初めての剣術

その2

「おい、今日はもういいぞぉ」
 小麦を運んでいたギアの背中に親方から声がかかった。工房の中では、今年の醸造の準備をしている。ギアが運んでいる小麦はビール用ではなく、醸造の手伝いにくる人たちの賄をつくるためのものだ。結構な量があり全て運ぶのは一苦労だった。
 まだ日も高い内に家に帰されるのは、珍しいことだった。ギアの頭に、来る時にみた魚の銀の鱗がひらめいた。今から釣りに行けば、二三匹は釣れるかもしれない。
「はーい! わかりました」
「あとよ、帰りに酒場によってよぉ、金払えっていっといてくんねぇかな」
 そういうことか。酒場なら通り道だ。大変な仕事ではない。あそこの酒場の主人はいつもビールの代金を払わない。あるんだから出せばいい、と思ってしまうのだが、毎回出せと言われないと出さない困った人だ。
 数時間前に通った道を、引き返す。また、魚の鱗が光った。日差しのなか振り下ろした刃みたいに、それは鋭く見えた。二つの道が交わって、民家が見え始める。軒下で犬が寝ている。洗濯物を取り込んでいる女の人が、走り抜けるギアに驚いて振り向いた。
 扉を開けて薄暗い酒場に入る。日暮れと違って驚くほど静かだ。まだ全ての椅子があげられていた。
 と、思ったら違う。カウンターで一人、男が酒を飲んでいた。髪の毛のすべてが真っ白に染まっていたが、後ろ姿はがっしりとして年を感じさせない。ギアが入ってきたのは分かっているはずなのに、彼は振り向かなかった。
「店主、客が来たようだぞ」
 カウンターの奥に声をかけると、手を拭きながら店主が出てきた。どうやら裏の井戸で洗い物をしていたらしい。
「こんな時間にお客さんなんて、珍しいですね」
「ああ、この人は夜が仕事だからね。まあ古い付き合いだから特別に飲ませてるのさ」
「これから仕事なのに、飲んでていいんですか?」
「酔っていた方が、眠気が冷めるのさ」
 冗談まじりに杯を掲げてみせた客は、いうほど酔っていないようだった。ギアは、白髪の男が腰に差している剣に気がついた。兵士だ。
 兄に聞いた老剣士の話を、思い出した。年を経ても未だ衰えを見せぬ体力と腕前で、仕事の合間を縫って行われる剣の指導は、誰よりも厳しいのだという。
 彼だったらどうしようという思いが一瞬よぎったが、やましいことをした訳でないし、兄が粗相をした訳でもない。なにも気にすることはなかったのだと思い直して、カウンターの前まで進む。
「そんでなんのようだ、ギア。お前まで開店前に酒が飲みたいわけじゃないだろ」
「あ、はい。親方が代金を早く払えと」
「あー、悪い悪い。いや、忘れていた訳じゃないんだが」
「確信犯なら、尚悪いな」
 店主は困ったように頭をかいて、白髪の男にもう一杯ビールを差し出した。
 白髪の男がギアをみた。思わず気圧されてしまうような雰囲気がある。顔に刻まれたしわは彼が生きてきた年月を物語っていたが、その面構えは老人というよりは歴戦の猛者だった。
「店主、この青年は飲めるのか?」
「しらないね。どうなんだ」
「ビールは、まだ苦手です」
「っかー! ビール職人がビール飲めないでどうすんのかねぇ」
 店主は、大仰にため息をついた。飲めないことはない。きっとこれから酒の旨味が分かるようになるのだ。兄は、旨そうにビールを飲む。男はみなあのくらいの年になるころには、仕事終わりに喉を鳴らしてビールを飲むようになる。ギアは自分がそうなることを疑いもしなかった。
 老剣士は、隣の椅子を降ろしてギアの方に押した。仕事も終わっていたし、断る理由もなかったのでギアはそこに座った。
「兵士の人と知り合いなんて、なにか悪いことしたんですか」
「人聞きがわるいなぁ! 俺はこれでも昔、兵士を目指してたんだぞ!」
 とても本当のことには思えなかった。こんな脂肪だらけの体では素早く動くどころか、敵にビールの樽のように転がされてしまうだろう。
「そうだったな。今となっては古い夢だが」
 男は空になった方のジョッキを差し出しながら、店主に笑いかける。店主は恥ずかしそうに笑うと、ビール腹を撫でた。ギアの前には水の入ったコップをおいて、考え事をするように虚空を眺めた。その顔は昔の出来事に思いを馳せているようでもあったが、みようによっては支払いの滞ったいい訳を考えているようでもあった。
 老剣士は笑みを浮かべてその顔を眺めていたが、不意にギアに視線を移した。まっすぐにその目を見返すと、心の内まで見透かされるようで、ギアは店主のほうを見ることにした。
「誠実な顔をしている。きっと親方よりもいい酒を造るようになるだろう」
「親方にいったら、嫌な顔をされそうですね」
「わかった俺から伝えておこう」
 にやにやと笑う髭面から視線を外して水をすする。誠実さは、酒を造る上に必要なものだとは、思えない。酒がもたらすのは、もっとおおらかで自由な感じがするし、親方も酒のような人間だった。誠実なビールというのが、ギアには想像できない。
 三人は暫し、各々の考え事で口を鎖した。
「もしかすると君の兄は、兵士だな」
 懐から財布をとりだすと、硬貨を数枚カウンターに置く。店主は片手を上げてそれに答えた。
「はい。あの、兄はどのくらいの」
「君は剣を持たないんだな」
 ギアは、老剣士をみた。その顔はごまかしを許さない。
 剣を持たないのか、と尋ねられたことは何度もある。その度に適当な受け答えをしてきたが、こんな風に自分は剣を持たない人間なんだとはっきりと言い切られたことはない。とっさに否定したくなったが、嘘しか生まれないような気がして口をつぐんだ。
 店主はカウンターの硬貨を数えると、もう自分には関係ないと言わんばかりに裏に引っ込んでいった。
「剣を持たないか」
 しみじみと口にした老剣士はようやく年相応に見えた。厳しく責め立てられているように感じていたギアは、突然目の前にいるのが孫に相手をしてもらえない老人のように見えて、申し訳なくなった。若者が剣に興味を持っている所を示せば、気持ちも少しは晴れるだろうと考えて、嘘にならない範囲で彼に調子を合わせることにした。
「持たない、と決めている訳じゃないんです。ただ、僕には機会がない」
「ふむ、そうか。ところで今から少し年寄りに付き合ってくれるか」
 どうやら、余り興味のない話題だったようで、反応は思ったほどよくなかった。
「仕事も終わってるから構いませんが、何にです?」
「これだよ、これ」
 彼は笑いながら腰の剣を叩いた。

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