逃れようのない波の果てに


Tidalwave_逃れようのない波
 普段なら胸が悪くなるバス車内の臭いが、酷く懐かしく感じられた。
 体を揺らす規則的な振動は、エンジンの駆動音だ。
 ――五月十五日、早朝。
 ミズノエ高校の生徒は、臨海学校に向かう車内にいる。
 車の中ではやることもないし、今日は朝が早かった。乗り物酔いしないように目を閉じていたら、そのまま微睡んでしまっていたらしい。
 うっすらと目を開ける。高速道路脇の単調な景色が流れていく。
 車窓に預けていた額が振動でビリビリとする。体を起こすと、ガラス面に痕がついていた。
 バス。車内の匂い。高速道路。植物の緑色。
 良くも悪くもない中途半端に雲に覆われた空。
 自分たち以外の人。
 追い越していく自動車。
 取り立てて説明するところのない、ごくごく当たり前の風景。
 それはどれほど望んでも届かず、一度は消えてしまったように思えた日常だった。
 何もかもが懐かしい。
 昨日と地続きのはずの今日が、確かに懐かしいと感じられるのだ。
 ――記憶が残っている。
 釣井は思わず座席から腰を浮かしそうになり、几帳面に止めていたシートベルトによって座席に引き戻された。胸の中に湧き出たまだ形の定まらないの熱をどうにかしたくて、隣の座席に座っている平の手を掴んでいた。
「いっくん」
 そこで言葉を飲み込んで、お互いの顔をじっと見つめる。
 覚えているのか、という確認を込めていた。
 無言の頷きが帰ってくる。
 何もかもを、覚えている。
 消されてしまうと言われた記憶があったということと、それは嫌だと強く祈ったことを覚えている。
 バスの車内では、同じく目を覚まして状況を理解した人たちの困惑の声が、そこかしこで上がっていた。
 現実に戻って来ることができた喜び。
 改めてこれから海に向かうことに対する落胆。
 待ちきれず家族に連絡をする人。
 泣き出してしまう人。
 反応は様々だった。
「良かった」
 平の腕に縋り付いて、涙を堪える釣井の喉からは、絞り出すような声が出た。
 心の底から、良かったと思った。
 忘れないで済んだ。
 海に沈んだ学校で起こった出来事を、持ち帰ってくることができた。
 楽しい出来事ばかりだったわけではない。普通に生きていれば体験しなくて済むような、辛く苦しい記憶が残っている。
 意識に染み付いた死の影は、終生釣井を苦しめるのだろう。
 それでも、八万にもらった言葉を手放さずに済んだ。
 そのことが何よりも嬉しかったのだ。
 バス内の様子を見る限り、みんなに記憶が残っている。八万は当然、学年もクラスも違うから、別のバスに乗っていて様子を窺い知る手段はない。
 メッセージを送ろうとして、手が止まった。
 何度も書いては消して、ついに何も送ることなく鞄に戻した。
 伝えるべきことは、もう全て伝えてある。
 全力で背中を追いかけて、言葉を渡した。
(受け取るのも受け取らないのも、あの人の自由だ)
 たとえこの恋が叶わなくても、傍に居させてくれる。
 それも、些細な約束の一つ。その約束があれば、いつまででも答えを待てる。

◇◆◇


 臨海学校の日程は予定した通りに消化された。
 みんな現実に戻ってきたという事実を喜んでいた。
 平凡で退屈に思えるような全ての出来事が新鮮に感じられて、浜辺のゴミ拾いですらも初めてやるような気持ちで取り組むことができた。
 宿の食事が魚料理中心だったことには辟易して、自由行動の最中には焼肉やラーメンを食べにいく人が続出した。
 釣井は、存在しない一ヶ月の生活習慣の記憶のせいで、夜明け前に目が覚めた。
 同室のクラスメイトを起こさないようにこっそりと部屋を抜け出す。
 寝巻きに上着だけ羽織ると、五月の寒さが残る朝に足を踏み出す。
 海鳥はほとんど羽ばたくこともなく風を乗りこなしながら、時折甲高い鳴き声を頭上に投げ掛けてくる。
 宿から最寄りの自動販売機までは、二百メートル。
 一番近いコンビニまでは七百メートル。
 去年ならイヤホンを耳に突っ込んで、ただ歩くだけの道で波の音を聞く。
 海岸堤防の上に登ると海がよく見えた。
 潮風が整髪料で固めていない柔らかく降ろしたままの髪の毛を撫で、耳元や頬をくすぐっていく。
 海側にはテトラポッドが積み上がり、砕ける波を受け止めていた。
 潮風の匂いは、記憶の中と同じようで少し違う。
 息を吸い込んだときに鼻の奥に感じる空気の温度も、思い出の通りではない。
 どの海も少しずつ匂いが違い、色が違う。
 海を渡ってくる風もまた、同じではない。
 ミズノエ市で生まれ育った釣井にとって、海は海でしかなかった。
 隔たった世界の解像度が上がって、海沿いでは朝に凪が来て風が止むことがわかるようになる。
 その瞬間がもうすぐくるということも、体が覚えていた。
 西の空では水平線との境目に、まだ夜が滲んでいる。
 釣井は海の東端で、夜明けを待っている。
 堤防の下に設置してある自販機がピ、という電子音を鳴らし、ガシャンと缶を吐き出す音が聞こえた。
 誰かがいる。
 見下ろすと、いつだって一番会いたい人の顔があり、都合の良い白昼夢を見たのかかと思って一瞬自分の目を疑う。
 青い坊主頭は、染めたばかりに戻っているから色鮮やかだ。
「おはようございます」
「おはよ」
 交わした言葉はそれだけだったが、立ち去る前に微笑んだような気もして、釣井はその背中が宿に消えるまで見送っていた。
 八万からの答えは、まだもらえていない。
 メッセージすら、一度も交わしていなかった。
 連絡があったのは臨海学校が終わり、学校が本当の意味で日常生活を取り戻してからだった。
 八万から連絡が来るのが、その日だと思っていなかった釣井に、覚悟などできているわけもなく、勢いよく立ち上がって椅子を倒した。
 心の準備はできていなくても、体は勝手に走り出している。
 八万が呼んでいる。
 ならばどこへだって走っていく。
 彼に好きだと告白した日、海に沈んだ校舎をこんな風に駆け上がったことを思い出す。日が落ちる寸前の海を見ながら、八万に好きだと告げた。
 そして非日常が終わるまでという条件付きで、仮初の関係をもらった。
 お試しの交際期間。その答えが、この階段の先にある。

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