前髪まで濡らした顔をそのままにしていると、平が乾いたタオルを被せてくれた。
「よし、オレの顔大丈夫ですか」
いつもと違う顔はしていないだろうか。タオルごと頬が挟まれた。
「大丈夫じゃないでしょ、しの。夜中いつもどこにいるの?」
目を泳がせるが、両頬が捕まえられている。
バレる嘘は、いえない。だが本当のことをいって、平が寝不足になるのも困る。だから夜中どこで過ごしているか、教えていないのだ。
「屋上にいる」
少し後ろで二人を見ていた鰐川が代わりに答える。睨み付けるが肩を竦めて躱された。
ありがと祥吾と平がお礼をいい、釣井に向き直ったときには眦を吊り上げている。
「ちゃんと寝てないんだね」
寝不足であんなことになったわけじゃないと言いたかったが、鰐川と平の二対一では分が悪い。二人は怒っているわけではない。心配してくれているのだとわかっているから、言い訳は飲み込んだ。
「……ごめん」
「謝って欲しいわけじゃないよ」
それも、わかってる。
「寝れないときは、ちゃんと言う」
「空人に知られたら、蹴り飛ばされるぞ」
「上村、またやったら回し蹴りだって言ってた」
またやったらというのは、階段から落ちて死んだときの話だ。命を落とすようなことを二度もしたら許さないと、そういうことだ。
「ちょうどいい、今から呼ぶか」
鰐川がスマホを取り出す。
「……オレ、逃げていい?」
「んふふ、だーめ」
平が意地悪な顔をして笑っている。
蹴り飛ばされてまた死んじゃうかもなんて、能天気なことを考えられるくらいに、心は回復していた。
逃げるように、友達の元を離れて八万のところに走る。
彼に好きだと告げた。そして学校が奇妙な水没状態から脱するまでという条件付きで、交際を許可された。
それまでに惚れさせると豪語して見たものの、自信はない。
期限がいつになるのか全くわからない。明日いきなり戻っているかもしれないし、この先ずっとなのかもしれない。早く日常に戻りたいという気持ちと戻られては困るという矛盾が心の内側で戦い、今のところはなるべく長引いてくれと言う感情が優勢である。
八万のことを好きだという気持ちを確信するために費やした時間を考えると、自分に友情以上の感情を抱いていない人間の心を掴むなど途方もない条件に思える。
それでもチャンスがないよりはましだし、一緒にいるための大義名分も得ることができた。好きだから会いに行きたいし、傍に居たい。
八万と釣井は、付き合っていると言って良い。らしい。
男同士で付き合うとは、一体何をすれば良いのか。
そもそも釣井は世間一般の恋人が何をしているのか知らない。
一緒に出かけたり遊びに行ったりするのかもしれないが、今学校は海の中に沈んでいて外の娯楽とは無縁だ。
傍にいて話をしたり一緒にいる時間を長くしたり、そういうのは付き合ってくださいと言う前から元々やっていた。
まずは世間一般の恋人が何をしているのか、調べたいし確かめたい。こんなときに限ってインターネットは繋がらない。図書の中から得る知識は、本は告白をしてから先があまりにも即物的すぎるし、これはあくまで物語だ。
恋人がすること。例えばキスとか。その先とか。
それはお試しの関係で、踏み出して良いような部分ではない。
興味はあるが。大いにある。ものすごく、気になっている。
したくないと言えば、嘘になる。
それよりも何よりも、まずここは学校なのだが。
「良いんじゃない?」
躊躇いがちに望みを口に出してみると、八万はあっさりと肯定した。
彼はいつも葛藤の重みを払い除けてくれる。ずっと悩んでいることに気にしなくていいのにと、なんでもないことに変えてくれる。
惚れさせなければいけないのに、好きなところばかり再確認する。
「良いんですか?」
駄目と言われたら困るくせに、念押しをしてしまう。
「いんじゃね? 付き合ってるからそれっぽいことはできるでしょ」
流石に人が見てるところでは駄目だけど、と続ける。人目があるところでは、釣井も無理だ。人に見られない空き教室を探して八万を招き入れるのは、学校で秘事をしようとしている気分が高まって背徳感が募る。
立ったままだと身長差では、唇が届かない。
椅子に座ってもらった八万の足の間に膝を置き、顔を覗き込む。
改めて顔を見た瞬間に緊張で動けなくなりそうだったので、釣井はなるべく相手の顔から目を背けて顔を近づけた。
吐息が掛かる距離に近づき、呼吸を止める。
目を閉じる。
唇が触れた。
生まれて初めての、キスだった。
皮膚の薄い唇から、体温が伝わってくる。
それ以上のものを感じてしまう前に、慌てて体を退いた。止めていた呼吸を取り戻し、大きく息を吸う。
顔が赤くなっているのは、限界まで息を止めていたせいだ。そう思うことにした。
キスをしたいと告げて、した。やりたいと思うことはこれでできた。
そのまま体の上から逃げようとした釣井の肩を八万が掴む。
顔を見る勇気がない。ただ唇を離した瞬間に、八万が笑った気配が唇を掠めたことだけはわかっていた。
「忍ちゃん」
「……はい」
「口開けて」
ひゅ、と喉が鳴る。
言われるままに、恐る恐る唇を開いた。
胸の内で、期待と恐怖が入り混じっている。
恐怖の中身は、未知の経験に対するものと触れられることで理性の箍が外れてしまうのではないかという自分に対するものが混ざっている。しかし一体何をしてくれるのだろうという好奇心と、触れて欲しいという欲が圧倒的に勝り、言われるままに口を開いて待っていた。
そうしていたのは、時間にしたらほんの数秒だったかも知れない。しかしぐるぐると思考が頭の中を回り続ける状態では、その数秒がとても長く感じられた。
キスをするときは目を閉じているのがマナーだった気がしたが、待ちきれずに薄目で窺う。
八万は釣井がそうするのがわかっていたかのように、口を開くように言ったときの表情のまま待っていた。
「あ」
からかったんですか、と問いかけようとしたのを待ち受けていたかのように、唇が塞がれた。
ぬる、と口の中に舌の感触が滑り込み、他人の粘膜という未知の存在に体が震え上がる。体が反射で逃げようとしたが、肩をしっかりと掴まれていた。
両手が肩から首筋を撫であげ、顎に触れた。もっと開くように促されて、口をもう少しだけ大きく開く。上顎をなぞられ、舌音を発するときに舌先を当てる場所をくすぐっていった。
目を閉じていると、他の感覚に意識が集中してしまう。
八万の乾いた指先が、どこに触れているのか。どんな動きで肌を撫でているのか。顎から首に、そして耳朶に向かって動いている。
温度が違う舌先が触れ合う。唇の内側に入ってくると体温に馴染んだあと、相手の熱を感じるようになる。その温かさが体全体に伝播して、体が熱い。
背筋を指先で撫であげられているような感覚が駆け上がり、断続的に襲ってくる。
ピアスを弄んでいた手が、両耳を耳を塞いだ。
唾液の濡れた音が、頭の中で聞こえた。
肌が粟立つ。
「ふ……はっ、ぁ」
八万先輩、と唇を動かしても声にならない。
衝動を逃す場所を探して、服を握りしめる。指先が白くなるくらいに力が篭った。
ふいに、唇が離れる。
体から力が抜ける。
「ちゃんと息吸って」
諭すような呆れたような声だった。
大きく、息を吸い込んだ。
「……はい」
返事は上の空で、唾液に濡れた唇をまだ拭いもせずにいる。
まだ、足りない。もっと欲しい。抑えられない。
掴み引き寄せるようにして、身を乗り出す。
たった今、教えられた動きを返す。
歯列を舌でなぞると、ピリと舌先に痛みが走る。
口の中を舐め舌を絡める度に、傷がちりちりと痛む。
血の味を感じたまま続けようとする釣井を、八万が引き剥がす。
「はは、必死じゃん」
当たり前だ、ようやく触れられたのだから。
血が唾液の中に赤く筋を残す。
凶暴に、なってしまいそうだ。
ずっと胸がざわざわとしている。
食事のときに舌先がピリと痛んだ。
あれから何度か八万と口づけを交わしたが、必死になりすぎて毎回舌に傷を作ってしまってまだ痛む。
余計なことを考えないように頭から追い出そうとしたが、追い出そうとすればするほど頭の中に八万のあれこれがちらつく。聴覚や触覚が余計なことを覚えている。
キスを教えてもらったあとに晒した醜態を思い出して、浮つく心を叩き落とす。
夢の中で触れるのとも頭の中で触れるのとも、全く違った。好きな人の生身の体に触れるのは、何の経験も持たずにきた釣井には刺激が強すぎた。
学校が水没してかなりの日数が経っている。
いい加減我慢の限界だった欲望は下半身で蟠っていて、それを八万に見られたときに死にたくなった。
トイレに逃げ込んで一人で処理したときのいたたまれない気持ちと、人に知られたらどうしようという恐怖は二度と味わいたくない。
希望が多分に含まれた釣井の視点ではあるが、キスをしてそれで勃ってしまったのを見られたとき、少なくとも軽蔑や嫌悪はされていなかった。
ただ、本当に男で反応するんだという興味と関心が、ありありと見て取れた。
触れても許されるなら、何度でもしたい。だが体と心臓に悪すぎる。
もう少し心に余裕をもって、八万と向きあえるようになりたかった。
好きなところが増えるばかりで、どうしたら好きになってもらえるのかを考える暇がない。
折角、世間一般でいうところの恋人らしい振る舞いを許してもらえるようになったのだから、その関係を享受して楽しみたい。
いっそ、八万に聞いてみたらいいんだろうか。
恋人って普段、何をしているんだろう。
いまだに自分からメッセージを送ることすら躊躇われて、釣井は明日会ったときに聞こうと疑問を胸に留めおいた。
仮初の恋人関係を結んだとはいえ、他の人間の目がある場所で二人の関係に変化はない。釣井が八万に会いに行き、予定が噛み合えば一緒に過ごす。会いに行くのに理由をつけなくてもよくなったくらいだろうか。
屋上と三年生の教室は近い。階段を駆け下りる足取りが軽くなる。
束縛をしたくないという建前はあるが、本音では許される限り二人で過ごしたい。恋人らしい触れ合いもその努力も、二人きりのときにしかできないからだ。
周りに人がいないタイミングを見計らって、釣井は八万の隣に座った。
「恋人って普段何をしているんですか」
「何してるって。普通に話したり、映画観たり、ゲームしたり飯食ったりデートしたり、それこそこないだした事みたいなコトしたり? あ、それ以上もかな」
この間したことの具体的な内容を舌先の痛みとともに思い出し、顔が赤くなる。それ以上に関しては、慌てて頭から追い出した。学校が元に戻るまで。この環境から出られるようになるまでという条件が課されてしまったのだから、学校の中でできないような〝それ以上〟は起こらない。
期待すると、体が反応してしまう。
「……結構、一緒にしてましたね」
二人で出掛けたことだってある。それがデートにならず、恋人としてのものにならないのは、心が付いてきていないからだ。
八万が、釣井を好きになれるのかという問題に戻ってくる。
「普通にしてたらいいだろ」
普通に。
そこにある関係が友達でも先輩でも恋人でも、目の前の人ときちんと話せばいい。
「戻ったら一緒に見たい映画の話、してもいいですか」
「いいよー」
「家で見れるやつ、配信とかでやってるわりと古い映画なんですけど、でも今見ても安っぽくなくて。サスペンス映画なんですけど、ミステリーとしても十分見れて、伏線回収が鮮やかで、あとキャラクターがすごくクールなんですよ。主演の……」
言葉が止まった。
相槌を打ちながら聞いていた八万が、何気なく体の横に置いていた釣井の手にそっと小指を絡めたからだ。
するりと指の間を撫でて誘うようにしてから、指を摘んで関節の太さを確かめるようにする。一本ずつ指の節を順番に辿るようにして、ゆっくりと二人の手が重なる面積が増えていく。
「あ、あの」
上から手を押さえつける。かと思えば優しく掴み指を絡める。
それは恋人同士のつなぎ方だ。
「……続きは?」
「は、え? あ……えと」
続き。指先の。いや、映画の話の方だ。
なんの話をしていたのか、全く覚えていない。どこまで話したんだろう。映画の話をしていたはず。なんの映画について話していたんだっけ。
「なんの話を、していたんでしたっけ」
頭の中が真っ白だ。
いま釣井の頭の中は映画ではなくて、八万の手のことでいっぱいだ。
何も、話せない。
ニヤニヤと笑っている八万は、きっと釣井のことをからかっているだけだ。
予測できても、こんなのは躱しようがない。
八万に触れられる度に、欲望が内側に降り積もっていく。
それはプライベートなどほぼないに等しい学校という空間で抱えておくには、手に余るものだった。御し難い衝動を、どこに置いたらいいのかわからないし、発散することもできない。
だから触れるのも触れられるのも、いつまで経っても慣れない。
八万の膝の上に身を乗り出す。キスを強請っていると察した八万が、応じるように顔を釣井の方に向けた。
お試しの恋人になったからといって二人の間に劇的な変化があるわけではなかったが、この距離だけは単なる後輩の立場では届かなかった。鼻先が当たる近さで、一番好きな顔を見つめることができる。
飽くまで見つめていたいと思う一方で、相手に見られていると意識した瞬間にどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
触れる前に、両目を瞑る。
そして唇を重ねる。
続きをしていいのか躊躇っているうちに先に動かれ、心臓が口から飛び出そうになる。今回は、なんとか飛び退かずに堪えたが、肩が跳ね上がった。
八万の舌が口を開けるように促してくる。求められるままに、口を開いた。
口腔内を弄る舌から、自分以外の人間の体温を感じる。柔らかく濡れた舌に噛み付いて、飲み込んでしまいたいと思う暴力性を内側に閉じ込めて、応じる。
唾液の濡れた感触を残して、八万が離れていくのが名残惜しい。
唇を離してからそっと目を開けば、まだ驚くほど近い場所に顔がある。もう何度かキスは経験しているが、その度に初めてしたような反応を示してしまう。
八万の表情は、そんな釣井を面白そうに眺めていた。
そんな風に余裕のある微笑みを浮かべる顔が好きだ。
和らげた目元とほくろが好きだ。
翻弄されるばかりで相手が一切動じる様子がないのが、少しだけ悔しい。
八万の視線が下に向いた。ズボンを押し上げて硬くしているのを見られているのだとわかって、羞恥で顔が赤くなる。
「すみません」
一方的に感情を募らせている。これは前からずっと。
それを相手に知られるようになってしまっただけだ。
「若いね〜」
「あの、先輩は男相手にそういうことには、ならないっていうの、わかっているんですけど」
触れたところで釣井のような反応することはない。
日常が戻ってくるまでに、二人の心の温度差が埋まればいいのだろうが、今のところ有効なアプローチは思いついていない。
「試してみて、いいですか?」
「……試すの?」
八万も流石にたじろいだようだった。
「えーと、忍ちゃんは試すっていうの、何をするつもり?」
「……。……なめ、たり、とか」
ズボンの上から、布越しに触れた。
触ってしまった。
釣井の頭の中は大胆すぎる自分の行動と、それでもなお止められない感情で混乱して散らかっている。理性の箍はどこかに落としてしまったらしい。
八万が、困ったように眉尻を下げた。釣井の顔と手を置いている場所をみて、口を開き、また噤む。
迷った末に、ふざけあいの文脈で処理をすることに決めたらしい。
「急だねー」
やんわりと引き剥がす。だが思い余った釣井がそれ以上の暴走をしないように、両手首はしっかりと捕まえられていた。
「恋人って、どうなったら触れてもいいんですか」
雰囲気だとかタイミングというのが、分からない。恋人になるのが初めてなのだ。本で読んだ知識、漫画で見た触れ方、男子生徒だけが集まったときに発する下世話な話題の中でしか、知らない。
八万は、きっと知っているんだろう。
恋人と触れるときの適切な距離や、関係の作り方やタイミングについて。
「……俺は、女の子とするときのやり方しか知らないけど、いい?」
「それで、いいです。先輩が知ってるやり方、教えてください」
捕まえられていた手首が解放されたのを、OKのサインだと釣井は解釈した。
八万の前に跪きズボンをくつろげる。当たり前だが、他人の下着の中に手を突っ込んだ経験などない。
「……お邪魔します」
「いやそこ、断り入れられると逆に恥ずかしいから」
言いながら釣井の手元から、目を逸らした。
同じ男だから、どうしても自分のものと比べてしまって緊張する。質量と大きさを手の平に感じる。
舐めると言ったものの、実物を前にすると躊躇いが生まれる。キスをしたときのことを思い出す。他人の体の一部が、自分の体の内側に触れたときの感触は筆舌に尽くしがたい。
「ほんとにする?」
釣井の逡巡を読み取ったようなタイミングで、八万が問う。
「します」
それ以上考える前に、脚の間に顔を埋める。
思い切って口に含んだ。
想像していたよりも柔らかい。雄の匂いに興奮を覚えて、性指向を自覚する。
八万がいつになくぎこちない手つきで、髪を撫でていく。釣井の頭を押し付けも引き剥がしもしないように、注意を払っているようだった。
遠くから波の音が聞こえるだけの静かな部屋に、唾液を絡ませ吸い付く水音だけが響く。
八万の体には全くと言っていいほど反応がなく、わずかに前後する釣井の頭を撫でながら、されるがままになっていた。
顎が痛くなるまでそうして舐めていたのだが、動きが鈍くなったあたりで八万は釣井を止めた。
「忍ちゃん、ごめん」
「気持ちよく……なかったですよね」
聞くまでもなく一切の反応がない体が、何よりも正直にそれを教えてくれる。
口の周りの唾液を、手の甲で拭う。
「練習というか、勉強……をしてきます」
「練習……? すんの?」
なにで、という疑問がその顔に浮かんでいる。
釣井自身も何で練習すればいいのかわかっていなかった。そんなものは図書館で辞書を引いたって、記されていない。調べる手段も、今の学校にはない。
人に聞くわけにもいかない。聞ける人がいるとすれば、八万くらいだ。
(……それなら八万先輩に聞いたらいいのかな)
どんなやり方でも八万が気持ちよくなってくれれば、それでいいわけだし。
「先輩はどうされるのが、気持ちいいですか?」
「真面目というか勉強熱心というか……」
呆れたように呟いて、八万は指を差し出した。
「じゃ、口開けて咥えて」
言われるままに、指先を口に含む。
「もっと唾溜めて、絡めて」
口が塞がれているから返事ができない。肯く代わりに、言われた通りに動くことで応じる。
教え込まれている手管はたぶん、釣井以外の誰かが過去にした行為なのだろう。
考えると焼けつくような嫉妬が胸の内に湧いてくる。
唾液を絡みつかせながら、吸い付くように喉奥に招き入れる。先端を舌先で弄るとき、根元を指でしごきあげる。
自分以外の人間がどんな風に触れて、彼を求めたのかを、今教え込まれている。
それに、八万は満足したんだろうか。
口腔内にある指先が、ふいに動いた。舌が掴まれて動きを止められる。えづきそうになるのを抑え込んだせいで涙が出た。
疑問を声にできないまま、八万の顔を見上げる。
どうしたらいいのか、次の指示を待つ。
ぐ、と口の中で指が曲がり口をこじ開ける。指先に歯を立ててしまわないように、抵抗せずに口を開く。
「ぁ、え?」
戸惑いながらされるがままにした口から、溜めていた涎が垂れる。突然のことに理解が追いつかない。
唾液が手のひらから腕まで伝うのをみてからようやく、八万の体を汚していることを理解した。
指を口から引き抜く。拭くものが手元にないから、袖で拭った。
「あの、ごめんなさい、オレ汚しちゃって」
慌てる釣井を見ながら、当の八万はなぜか楽しそうな顔をしていた。
今日は、これでおしまいということだろうか。
からかわれているが、その顔に浮かんでいるのが嫌悪ではないから、ひとまずは安堵する。
あとは釣井が自分の体に起こってしまった反応を処理すればいいだけだ。
生理的反応。だが相手への好意がなければ起こりようがない現象。
前のめりな欲望を一刻も早く八万の目の前から消したい。
大抵は逃げるようにトイレに逃げ込んで処理をする。歩きにくいし情けない。泣きそうになりながら、誰ともすれ違いませんようにと願い、早足になる。
八万と過ごしたあとの、それが釣井の常だった。
引き止められたり、しなければ。
腕を掴まれた理由がわからず、腰を浮かせた中途半端な姿勢で動きを止めた。
「手伝おうか?」
何を言われたのか理解できず、相手の言葉を鸚鵡返しに問い返す。
手伝う、とは。
こういうとき、頭の中がぐるぐるしていて、いつも以上に頭の働きが鈍い。
「いつもしんどそうだから。手ェ貸すくらいはできるよ。文字通り」
右手の動きで何を意味しているのか悟り、体温が急上昇する。
「だ、駄目。駄目です!」
「駄目なの?」
人に甘えるときの顔を見せてくるのはずるい。断りにくくなる。
だが、駄目だ。八万が想像している以上に、釣井は彼のことが好きだ。欲望はいつも制御不能で、ギリギリで堪えている。触れられたらどうなるかわからない。
「先輩に、そんなことをさせるわけには。み、見られるってことじゃないですか」
「俺のも見せただろ。見せたというか、まぁその先もしてもらったわけだし」
等価交換。
ならば、釣井も己を曝け出すべきなのだろうか。
迷いはあるが、八万の言葉に反論を持たない。そして、触れてもらえることを幸運だと思ってしまっている。
促されて、逃げ出そうと浮かせていた腰を下ろす。
「触ってい?」
肯く。
八万の手が、ズボンのジッパーを下げる。それだけで及び腰になった。
「……前からだとしにくいから、後ろからでいい?」
招かれて足の間に座る。
背中に体温を感じて鼓動が早まった。
肩越しに覗き込む八万の吐息をすぐ耳元で感じ、体が震えた。この体勢だと逃げ場所がどこにもないのだと今更に気がつく。
汚れたら困るからと言われ、ズボンと下着を膝まで下ろす。
本当にするんですか、と八万の顔を見上げて尋ねた。
尋ねようとした。
触れられて、声が出た。
声の大きさに驚いて、釣井は慌てて口を塞ぐ。血が集まった場所と比べて、八万の手はひやりとしていた。根本から擦りあげられ、背筋を快楽が駆け上がる。
体が跳ねた。咄嗟に逃げ出そうとしたが、八万が反対の腕でしっかりと釣井の体を抱き竦め、動けない。
「なぁんで逃げんの?」
揶揄う声が、ピアスに触れるほどの距離で耳朶を震わせる。
口を開いた瞬間に、情けない声が出そうだ。
自分でするのとは全く違う。どう触れられるのか予測できない。次に何が来るのかわからない。
恐怖と期待がない混ぜになって下肢を疼かせる。
先走りを馴染ませるように指先が先端をくすぐり、全体に馴染ませていく。
男の指先であることがわかる。関節と乾いた手の平がずりと撫であげていく。
ぶる、と体が震えた。
手の平に吐き出された精の熱さに八万が驚いた声を上げ、次にあっけに取られたような声を出した。
「ご、ごめんなさい」
吐精のあとの虚脱感とは程遠い。堪え性のない体が恥ずかしく、羞恥で顔が真っ赤になる。早く八万の手を綺麗に拭いて、体の後始末をしたい。情けない。
拭くものはあっただろうか。
閉じようとした太腿が足で広げられる。
「八万先輩?」
精液で濡れた手がぬるりと動く。
体が跳ねた。
「まだ、元気じゃん」
喉の奥で低く笑う声に、湿った音が重なった。
ぬちぬちと音を立てて、指先で弄ばれる。
腰を退いても下がる場所がない。背中に八万の体温を感じるだけだ。
釣井が逃げようとしているのをわかっているように、八万が体を押さえつける力を強くする。
「せんぱ、先輩、駄目。だめです、それ」
「ん、これ?」
敏感な場所を指で何度もくすぐられて、声が上擦る。喘ぎ声が漏れそうになって、八万の腕に縋り付く。
「いいの? 駄目なの?」
微かに感触が伝わってくるような触れ方で焦らす。
気持ちいいです、と声を絞り出す。
もっと、触れて欲しい。耳元でその声を聞かせて、強く触れて欲しい。
早く刺激をくれないと、はしたなく快楽を求めてしまいそうになる。
荒くなった息に、鼻の奥に絡むような甘い声が混ざる。
腰が揺れる。
早く達して楽になりたいのに、躱すように八万の手が逃げていく。
どうして欲しい、と八万の声が問う。どこを触れて欲しいのか。どこがいいのか。
試すような問いかけの一つ一つに、漏れ出る喘ぎの中で懇願をした。
楽しげに喉の奥で笑う吐息が耳元をくすぐる。八万の声が心地良くて、頭がクラクラとする。
指先で下肢を擦り上げられるたびに背筋を快楽が駆け上がって、体が大袈裟なくらいに跳ねる。だが達しそうになるたびに手を離され、触れるか触れないかの場所で吐精感の波が去っていくのを待つ。
「だめ、だめです。せんぱい」
八万に縋り付く指に力が入る。快楽を逃がそうと身を捩るが逃げられない。
「駄目なの? お互い様でしょ」
顔を覗き込むようにして反応を確かめてくる八万の表情を見ることができない。
すぐに達してしまうから、恥ずかしい。見られたり、触られたりしたくない。そういった釣井に彼は意地悪そうな顔を向け、そこからずっと焦らされている。
寸前で止められて、懇願しても最後までしてくれない。
堪えきれずに自分の手で触れようとするが、許してもらえなかった。
空いている方の手が、体を撫でる。快楽を求めて過敏になっている体ではそれも強すぎるほどの刺激で、八万の肩に顔を預けて荒く息をする。
「我慢できて偉いね」
これ以上は、我慢できない。本能のままに目の前の人を押し倒し、中に押し込みたい衝動と必死に戦っている。酷くしたくない。特に、初めてのときは。経験のない釣井が欲望に任せて、痛みを感じるような行為にしたくない。
首を横に振る。理性が焼き切れてしまう前に早く、楽にして欲しい。
「はちまん、せんぱっ」
息が乱れて、声にならない。大きく息をしながら、必死に言葉を吐き出す。
「イきたい?」
こくこくと肯く。
試すように先端を指先がゆるゆると撫でたあと、広い手の平に下肢全体が包みこまれた。
限界まで焦らされた体にはそれだけで強すぎる刺激で、精を吐き出す瞬間に釣井の口から喘ぎ声が出た。