかけていた一年と数ヶ月。ずっと幸せでした。
 たくさんのものを受け取ったが、そのどれもが八万には渡した自覚すらもない些細なものだったのだろう。
「忘れたくねーのにな」
 八万がぽつりと呟く。
 重たいものを背負いこむのが嫌だと言った八万の、失いたくないと思えるほどの何かになれていたのなら、それで釣井の想いは報われる。
「オレは、あなたがそう言ってくれただけで嬉しいです。好きになったのが八万先輩で、本当に幸せでした」
「……なんか死にに行くみたいな台詞じゃん」
「深刻すぎました?」
「満身創痍の人間が言うとね」
 肩を竦めた。
 確かに傷だらけだ。腕と首の痣、これもなかったことになるんだろうか。
「俺は……俺も……、俺を好きになってくれてありがとな」
「オレが勝手に好きになったんです。でもそう言ってくれて、嬉しいです、すごく」
 この身勝手な恋を、誠実に受け止めてくれる人を好きになれてよかった。
「……あーあ、終わるんか。全部」
 重たくなった水を振り払うように八万が声を大きくした。
 ぽこ、と吐き出した泡がつむじの上で渦巻く。
「終わっても、きっとオレは隣にいますよ」
 八万の両手を握る。
「前からそうだったよね、割と」
 そっと握り返された。
「好きでしたから」
「知ってるよ。……ま、なる様にしかならないんだけどね」
 二人の間にはたくさんの約束がある。
 好きな相手に振られたら慰めてくれるとか。この関係が終わっても隣に居ることを許してくれるとか。おすすめの映画を一緒に観るだとか。
 些細なことも大事なことも、今はまだ覚えている。
 膝を突く。
 握った指先にそっと口づけをした。
「……キザ!」
 八万が笑うので、つられて吹き出してしまった。
「オレと一緒にいたらもっとキザなことされるから、覚悟してくださいね」
「全部忘れた俺はそんな事知る良しもないし、覚悟なんか全然できてないだろうな」
「そのときのあなたの顔を見るのが楽しみです」
「お手柔らかにね」
「覚えてたら考えます」
 そのときは、釣井も忘れてしまっているのだろうし。
 いつだって全力だから、お手柔らかにするのは難しいかもしれない。
「そういうこと言う〜? 誰に似たのよ」
「オレのずるいところは、先輩に似たんじゃないですか?」
 優しいけど、少し意地悪なところ。
 たくさんからかわれてしまったから、少しくらいやり返しても許されるだろう。
 もう一度、指先に口付ける。
「だーやめやめ」
 八万は釣井の手を離した。
「〝可愛い後輩の釣井ちゃん〟に戻る事に賭けようかな」
「じゃあ、俺は戻らない方に賭けておきますね」
 この賭けに勝ったら、そのときは何をくれますか。
 叶うならば夜明けの光のような、あのときの言葉をもう一度ください。

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