初めての剣術

その1

 実りの時期を迎えて金色に揺れる小麦畑。
 光が眩しすぎて滲む景色をかき分けながら、丘の上を目指してまっすぐに走っていく。向こう側に沈もうとしている太陽が、完熟したトマトみたいに真っ赤に色づいている。
 楽園のように、世界は美しい。
 手足は軽く、走るギアはいつの間にか風になっている。たわわに実った麦の穂が、頭を垂れて波をつくる。
 落ち穂拾いが始まる頃、景色は一変するだろう。
 そしてギアのビール職人としての、最初の年が始まる。
 夜の酒場の、男達の声。
 口のまわりにヒゲのようについたビールの泡。ソーセージを焼く匂い。兵士が仕事終わりの一杯を飲み干すのにあわせて、喉がなる。誰も彼もその味を疑いはしない。家に残した妻よりも、金を貸した友人よりも、彼らが信頼しているのは一杯の酒だ。
 いつまでも消えない酒場の明かりは、時に旅人の目印になる。
 誰に聞いた話だっただろう。嵐の日に、突然酒場に飛び込んできたという旅人と、会って話はしたことはない。
 突然、水に落ちた。
 また、流れていた風景が静止する。
 小麦畑は日が暮れて、楽園は消えた。賑やかな酒場の情景は頭の隅に消え去り、目の前にあるのは薄暗い田舎道。
 風のように軽かった体は泥に沈んだように動かなくなる。遅々として前に進まない体。緩やかにしか動かない手足。まわりの景色が流れ始める。丘がどんどんと遠ざかる。違う、体が後ろに流されているのだ。
 今日も、丘の向こうにたどり着くことはなかった。

「ギア! ギーア!! いつまで寝てんだい!」
 フライパンをめちゃくちゃに叩く音で、夢から覚めた。母親が怖い顔をして見下ろしている。
 ポートレイトの中の母は、美人とはいえないまでもすらりとしている。しかしギアが物心ついた頃には、もうそのときの面影はなかった。
「おはよう」
 階下に戻っていく背中に、寝ぼけ眼で朝の挨拶を絞り出す。隣のベッドは既に空で、冷たくなっていた。
 ベッドの温度を確かめようとした手、床に降ろした足。きちんと動く。
 まだ小麦畑が金色になる季節ではないし、丘に続く道は川のように人間を後ろに押し流したりはしない。
 夢の中でだってもがけば、もがいた分だけ疲れる。目が覚めると同時にどっと押し寄せてくる疲れに、ギアは深いため息をついた。
「早く行かないと、親方さん待ってるでしょー!」
「すぐ行くよー」
 手早く着替えて、階段を駆け下りる。家の中には母親と、幼い妹しか残っていなかった。
 テーブルの上に一人分だけ残っていた朝食をかき込むと、外に飛び出す。扉の前でたむろしていたガチョウが、大騒ぎをしながら逃げていく。食器も片付けないで飛び出したギアの背中に、母親の怒声がぶつかった。
 昨晩の雨で少しぬかるむ地面に、足を取られないように端の方を走る。
 ギアは今年、ビール職人に弟子入りする予定だった。
 小さな村の酒場に毎年ビールを供給していた工房は、醸造をした酒を造った傍から飲むことにかまけていて、跡を継ぎができなかった。ギアの家は貧乏で、息子二人を育て上げたら娘を嫁に出す金がない。子供たちの知らないうちに二つの家の間で、その取引が成立していた。
 そうはいっても一代で築き上げた工房を、どこの馬の骨とも知れない小僧にそのまま譲ってやる訳には行かない。条件は今年一年、手伝いをすること。もちろん、醸造には関わらせてはくれない。この一年、ギアがやってきたのはお使い程度の雑用だった。
 人柄を見られていたのだと思う。親方は言葉遣いは優しくないが、けして悪い人間ではないし、疑り深い人間でもない。父親に比べて口数が多くて、酒飲みらしい歯に衣きせぬ物言いなどは好きだった。それなのに、ギアをビール職人にするかどうかについて聞くと、言葉を濁すばかりだ。次の小麦の収穫が始まるころが、約束の一年目だ。
 その時というのは、なんとなく過ぎているような気がしていた。いつ、と告げられるのではなくてなんとなく。新品だった道具がいつの間にか手に馴染むように、気がついたらギアはビール職人の弟子になっているのだろう。
 村に一つの酒場の前を抜けて、小麦畑にでる。まだ青々としているが、穂は一粒一粒が確実に膨らんできていた。
 小麦畑の中で道は二本に別れる。一つは小川を越えて、工房へ。もう一つは、丘を越えて大きな河の近くにある練兵場にいくことが出来る道だ。小川も丘を迂回するように流れ、その大河と合流する。大きな舟が行き来することができる川で、いつも水は濁っていて底が見えない。
 兄は、練兵場に通っている。国境を警備する兵士の詰め所をかねている砦で、いずれは兄も兵士としてそこで働くことになる。ギアがいつのまにか、ビール職人になるように。
 ギアは、右に曲がった。練兵場に用はない。
 小川にかけられた橋を渡る。ギアの気配に驚いて、魚が身を翻して逃げた。日の光を反射して鱗がきらめく。濁った水の大河ではナマズがよくつれるけれど、こうした小川で釣れる魚はもう少し身が引き締まっている。今度釣りに行こう。工房にいくようになってから、暇がなくてすっかり遠ざかっていた。ギアに釣りを教えたのは兄だったが、兄も練兵場にいくようになってから、釣りから遠ざかっているようだった。釣り竿は長らく物置で眠っている。
 工房にいくと、親方は眠い目をこすりながら出てきた所だった。

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