極彩色の空は異郷を告げる


Tidalwave_逃れようのない波
 釣井の寝床は、人に見咎められたり邪魔になったりせずに済むところに、毛布を敷いただけの簡易的なものだ。とはいっても寝るのは昼間だから、夜は巡回の先生や夜更かしの生徒に見つからないように、本を読むためのスペースとして使っている。
 最近は、海に居ることの不安に慣れて夜中に微睡むこともあり、朝方になるとタコ足が体にまとわりついていることもある。たぶん、無理な体勢で硬い床に横たわっているから風邪をひいたり、体を痛めたりしないようにという配慮なのだろう。
 気遣いだけはありがたいと思いながら朝一番で、べたべたになった服を着替えシャワーを浴びる。
 お気に入りは教卓の下で、寝床というより巣穴に近い。ミズノエ市の住宅街で生まれ育った釣井は秘密基地というのを概念としてしか知らないが、実際に作ることがあるならこんな感じがいい。
 秘密基地は一人用のスペースしかないので、一緒に夜を過ごしてくれる人がいるときは、巣穴から這い出してくる。毛布を引っ張り出して、足が伸ばせる場所に置く。今日は八万が一緒にいてくれる。
 それだけで、釣井はデートの約束を取り付けたときのような気分になっていた。
 釣井にとっては紛れもなくデートだ。閉鎖された学校の中では、いけるところなどほとんどない。だから二人きりで何かをする約束をして、実現したのなら場所がどこであれ、それはデートだ。
 八万が寝るまでは、スマホで音楽を流す。
 呼吸が深く大きくなっていき、胸が規則的に上下するようになるのを見て、釣井はスマホの画面をタップして音楽を止めた。
 ここから夜明けまで、何をして過ごそう。
 夜と昼の境目が曖昧な常にぼんやりとくらい暗い海。本を読むには、少しだけ光が足りない。水面よりも上の場所にいるから、夜でも外から差し込んでくる光はある。
 だが南国のときと比べて光はずっと弱まってしまっていて、晴れているときの昼間ですらなんとなく薄暗い。今は月の光すらも遠ざかって感じられる。
 文字は追えないが、目が慣れてくれば寝顔を眺めるくらいはできるかもしれない。
 起こしてしまわないように、そっと寝ている八万の体に触れる。体温と鼓動が手の平越しに伝わってくる。
 二人の関係の着地点は見えていない。それを不安に思わないわけではない。
 それでも好きな人が側にいてくれることの嬉しさに比べたら、些細なことに思えてしまうのだ。誰も見る人がいないのをいいことに、頬が緩むのを押さえられない。緩む口元を、八万に触れていない方の手で押さえる。
 このまま寝顔を見つめながら、体温を感じているだけで朝までの時間を埋められそうな気すらしてくる。
 そんな浮ついた望みが、現実になることはなかった。
 水音がした。
 波の音は窓の外からずっと聞こえている。だがその水音は、もっとずっと近くで聞こえたのだ。水が流れ込む音がする。
 どこかで誰かの悲鳴が聞こえた。流石に気になる。様子を見に行ったほうがいいのだろうかと、身動ぎをする。その足がひやりとして、服にぐっしょりと水の感触が染み込んでくる。
 心臓が、動きを止めた。
 ずっと感じていた不安があった。
 男子の宿泊場所は体育館と決まっているのに、釣井の足を遠ざけさせている原因。四階より下に行くのが怖くて、夜も徘徊していた理由。
 水の侵入を防いでいる不可思議な力が消えたら、どうなってしまうのか。寝ている間に、学校が水に沈んだら自分たちはどうなってしまうのか。今日大丈夫だったからといって、この先もずっと続く保証なんてない。
 その恐怖が現実のものになってしまった。
 足元にひたひたと忍び寄ってくる水と揺れる水面を見たとき、溺れたときの記憶が蘇った。肺に空気が入らない。体が痙攣して飲んだ水を吐き出すこともできない。体が徐々にいうことを聞かなくなり、冷えていく。
 命が失われていくときの感覚。
 体を硬らせながらも、咄嗟に八万の肩を掴む。
 持ち上げようとしたが、重くてうまく行かなかった。
 あんな恐怖と苦しみをこの人に味わせてはいけない。この人はまだ死んでいない。生き死になんていう、背負うには重すぎる問題と向き合わなくても済んでいる。
 このまま平穏に日常に帰って欲しい。釣井は駄目でも八万だけでも。
「せ、せんぱ」
 呂律が回らない。少しでも頭を海面から遠ざけようと、膝の上に載せる。
 体を濡らす水に気がついたのか、それとも釣井が乱暴に引き起こしたからか、八万も目を起こした。
「水が、中に」
 釣井が正しく状況を伝えるよりも水位が増すのは早く、指先を濡らす程度だった水はすでに足首のあたりまで上がってきていた。
 気がつけば爪が食い込むほどに強く八万の体を掴んでいる。手を見て力が強すぎることにようやく気づき、引き剥がす。もしかしたら血が出てしまったかもしれない。少なくとも釣井の爪先は割れて血が滲んでいた。
 八万は、痛みと水と言葉とどれを早く認識したのだろう。
 その顔から一切の表情が消え、素早く周囲を見回したあと、立ち上がった。
「忍ちゃん、逃げるよ」
 腕を掴まれたが、膝ががくがくと震えて力が入らない。
「置いてって、ください」
 首を横に振る。こうしている間にも水位は増している。八万が逃げ遅れる。
「できるわけないでしょ」
 腰に手が回った。体がぐいと抱え上げられる。釣井の体を海水から遠ざけるように持ち上げ、沈みつつある教室から廊下に出る。
 既に廊下も水に沈んでいた。他の人の姿はみえない。
 階下に向かう階段は、もうどこにあったのかすらわからない。
 下の階はどうなっているのだろう。そこにいた人たちは?
 平の姿が見えない。仮に上に避難しているのなら、釣井を置いていくはずがないという確信があった。名前を呼ぶ声すらも聞こえない。
 寝ている間に、海水に襲われた人たちはどうなったのだろう。四階まで水が満ちてくるまでの時間、海の底にいて助かる訳が無い。
 死んでも生き返るけれど、生き返る先の教室も海に沈んでいる。そしたらまた溺れるんだろうか。
 恐怖と絶望で吐きそうだ。
 吐き気を我慢しても、涙が止められない。塩水の中に涙の滴が滴り落ちる。
 足を水に取られて、人一人抱えての歩みは遅々として進んでいなかった。
「オレは、もう死んでるので、いいんです。先輩逃げてください」
 このままでは八万も一緒に溺れてしまう。
「死んでんなら俺は今誰と話してんの、死体?」
 苛立ったような八万の声が返ってくる。
「先輩の言うこと聞けよ」
 先輩だけど、一歳しか違わない。
(オレは先輩とか後輩とか関係なく、好きな人に生きていて欲しいです)
 だが、動けない釣井を抱き抱える力は強く、引き剥がすことなどできるわけもなかった。本当は、怖い。一人でいたらパニックで立ち上がることすらできなかった。
「……ごめんなさい」
 体を支えてくれている腕に縋り付く。
 階段に差し掛かったとき、バシャンと大きな音がした。
「うお!」
 よろめいた拍子にずり落ちた釣井は廊下に足を着く。ようやく自分の足で立てた。
「見つけた!」
 八万のものでも釣井のものでもない声がする。目の前に人がいたが、釣井の認識が確かなら、海の下からやってきたように見えた。とっくに沈んでいる階下からだ。
 しかもそれは、釣井がよく知っている人だった。
「いっくん」
 名前を呼ぶ声が涙で滲む。髪の毛をおろし、寝る直前の格好のままびしょ濡れでそこに立っているのは、確かに平だった。
「ここにいたんだ。よかった〜。大丈夫?」
 顔面蒼白で涙目になった釣井の頬を撫で、怪我がないか確かめている平は濡れている以外はいつもどおりに見える。
「いま海の中から出てきた……よな?」
「そう、学校が寝てる間に海に沈んで、でも息はできるみたいです」
 平が、八万の疑問に答える。
 四階まで水が達するよりも前に、体育館は水に沈んでいた。当然、そこにいた人たちはパニックになった。だが逃げ遅れた人と呑気に寝ていた人のおかげで、その水の中では呼吸ができるということが証明された。
 浮力が存在しているし、全員に知覚できている。だから、幻覚などではなく確かに海水なのだが、不思議なことに電子機器も今までと問題なく使用できる。
「先生が避難誘導とかしてるけど、しのがどこにもいないから……電話も出ないし」
「電話?」
 眠りを妨げないように、通知のバイブレーション設定も切ってそのままになっていた。画面を立ち上げると平からの数件の着信が入っている。
「……ごめん」
「いいよ。とにかく他のみんなも無事だから、安心して」
 理解ができないし、現実的にはありえない。だがこの場所で起こるのはそんなことばかりだ。今起こっていることも、この学校が一ヶ月以上巻き込まれている不思議の一つであるらしい。
 信じられなくても身を持って証明している人がいるのだから、信じるより他ない。
 急に肩の力が抜けて、ため息が出た。
「とりあえず、屋上行こうぜ。忍ちゃん、怖いんでしょ」
 死なないことがわかっても、八万にしがみつく腕はまだ震えている。
 屋上に上がる。
 息ができるし死なないからいいという問題ではなく、沈んでいる状態がストレスになる人は大勢いる。他にもたくさんの教師と生徒が避難してきて、狭くなった。
 狭い空間で身を寄せ合って、夜明けを待つ。夜が明けたからといって、何が起こるわけでもないが、日が出れば安心できるし行動することもできると信じていた。
 不安に満ちた表情でお互いの顔を確認し、疲れ切ってぐったりと首を垂れる人々の目の前に、それはやってきた。
 最初に変わったのは、空だった。
 まだ夜明けは遠い時間なのに、不思議な色に染め上げられている。そして海の彼方から、それはやってきた。
 海を泳ぐ極彩色。
 人に似た姿をしているが、人でないことは明らかな魚の特徴を供えた容貌。女性の形をとっているが、性別などという概念が彼らに存在するのかはわからなかった。
 人魚。
 その光景を、どんな気持ちで受け止めればよかったのだろう。
 人の言葉で話す異形を前に、釣井は動けなかった。
 浸水を防いでいた不思議な力は消失したが、別の不思議な力が働いて溺れることはないらしい。全ての人が水中で呼吸できるようになっているし、機械類も調理器具も使用できる。
 海水という名の、空気が満ちているような状態だった。
 だが入れば浮力が働くし、体に纏わりつき手足を重くするそれは、どうあがいても海水でしかない。
 海の様子は、どこの海域とも言い難い。深海魚が居るかと思えば南国の鮮やかな魚もいて、恐竜もサメもクリオネも一緒くたになっている。
 極め付けは、学校を囲む人魚である。
 この海は、何が来ても驚かないを、常に新鮮な驚きで更新してくる。
 屋上にいた釣井たちは、人魚の女王がやってくる瞬間を見ていた。
 学校を海に沈めたのも、死んだ人が生き返るのもいつの間にか食料が増えているのも、そして今、こうしてみんなが海中で呼吸ができるのも、彼らの力に依るものであるらしい。物語の中に出てくるような不老不死の力はなくとも、魔法の力は確かにその身に備えているらしかった。
 彼女たちは学校にいる人間に、用事が済んだら全員元の場所に戻すと告げた。
 学校が沈んで一ヶ月、終わりが提示されたのは初めてのことだった。
 現実に戻ることができる。
 日常に帰りたい。帰れるのならすぐにでも。
 だが仮初の関係が、終わってしまう。終わりの瞬間は突然告げられた。
 思わず八万の方を見る。鋭い瞳はいつもと同じ冷たくて優しいが、釣井の方を向くことはなかった。
 学校がこうなってしまったあとの口数は、少なかった。釣井を海の上に引き揚げてくれようとしたときよりも、さらに表情は固く、笑顔は消えていた。
 時に胸の中にしまったままの言葉より、沈黙の激しさの方が心に突き刺さる。
 終わりが見えた瞬間に、あなたの心がわからなくなる。
「おこ……ってます?」
 八万は普段であれば、声を掛ければ甘えるような人懐っこい笑みを向けてくれる。
 だが今、その明るさはなく、かろうじて疲れたような顔を見せただけだった。
「……いや、ごめん、怒ってないよ別に。ただ……なんつーか気分じゃねーんだ」
 掛けるべき言葉を、間違えた。
 いつもの顔をみたいという望みばかりが大事で、彼の気持ちを何も考えていなかった。無自覚に八万に自分の望みを押し付けていた。笑えないときは誰にでもある。
「友達と遊んできな」
 どうしたら、いい。
「友達と、遊ぶような、気分じゃないです」
 八万のために何かをしたい。それこそ、一人にしてやるくらいしかできないのに、それすらも釣井にはできない。彼を一人にしたくない。
 この海で何かあったら怖い。すぐに手が伸ばせる場所にいて欲しい。
「オレといるのが気詰まりで、先輩の負担になるなら消えます。そうでないなら、傍に居させてくれませんか」
 しばらく、答えは返ってこなかった。
「好きにしてて良いよ」
 ごめんなさいと言いかけて、飲み込む。言うべき言葉は、謝罪ではないはずだ。
 許してもらったのだから。
「ありがとうございます」
 何もできない。だが、それでも側に居させて欲しい。

◇◆◇


 校長と人魚の女王は、責任者同士で話し合ったらしい。あまり建設的な話し合いにならなかったというのは、学校で自由に振舞う人魚たちと水没したままの学校を見ればわかる。
 人側の主張が、通った気配はない。
 異常に直面するのは何度目になるだろう。海の変化に適応できた人たちは、早速新しい海で遊んでいる。水の中で呼吸ができるようになったから、校舎の外に自由に出ることができるらしい。
 そのままの姿になって外に出ている人もいれば、人魚化している人もいた。一時的に人を自分たちと同じ異形に変えることができる。それもまた人魚の力らしい。
 人と似ているけれど、違う大きさも形も様々な人魚たち。
 一見親しげな様子を見せて、友好的に振る舞ってくれる。言葉は通じる。だが、会話をするとすぐに、人間とは命に対する考えも価値観も全く違う生き物であるということを思い知らされ、ヒヤリとする。
 むしろ全くコミュニケーションが取れない方が、受け入れやすかったかもしれない。そちらの方が、本当の意味で分かり合えない存在なのだと感じないで済んだ。
 近付くことで、かえって隔たっていることを感じてしまうものがある。大勢の中にいると孤独であることをより感じてしまうのと、同じように。
 学校がこうなってからの八万は、静かだ。
 四階の教室で海水から逃れるように、机の上に腰を掛けていた。それでも膝は海に浸かる。ちゃぷちゃぷと音をさせて、足元で波が寄せたり引いたりしている。
 いつでも触れられる場所にいるのに遠い。
 指先を握ることもできず、背中が見える距離にいる。
 触れる方法を、忘れてしまった。
 いつもと様子が違うのは、鈍い釣井にもわかる。それが釣井にどうにもできない種類のものであるというのも、わかっている。八万に何かをしてやれるほど、釣井は度量が広くもないし、強くもない。
 ただそういう風に、態度を繕えないほどに心を乱されている人間が、脆いというのはよく知っていた。釣井自身がそうだったからだ。人は無自覚に際に近付く。ギリギリを歩いているということに気付かないまま、少しのきっかけで暗がりに転がり落ちていく。
 八万がそうなってしまわないかが、心配だった。この学校で、ちゃんと眠れているだろうか。食事を削っていないだろうか。
 杞憂に終わればそれでいい。
 ただ何かがあったときにすぐに手を伸ばせるように、傍にいたい。
 だから何を話すでもなく、釣井は八万の近くで本を読んでいた。
 水没しても使えるらしいスマホで時間を確認する。そろそろ食事の時間だ。今までは自分で作っていたが、家庭科室に留まることを我慢できるだろうか。人魚が運んできた海から獲れる水産物は、今まで通りとって食べてもいいのだろうか。
 八万は食べてくれるだろうか。今日のところは、現実で作られた保存食の方が気持ち的に受け取りやすいかもしれない。
 本を置き、机を降りる。
 足が水に沈む。
 胃のあたりがざわざわとする。
 揺れる波に足を取られる。
 怖い。呼吸が乱れたのを聞かれないように、深く慎重に息を吸う。だが廊下に出て一人になると、指先の震えが誤魔化せなくなった。
 食事を手に入れるには、どちらにしろ階下に降りないといけない。
 階段は水底に向かって伸び、深みへと釣井を誘っている。
 深呼吸をしてから釣井は手すりに捕まり、下に向かって歩み出した。
 手すりにしがみつきながら腰のあたりまで水に浸かったところで、息がうまくできなくなった。
 ざばざばと打ち寄せる波が、釣井を引きずり込もうとしている。立ち上がりたいのに膝が震えてうまくいかない。
 波が揺れているのか、視界がぐらぐらと揺れているのかわからない。
 胸に手をやって、心臓が落ち着くのを待つ。
 どうにかして海に潜れるようにならないと、この先の学校で過ごすのはかなり難しい。一度潜ってしまえば、大丈夫なはずだ。
 息ができると実感を伴って確信できれば、耐えられる。たぶん。
 頭では理解している。行けると何度も頭の中で言い聞かせる。だが体を沈めようとすると、体が動かなくなる。
 波打ち際で進むことも戻ることもできずにへたり込んでいると、奥の方でちゃぽと水の音がした。
 熱帯の海にいる魚のような鮮やかな色が、少し離れた水面覗いている。
 人魚が目から上の部分だけを水面から出していた。人間に似ているけれど、その瞳には瞼がなくて、やけに大きくて透き通った瞳が釣井をじっと見つめていた。
 真っ白い肌には血色がなく、魚の腹のように冷えた白い色をしている。
『あなた泳がないの?』
 それは水の中でよく通る声をしていた。声の振動は水を通して釣井の体に伝わり這い上がってきた。聞いていると、ぞわぞわとする。
 人よりも明らかに大きい人魚は、水に沈んだ階段を塞ぐようにしている。
「およ、げない、ので」
(もう嫌だ)
 なんとかそれだけ言葉を絞り出す。
『泳げないの? なぁんだ。じゃあ私が手を引いてあげるわ。綺麗よ、海の中は』
 人魚が、近付いてくる。
「や、やめ」
 後退さる。
 だが滑らかに泳ぐ人魚と比べて、人の体では半身に水を浸した状態ではうまく動けない。
 転び、その隙に距離を詰めて腕を掴まれた。
 温度がない肌が手を掴む。その力の強さに、骨が軋んだ。離してくださいと叫ぼうとしたが、痛みに言葉が詰まる。水中に引き摺り込まれた。人魚が鰭を動かし、水の中でぐっと加速するのを感じた。
 驚いて息を吸い込み、口に水が流れ込んで海中であることに気がついた。もう手遅れだ。
 悲鳴が出た。
 口の中に水が流れ込んだのに自分の声が出ることに驚いて、目を見開く。
 パニックになりかけたが、自分の上げた悲鳴があまりにも大きく聞こえたので、驚いて正気を保つことができた。水の中は音がよく響く。
 人魚も釣井が上げた悲鳴に驚いたように、手を離した。釣井は水の中を慣性で流されてしばらく進んだあと、廊下にゆっくりと沈んだ。
 釣井を引っ張っていた人魚は、何が楽しいのかくすくすと笑っている。掴まれた手首は爪が食い込んで肌が裂け、血が水の中に赤く筋を残している。
『人間って変な声で鳴くのね』
 化け物が人の言葉で喋っている。
 少なくとも釣井にとって、それは善き隣人にはなれない異形だった。友好的に接してくるし、その思考におそらく嘘はない。だからこそ、怖い。相容れない。
 なんの悪意もなく、彼らはうっかりと人間を壊してしまう力を持っている。
 血が滲む腕には、青黒く掴まれた痕が痣になっている。
 人魚の言葉には返事をしなかった。服の袖を下ろして、まだ血が止まらない傷を隠す。釣井は黙って自分の教室に泳ぎ去った。
 人魚は、反応が悪い上に楽しそうな顔をしない釣井から興味を失ったらしかった。腕を押さえて教室に逃げ込めば、つまらなさそうな顔をしてもう追いかけてこない。
 安全だと判断してから、腕の傷を検める。だが傷がどれくらい深いか、素人目にはわからなかった。
 掴む力が強すぎて、手首全体が痺れたようになっているから、具体的にどこが痛いのかわからない。血が出ている場所が痛むのだろうという想像があるだけだった。
 荷物の中にしまってあった布で押さえてじっとしていると、海中に広がる血の量は徐々に減っていった。
 人魚の女王に頼めば、どんな酷い傷も治してもらえるとかなんとか。それも釣井を生き返らせたのと同じ、魔法の力だ。
 苛立ちを覚えるのはなぜだろう。
 死にたくはない。ならば人魚の不思議な力に感謝するべきなのに、受け入れられないし喜べない。身勝手で理不尽に、人を振り回す異形。
 傷を押さえていた手に力が籠る。ちゃんと痛みを感じた。
 包帯は流石に保健室に行かないと見つからない気がする。あるいは職員室にもあるだろうか。
(めんどくさいな……)
 早く八万のところに戻りたい。
 代用品を探して教室の中を漁っていると、布ガムテープを見つけた。
「これでいっか」
 手首に巻きつけると、とりあえず血は滲み出てこない。
 血が止まれば、大したことがない怪我だ。裾を下ろしたら傷は見えなくなった。
 手を掴まれただけでこんな風になる生き物と親しく遊ぶというのは、やはり釣井の感性では難しい。恐怖の方が、優ってしまう。
 ようやく荷物を運べる。
 ため息を吐いて、鞄を用意する。取っておいた配布の保存食を一通り詰め込んだ。
 八万のロッカーに一時的に置かせてもらったら、いちいち階下に戻らなくて済む。
 釣井が下でもたついている間に、八万がどこかに移動していないかが心配だった。だが教室に戻ると、変わらず席に腰掛けていた。
「食料、下から取ってきたんですが、食べますか?」
 ケトルを探してこないとお湯が沸かせないから、食べられるものは多くない。
 そのまま食べられるものを探して手渡す。
「ありがとね。……無理しなくて良いよ」
 無理をしているように見えてしまったんだろうか。
 姿が映るものを探して窓を見たが、昼間だから顔色も表情も見えなかった。そこには教室から水面が繋がる海と、オーロラのような鮮やかな空があるだけだ。
 ここ一ヶ月ずっと顔色が悪かった気もするし、最近は少しましになったと思う。
「先輩は、海、怖くないですか」
 少なくとも水没した当初は、それほど好意的ではなかったはずだ。海に入って遊んでいる様子も見ていない。
「全然。むしろムカつくぐらいだね」
「? ムカつく……んですか?」
 それは想像していなかった種類の感情だった。
「……この状況だと余計にね」
 たぶん、八万には隠していることがある。
 海か、この状況自体に苛立ちを覚えるような、何か。
「忍ちゃんのがしんどいでしょ、海、怖いじゃん」
 怖くないといえば、嘘になる。体が強張る。人魚に腕を掴まれたときには、頭の中を死の文字が掠めた。
「今までたくさんの人に助けてもらいました。助けてもらうばっかりだったので、好きな人のことくらい、心配させてください」
「……ま、疲れない程度にやりなよ? 俺は別になんにもないから」
 なにもないわけはない、と思う。
 余裕がその表情から消えていて、これまで通りではない。それはわかるのに踏み込む勇気がない。
「大丈夫ですよ。本当は、先輩が傍にいてくれたら安心できるから甘えてるのかも」
 相手から目を離したくないという気持ちを、優先しているだけかもしれない。わがままを受け入れてくれる優しさに、付け込んでいるだけなのかもしれない。
「ふぅん、今甘えさせられてるのは、どっちかっつーと俺な気がするけど」
 思わぬことばに、顔に喜びが出そうになった。
 だがそれを顔に出していいタイミングではないから、緩みそうになる頬を必死に押さえつけた。どんな形でも、好きな人に頼ってもらって嬉しくないわけがない。
「あまえ……て、くれてたんですか」
「……多分そうなんじゃない?」
「そうだとしたら、オレは嬉しいです」
「じゃあ、そういう事でいいよ」
 甘えて、くれている。
 何か一つでも、八万 至の役に立ちたい。
 夜になっても、空が夢のような空の色をしている。
 泳ぎ回る人魚が海に誘う囁き声と、戯れる水音。
 夜になっても静けさが戻ってくることはない。
 落ち着いて過ごすことができる場所は限られている。不安が眠りを遠ざけることを、釣井は実感としてよくわかっていた。
 八万はきちんと夜は眠れているだろうか。屋上なら海から浸水していない分、少しはましなはずだ。
「何かあったらすぐに起こすから、大丈夫です」
「もう何かありまくってるんだけどね」
 それもそうだ。
 臨海学校の異変が人魚たちであることは判明したが、いつもこれ以上おかしなことが起こるわけがないを更新してきていたわけだから、何もないとも言い切れない。
 毛布を頭まで被ったのは、外の光が不愉快だからだろうか。
 しばらくすると、規則的な寝息が聞こえ始めた。
 八万は以前ほどにこやかではない。それでも構わなかった。
 冷たくされたから嫌いとか、優しくしてくれなかったら嫌だとか、そんな単純な理由で人を心が動くならもっと楽な生き方ができた。
 気持ちよくしてくれる人の中にだけいればいい。
(あなたが眠れているのなら、よかったです)
 眠っている八万の肩にそっと手を置いた。

◇◆◇


 教室に入るとき、インスタント麺のいい匂いがするなとぼんやりと考えていた。
 保存食の備えは十分にあるが、毎日似たような味になってしまうし、栄養が偏る。もう一度階下に降りて、何か食べるものをもらってきた方がいいかもしれない。
 そんな取り止めのないことを考えていたのだ。
 膝まで海水が満ちて歩きにくい四階教室の中に足を運び、ふと顔を上げる。
 教室の中にサメがいた。
「ひ」
 釣井は声も出せずに壁に張り付いた。頭をぶつけるガンという音で、サメはゆっくりとこちらを向く。
 槙島先生がお勧めしてた映画で、こういうシーンがあった気がする。
 そんなことを考えている場合ではない。
 サメがカップ麺を啜っていた。
 カップ麺を食べているんだから、人間は食べないはずだ。絵面は雑なCGで作ったB級映画だが、実体を持って存在しているから動きも映像もクオリティが高すぎる。
 頭が混乱する。
 人魚なんだろうか。半分人で半分魚という定義の面ではクリアしているが、学校を囲んでいる美しい異形たちとはあまりにもタイプが違う。人魚と半魚人の違いは何かと問われれば、目の前のこれが答えだ。
 ミズノエ高校の制服を着ているというのが、尚更不気味だった。
 なんだろう。人魚の眷族か何かだろうか。
 そのままそっと廊下に出ようとカニ歩きをした釣井は、サメの頭をした半魚人の後頭部のヒレに、見覚えがあるものが被せてあるのに気がついた。
 八万が、いつもかぶっている帽子。
 そう言われてみれば面影が……。
 首を傾げてサメをマジマジと見つめる。
 あってたまるか。
「だ……」
 大丈夫ですか。大丈夫なわけあるか。頭がサメになってるんだぞ。
「食べにくく、ないですか?」
 サメは無言で頷いて、ズルズルと器用に麺を啜った。
 八万だとわかれば、サメの頭をした半魚人も怖くない。
 むしろ黒くてつぶらな瞳が可愛いとすら思えてくる。我ながら単純な思考回路だ。
 好きな人なら、どんな姿をしていても愛せてしまう。
「サメ肌、触ってみていいですか?」
 首が太いから、縦に振ったのか横に振ったのか、動きが分かりにくい。イエスなのかノーなのか判然としなかったが、ヒレになった手が釣井を拒んではいなかったのでいいのだろうと判断した。顔をよく見ようと恐る恐る膝に乗る。
 人間の体温で触れてやけどしてしまわないだろうか。恐る恐る触れた肌の表面はヒヤリとしているが、体重を預けている膝から感じるのは人の体温だった。
 逆撫でするとザラザラして、手が痛い。もう少し強く押し付けたら、手を切ってしまいそうだ。
 サメは表情が全く読めない。大きな口の中に鋭い歯が並んでいる。一列だけでなくて、内側にも。
 よくお土産物で、アクセサリーにされているやつだ。
 指で触れてなぞっていると、刺すような痛みが走った。
 肌に赤い筋ができている。血の玉が見る間に膨らみ、重力に従って流れ落ちた。 サメの白い歯にぶつかって赤い滴が砕ける。
「ごめんなさい、先輩。血が」
 口の中にこぼしてしまった。
 サメの頭で味わう血の味は、甘いんだろうか。それとも鉄錆じみた苦さを感じているんだろうか。歯の上に垂れた血を拭おうとして、また指先を切った。
 鋭い歯が並ぶ口の中を見つめる。
「キスしてもいいですか?」
 八万先輩の反応は、拒否だ。それくらいはわかる。
 わかっていて、見えていないふりをした。
「……そっか、喋れないんですよね」
 ヒレの手で釣井を引き剥がすのは大変そうだ。指がないし、長さもたりない。人魚の力はかなり強かったけれど、半魚人の力は人よりも強いのだろうか。
 腕に痣を残されたときの力で、体を掴まれたらどうなってしまうんだろう。
 あるいはこの鋭い歯で噛みちぎられたら、どうなるのだろう。
(でも、先輩はそういうこと、できないですよね)
 釣井の指先が口の中に触れているから、今は口を閉じることもできない。
 鋭い歯に唇を寄せると、痛みが走る。
 それすらも、心地よく感じられた。
 八万のサメ頭は、さほど時間を経ずに元に戻った。
 人魚化していられる時間は短いらしい。手がヒレのままでは生活が不便そうだったから、すぐに人に戻れたのは幸いだ。
 やはり好きな人の顔が見えていた方が安心できる。それにいつになく無抵抗な姿を見ていると、悪いことを考えてしまう。
 人に戻ると表情がわかるようになる。八万は今まで見せたことがないような、仏頂面をしていた。
 サメにされたのがそんなに嫌だったんだろうかと呑気に考えていた釣井は、膝の上から退かされる。
「忍ちゃん」
「はい」
「サメの俺にチューすんの禁止ね」
「は……え⁉︎」
 相手の言葉にそのまま頷こうとして、手が止まる。
「血ぃ出てるし」
 濡れている唇に手の甲を当てると、確かに赤くべたつく汚れが肌に残った。下を向いて、唇の汚れを舐めとる。気をつけて触れば、怪我なんてしない。だが八万が駄目といったら、〝だって〟も〝でも〟もない。駄目なのだ。
「じゃ、今の先輩にいっぱいします」
 身を乗り出す。座っているから釣井よりも低い場所に唇がある。屈んでもらわなくても、触れられる。
「今もダメ! 治るまでしねーから」
 近づけた顔が手の平で押し返される。
 抱っこを拒否する猫みたいだ。
 舌を出して、顔を押さえる指先を舐める。
「お前ね……。禁止禁止! 禁止で〜す」
 呆れたような声を出し、八万はすぐに顔を押さえる手を引っ込めてしまう。
「……先輩」
「駄目」
 お預けが辛くて声が切なくなるが、八万はにべもなく突っぱねた。
 駄目と言われたら、やりたくなる悪癖を人は持ち合わせている。釣井も例にもれずそういう一面を持ち合わせていて、駄目と言われるほどに触りたくなる。
 粘膜の傷が塞がるのに時間は掛からなかったが、舌に引っかかる傷がなくなるまでの数日がとても長くもどかしく感じられた。
 八万の袖を引く。
 隙さえあれば触れたがるせいで、最近では警戒されている。
「先輩、怪我治りました」
 見えやすいように口を開ける。
 口の中を確認する指先で、舌を掴んで口の中を掻き回してくれないだろうか。期待しても、八万は触れてくれない。傷の有無だけ確認して、手を離した。
「そーだね」
「キスしていいですか?」
 傷が治ったら触れていいと言っていた。ようやく八万に触れてもらえる。
「あんまりがっつくなよ〜?」
 呆れたように笑ったが、拒否はされなかった。首に腕を回すと子供にするように優しく背を叩かれた。
「どうしたら、好きな人に触れたいの我慢できるんですか」
「本人に聞かないでよ」
 頬を寄せる動きに目を閉じて答えながら、困った顔をする。
「先輩の方が、経験豊富だと思ったので……」
 釣井が知っている範囲でも、家に呼ぶような中の恋人がいたはずで、人に触れることには慣れているはずだ。きっと適切な距離というものを、八万ならば知っている。
「……ま、忍ちゃんよりはね」
 肩を竦める。
「がっついてると、幻滅しますか?」
 堪えしょうがないから、嫌われてしまうだろうか。
 この衝動は、精神がきちんと成熟した人からみたら子供っぽくて、痛々しいのかもしれない。
「しねーよ」
 口の端に浮かべた笑みは、許されていると思っていいのだろうか。
 好きな人を前にして止めようがない衝動で、釣井は八万に触れた。

◇◆◇


 教室の中にクラゲみたいなものが漂っていた。
 水没したあと、学校の中では軽いものが浮いていて、不安定にふらふらとしていて落ち着かない。少しぶつかっただけでどこかに流れていってしまうから、教室の中などは酷く散らかっている。
 八万が階下にいるというからやってきたのだが、姿が見えない。まさかまたあの青い人魚に、サメ人間に変えられてしまったんだろうか。八万が窓から海に連れ去られてしまっていたら、どうしたら良いのだろう。
 ちゃんと、返してくれるだろうか。
 八万の姿を探しながら、視界の真ん中をふわふわと彷徨っているクラゲのようなものを捕まえてみた。
 それは水棲生物ではなくて、帽子だった。
 いつも八万が被っていて、そうでないときはポケットに突っ込んである。サメになった八万を見分けられたのも、この帽子を被っていたからだ。
 なぜここに置き去りにしてあるんだろう。
(本当にどこかにいってしまった)
 そんなはずはないと言い聞かせる。窓はどこも開いていないから外に行ったわけではないはずだ。人魚にそんな丁寧さはない。廊下でもすれ違わなかった。
 帽子を握りしめ不安を募らせていると、ポケットの中のスマホが震えた。メッセージが届いている。
 少し席を外すとあり、吐き出した安堵の息が水泡になって教室の天井に溜まった。
 少なくとも今の八万は、スマホで文字を入力できる手だ。
(良かった、無事でいて)
 なら帽子は忘れていっただけなんだろう。
 ――いま、どこにいらっしゃいますか。
 返信。
 帽子のことも、連絡した方がいいだろうか。
 すこし迷い、結局送らなかった。会うときに、持っていって渡せばいい。
 帽子を被ってみる。ずっとそうしてみたかったのだ。鏡がないから、どう見えるのかわからない。落ち着かない髪の毛が帽子の中に収まって、大人しくなる。
 先輩のものになったような気分になって、嬉しくて頬が緩んだ。

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