切れた糸をもう一度結ぼう


Tidalwave_逃れようのない波
 校舎の中は、すっかりと海の匂いになっている。
 シャワーを浴びる前の髪の毛や、海の思い出として持ち込まれた貝殻、遊び疲れた誰かの浮き輪。そして定期的に教室内に出現するずぶ濡れの誰か。
 そういうものが連れてきた海の気配が降り積もっている。
 階段の縁や屋上にはうっすらと白く塩の結晶が浮いている場所もあり、海沿いの街の風情を醸していた。
 学校で潮の匂いを嗅ぐことの違和感は、いつの間にか消えていた。
 この状況を受け止められるようになるよりもずっと早く、嗅覚は学校を包む海に馴染み、それを平常と捉えるようになっていた。非日常に体が順応する一方で、体は少しも追いついていかない。
 慣れない集団生活に馴染めないまま眠り方を忘れてしまった釣井は、日が暮れると屋上に逃げる。海面を見下ろす場所に立って、ようやく安心できる。
 昼間は楽しい。誰かの隣にいることができる。日の光に透ける海は、水族館のような気持ちで見ていられる。だがみんなが寝静まり学校が静かになってくると、海への恐怖が勝る。
 暗い海の向こう側には何がいるのかわからない。ふとしたときに大きな魚影が横切り、動悸が止まらなくなる。
 眠ることができないでいる夜は、なるべく人に見つかりたくない。余計な心配を掛けてしまう。大丈夫かと問いかけられて、大丈夫でないことがわかっているのに大丈夫だと答えるのはお互いに疲れる。
 ただ、海の下ではない場所に居たいのだ。目を閉じたくない。非現実の世界で意識を無くして、記憶の連続性が失われるのが怖い。
 この夜を、水族館の中で眠るような非日常として、素直に楽しめる日がくればいいと思う。
 今はまだそうではないから、釣井は屋上に逃げる。
 寝るには床が固いが、慣れれば思ったほど居心地が悪いわけではない。
 風がない日の海面は天鵞絨のように滑らかで、表面を蛇の腹のように滑らかに波打たせている。
 校舎の壁に波がぶつかる規則的な音を聞きながら、眠気を催すべきなのだろう。
 夜の海に月の反射光が横たわり、深海色の上に銀色の道を敷いている。
 海亀の子供は光を目指すという話を思い出しながら、市街地でみるよりもずっと明るく感じられる月の明かりを頼りに、ルーズリーフとペンを取り出す。今日は校内新聞を作る準備をして、夜を過ごすつもりだった。
 ネタになることが多すぎて、テーマが絞りきれない。部員が各々で気になるテーマを取材し写真を撮って、あとで方向性を話し合うことになっていた。今は目の前で移り変わっていく一瞬を捉えるのに必死だ。
 ここで撮影した写真は、現実世界でどんな風に受け止められるのだろう。合成写真と言われて終わりだろうか。それとも本物だと認められて、スクープにでもなるのだろうか。
 世界が元に戻る見込みはないから、考えても仕方がないことだが、もしそうなったらと夢想する。
(ああ、そうだ。みんながいまこの状況をどう考えているのか……とか、いや流石に記事にするには重たいか)
 そのことを考えたくないと思っている人もいるはずだ。もっと人の心を傷つけないような、明るい内容がいい。夢を見られるような、楽しいこと。
 釣井には難しい。向いていない。明るいことを考えるのも楽しいことを考えるのも、できない。
 心の中には真っ暗なものが横たわっている。人と話しているときに時折滲み出す毒で、いつか自分が死んでしまうのではないだろうか。
「釣井」
 ふいに声を掛けられ、釣井は肩を震わせた。
 見つかってしまったから、誤魔化す方法を探さなくてはいけない。焦りが真っ先にあった。その声には聞き覚えがあり、体が別の緊張で強張った。
 鰐川が屋上の隅に座る釣井を見下ろしていた。
 釣井と目が合いそうになると、顔を背ける。自制に必要な動作であるが如く、しっかりと手首を握りしめていた。
 頭の中でいまだに祥吾と呼んでしまう彼の名前を、二人の間の距離を正しく認識できる呼び方に直す。
「鰐川さん、何か用ですか」
「……最近、疲れているようだと、聞いたから」
(誰に聞いたんですか、そんな余計なこと)
 思わず失笑が口から洩れそうになった。
 心配して声を掛けに来たとでも言うのか。
 話すのが負担だと、顔に書いてある。
 仮に釣井が疲れているとして、それに鰐川が気がついたとして、声を掛けにくる義理はないはずだ。上村か平に任せればいい。
 あの二人は釣井の様子が気に掛かっていたとして、鰐川に様子を見に来させたりはしないだろう。
 ここの関係がどうなったのか、わかっているのだから。
 もっと別の断りにくい相手にでも頼まれたのか。教師あたりだろうか。
 断りきれなかったのか。断りきれなかったとしても律儀に果たす必要などない。適当に誤魔化してしまえばいいのに。
 二度と話したくないし顔も見たくないと思っている相手を心配する振りをするために、わざわざやって来たのか。全ての人に良い顔をしようとして、決断を人に任せているからそういうことになる。
 本当に生き辛そうだ。
「踏み込むな」
 それがお互いの関係に出した結論だったはずだ。
 今更、踏み越える理由が分からない。
 まるで釣井と鰐川の立場を、入れ替えたようなセリフだった。
 だから今は、お互いの考えていることが痛いほどよくわかる。
 同じことを鰐川も考えていたのだろう。
「当てつけか?」
 不快感を露わにした。そんな顔を見せるのは釣井に対してだけであるはずだ。一番嫌いな人間に、わざわざ関わるべきではない。
「人間関係の気持ちいいところだけ見ていていたいんじゃないんですか。他人の苦しみなんて聞きたくはないんでしょう。そんな余裕はない。自分で言ったくせに、今更なんですか?」
 例え聞かれたとして、頼まれたという義務感で聞きたくもない他人の悩みに首を突っ込んできているだけの人間に明かす悩み事などない。
「今、余裕ないのはお前。俺に分からせようとして、やってんのか? だとしたら愚かとしか言いようがないな」
「わからせようとして? 自惚れないでください。オレは祥吾にそこまでの興味はないですけど」
 まだ自分に触れる手があると思っているのか。もう手を伸ばそうなどとは思っていない。
「……お前のこと、誰よりも一平が心配してるのわかってんだろ。やめろ」
 一瞬言葉に詰まる。
 わかっている。心配を掛けている。平のために解決しなければいけない。
「友達でもないのに、なんの権利があって口を突っ込んでるんですか? オレといっくんの間のことは、二人が解決することで関係ないですよね」
 暗闇の中から、深い深いため息が帰って来た。
「……はぁ。その顔見るに、最近眠れてないんだろ。睡眠不足は思考を偏らせる原因の一つだよ。眠れないのは悩みがあるからだろ。何に悩んでるのかは、部外者の俺が聞くことじゃないからいいけど、一平には話してやれるだろ。ちゃんと話してるのかよ」
「興味本位で首突っ込んできて偉そうに。お前みたいな全部嫌で投げ出すやつと一緒にしないでください」
「そういうぐずぐずしてるところ、……ムカつくくらい俺にそっくりだな」
「そっくりなら、オレがなんと答えるのかもわかるでしょう」
 これ以上、話はない。話しても、何一つ進展はしない。
 だから二人はおしまいなのだ。
 これはもうとっくに終わっている話の繰り返しだ。
 広げてあったルーズリーフを纏めると、鰐川を押し除けて屋上から立ち去る。引き止められはしなかったし、追いかけても来なかった。
 声を掛けて、心配している人間がいると教えた。これでもう頼まれごとの義理は果たしたはずだ。体育館に戻って、眠ればいい。
 鰐川には待っている人がいる。
 屋上から立ち去った釣井は、行き場を失ってしまった。
 B棟の屋上に、移動しようか。
 四階の渡り廊下を歩く。すぐ下に海がある。たぽたぽ聞こえるのは、揺れる波が床を突き上げる音だ。絶えず微振動が伝わってくるから、揺れている気分になって落ち着かない。
 校舎の影になるから月の光すら届かず、真っ黒く見える。何かがいそうで、怖い。
 足を早める。
 吹きさらしの廊下に風が強く吹いて、手に持っていたルーズリーフを巻き上げる。
 手すりを飛び越え海面に落ちた。
 折角の取材とメモだ。
 幸いまだ、回収できそうな距離だ。
(海の下に何かいたらやだな)
 そんなものは妄想だ。昼間、校舎の中から散々海を見上げたじゃないか。
 そう自分に言い聞かせて手すりの間から、海面に手を伸ばす。
 なんとかルーズリーフを捕まえたが、海水でずぶ濡れになっていた。
 油性ペンだから文字は読める。だが乾かさないと他のものも濡れてしまう。
 手すりに貼り付けておこうか。だがメモを人に見られるのも恥ずかしいし、何より乾いたら剥がれて何処かに飛んでいってしまう気がする。
 濡れた紙を指先に摘みながら途方に暮れていると、ぼんやりとしている端から別の一枚が紙が巻き上げられた。
「あっ、やば」
 重しになるものを載せておけばよかった。
 慌てて行方を追いかける。
 ノートが指先を掠めて、翻る。ひらひらと左右に揺れて掴みにくい。
 また、海に落ちたら今度は回収できないかもしれない。
 頭の上を飛び越えようとしたルーズリーフに手を伸ばす。
 後ろに向かって飛び上がると、指の間に紙片が挟まった。
(ナイスキャッチ。……オレにしては)
 運動神経がないなりに、いい動きをしたんじゃないだろうか。
「あ……、おい!」
 それはたぶん、鰐川の声だったと思う。
 着地をする前に、背中に手すりが当たった。体が後ろに倒れる。
 世界が反転。
 脳味噌も一緒に回って、思考が混乱する。
 寝ぼけた頭を叩き起こすように、頭から水を被せられもとい、頭から海に落ちた。
 鼻から流れ込んでくる海水で、目の奥がつんとした。
 思わず声を出そうと口を開けたのが、間違いだった。
 流れ込む水に体が痙攣する。吐き出そうと体が反射で動き、水を飲み込んだ。
 息ができない。
 恐怖に体が強張る。まともに思考できない。
 重い、重い水が手足に絡みつく中で、無我夢中で手足を動かす。濡れた服で体がうまく動かない。ちゃんと海面に向かっているのか。上はどっちだろう。
 水を飲んだときの対処。溺れたときの対処。何かあったかもしれない。何か、何か。どうしたらいい。誰か助けて。怖い。
 もがくうちに、奇跡的に顔が空気に触れた。だが飲み込んだ水を吐き出そうと体が痙攣するばかりで、息が吸えない。声が出なかった。手を伸ばしても触れるものは何もない。
 海が暗くて、何も見えない。
 誰かが名前を呼んでいる気がする。
 声のした方をみる。校舎の明かりにぼんやりと照らされる人影が海面に目を凝らしている。
 一瞬沈んだだけに思えたのに、あんなに渡り廊下が遠い。
「忍、忍!」
 鰐川が、夜の海に消えた釣井の名前を必死に呼んでいる。
 助けて。
 海面を叩く音に気がついた鰐川が、釣井を見つけた。
 柵を乗り越え、釣井の方に手を伸ばしている。
 あの手を、掴めば。
 死にたくない。
 怖いよ。
 助けて、祥吾。
 指先が触れることはなかった。
 死ぬまでの一瞬。
 真っ暗闇に、命が消えて思考が途絶えるまでの、永遠に思える時間。
 肺が水でいっぱいになって、悲鳴もあげることのできない苦痛の中でぼんやりと思考する。
 この苦しみは、オレに与えられた罰でしょうか。
 たくさんの人を傷つけたくせに、自分だけ欲しいものを手に入れたから。
 酷い人間であった分だけ、苦しんで苦しんで、苦しめばいいのでしょうか。
 〝罰がなければ、逃げる楽しみもない〟
 本の言葉を思い出す。
 痛みを知らない人間は、傷つける価値もない。
 だから因果はオレの心に血が通う瞬間を、待っていたんでしょうか。
 気がつけば、教室の自分の席に腰掛けている。
 前に生き返ったときに蹴り飛ばした机は、誰かが戻してくれたらしい。
 意識が戻った瞬間に反射で体が跳ねて、また脚が机にぶつかった。
 体は戻って来たのに、意識はまだ海の中にある。暗い海の中で、手足が動かないときのことをはっきりと体が覚えている。
 飲み込んだ水を吐き出そうとして、内臓が痙攣する。
 肺も胃も空っぽだ。どんなに激しく咳き込み、えずいても、空気と胃液しか出てこない。
「っは、ゔぇ、ゔ……ぅ……」
 息が落ち着くまで、時間がかかった。
「忍!」
 扉が勢いよく開かれた。気がつけば、教室の入り口に鰐川がいる。
(なんで……?)
 どうして鰐川がそんな顔をするのか、わからない。
 彼もまた全身が濡れていた。
 まさか一緒に死んでしまったのかと思ったが、それなら先に沈んだ釣井のところに駆けつけられるはずはない。手を伸ばしてくれたあのときに海に落ちたんだろうか。
「大丈夫、か?」
 大丈夫に、決まっている。
 教室に様子を見にきたということは、彼も知っているのだ。
 死んだ人間は生き返る。
 五体満足。なんの後遺症もない。
 鰐川は、一体何をしに来たのだろう。
 どうして、沈む釣井に手を伸ばしたのだろう。
 助ける必要なんてなかったはずだ。
 手を出したら死に物狂いの釣井が腕にしがみついて、一緒に海にひきずりこまれていたかもしれない。
 苦しんで死んでも、どうせ生き返って戻ってくる。
 痛い目に遭わせておけばいいじゃないか。
 そもそも、釣井なんて居ない方がいい。
 四人の中から釣井が居なくなるか、鰐川が出ていく。それが一番望む形のはずだ。
 触れたら痛むだけの関係。お互いの間にあるのは、軽蔑と嫌悪。拒絶と断絶。
 どんな言葉も届かない。だから手を伸ばすのを諦めた。
 それで決着が付いたじゃないか。
 今更手を伸ばされたら、また期待したくなる。
「そうやってチャンスがあるって期待させたら、また踏み込まれますよ」
 そしてまた好意を盾にして、人を傷つけるのだ。
「チャンス?」
 鰐川は首を傾げた。
 胃液で灼けた喉がカラカラに乾いていて、声が掠れた。
「オレと祥吾はもうおしまいなんでしょ。居なくなった方が、都合がいいのに助けてもいいことないですよ」
「……『期待』した? 『おしまいなんでしょ』?」
 確かめるように口に出されるのが苦しい。いまだに友情の残り滓にしがみつこうとしている執着を、糾弾されているようで恥ずかしい。
「お前は、終わらせたくない?」
 その質問には、答えたくない。
「だってもう、答えは出てるじゃないですか。オレは、踏み込むから嫌なやつで祥吾を傷つけるやつで、だから嫌いなんでしょ。どんなに手を伸ばしたって意味なくて、拒否されて、それでおしまいじゃないんですか?」
 間違えたのだ。大切な友達に、触る方法を間違った。付き合い方を失敗した。
 また友達なんて、叶わない夢だ。もう一度、痛い思いをしろと言われても耐えきれない。
 だから、もっと酷い言葉をぶつけて欲しい。
 触るなと言って。
 お前なんて嫌いだと言って。二度と顔も見たくないと、言って。
 祥吾のことを、嫌いでいさせて欲しい。
「オレは嫌な奴だからどんなやり方したって祥吾を傷つけるんじゃないですか。触らないようにして、近づかないようにしているしかないじゃないですか。それなのに今更……今更、なんで」
 こんなオレのこと、どうして助けようとしたんですか。
「忍、俺は勘違いをしていたんだな」
 鰐川が何をいうのか怖い。何を言われても、きっと傷つく。
「お前、俺のことが嫌いなわけじゃないんだ」
 顔を、上げた。鰐川が微笑もうとした。いつも人に見せる柔らかい笑顔ではなく、今にも感情が溢れて崩れてしまいそうな、ぎこちのない笑いだった。
「……そうだよな?」
 確かめるように、首を傾げて釣井を見る。
 何か言わないといけない。
 言いたいことを言葉にしてきちんと答えないと、また遠ざかってしまう。
 感情は言葉にしなければ伝わらない。
 わかっているはずなのに、言葉が出てこない。
 喘ぐ魚のように口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。
 堪えていた涙が溢れる。海水で濡れた手に、ぽたぽたと温かい涙の滴が落ちる。
 心が破れて溢れてしまう。ただ両目から涙が止まらなかった。
「忍は俺のことが嫌いだから、あんなことしたのかと思ってた」
 椅子に座ったまま立てないでいる釣井に、鰐川が歩み寄ってきた。
 両手を、しっかりと掴まれた。
「ごめん。傷つけたのは俺だったな、こんな俺のこと嫌いになればよかったのに。それならお前もこんなに辛くならないのに。……そうだよな、忍はそんな非情な奴じゃないって最初から知ってたんだ、俺は」
 あのとき、届かなかった指先が釣井を掴んでいる。
「ごめんなさい」
 鰐川が頭を下げた。
「ちが、オレが……」
 声を出してしまった瞬間に嗚咽が止まらなくなった。もうまともに喋ることなど、できはしなかった。
「オレが、ひどい、こと、たくさ……ゔ」
 謝罪の言葉すらも届かなくなっていた人が、手の届く場所にいる。この手をつかんでくれている。
「ごめんなさい。ごめんなさい祥吾」
 鰐川の両手を握り返す。
 何度も何度も、ごめんなさいを繰り返す。こんな言葉では足りない。
 いくら謝っても足りない。
「俺のことが好きだから知りたかったんだよな、俺が隠してることも全部、知っておきたかったんだよな。何かあったら助けられるように」
 釣井が鰐川を助けられるわけがない。ただただ傲慢だった。自分勝手だった。
「忍、俺は、お前みたいなまっすぐに意見を言って来なかったからさ、……怖かったんだよ。なんでこんなことするのか、わからなかった。楽しくない俺を知ってどうするのかな、って、……不安だった」
 釣井には相手を受け入れることも待つことも、できていなかった。
「ありがとう、忍。俺を好きでいてくれて」
 それなのに、鰐川は釣井を許してくれる。
「いいんですか、オレ楽しいやつじゃ、ない……嫌なやつなのに。祥吾にもう一度、触っていいんですか。隣にいてもいい?」
 に、と口角を上げて笑う。
「俺も楽しくない嫌な奴だったろ……良いんだよ。お前の隣にいさせてくれ」
 どうして、受け入れてくれるの。
 言葉にならない問いを、伝える必要はない。
 しっかりと釣井を抱きしめる腕が、全ての答えだった。

◇◆◇


 海に沈んだ学校は昼間でも薄暗いから、人がうずくまっていると何か恐ろしいものがいるのかと思ってたじろいでしまう。廊下にいるのは鰐川だった。
 頼りなさげな後ろ姿で、床を探るように手を彷徨わせている。またコンタクトレンズを落としたらしい。
 今はその背中に、躊躇いなく話し掛けることができる。
「……祥吾、大丈夫ですか?」
 レンズを踏まないように気をつけながら近づいて、隣にしゃがみ込む。
 声で釣井だと気がついた鰐川が、肩に寄りかかってくる。
「忍……また目を落とした」
 すごく情けない顔をしてる。
「ふふ、仕方がないですね祥吾は」
 コンタクトがないと、急に弱い鰐川になってしまう。あるいは、周りが見えていないときだけは、素直に甘えられるということなんだろうか。
 その件について、釣井はもう無理やり語らせることはしないし、追及もしない。
 と、思っている。
 床が暗いから、スマホのライトで照らしてみる。
「……昔のこと、思い出しますね」
 二人が友達になる前のこと。友達だったときのこと。
「忍が一番多く、俺を助けてくれてるかもな」
 吐息を漏らすような、笑み。
「一番……」
 傷つけてるんですよと、言いそうになったのを飲み込む。
 泣きそうになり、乱れかけた息を呼吸を止めて押さえつけた。
 一番傷つけたのに、許してくれた。だから、また隣に居ることを許されている。
 釣井の顔は見えていないはずだ。息が乱れたことは伝わってしまっただろうか。
「あれから、ちゃんと寝れてるか?」
 鰐川の手が背中を軽く叩く。
「たまに、寝てますよ」
「たまに? 毎日ちゃんと寝ろ。……わかった、今日は添い寝してやる」
 それは、嬉しいけれど上村が嫉妬しそうだ。もっと、そういう一面を見せればいいのにと思う。
 そうやって求められることを、きっと今の鰐川は嫌とは言わずに受け入れてくれるし、手を握ってくれるだろう。
「あはは、それオレが怒られそうだな。それとも、祥吾のために怒ってる空人が見たいんですか? それなら、悪戯してあげますけど」
「怒るか?」
 首を傾げたあと、鰐川は何かを察した顔をした。
「……あぁ、やめておくか」
 ほら、やっぱり。二人はわかっていて傍にいる。
「ふふ。でも眠れないときは言えよ。俺も結構夜更かししてるから付き合える」
「じゃあ、いつか。今度でいいから、付き合ってください。みんなで屋上で夜更かししませんか。星がすごく綺麗に見えるんです」
 釣井と平と鰐川と上村の四人で。
「いいな、それ! 楽しそう。絶対やろう」
 屋上で寝るのも思ったより悪くはない。眺めがいいし、ずっと波の音が聞こえる。
 四人一緒だったら、きっともっと楽しい。

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