どうしてそんなものに触りたいのかと不思議そうな顔をされたが、釣井にとってはずっと特別なものだった。この傷があったから、ただの先輩と後輩でしかなかった二人が友達になった。その八万の冗談と、傷を冗談で流して良しとしてくれる軽やかな生き方が、釣井の憧れになった。
交わるはずのなかった道が、あの瞬間に交わった。
額を走る三本線に、指で触れる。皮膚の繋ぎ合わさった場所が白く盛り上がっている。そこだけ毛が生えないから、探るとつるりとしている。
「どう? ちょっとボコボコしてるよな!」
「そうですね」
手触りは、釣井の額に残る傷とよく似ていた。眉を横切る傷痕に唇で触れる。
好きな人の一部に勝手に意味を見出してしまう。
「じゃー次、忍ちゃんね」
気が済むまで釣井に触れさせてくれたあと、八万がにっと笑う。
「オレ、ですか?」
「等価交換だぜ」
触れられたいと言われれば断る理由もない。
八万の手が釣井の額に触れた。伸ばした前髪を指で梳き弄びながら、親指の腹が疵痕を撫で下ろす。
瞼を横切る傷を差し出し、目を閉じていた釣井は八万がどんな顔をしているのか、見逃した。
「忍ちゃん、下であんまみないよね」
下というのは、男子生徒の宿泊場所になっている体育館のことだ。
広い体育館の中で、釣井のことを気に掛けてくれていたのだろうか。だがよく考えれば、どこにいても八万の姿を見つけては近づいていく釣井が、体育館でだけはまだ一度も話しかけていないのだ。荷物を取りに戻るときくらいしか寄り付かないのだから仕方がない。
告白をする前ならいざ知らず、今は隣にいくのに言い訳も必要ない。
クラスごとで大まかに固まっているから、誰がどのあたりにいるのかというのは概ね予想がつくだろう。人をよく見ている八万には、すぐに知られてしまうことだったのかも知れない。
「そうですね。寝付きが悪いので」
「あー、釣井ちゃんわりと夜更かしだよね」
「そうですね、比較的。他の人の邪魔になるので、ちょっと出歩いてます」
「夜って暇だよな〜。寝るしかすることねーもん。音出せねーし……」
八万は、普段は音楽を聴きながら過ごしているんだろうか。
釣井が泊まりに行っているときの八万は、自分の世界にだけ没頭しているということはない。一緒の時間を過ごしている相手に、注意を払ってくれる。だから、一人きりで家にいるときの様子を知れるわけではない。
それでもベッドからすぐ手が届く位置にあるヘッドホンや、本棚に並ぶCDを見て想像することができる。一緒に夜の時間を過ごす、チャンスなんじゃないだろうか。
「……屋上、一緒に行きませんか? 人いないから、音楽かけても平気ですし、あと星がすごく綺麗に見えます」
心情的にはデートの誘いだった。八万がそうと認識しているかは定かではないが、二つ返事で応じてくれた。
眠るには少しだけ床が硬い屋上に、毛布を持ち込む。
階段室の屋根に登り寝転がると、空だけが視界一杯に広がり、他には何もない。
波の音と潮風が、近くに海があることを教えてくれる。
八万が再生した音楽が、規則的に波が砕ける音に混じった。
膝を貸そうかという提案はもしかしたら、冗談だったのかもしれない。釣井が顔を合わせた瞬間から眠そうにしていたから、少し休んだらというのを彼なりのやり方で伝えてきただけだった可能は大いにある。
だが、眠気でふらふらとしていた釣井は真意を確かめることはなく、言葉通りに受け取った。反射でよろしくお願いしますと答えていた。
八万の声には、笑いが混ざっていた。手が太ももを軽く叩いて釣井を招く。
「いーよ、おいで」
普段の臆病さに比べて、随分と大胆だと思われたのかもしれない。釣井も頭を預ける瞬間になって、本当にこんなことをしてしまっていいんだろうかと自問した。
(別に、膝くらいなら友達にも貸すし)
膝を借りたことも貸したこともあるわけだから、その相手が八万に変わったところで問題はない。太ももの上におそるおそる頭を乗せる。
中途半端に頭を浮かせていると額を押さえられたので、観念して体重を預けた。感じるのは筋肉と骨で柔らかさはない。枕と違うのは体温があること。
そっと息を吐き出す。
額にあった手がまぶたに降りてきて、目を閉じさせる。ギリギリまで起きているせいで、光を遮られているとすぐに眠ってしまいそうになる。指先が額の傷に触れる位置にある。手触りに違和感があるのか、くすぐるように何度も撫でていく。
眠気が何処かに消えていった。体の方が目覚めてしまった。
八万の手を掴んだ。頬に充てがうようにして、顔をすり寄せる。
指先に唇で触れ、咥え、甘く食む。
「誘ってんの?」
八万が、釣井の顔を覗き込んだ。
「誘ってます」
「正直だね」
指が口を開かせた。舐めようとした舌が掴まれ、引っ張り出される。指の腹が強く舌を擦り、そして離れていった。
「でもざーんねん、今日はそゆことしませーん」
声の調子を軽く一転させて、触れるのをやめた。
唾液に濡れた指を拭い、手元のスマホに興味を移してしまう。
物足りない。袖を引くが、応じてくれなかった。
「ダメなんですか?」
「ダメだよ」
頬が両手で挟まれた。
ぐっと顔を近づけ間近に見つめられながら言い聞かせるようにされると、頷く以外のことなどできるわけがなかった。目を閉じて深呼吸をして起きてしまった体を落ち着け、眠る努力をしなければいけなかった。
手探りで、そこにあるはずの指先を探して手を伸ばす。思い切って指を絡めると、八万が握り返してくる。
「思ったより、あったかいんだな」
握られた指先のことかと思って反射で隣に目をやった。気温のことだと思い直す。
「そうですね、気温が上がってるとかなんとか」
確かに釣井の記憶にあるよりも、今日は温かいように思った。
屋上の様子を見にきていた先生が、見慣れない魚がいるとかボトルメールが流れ着いているとかいうことを、話し合っていたように思う。もしボトルメールとやらがこの学校の人間が流したものでないのなら、それはここ以外のどこかで人が暮らしていることを意味する。
変化のない水没学校での生活にも、少しだけ希望が持てる。
人が話しているのを又聞きしただけだから、明日覚えていたら話していた先生に確認してみよう。
「このまま、ここで寝る?」
「ここは朝眩しいので、向こう側に降ります」
「なんか手慣れてんね」
喋りすぎたかもしれない。いつも屋上にいることが、知られてしまうかも。だが、朝日を直接顔に浴びる場所は寝苦しいのだ。一番いい場所を、既に見つけている。朝日を真正面から浴びないでいられるところがある。
「手、繋いだまま寝てもいいですか」
「いーよ」
指先を絡めただけで、二人の間にある体格の差がわかる。
流れているメロディーに聞き覚えがあるのは、以前に進めてもらったアルバムに収録されていた曲だからだろうか。
釣井はその日、夢も見ないほどに深い眠りについた。
目を覚ましたのは、手を握ったままだった八万が隣で身動ぎをする気配を感じたからだ。寝苦しい。思わず毛布を跳ね除ける。
夜明け直後だというのに、日陰で汗をかくほどに気温が高い。
気温が上がっているかも知れないなどというレベルではなく、暑い。
真夏の気温だ。
「おはようございます、先輩」
あくびを噛み殺しながら伸びをし、そしてそのまま動けなくなった。
海の色が、変わっている。
深い青色だった海は、ターコイズブルーに透き通っている。太陽の色すら、昨日までとは違って見え、海の中を鮮やかな色をした魚影が掠めていく。
波の音に混じってコンコンと何かがぶつかる音がする。
ボトルメールが、流れ着き校舎の壁をノックしていた。
海が様相を変えた。
海域を変えたとでもいうのだろうか。
具体的な場所は相変わらずわからないし、ここが実在する場所なのかも定かではないが、南国の温暖な海の色と生物相であるらしい。というような内容を、釣井は他の人たちからの又聞きで知った。
だが気象や生物に詳しくない釣井にも、今までと違うのだというのは実感できた。
暑さに弱い人間はクーラーの効いた室内に逃げたので、屋上は人が少なくなった。
そして海の鮮やかな色に誘われて、海に沈んだ学校に慣れてきた生徒たちは海水浴を楽しんでいる。大人よりも、子供の方が適応力が高い。
釣井は今まで通り、眠れない時間は屋上で過ごしていた。
何気なく海を見下ろし、そこに見えたものに息を飲む。
海が赤く染まっていた。
一瞬、血液かと思って背筋が凍ったが、もっと茶褐色に近い色をしていたし、誰かがサメに襲われたなどという規模ではない。海一面、あたり一体が色を変えている。絵具を流したような不透明な赤色は、透き通るターコイズブルーの中で、異質な存在感を発している。
誰かが海に絵具かペンキでも流したのだろうか。そういう色合いと質感だ。
この学校にそんな乱暴なことをする人間がいるだろうか。
いや、そもそも人が襲われたにしては範囲が広すぎるが、絵具を流したにしても量が多すぎる。工場から流出したのかという規模だ。
また、なにか奇妙なことが起こっているのだろうか。
海の色が変わってから、学校にはどこからともなくボトルメールが流れ着くようになっていた。この海がどこかに繋がっていて、そのどこかから流れ着いているのだろうか。
様々なことが起こりすぎて、普通でないことが起こることが普通になりつつある。例えば明日になって海水が全て赤くなっていても、釣井も他の生徒の大部分もそういうものだと思って受け入れてしまうのだろう。
受け入れてしまうが、目の前で異常が起こって動揺しないわけではないし、不安を感じないわけでもない。
理由が原因がわかれば少しは安心できる。釣井は、答えを同じく屋上にいた教師に求めてしまった。
ちょうど屋上には生物教師の槙島先生がいる。
学校がこんな風になってからずっと、大人たちは大変そうだ。経験でもマニュアルでも対応することのできないできごとと、非現実的な現象。そこに生徒を監督する立場としての責任が加わっている。
この海で起こる現象に付いて、聞いたとしてわからない以外の答えは返ってこないのではないだろうか。そう思いながらおそるおそる槙島先生に尋ねると、あっさりと答えが返ってきた。
「……ああ、あの色は赤潮だろうな」
「赤潮?」
「急に水温が上昇したようだから、プランクトンが活発になったんだろう」
海でよくある自然現象だと説明を受け、拍子抜けした。異常でもなんでもない。海水浴に出ようとしていた人が、汚れるのを嫌がる程度だろうか。
ミズノエ市には海がないから釣井は初めて見るが、多少海に対する知識を持っていたり、近くで暮らした経験があればローカルニュースでも目にするらしい。
通りで、気にしている人があまりいないはずだ。
「他の生き物に悪影響がでることもあるが……栄養が過剰になる要因もないし、そこまでの異常発生にはならないだろう」
「なるほど?」
具体的なことはなにもわからなかったが、釣井は槙島先生の話から〝大丈夫〟というニュアンスだけを感じ取って肯く。ちゃんと理屈がわかって説明がつけられて、問題がないと判断できるような現象ならば大丈夫なんだろう。
「それよりも……、釣井バケツはあるか?」
「え……はい、釣りに使うやつが」
組み上げた赤い海水を一緒になって覗き込む。染まっているのは海の表面だけのようで、槙島先生が言った通り赤くなっている原因は泥のように目の細かい粒で、それが微生物の集合体らしい。
表面に浮いて油膜のようになっている。見た目は少し気持ち悪い。
「ノクチルカだ」
「ノクチルカ?」
何を言われたのかわからない。釣井は鸚鵡返しにして首を傾げた。
「インターネットがないのは不便だな。別名……いや、この場合それで良いのか。日が暮れてから、もう一度見にくると良い。たまには夜更かしもいいだろう」
釣りの話だろうか。それにしては思わせぶりな笑顔が気になった。
そうでなくても、釣井の夜の定位置は屋上だ。
昼間は暑くて下の階に避難していたが、日が暮れてから屋上に登った。扉を開いた瞬間、釣井は息を飲む。
海が星空に変わっていた。
太陽の光は強すぎて色んな光をかき消してしまう。だから陽が海に沈んだあとの世界では、かき消されていた幽けき光がはっきりと見えるようになるのだ。
それは例えば月や星の光。
そして、海に棲まう微生物が発する光。
海が、青く光っている。
波が立った場所、校舎に当たって砕けているところ。
そして、魚が跳ねた場所。
動きの輪郭を辿り、水の形を示すように光が海を縁取っている。
同じく夜の海を見に来た槙島先生が、驚く釣井を見てあまり表情を大きく変えない彼なりに満足そうな顔をしていた。
「ノクチルカの別名は、夜光虫だ。刺激を受けるとああして青く光る」
折角の説明は、半分も頭に入っていなかった。
目の前の光景に、ただただ心を奪われていた。絵画のように美しいが、一瞬ごとに模様を変え移り変わっていく青く光る海から目が離せない。
天の川を流し込んだような、息を飲むほどに美しい夜の海が眼前に広がっている。
階段を駆け下りて、八万のところまで走っていく。
メッセージ一つ送れば用件は済ませられるが、直接会って伝えたかった。
「先輩、お時間いいですか」
「今から?」
「今からです」
夜光虫の件を言おうか、言わずに驚かせようか迷う。
槙島先生が昼間、詳しく理由を言わなかったのが何故か、釣井にもわかった。
事前情報なしにあの海を見て、驚いて欲しい。
どうしてという理由を言わなければ、声を掛けても来てはもらえないだろうか。
「デートしたいので。屋上まで一緒に来てくれませんか」
少し強引だっただろうか。わがままを言って嫌われてはしまわないだろうか。
ドキドキしながら八万の返事を待つ。
「いーよ」
まだ周りには人がたくさんいるから、手は繋げない。肩が触れない程度の近さで、並んで歩くことができるだけだ。
「短距離だね」
「短距離でも、オレにとってはデートですよ」
隣にいて、同じものを見てくれる。
「オレは八万先輩が隣に居てくれるだけで、楽しいです。先輩が一緒だと、それだけで世界が鮮やかに見える。好きだからそう思うのかそう感じるから好きになっちゃったのか、もうわからないですけど」
そんなことばかり考えていた癖に、口に出したことはほとんどなかった。
「こういうの、言ってなかったなと思って」
好きだと知られた今ならば、伝えても構わない。
伝えても許されるのだと思うと、少しだけ気が楽だった。
*ゲストページ
八万の言葉に首を傾げる。
美しさを意識して、相手に伝える言葉を選んだことはない。
この言葉は手紙に似ているのだろうか。手紙に書く言葉は、美しいんだろうか。
「……本をよく読むからかもしれませんね」
口にしながら本当は違うとわかっている。
言葉を飾るのは、人に言えない感情を内側に溜め込んでしまうからだ。
思考は言語だ。
ままならない心を整理して手綱を取るために、言葉を編んで檻を作る。不定形の感情も、形があれば怖くない。
手紙と言われて平と交わした約束を思い出した。直接言えない言葉も、相手を前にするともつれてしまう心も、感情が先走って相手を傷つけてしまう弱さも、手紙ならばうまく伝えられるかもしれない。そう教えてもらった。
だが、釣井はまだ手紙を書いたことがない。
いつだって言葉を文字にする前に、相手の元に走っていってしまう。
我慢できない。
そして待つこともできずに、相手の言葉を求めてしまう。
美しい言葉と想いを渡して、それで満足できるような謙虚な人にはなれなかった。
「オレは、手紙は書かないですよ。相手の気持ちが知りたいし、顔を見たいから」
言葉にしなければ、何も伝わらない。
だがどれほど心を砕いて言葉にしたところで、心なんて相手に届きはしない。釣井はそれを知っている。痛いほど、思い知った。
他人の考えていることなど、本当の意味でわかる日は来ないのだ。
人は自分の心でさえも捉え損ね、感情を読み違えて間違えてしまうのだから。
その溝を越える方法は、届かないと知ってなお握り返してもらえることを信じて、相手に手を伸ばし続けるしかない。
だからどれほど美しい言葉で織り上げることができても、手紙にはしない。
思いを手渡すときはいつだって、相手から何かが帰ってくることを信じて直接手渡しに行く。
「伝えたいことは、先輩に直接言いに行きます」
瞳に映る感情の温度、視線の揺れ、まばたき、言葉に迷う唇の震え、指先と呼吸。
今ここに居るあなたがどんな反応をしたのか、その全てを受け取って何を感じているのかを知ろうと手を伸ばし続けたい。
この身に余る強欲で、八万のことが知りたいと願うのだ。
海が暖かくなってから、夜になるごとに夜光虫の光を見ることができる。
陽が暮れてからは青い光が波の縁を彩り、海の遠いところから絶え間なく押し寄せていた。月が全てを灰青に塗り替えている間だけ見える幽けき光は、海が青色を取り戻す頃になると消えていく。
まだ太陽は出ていないが、いつのまにか空が白んでいる。
釣井はページを捲る手を止め、本を閉じた。顔を上げ空の眩しさに目を細める。
ここは四階だから、きちんと空が見える。
海の下にいると閉塞感があるという理由で、夜を過ごすのは海面より上の場所だ。今日は屋上ではなく四階で夜を過ごしていた。誰も使っていない三年生の教室に入り込み、なんとなく八万の席を選んで座る。
夜明けの色を見るために、席を立って窓に近付く。
釣井と同じく夜通し起きていたのだろうか。南国の魚は昼間と変わることなく、サンゴ礁の間を泳ぎ回っていた。
校舎の壁にぶつかって波に揺られながらコツコツと音を立てていたボトルメールが大人しくなっている。ドライフラワーが中に入っているそれの存在には昨晩から気がついていたが、海を用心深く避けている釣井は拾ってみることはしなかった。
机の上に本を残したまま、教室を出て屋上に向かう。
暗い海と青い光が織りなす魔法のような景色が消えると、夢から覚めたような心地になる。眠れない釣井に代わって、現実の方が夢を見ている。
階段を登る。
水平線の向こうからやってくる今日という日を出迎えるのだ。
朝の一瞬、風が消えて波が静まる。
凪の時間に、扉の蝶番が軋む音がやけに耳につく。
屋上に出ると、動きを止めた潮風が首筋に纏わりつく。
海が変化し気温が夏の如くなってから、日の出の時間はかなり早い。
ラジオ体操が始まるまで数時間待たねばならないような時刻だが、夜が短いことは幸いだ。
静かな海を見つめて、息を吸う。
肺を新鮮な空気で一杯にしてから、波と風が戻ってくる前に階下に降りた。
向かうのは混み合う前の家庭科室だ。
ここだけは不眠や夜更かしのせいではなく、健全な理由で夜明け前から人が集まっている。
朝食の時間に間に合うように、調理が始まっているのだ。
「おはようございます」
すっかり顔なじみになったメンバーに声を掛ける。
海の透明度は高く、窓の外は明るくて水族館のような景色が広がっている。
いまだに脳裏にこびりつく溺れた記憶と恐怖を、美しさへの憧れと感動による心の震えに誤認させる。釣井は料理が下手くそなりに、彼らの手伝いをする。折角起きているのだから、体を動かしていた方が気が紛れる。
味噌を溶く前の温かい出汁の匂い。米が炊ける最中の蒸気。塩焼きにされる魚の脂がパチと跳ね、皮を焦がす香ばしい匂い。
幻想の風景の中で穏やかな日常が繰り広げられるのは、まるで悪い冗談のようだ。
大量の食事を用意するのを手伝う傍ら、釣井と友人の分の食事も用意する。学校が用意するご飯は、あまり手が掛けられない。おにぎりと汁物、それに副菜が一つ付けらればいい方だ。
だが自分でキッチンに立って、手を掛ければ毎日メニューを変えて美味しいものが食べられる。調理場にいる人間の特権だ。
全員分の食事の用意が終わると、家庭科部の先生に手伝ってもらいながら個別に朝食の準備に取り掛かる。
フライパンにバターを乗せて溶かし、ハーブを入れる。入れろと言われたままに投入したそれが、一体どんな風味なのかよくわからなかったし、釣井にとってはそのあと入れたニンニクの印象の方が強かった。
バターが温まったら、サバを入れて弱火にする。
火が通ったサバの骨と皮をとっている間に、別の食材を先生が調理してくれる。身をほぐし終わったサバと調味料をフードプロセッサーに入れて攪拌したら、リエットの完成だ。
魚介類の薫製は乾かした海藻を、スモークチップの代わりにして作ったものだ。薄切りにしてから野菜の酢漬けと一緒にパンに挟めば、バンミー風のサンドイッチができる。
自分の分だけでなく、友達の分も用意してラップに包むと体育館に向かった。そろそろみんな起きる頃合いだろう。
髪の毛を結んで、身支度を整えたばかりの平に声を掛ける。
「おはよう、いっくん」
「おはよ、しの。それ朝ご飯?」
「そう、みんなの分もあるから、一緒に食べようよ」
「よし、じゃ呼びに行くか」
(美味しくできているといいんだけど)
トーストしたばかりのパンは、まだ温かい。教室に移動して机を囲み、鰐川と上村にも手渡す。
「また目の下、酷くなってるよ」
平が、血行の悪くなっている顔を両手で揉み解す。
温かい手の平で包まれていると眠くなってくるが、まだご飯を食べていない。
「今日は、ちゃんと寝る」
「添い寝する?」
「だ、大丈夫だから」
過保護な手から逃れ、食事に戻る。
「寝れなかったら、ちゃんと声掛けて」
「うん。……ありがとう。あとでお願いするかも」
夜更かしが身に馴染んでしまったせいで、眠たくなるのは大抵が昼間だ。
食事のあと、平に寄り添ってもらって短い時間だが眠った。
お昼頃に目が覚める。
眠りに必要なのは海中にいるという圧迫感を感じないでいられる場所と、意識が途絶えている間の自分の存在を証明してくれる誰かの存在。
釣井は二度、死んでいる。
一度目は、死んだという自覚のないまま。二回目は苦しみの中で。
眠りは主観的に見れば死と変わりない。ちゃんと目が覚めるから、死んでいなかったのだと理解できるだけだ。この場所では、その前提が揺らいでしまっている。
様々な非現実が起こるこの場所で、みんなが一度は頭に思い描いても口に出さないままにしている不安がある。
一度死んで生き返ってきた人間は、本当に本人なのか。もし学校が元に戻って日常が元に戻ったあとも、生きていられるのか。そもそも釣井が〝釣井 忍〟だという自覚を持っているこの体は、本当に本人なのか。
誰も答えられはしない。
釣井の存在はあやふやで、その存在が立っている現実も、本物かどうか不確かだ。
眠っている間、実は体は死んだ状態に戻っていて目が覚める頃にまた生き返っているだけなのかもしれない。体が泡になって溶けて、また再び固まっているのかも。
目が覚めたときに周囲の景色が一変していたら、きっと釣井にはそれが悪い夢の続きなのか、信じられないような現実なのか、死後の世界なのか見分けられない。
傍に誰かが居てくれたからといって不安は消えてなくなりはしないが、少なくとも目の前にあるのが現実なのか教えてもらったり、死んでいないかを確かめてもらったたりすることはできる。
だから、手を握っていてくれるだけでもいい。眠る前と後で変わらないままでいてくれる何かが欲しいのだ。
その相手は不安を聞いてくれる教師であったり、気に掛けてくれる友人であったりした。
人に甘え、助けられて、一日一日をなんとかやり過ごしている。
いつか他の人がどうしているのか聞いてみたいが、そんな踏み込んだことを聞ける日が来るとは思えない。まず、あなたは死んだことがありますかという質問ができないから、その先の話題に至りようがない。
考えなければいけないことは、たくさんある。
一つの問題に先延ばしを止めて踏み出したら、別の問題がやってくる。
本当に息を吐く暇もない。
また死ぬほど頭を悩ませる勇気と体力が戻るまでは、小休止だ。考えないようにして日常らしき何かに身を浸している。前と同じようでいて、少しずつ進んでいる。だからまたきっと、時が来たら踏み出すことができるはずだ。
昼寝を終えたあと、一人分多く作ったサンドイッチを持って、八万のところに向かう。この二人の関係も答えが出たわけではないから、ある意味では先延ばしの一つなのかもしれない。
「八万先輩」
四階の教室にいる八万に声を掛ける。
「おはよ」
ラップに包んだサンドイッチを渡す。
「これオレ……というか、ほぼほぼ先生が作ってくれたやつなんですけど。よかったらどうぞ。お昼がもう済んでいたら晩ご飯にもなると思うので」
「なんか豪華だね。あ、そだ。忍ちゃん、これ忘れてった?」
手渡されたのは、夜の間に読んでいた本だ。
朝の行動を思い返す。窓の外の景色に気を取られ、席の上に本を置いたままであることを忘れて、そのまま家庭科室に行ってしまったのだ。
「あ、そうです。よくオレのだってわかりましたね」
名前が書いてあるわけではないし、今回の本は私物でもない。
「一番それっぽいし、最初に聞いとこうかなーって」
わざわざ八万の席を選んで本を読むような人間は、確かに釣井だけかもしれない。
「そう、ですね。夜に、読書するのに借りてました」
「寝てないんだ?」
「昼間に寝ようかな、と思っていて。お邪魔じゃなければ、先輩の隣お借りしてもいいですか?」
――そしてできれば寝ている間、手を繋いでいて欲しい。
なんて、望みすぎだろうか。
「いいよ。ここで?」
勇気を振り絞っていうわがままのほとんどを、八万はあっさりと肯定してくれる。許された嬉しさと同時に一抹の寂しさがある。彼にとってはそれくらい取るに足らない存在なのだ。
「や、あの流石に恥ずかしいというか、落ち着かないのでもう少し静かなところで」
誰に見られているかわからない場所で、人に甘えつくのは恥ずかしい。
たとえ相手が八万でなくたって、恥ずかしいことをしているという自覚はあるのだ。高校生にもなって、手を繋いでくれる人がいないと眠れないなんて、みっともない。
同じ条件なのに、みんな人に心配も迷惑もかけずに普通に過ごしている。
それでも釣井にはみんなが当たり前にやっていることができなくて、できないことを人に知られずに誤魔化した挙句に命を落とした。
教師や友達に頼っているのは死ぬよりはましだろうと思っているからだが、八万に同じことを頼むときその意味合いは違う。秘事の気持ちで声を掛け、傍にいることを願っている。
自分を盾にして二人きりになるように誘導したようで、後ろめたい。
これはやましいことではない。やましいことはしないと言い聞かせ、八万の手を握り瞼を閉じる。
眠りの浅瀬で八万の姿を見る。
眠りと覚醒の間で揺られながら、ぼやけていく頭で考える。
考えなければいけないけれど、疲れてしまって考えられずにいることについて。
たとえば釣井はもう死んでいて、眠ったら二度と目覚めないのかもしれない。
それが起こるのが今ならば、最後に見たのは八万の横顔を目に焼き付けたまま消えることができる。
ずぶ濡れで復活した体は、夜の間に海の水と共に消えているかもしれない。
今ならばそうなっても、釣井 忍という人間が消えてしまったことを証言してくれる人はいる。誰か一人でも知っていてくれれば、もういないのだから待たなくていいし探さなくてもいいと、大切な人に伝えてくれるはずだ。
近頃は目を閉じれば、気絶するように深い眠りに落ちるのに、こんなときばかり眠りが浅い。
寝ている間に見た夢は覚えていないが、目を覚ましたとき汗だくになっていて悪夢だったのだということだけがわかった。
周囲は暗くなっていた。
指先に冷えた床の感触があり、頭から血の気がひいて意識が急速に覚醒した。
飛び起きた釣井の隣には、きちんと八万の姿がある。
知らず知らず浅くなっていた呼吸を整え、心臓がうるさい胸を押さえつける。
まだ眠りの最中にある八万を起こしてしまわないように、服の裾を握りしめて不安を追い出した。
時計を確認する。朝と夜の間の時間帯だ。夜までぐっすりと眠ってしまっていたらしい。
しかし、まだ朝と呼べる時間ではないとはいえ、昨日までならとっくに空の際が白んでいるはずだった。
外は真っ暗だ。どことなく肌寒い。
海が暗い。校舎に灯った光を受けてなお、真っ黒く沈んでいる海はサンゴ礁を擁する南国のそれではない。目を凝らしていると、海中で何かが動いた。姿ははっきりと見えなかったが大きく、巨大な何かだった。浅瀬に棲まうようなものではない。
海が、また変わっている。
こんな日に限って、一人で先に目が覚めてしまう。
変容を目にした心には「また帰れなかった」と「まだ帰らないで済んだ」が同居している。早く家に帰りたいし、日常を取り戻したい。しかし学校内に閉じ込められている限り、八万の恋人で居続けることができる。そして一度死んだ体が、現実でどうなってしまうのかという問題を考えなくてもいい。
様子を変えていく海を見て、新たに投げ込まれる問題が一つ。
この学校は、一体どこに向かっているのだろう。どこまで変容を続けるつもりなのだろう。日本近海からどんどんと馴染みがない海域に遠ざかっているように感じられるのは、気のせいだろうか。
鳥肌が立つのは、急激に下がった気温のせいだろうか。
両腕を抱きしめるようにして震えを押さえつけて、八万の隣に逃げ戻った。
海の中の様子を確かめるにも、外が明るくなるまでろくに見えない。泳いでいる魚もきっと別の種類になっているはずだ。少なくとも、もう透明度の高いサンゴ礁の海ではないことだけははっきりとしている。
これだけ寒いと、夜になる毎に輝いていた夜光虫もすぐに消えてしまうのだろう。
寒さが体に染みてきて、身震いした。
毛布を、隣で横になる八万に被せる。こちらに向いた背中は規則的な深い呼吸に合わせて動いていて、彼が眠っていることがわかる。
頬を撫でて欲しくて、眠っている彼のその指先に触れた夜を思い出す。
「八万先輩」
呼び方は変わらない。二人の距離を見失わないように、先輩と口にする。
至さんと呼んでみたくないといえば、嘘になる。八万は呼び方一つ変えたところで気にしないだろう。そうしたいと頼めば、恋人をやっている今ならばあっさりと、いいよと了承してくれるだろう。そうできないのは、釣井の問題だ。
小さな意地と自制。
そこにあるのがどんな願いであるのか、口にするつもりはない。もちろん手紙にするつもりもない。伝えたい気持ちもあれば、伝わって欲しくない気持ちもある。
そっと手を伸ばして、額の傷に触れた。八万の目が覚めてしまったら、何をしているのかと聞かれるだろうか。なんと言い訳をしよう。
(別にいいか、言い訳なんて)
好きだから触れていました。他に理由はない。それは伝えてもいい感情だ。
外が明るくなると、やはり海はその姿を変えていた。
南国の暖かく明るい海から一転、暗く冷たい海に変化していた。泳ぎたいと思うような色ではなくなり、もう泳いで遊ぶ人の姿はほとんどいない。太陽の光すらも精彩を欠き、校舎内は暗さも相まってなんとなく沈んだ雰囲気だ。
それでも釣井の生活は変わらなかった。相変わらず人が傍にいてくれないと眠れない。夜は不安を抱えて、屋上で過ごす。
その日も同じだった。
時計はすでに昼過ぎを示していて、寝る場所を探して学校内をふらふらと歩いていたところだった。
階段を登っていた釣井は、何かの気配を感じてふと顔を上げる。
巨大な影が、隅の方でぞろりと蠢いた。
最初それを窓の外に張り付いている生物かと思った。海の様子が変わってから、巨大な生き物が窓の外を泳ぐ姿を何度か目にしたからだ。
だが、それが外ではなく内側にいるとわかった瞬間に、悲鳴が出た。
どこからどういう原理で生えているのか全くわからないそれは、巨大なタコの足だった。釣井にはイカと見分けがつかないが、それが海洋生物の腕だということだけは理解できた。
それが常軌を逸した大きさで、あってはならない場所に生えている。
後退ろうとして、バランスを崩す。階段から足を踏み外す。
また落ちる。そう思った瞬間に、素早く伸びてきた触手が釣井の体に巻きついた。
夢などではない、しっかりとした質感と力で胴体に絡みつく。
声にならない悲鳴が出た。人の体をやすやすと持ち上げるほどの力がある生き物に捕らえられている。それは壁から生えているのと同じ、海の生き物の体だった。
逃れようと手足をばたつかせる。死に物狂いの抵抗を嘲笑うかのように、手足に更に触手が絡みつき、服の内側に滑り込んだ。
肌に直接触れるぬるりとした粘液と、ぶよぶよとした肌触りに鳥肌が立つ。吸盤がひたと肌に張り付いた。
生臭い海の匂いがする。
有無を言わさぬ力が四肢を押さえつけている。
頭の中に死の文字が浮かぶ。
このまま無残に体を引き裂かれて死ぬんだろうか。
絶対に嫌だ。そんな苦しい死に方。
そんな目に遭わされるくらいなら、死んだ方がましだ。
恐怖で涙が溢れて、視界が滲む。
助けてと叫ぼうとした。
声を出す前に、体が床に触れる。
階段の踊り場に、そっと下ろされていた。
手が何かに触れた瞬間に、それが縁であるように縋り付く。
解放された瞬間に壁際まで逃げ、体に絡みついていた物の姿を振り返る。口から飛び出そうなほどに激しく打っている心臓を押さえつけ、体を抱きしめる。
震えが止まらない。
触手は壁の中に消えていくところだった。
(なに、なんなんだ、あれ……)
混乱はしていたが、命は助かったのだと思うと緊張の糸が切れ涙が溢れてきた。釣井は、廊下に蹲って泣いた。
落ち着くまでそうしたあと、ようやく立ち上がる気力が戻ってくる。
学校のどこかから悲鳴が聞こえてくるのは、釣井と同じくタコの足と遭遇した生徒のものだろうか。よくみると壁や廊下、階段にも粘膜がこびりついている。
どこからから出てきて何処へ消えていくのか検討もつかないが、助けてくれたような気がする。
階段から落ちずに済んだし、怪我もしなかった。だが服がベトベトになった。海の生き物の匂いが体にこびりついて、漁港帰りみたいだ。
死んだ人間は海水に濡れて教室に戻ってくるという話が広まっているから、このままでいるとあらぬ誤解を受けそうだ。
釣井は人目に着く前にシャワーを浴びて着替えた。
シャワー室への往復で、タコ足に関する話をいくつか見聞きした。海に落ちた人間の救出や、喧嘩の仲裁。故意であれ事故であれ、人を害する行為を許さないらしい。
どうやら危ないものではないみたいだ。見た目はかなり不気味だが。
命を脅かすものであるかのように扱ってしまって、悪いことをしたかもしれない。
タコ足の方に気を取られながら歩いていたから、人にぶつかりそうになって急停止する。足を滑らせてまた転びそうになったが、なんとか持ち堪えた。
タコの粘液でそこら中が濡れていて、転びやすくなっている。転ぶ前にタコ足に助けてもらえるから、問題はないのだけれどなんとなく雰囲気が不気味だし、やはり体に触れられるのは怖い。
「あれ、忍ちゃん着替えた?」
誰かと思えば、ぶつかりそうになった相手は八万だった。
「着替えました。べとべとになったので」
「べとべと?」
「タコ? に絡まれました」
廊下の隅でのたうちまわっている巨大な足を示す。
吸盤のついた足なんて、タコもイカもクラゲも変わらないだろうと思っているが、みんながタコと言っているからおそらくタコなのだろう。
「タコ? あー、あれかぁ。なんか更にファンタジーって感じになったよね、いや今までも割とそうではあるんだけど」
確かに突然海が南国の雰囲気に姿を変えたときや、夜光虫の夜などはかなりファンタジー感あふれる景色だった。
そう喋る背後の窓の外で、明らかに魚でも海獣でもない生き物が横切る。どうやらこの海には、恐竜がいるらしい。釣井はまだ見たことはないが、話題になっていた。恐竜がいて人を簡単に持ち上げられるサイズのタコがいて、絶滅したはずの魚がいるのならば、もう何でもありだろう。
釣井は死ぬかと思うくらい怖かったのだが、八万からは異形に対する畏怖のようなものは感じられない。知らないところで最初の邂逅を終えて、折り合いをつけたあとなのかもしれない。
「先輩は怖くないんですか? ああいう得体の知れないものとか」
〝とか〟の中身は釣井を含む。含むが、口にしないだけの理性はあった。
悪意がないことがわかるだけで、正体不明な何かなのは一度死んだ人間だって変わらない。正直なところ得体がしれないと思う。釣井はそちら側に入ってしまったという自覚があるから、受け止められているだけだ。いつもの釣井なら、あれは安全だと言われて頭で理解したとしても、感情的に納得ができるようになるには、もっと長い時間が必要だっただろう。
怖がられたくはないけれど、怖いと思うのは普通のことだと思う。
(でもオレのこと怖いですかなんて聞いて、怖いなんて言うわけないんだよな)
怖くないと言ってもらって、心の中に澱のように降り積もっていく泥を払いたいだけだ。
気休めの問いを投げかけてしまうところだった。
「何も知らない不安感みたいなのを怖いって言うのであれば、そうなのかもね」
「……そうですね」
誰だってよくわからないものは、怖い。八万にとってすら、そうなのだ。
「だからほら、あいつらがお喋りできれば全然可愛く感じちゃうかも」
続く八万の言葉が意外で、釣井は思わず問い返してしまった。
「喋れ、たら?」
確かにそれならコミカルになって面白いかもしれない。どんな声で喋って、最初の邂逅はどうなっていただろう。
少なくとも、怖がってごめんなさいと、あとは助けてくれてありがとうをちゃんと伝えないといけない。
八万の言葉は、いつも釣井が抱えている荷物を軽くしてくれる。彼の言葉を聞くと悩んでいることが、実はなんでもないことだったんじゃないかと思えてくる。
そういうところに憧れていて、そういう人だから、好きになったのだ。
額の傷のときから、そうだった。あのときはこんなに好きになるなんて、思っていなかったけど。
「あいつらが怖いんじゃなくて、自分が何も知らない事が怖いんだ」
(じゃあ、知っているオレのことなら、怖くないですか)
死んでいるくせに、一度も死んでない人に好きだと言ってしまった。
もし、それが原因で何か起こったのなら、否応なく関わった人たちの心に傷を負わせることにある。それが怖い。
だからって一人になることもできない。関わりを絶って一人になることができるほど強くはない。こんな釣井でも怖くないと言ってもらうことができるのならば、それだけで救われるのだ。
彼はいつも、自覚なく釣井の心を軽くしてくれる。
ありがとうと言いたくなったが、きっとなんのことなのかわからないだろう。
釣井は魚料理が好きだから、食事に関していえば海中生活も苦ではない。ただ、たまに味が濃いジャンクフードや肉の味が恋しくなる。サメの身は想像していたよりも肉らしさがない。どちらかというと、淡白であっさりとした白身魚だ。
魚すらおっかなびっくり触る釣井に、サメなど捌けるわけがなく、先生から切り身を分けてもらって料理に使う。
肉を食べたいという欲求は満たされないが、バターをたっぷり付ければ、味が濃いものを食べたいという要求は少しは満たされる。
今日のご飯はサメの切り身のムニエルと、貝柱のほぐし身を入れた炊き込みご飯だ。薬味がないから刻んだ海藻を最後に載せて、食感に変化を付ける。
毎日やっていたら、料理も手慣れてきた。
温かいうちに、八万のところに持っていく。
「八万先輩、ご飯まだだったらご一緒してもらえませんか」
作った人間特権で、炊き込みご飯のおこげのところをたくさんもらってきてしまった。少しだけ悪いことをした気分になりながら、おにぎりにしたご飯を手渡す。
「ん、いいよ。ここ座りな」
今日は本は置き忘れていないし机と椅子は元通りにしたから、席にいたことはわからないはずだ。釣井が余計なことを言わずに態度に出さなければバレない。
「今日のおかずはサメです」
「へー、食えるんだ。あ、そういえば昨日さー、俺もタコに巻かれちゃった」
手にしていたおにぎりをテーブルの上に落としかける。
「え⁉︎ だ、どっ、どうしたんですか」
タコ足が介入してくるのは、身に危険が及びそうになったときだ。今では学校内の共通認識になっている。
だからあの触手に捕まえられたということは危害を加えられそうになったり、事故に巻き込まれそうになったりしたということだ。
怪我がないか、見えるところを確認する。
「昨日歩いてたらさー、転んじゃって」
ぺたぺたと触られながら、八万は話を続ける。
「大丈夫でしたか? 怖くなかったですか?」
「ひんやりしてて気持ちよかった」
「漁港帰りの臭いにならなかったですか」
海の生き物だから、触ると生臭くて海の臭いになる。悪いものではないのはわかるが、学校中がベタベタするのだけはどうしても、受け入れがたい。
「打ち上げられた感じにはなったね」
海坊主と一瞬頭に掠めたが、口に出さずにしまっておいた。
雰囲気を壊したくなかったのだ。
二人きりになれる場所に招くとき、八万に触れたいという下心を含んでいる。単なる先輩と後輩の距離ではなく、恋人でなければ許されない場所に踏み込みたいという欲望がある。
だが意図せず二人きりになってしまったときの釣井は、冷静さを欠く。
この幸運に乗じて触れていいのだろうか、相手にお伺いを立ててから触れたほうがいいだろうか。
大抵の場合は葛藤している間に、八万の手が釣井を捕まえる。
赤くなった顔を伏せる。学校内の気温は下がっているはずなのに首まで暑くて、ネクタイを緩めた。
「触ってもいいですか」
「触ってるよ」
指先が絡み合う。いつも気がつくと主導権を握られている。
どういう触り方をしたいのか、分かっているはずだ。気がついていない振りをするのは、釣井の出方を確かめるようであり、揶揄っているようでもある。
心臓の音が、耳の中で聞こえて騒がしい。
「そういう、触り方じゃなくて」
八万の手を捕まえ、引き寄せて指先に唇で触れる。否応なく、触れられたときのことを思い出してしまう。この指が舌を弄んだときの感触。肌の味。
どうしたら快楽を引き出せるかの手ほどきをされたときの動きを、覚えている。
「また、教えて欲しいです。八万先輩への、触れ方」
甘噛みし指を口に含みながら、顔色を伺った。
口の中に触れるかどうか迷いながら指先は唇を撫でたあと、顎を掴んで少し上を向かせた。期待に頬を上気させた釣井の表情を確かめ、首を傾げる。
「いじめられんの好きなの?」
「いじめられ……?」
八万に酷いことをされたことはない。されたいと思ったことはあるが。
心の中を見透かされていたのではないかと思ってヒヤリとする。とてもではないが伝えられないと思っている様々なことが、実はバレていたなんてことになったら、とてもではないが顔向けできない。
「先輩は、こういう触れ方お嫌いですか?」
手の平を引き寄せて、体に触れてもらう。
頭を撫でられるのでも頬に触れられるのでも、どこでもいい。直接肌に触れてもらうのが好きだ。
引き寄せられるまま、釣井のろくに脂肪も筋肉もついていない体に手を這わせていた八万は堪えきれないように笑い出した。
「……んふ、ははは!」
驚いて思わず手を離す。何か、おかしなことがあっただろうか。
理由がわからないながらも恥ずかしくなり、顔が熱い。
「お嫌いですかって……なんかすげー、ふふ、〝良いトコ〟のお嬢様っぽい」
へそのあたりにあった八万の手が体を撫であげる。シャツとセーター越しに触れていただけの手が首元に来て、肌に触れた。体温が上がった分、八万の指先が冷たく感じられて肩がビクリと震えた。
心臓がうるさいくらいに騒いでいるのが、動脈を通して伝わっている気がする。伝わっていると思うと余計に緊張し、鼓動が早くなる。
「悪いことしてる気分になっちゃうじゃん。……忍ちゃんのがよっぽど悪い子なのにね?」
「悪い子なのかもしれません。……ほんとはもっと言えないようなこと考えてます」
学校で、隠れてこんな風に人に触れている。望んだのは釣井だ。もっといろいろなことを知りたいと願ってすらいる。
その先も、と心の奥では思っているのだ。
「そうなの? 俺良い子ちゃんだから全然分かんないかも。例えば?」
わからないと言いながら、八万が浮かべているのは釣井がどうするのかを楽しみにするときの目だ。釣井の欲望は相手に触れたいという漠然としたもので、具体性に欠ける知識しか持ち合わせない。少しずつ、教えてもらっているところだ。
経験不足なのに先走る様が面白いようで、よくこういう顔をして釣井を見ている。
(オレだって、少しはできますよ)
身を乗り出し膝に乗る。肩に手を乗せ体重を掛ける。
押し倒したかったのだ。
だが釣井の腕力と体重では、少しも動かなかった。
「俺、倒れた方がいい?」
気を遣われている。
「平気です!」
教えてもらったことと釣井が知っていることの中から、他にできることを探す。
ネクタイを解き、シャツのボタンを外す。襟で隠れるところに唇を寄せた。軽く歯を立てるようにしたあと唇で吸う。うっすら肌が赤くなったが、それだけだった。
「痕つけた?」
「……これからつけます」
場所が悪いのだろうか。これ以上、強く噛み付いたら痛い気がする。
おそるおそる、もう一度唇を寄せる。
何度目かの挑戦のあと、ようやく赤く痕が残った。
「つきました」
満足感を経て顔を上げると、八万は笑いを堪えて細かく震えていた。
シャワールームの使用は割り当てられた時間で収めたい。そうでなくても、不慮の事故で海に落ちたり、タコ足に絡まれたりして不足の事態でシャワーを使わなくてはいけない人が多いのだから、使用時間は短くするに越したことはない。
脱衣スペースのロッカーに、慌ただしく着替えを投げ込むと、セーターとシャツを脱いだ。南国ほど汗はかかないが、一日が終わる頃には潮風でべたつく。
脱いだセーターをそのまま丸めようとして思いとどまる。ちゃんと畳まないとシワになるんだった。丁寧に畳み直してシワを伸ばしていると、脱衣スペースのドアが開いた。
シャワーブースはいくつかある。そちらを使う人が来たんだろう。
「お、忍ちゃんだ」
服を畳む手が一瞬止まった。声で八万だとわかったからだ。
わけもなく動揺した。
これからシャワーを浴びるところなのだから、まだ服を着ていると言い聞かせて顔をあげて振り返る。家に泊まりに行ったときに、風呂上りの八万を見たことがあるののだから、今更見ても怖がることではない。
尤も、そういうとき釣井はスマホゲームに夢中になっている振りをして、必死に目を逸らしていたのだが。
あのときのような自制心が、今すぐ戻ってきて欲しいと思う。
「時間が一緒になるの珍しいですね」
冷静な声を出せていたと思う。
「そだねー、忍ちゃんもこれからでしょ。一緒に入る?」
「入らないです」
想定外の言葉を投げかけられると意味を理解するのに時間が掛かる釣井にしては珍しく、食い気味の反応になった。
「シャワー、浴びないの?」
「や、シャワーは浴びます。一緒には、入らないです」
そもそも一緒に入るとはなんだろう。一緒のブースに入るんだろうか。だがそんなことをしている最中に、万が一他の人が来たら言い逃れしようがない。釣井も絶対に冷静ではいられない。まずいことになる。
だが別ブースという意味なら、なんの問題もない。というか、それはたまたま同じ時間にシャワールームを使用しているのと、状況が変わらない。
別に断るようなことじゃなかったんじゃないか。
頭の中で考えをぐるぐるとさせて顔を上げると、八万と目が合う。
時折、声に出さずに頭の中で巡らせている考えがこの人には全部見えているんじゃないかと思う瞬間がある。
あるいは自覚がないまま口に出しているんじゃないかと、不安になる。
その切れ長の目に見つめられただけで、頭の中が真っ白になって何を考えていたのか分からなくなる。彼の目は釣井の頭の中で、全てを押し除ける最優先事項だ。
そのくせどれだけ考えても、少しも分からないままの相手だ。
「風邪ひくよ〜」
畳み掛けのセーターを抱きしめて動かなくなっていた釣井を見て笑う。
「あ、はい」
セーターは結局丸めて押し込んだ。
八万が服を脱ぎ出す前に、シャワーブースに逃げ込みたかったのだ。彼の服の下に自分がつけた痕が残っている。目にしたら、絶対に冷静ではいられない。
今だって、冷静とは言い難い。
「あ、そーだ」
肩に手を置かれた。
「なんですか?」
「昼間のお返し」
昼間のお返し。
釣井がしたこと。
先に八万が答えをだした。
背に唇が触れた。それが唇だとわかったのは、背中の皮膚の薄いところに髭がざらつき、舌の温かさを感じたからだ。痺れるような感覚が背筋を駆け上がり、体を震わせた。
逃れる先はなく、脱衣スペースのロッカーにしがみつく。背中に触れている八万の方を見る勇気がなく、震えている自分の手に視線を集中させる。
膝から力が抜けそうだった。
「すげー声出すね」
喉の奥で低く笑ったときの震えが、背中に響く。
慌てて口を塞ぐ。
肌がぴりとするような疼痛を感じたとき、耐えきれず崩れ落ちた。
「おわ、えー、大丈夫?」
八万が困ったような顔をして、見下ろしている。
「大丈夫じゃない、です」
消え入りそうな声で返事をするのが精一杯だった。
唇が触れたところだけ空気に触れて冷えるのが、まるで電撃でも走っているかのようにビリビリとして感じられるのだ。
昇降口の大きなガラス面と天窓のところにくると、海の中がよく見える。夜のような海の中で、見覚えのない魚が悠々と泳いでいる。
海は、陸地とは別世界。深海に至れば、もはや異界と言ってもいいんじゃないだろうか。だから深海の生物は、別世界の生き物のように見えるんだろうか。
窓の外の生き物をぼんやりと眺める。魚に詳しくないから大抵の魚は見覚えがないけれど、ここから見えるのは別世界の生き物なんだというのは、その形や周りの人のはしゃぎ方を見ていればなんとなくわかる。
どういう原理か知らないが、周辺の環境は深海に近いからこういうことになっているらしい。
(あ、そういえば写真)
写真を撮って調べようと思っていたのに、すっかり忘れていた。
どうせならもっと明るい海や綺麗な魚の写真をたくさんとっておけばよかった。今ここにいる魚も、映像記録に残せば学術的に価値があるのかもしれない。そういう実利的な選択もありだろう。
元の世界に戻れれば、の話だけれど。
カメラロールを遡る。
そこに写っている現実世界の出来事が、今では遠い昔のことのようだ。
ブレて残像しか残っていない猫や、放課後に食べに行ったラーメン、あとは友達といった水族館。三人の後ろ姿。
海の予行演習。あそこはまだ、いつでも帰ることができる非日常だった。
こんな風に見飽きることになるとわかっていたら、動物園かどこかに行ったのに。
そういえば、釣井は水族館の深海コーナーが好きだった。
深海の生き物は少しグロテスクで、暗い水槽の中は見えにくい。だから子供もカップルもあまりいない。いつも静かで冷えていて、一人でいることが気にならない。
そういう場所が好きだから今の海もさほど怖くないし、ストレスを感じていないのかもしれない。
教室内の光を反射して、銀色の何かが海の中で閃く。悠々と海の中を滑っていく。
その形は、流石の釣井でも知っていた。
リュウグウノツカイ。
思わずカメラを向けて、シャッターを切る。少しあとで、動画にすればよかったと気がついたが、そのときにはもう魚は泳ぎ去っていた。
撮影した写真を確認する。
「はは、なんだこれ」
外が暗いから、ガラス窓に釣井の姿が反射して、そちらにピントが合ってしまっている。肝心の深海魚は、そこに重なる影にしか見えない。
(あぁ、オレこんな顔してるんだな)
とった写真を端から削除していく。
誰にも見られていませんように。
窓に映る自分を見ながら、普通の顔を作った。
学校が水没してから一ヶ月も経とうとしている。
下駄箱の中の靴は、一ヶ月履かれることなくそのままになっている。昇降口に足を下ろし、そっと足を通してみる。何か変化があるわけではない。ただこの靴を履いて家を出て、いつもの通学路を通ってバスに乗って、学校に来る。そんな当たり前のことがひどく遠ざかってしまっただけだ。
現実世界は、今頃梅雨になっている頃合いだろうか。雨に濡れたアスファルトの匂いも、海の匂いが強すぎて今ではよく思い出せない。
寝るのに使う寝具も服も髪の毛も、借り物で洗っているから家の匂いと違う。
どういう原理か知らないが、そういった備蓄は今のところ枯渇していない。
電気ガス水道は問題なく使えているし、一番不安だった食糧に関しても減ってきている話は聞こえてこない。購買の傍にある自動販売機も売り切れになることはなく、小銭さえ持っていれば好きなものを飲むことができる。
生存が脅かされていなければ、あとに残されるのは退屈である。
日常を手放すまいと、普段通りの学校生活に努める人間もいれば、非日常を楽しむために遊んで過ごす人間もいる。釣井のように人の輪から離れて、物思いに耽って過ごす人間もいる。
そうしている側だから言えることだが、結論も解決もないこの状況で考え事をしても不安が増すばかりでいいことはない。
海が暗くなってからは特に、不安な顔を見せる人間が増えたように思う。
だからといって特に何かをするわけではない。彼らは他人だからだ。教師でもないのにいきなり人の不安に首を突っ込んでくる相手のことを、釣井ならば信用しない。
声を掛けるならばもっと信頼のおける人が、話を聞いてやるべきだ。
靴を下駄箱に戻し、釣井は踵を返した。
昇降口から四階の教室に向かう。海面より下の階にいると、やはり息が詰まる。
話し声が聞こえて、足を止めた。
誰かが助けを求める声か、あるいは時折学校の中に響くという不可思議な声の類かと思ったのだ。
だがそれは肉声で教室の中から聞こえた。進路指導室に誰かがいる。
空き教室を人に言えないようなことに使ったことがある心当たりがある釣井は、少しだけ警戒した。もしそうだったら声が聞こえてしまったことには気づかなかった振りをして、早々に立ち去るべきだ。
だが声が聞こえたのは扉が開いているからで、中では進路相談が行われていた。
こんな状況でも進路を真面目に考えている。
たぶん彼らは元の世界に戻れると、信じている。
これが世界の終わりだと感じていたら、わざわざ将来のことなんて相談しないだろう。あるいは、そこまで人生を迎えることなく死ぬと思っている人間にとっても、高校卒業後どうするのかなんて、些細なことだろう。
釣井には将来、熱烈にやりたいという夢があるわけではない。
進学したのは、進学を諦めてまでやりたいことが特になかったから、社会の流れに従っただけだ。専門科がある学校に進むほど、将来のビジョンが明確ではなかったから進学校であるというミズノエ高校を選んだ。
それは今も変わらない。モラトリアムの期間を伸ばすために高校の先には大学進学があり、将来の選択肢を増やすために、そのときの実力で至ることができる一番偏差値の高い学校に入る。
人生はなんとなくで過ぎていく。
釣井も、世界が元に戻ってそのときもまだ生きていたら、考えるかもしれない。
どちらにしろ来年度のことだ。
無事に、戻れるのだろうか。
(……というか、オレ戻る必要あるのかな)
考えても仕方がないことではあるが。
考えても仕方がないことを考えてしまうのは、悪い癖だ。時間が有り余っているのが悪い。早く食事の用意をして、そのあとは図書室にでも行って本を読もう。
すっかり習慣づいた料理の時間は、考えごとをするのにあまりにもちょうどいい。
そもそも、現実に戻れるかどうかもわからない上に、そこに選択肢が与えられるかも不明だ。学校が沈んだときの状況を考えれば、可能性は低いと思う。
だが、もし選べたら、そのときはどうするだろう。
日常にまともに戻れるのかという不安を抱えたまま戻るくらいなら、ここに残って平和に暮らしていると思ってもらった方がいいんじゃないだろうか。
この海を怖いと思わなくなって、生存が脅かされないのであれば、帰る目的がなくなってしまうんじゃないだろうか。
海が暗くなってからそんなことを考え始めていたが、胸の中にしまってある。
ずっと海が怖いと思っているのは本当のことだ。
この状況が受け入れ難いというのは、変わりない。
集団生活はストレスがかかるし、夜眠るのも怖い。
一つも嘘はついていない。
(でもここは、居心地がいいですね)
非現実の微睡。好きな人がいて苦しいことはなく、現実的なことは考えなくてもいい場所。
人の生き死にや命に纏わることを、重苦しくならずに話す方法はあるんだろうか。絶対に無理だ。そういうことと冷静に向き合えるほど、釣井もみんなもまだ大人ではない。大人だって、教師の立場だから気丈に振る舞っているだけで、易々と受け入れられはしないだろう。
怖いから寝るときに傍にいてほしいという望みは、想像に反して誰に頼んでも拒まれることはなかった。
まるで子供みたいじゃないか。他にも不安な人はたくさんいるのに、自分だけが一番苦しいという顔をして、人に手を握ってもらわないと眠れないなんて、自分勝手なわがままだ。
それでも笑うことも呆れることもなく、みんな自然に隣に居てくれる。
もしかしたら言わなくても伝わっているのかもしれないと、期待をしたときもあった。言わなくてもいいなら、言わないほうがいい。どうせ暗い話になる。口にしたところでどうしようもない不安を口にしたところで、不安を煽るだけだ。
でも、言葉にせずに伝わることなんて、一つもない。
話した方がいい気がする。
(本当に話すの?)
一体何を。
考え事をしながら無心に料理をしていると、危険を察知したタコ足が袖を引き、先生に怒られた。目の前の作業に集中する。
片栗粉を塗した白身魚を、油で揚げる。ピーマンも素揚げにして、油を落としてからフライパンに移す。ネギと生姜で香りを足したチリソースを絡め、仕上げる。
缶詰の豆の水煮に白出汁を少しだけ混ぜて炊き上げたご飯は、炊き上がりに炒りゴマを混ぜ込んでかき混ぜる。
汁物は古代の海にいる謎の魚を叩いたツミレ汁だ。軟骨質で妙に水っぽいから、体積が半分くらいになるまで塩で揉み込んだ。ツミレの食感がどうなっているのかは全くの未知数だが、魚のアラとエビの殻でとった出汁は美味しいから、きっと悪い味にはなっていないはずだ。
食事の用意ができたら、八万を呼ぶ。
学校が沈んで一ヶ月以上経った。
ずっと魚料理ばかり作っているから、少しだけ上達した気がする。この海にいるものを食べて大丈夫なんだろうかという心配は、もうしなくなってしまった。
一ヶ月ここで生活したが、今のところ体に変化はない。
今のところは死んだことによる影響は、体に出ていない。
だが、今ないからと言ってこの先もないなんていう保証はない。昨日まで変わらないように見えた海が、明日になったらいきなり姿を変えているように、全ては突然変わっているかもしれない。
突然窓ガラスが割れて水が流れ込んで、みんな死んでしまうかも。あるいは、釣井は死体に戻ってしまうのかも。
それを決めるのは、人なんかには感知できないルールに従った、神の意思とでもいうべき何か。人はそれを偶然と呼んだり運命と呼んだりするんだろう。
周りの人の姿がいつも通りであればこそ、釣井は存在が不確かな自分のことが信用できない。
こちら側とそちら側の間に、無意識に線を引いている。
だから釣井にとって、人がいる場所で過ごすことや夜を眠らずに過ごすことは、目先の健康よりもずっと大事なことだった。
八万に用意する食事は、他の人の分より少しだけ量が多い。無論、数に限りのある食材を釣井の一存で多く持っていくわけには行かないから、自分の分を少しだけ減らしている。
持って行った食事を、いつも美味しそうに食べてくれる。口が大きいからみるみる飲み込まれていく。その様を見るのが好きだ。
一番おいしそうにできたところを食べて欲しい。先生が手伝って作るものだから、味は全部同じなのだろうけれど、八万のための一皿を選ぶ時間は楽しい。
元の世界に戻っても、ずっとこれを続けたい。そのときに、八万の隣いることができなくても、この時間を失いたくはなかった。
「オレのこと、恋人として好きになれなくても、隣に居させてもらえませんか」
現実の世界に戻ったら、いくらでも逃げ場所がある。もう八万は釣井の隣に居なくてもいい。遠ざけることができるようになってしまう。
そんなことには、きっと耐えられない。
「邪魔にならないようにするので。お願いします」
無理だ。こんなに好きで求めているくせに、〝邪魔にならないように〟なんてできるわけがない。
それでも彼に、置いて行かれたくない。
もちろんと、なんでもないことのように八万は答えた。
「……いいんですか」
一緒にやりたいことが、たくさんある。
新しいことをたくさん覚えた。海に沈んで過ごした時間が惜しいと思えるほどに、外の世界でやりたいこともできた。恋をするのに非日常だけでは、物足りない。
一緒に買い物をしたり、映画を見たり、料理を食べてもらいたくなったり、そういうことは恋人じゃなくてもできる。今だって釣井は当たり前のように友達に同じことをしている。
恋人と友人の間に線を引くのは、心だけだ。
ちゃんと、伝わっていないのかも。
「オレ、先輩のことずっと好きでいてもいいですか。先輩が好きになってくれなくても、他の人と付き合ってても」
八万が釣井のことを好きになってくれないのと同じくらい、それははっきりしている。恋人になれないことを受け入れられても、この心はもう友情には戻らない。
机の上にあった手を握り、引き寄せる。顔で指先から手の甲、手首と順番に唇で触れて、手の平に頬を寄せる。八万は求められるままに頬を撫でた。指先が額の傷を撫で、耳のピアスを弄んでいく。
彼は覚えているだろうか。耳に新しくピアスホールを開けられた日にもらったものだ。もう一年近くも、他に変えることができないままでいる。
あの瞬間の感情は、恋だったのだろうか。まだ友情の延長線上にあっただろうか。
それすらも釣井にはわからない。
触れられるのが心地よく、しばらくされるがままにされていた。
少し身を乗り出して膝に乗ってキスをする。そうしなければ唇に届かないというのが、いつも悔しい。同じ背の高さならもっと身構えずに、膝の上に乗らなくても自然にキスできたかもしれない。できないからいつもキスをする予備動作を知られ、受け入れてもらいながら顔を近づける。
舌を絡めてくる動きに驚き、飛び退こうとして思いとどまる。舌の使い方は少しだけ、上手くなった気がする。だがそれは心の準備ができたときだけで、いつもされるがままに翻弄される。体から力が抜けそうになる。
膝から降り、釣井はそのまま床に膝をついた。
「触って、いいですか?」
膝に手を乗せる。八万の脚を開いていいのかどうか、顔を見上げて窺う。
「鍵掛けた?」
ちら、とドアの方を気にした。
「閉めてます」
「本当にする?」
キスをするときと違って、体に触れたがる釣井を見るときは困った顔をする。困らせていることがわかっているのに、触れたいという強欲を優先する。
「練習したので。オレが先輩のこと気持ちよくできるか、見てほしいです」
「変な方向に勉強熱心だよね」
いいとも悪いともつかない曖昧な返答では釣井を止められない。鍵をかけた教室の中で、秘事をする。
床に跪いたまま、釣井は膝に手を掛け脚を開かせると間に体を割り込ませた。ベルトを外しジッパーを下ろす。八万は観念したように腰を浮かせて、下着をずらした。
困ったように眉尻を下げて髪を撫でる手は、釣井の頭を引き剥がそうとしたのにタイミングを失っているように見えた。だが結局、止めることはできないまま釣井が口に含む瞬間までされるがままだった。
指先で弄ばれた舌の動きを思い出す。血を集めるようにして吸いながら、舌を動かして先端をくすぐる。唾液を絡めて、唇と指の両方を使って扱く。息を継ぐ隙間に漏れる音が、熱と湿り気を帯びる。
少しでも快楽を引き出そうと、教え込まれた動きを繰り返す。八万の下肢が少しずつ固くなっていき、口の中を満ちて押し広げる感覚とともに、達成感と欲望が胸に滲んでくる。
釣井は体が熱くなってくるのを感じ、太ももをきつく閉じてこすり合わせる。
電気を付けるのを忘れた教室の中で、波の音に紛れて水音を鳴らす。
八万の反応を確かめるために頭上の吐息に集中していると、息を詰めるような気配があった。舌に粘液の味がじわと滲んでくる。一度口から抜き、顔を見上げる。
「八万先輩、気持ちよかったですか」
「ん、うーん。……そこで喋るのやめない?」
せっかく硬くなった性器が萎えないように指先で刺激を続けながら、少しだけ顔を遠ざける。
「頭、押さえつけてくれませんか? 喉の奥、ぐりってして欲しいです」
口の中をいっぱいにして、喉の奥を擦ってほしい。
八万はきっと、見上げてくる釣井の瞳の中に懇願の色を見てとったのだろう。
「い〜ぃけどさあ。……吐かないでよ〜?」
もう一度口に含む釣井の後頭部に、そっと手が添えられる。髪の毛を掴んだりするような乱暴さはない。だが優しい手つきが喉奥に押し付けようと頭を押さえている。
ぐ、と顎を押し広げて入り込んでくる。反射で喉が蠕動して、性器を締め付ける。背筋の中を快楽が駆け上がる。緩やかに前後する動きに合わせて、肌がざわざわと粟立つ。
八万の息が乱れている。
「忍ちゃん、抜いて」
珍しく焦った声を出すのが聞こえた。
釣井を引き剥がそうとしたが、頭を無理やり引き剥がすような乱暴さはない。そのまま込み上げてきたものを口で受け止めた。喉の奥に溢れたものを飲み込んでしまったのは、最初は反射だった。
喉を流れた液体は、血と同じ温かさをしていて苦い。
生理的に受け入れがたい臭いをしたそれを、どうしたらいいのかわからないまま口で受け止める。
「出しなさい!」
珍しく語尾が強かった。
出した方がいいのだろうか。わからない。頑張れば飲める気がする。既に少し呑み込んでしまった。そのせいで喉の奥がベタつくような、ざらつくような感覚がある。
八万の顔を見上げると、釣井を見下ろす目は冷めていた。
「離れて」
口を開けて話せるようになるために、釣井は口の中にあるものを飲み込んだ。
「やめなよー……。ばっちいじゃんお腹壊すよ」
「……ごめんなさい」
選択を間違えた。
嫌われたかもしれない。気持ち悪いと思われたかも。
後悔と恐怖。
それと同時に胸の中にあったのは、自分の性指向の実感だった。
たぶん男性が好きだ。触れることに、なんの抵抗もない。それは八万との間にある、決定的な溝でもあるのだろう。