初めての剣術

その3

 小麦畑はいつもとかわらずにさざめいていた。いつもと同じ道を、人に案内されながら歩く。工房に初めていったときのことを思い出す。分かれ道に差し掛かる。丘の向こうには練兵場がある。そう思いながら、ギアはいつも小川を越える道を取っていたものだ。
「酒場の主人と、君のとこの親方は古くからの知り合いだった」
「知ってます。だから、支払いが多少滞っても許すんですよね」
 結局は払わせるんですけど、と付け加えると老剣士は笑った。
「そうそう。彼らは私の所で知り合ったんだ。余り出来のいい弟子とはいえなかったがな」
 それは、初耳だった。でもギアの知る限り、親方は若くしてビール職人を目指したし、酒場の店主は随分昔に親の仕事を継いで、カウンターの向こう側に収まっていたはずだ。兵士になる夢は、長続きしなかったんだろう。
「お前の兄は、優秀だぞ」
 前を歩く背中は、力強くギアを導いていく。緩やかな坂を上りきると、川とそこにかかる大きな橋がみえた。深い色をした川の手前に、練兵場が重々しくそびえている。塔の上には蒼天に溶けそうな色をした旗が、風に吹かれていた。大きな建物だが、その割に窓や入り口が小さい。あれでは息苦しくないのだろうか。
 ギアはその疑問を口にしてみた。
「窓や入り口が大きければその分、敵が攻め込みやすい。あそこは本来、防衛のための砦だからな」
「そうなんですか」
 ギアが生まれてからは一度も、戦いらしい戦いは起こっていない。だから物心ついた時からあの場所は、若い兵士を育てるための練兵場で、国境警備の兵士の詰め所だった。兄は練兵場でのことを余り話さないから、中がどうなっているのか知らない。だが、どこかに訓練をするべき広い空間があるはずだ。
 案内されるままに、狭い扉から中に入る。中の通路も狭く薄暗い。確かに攻め込みにくそうだ。滅多に入らない建物に入れたのが物珍しく、あたりを見回しながら歩いていると急に視界が明るくなった。
 手のひらで目を庇い、明るさに目が慣れてくるのを待つ。
 そこは中庭だった。数人の若者が鍛錬に励んだり、隅の方でたむろしたりしていたが、指導役らしい大人の姿もちらほらと見られた。ギアと老剣士が姿の姿を見ると皆一様に動きを止めて、何事か囁き合った。
 ギアと目があう人もいたが、大多数は前にたつ老剣士の方を見ていた。兄が話題にあげるだけのことはある。やはりただ者ではないようだ。
 彼は、練習台のカカシの前にたっていた青年に声をかけて模擬剣を受け取ると、ギアに手渡した。手渡された模擬剣は木製だったが、ずっしりと重い。
「さて、国境警備隊小隊長のバッセルだ。君は、ギアだね」
 ここでようやくギアは老剣士の名前を知った。
「構え!」
 自己紹介など無意味とばかりに、バッセルの鋭い声が飛んだ。慌てて模擬剣を握り、見よう見まねで剣を構える。たとえ模擬剣であっても武器を持ったことなど一度もなかった。直ぐにたたき落とされる。じん、と手が痺れた。
 唖然として、痛む手と落ちた剣を見ていると、叱責された。すぐに落ちた剣を拾い直して持ち直す。
 後ろから笑い声が聞えて、顔が赤くなる。あの声の中に兄も混じってやしないだろうか。気になったが、バッセルの前で後ろを確認するなんて出来る訳がなかった。
 握り方、重心、姿勢、視線。考える隙も覚える隙もない。ひとときでもじっとしていたら怒鳴られる。どこが悪かったのか分からないままにとりあえず、持ち方を変える。結局どれが正解で何が不正解なのかわからないままに、言葉は次にうつっている。ようやくそれらしく構えができたときは、汗だくになっていた。持つだけで、必死だ。
「打ち込み!」
 ようやく構え方に指導を入れられなくなったのに、休む暇もない。ふらふらの体を引きずって、カカシに模擬剣を叩き込む。思ったより固くて、手が痺れた。
 また檄が飛ぶ。すでに、笑い声なんて、気にならなくなっていた。
(あ、これ。あの景色だ)
 体がうまく動かない。水の中にいるみたいに空気が絡み付いてくる。景色がだんだん滲んでくる。見本を見せるバッセルは、木の棒でも振り回すように軽々と剣を操る。
 ぐるり、と視界が回った。視界一杯に青い空が見える。体が急に重くなったと思ったら、今度は羽のように軽い。
 丘の上から見たときはあんなに小さく見えた旗が、中庭から見上げると案外大きい。
「大丈夫か?」
 バッセルの声が遠くなって、ギアは目の前が真っ白になった。

「ギア、起きろ。ギア」
「って、夢オチ?!」
 飛び起きたギアは、顔を覗き込んでいた兄の顔面と衝突した。二人はしばしの間、顔面を押さえてのたうち回った。
 ギアが横たわっていたのは中庭が見える一室で、少々混乱したあと自分が置かれている状況を思い出した。体中が痛い。
「兄ちゃん、なんでここに」
「こっちの台詞だ。バッセル隊長についてきたかと思えば、ぶっ倒れる。工房はどうした」
「早く終わったんだよ。僕、どのくらい倒れてた」
 兄は壁にかけられていた時計をみた。
「まあ、ほんの十分くらいか。もう充分だろ、帰るぞ」
 兄は、ギアを連れて外に出た。バッセルと違って見習いの兄は、剣を佩いてはいない。それでも複雑な砦の中を迷いなく進む兄は、兵士と同じくらい頼もしく見えた。
 何十時間も剣を振り回していたように思ったのに、実際にいたのはほんの一時間くらいのことだったらしい。まだ日も暮れていない。太陽はようやく傾いてきた所だった。あんなことを一日中しているなんて、ギアにはとても耐えられない。
「お前、兵士になるのか」
 兄の声には色がなくて、質問の答えにも余り興味はないんじゃないかというような気がした。それでも無視する訳にはいかないので、ギアは答えた。
「ならないよ。むいてないし、俺、工房があるから」
「そうか」
 やっぱりあまり気のない返事を返された。
「兄ちゃんは毎日、あんなことしてんの」
「毎日ってわけじゃない。あんなに厳しいのは隊長だけさ。俺はそっちの方がありがたいけど、忙しいから毎日は相手をしてもらえない」
「そっか」
 ギアなら、優しい師匠の方がいい。工房の親方のように、ぶっきらぼうだけど自分をちゃんと認めてくれるような、そんな人がいい。
「でも、顔と名前を覚えてもらえるくらいにはなった」
 その声は、少し誇らしそうだった。
 バッセルも、兄のことを褒めていた。そのことを伝えようと思ったが、余計なお世話だと思ってやめた。
 小麦畑は夕日の色に染まっている。一瞬、収穫の季節を迎えたのかと錯覚しそうな色をしていた。兄も、ギアも小麦と同じ色に染まっていた。丘を越えて分かれ道に差し掛かった所で兄は足を止める。それに気付かずに数歩歩いたギアだったが、自分の足下に兄の影が長く落ちているのに気付いて後ろをみた。
 逆光になって表情は見えない。黒いシルエットが、ギアの方をむいている。
「今度は寄り道しないで帰れよ」
 寄り道した訳じゃない。酒場によったのは仕事の内だし、その後のことは、断りようがないことだった。
「兄ちゃんは?」
「俺はまだ、することがある。折角隊長が戻ってきてるんだし、稽古つけてもらわないと」
 そういうと、兄はさっさと歩き出してしまう。たった一回の稽古でへとへとになって、もう二度とやりたくないなんて思っているギアとは大違いだ。
「兄ちゃんみたいに才能ないみたいだから、羨ましいよ」
 兄が振り返った。後ろには、熟れたトマトみたいに赤い太陽がある。光に照らされた小麦畑も、真っ赤に染まっていた。
「才能じゃない」
 怒りすら感じるほどの強い口調だった。いや正真正銘、怒っていた。ギアは兄を追って、慌てて引き返した。
 陽に染まった小麦が揺れる。いつか夢に見たような景色。体は重かったが、丘を目指すギアを押しとどめるものは何もない。
 奇妙な高揚感に包まれながら丘を駆け上がった時、ギアはずっと自分が追いかけていたものの正体を知った。
 そこには、ひたすらに走る兄の背中があるだけだ。こちらは、ギアの歩く道ではないのだから。
 無意識にその背中を追いかけていた。ずっと兄に憧れていたのだ。
 家の事情に言い訳をして、ギアは一度も自分からビール職人になりたいといったことはなかった。どこかで兵士になる兄に憧れていて、自分も剣をもつ機会があれば、兵士になれるんじゃないかなんて考えていた。でも、ビール職人なんてやめて兵士になりたいともいわなかった。うまい具合に運命が回ってくれば兵士になれるかもなんて思いながらも、本気で剣をもつ勇気も根性もないことが分かっていたのだ。
 ギアは走った。丘の向こうではない。分かれ道で町ではない方の道へまがり、小川を越えると、親方のいる工房が見えてくる。
「親方!」
 飛び込んできたギアをみて、親方は随分と驚いたようだった。
「どうした、そんなに慌てて。あの野郎とうとう夜逃げでもしやがったか?」
 今まで兄とバッセルにあっていたギアは、どちらのことをいっているんだと考えてしまった。どちらのことでもない、酒場の主人だ。そういえば酒場の主人に言づてを頼まれたのが始まりだった。
「そういえば、親方と酒場の店主、バッセルさんの弟子だったんですね」
 親方はバッセルの名前を聞いた途端に、渋面になった。厳しい稽古のことを思い出したことは想像に難くない。ギアも釣られて思い出し、体の節々が急に痛みを増したような気がした。
「なんだ、その顔。お前もまさかあの人に指導されてきたのか」
 ギアは苦りきった顔で頷く。親方は不意に真面目な顔になった。屈んでギアと同じ高さに目線をあわせた。
「本当は兵士になりたいのか。なりたいなら、俺は止めねぇよ」
 本当に止めはしない。親方はそんな嘘をつくような人間ではない。だが、ギアが走ってきたのはそんなことをいうためにではなかった。
「いえ、僕をビール職人にして下さい!」
 勢いよく頭を下げると、かがみ込んでいた親方と、頭がぶつかった。つい最近こんなことがあった気がする。そんなことを思いながら額を押さえてうずくまっていると、親方のうめき声が、おもむろに大笑いに変わった。
「いきなり何言いだすかと思えば! 頼まれなくたって、お前は俺の弟子だ! 一人前の職人にそだててやらぁ。そんで、お前はどんなビールがつくりたいんだ」
「僕は兄が、仕事から帰ってきて飲む、一杯のビールを造りたい」
 こちら側もちゃんと道が続いているんだと、伝わるように。
 きっとギアはもう、丘を越えたりはしない。

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