ある時、天に弓があるのを見た。
浮雲のような色をした弓は、自然に空に透けていくと思っていた。
抜けるような青色に浮かぶのは、天の生んだ不思議。輪郭の鮮やかな雲に違いない。
そう思いながら、花は月を月と知らずに眺めていた。
満月のように丸い花を咲かす花は、朝顔といった。
朝顔がいるのはある民家の軒先だった。芽を出したときは指の先ほどの大きさだった朝顔は、今では簾のように民家の東面を覆っていた。
特にその意味について考えたことはなく、力を蓄えながら伸び夏がくれば花を咲かせた。
花は人ではない。生きる環境さえ整っていれば、文句をいうようなことはしなかった。もちろん生きる意味など、淘汰ことなどない。
ぼんやりと目を覚まし、起きて数刻眠りに落ちる。昼が来ると、あまりに明るく目がしょぼついた。
何が違うということはない。短い夏を過ごすには、時折花開き、葉いっぱいに光を浴びていればよいのだ。そして種をはぐくむ。その地味な色合いの輝かしい命の粒が、あるいは生きる意味というものであったかもしれない。
白んでくる東の空を眺めて、まだ朝顔はまどろんでいた。空色の花はいまだ開かず、まあるい花は西洋の傘のように折りたたまれていた。
力強く伸びた蔓を震わせて、朝顔は目をさました。
そして天に目をやった花は、その緩やかな弧を描くものをみつけたのだ。
いずれ消えてしまう雲の形だろう。今のうちに目に焼き付けよう。朝顔はじっとそれを見つめた。しかし、それは消えなかった。
不思議なこともあること。あの雲はいつまでたっても崩れないよ。
しみじみと呟いた朝顔の上に、甲高い笑い声が降ってきた。とよから一匹のカヤネズミが顔を覗かせていた。つややかな褐色の小動物は腹ごしらえをしているようで、青々と力強い葉っぱには、しばらく種子の殻が降り注いでいた。
とよに届く朝顔の巻きひげをネズミはつかんだ。齧られはしないかと朝顔は気を揉んだが、カヤネズミは支柱を伝ってするすると下りてきた。まん丸に開いた薄青い花の際まで下りてきて、ひげについた食べかすをとって丹念に掃除した。
「あれは雲じゃない。月よ」
小さな鼻面を自慢げにひくつかせた。長いひげが花をくすぐる。
「今はああして白い。宵になると本当に美しく・・・」
カヤネズミの言葉はそこで途切れた。人の気配を感じたネズミは、次の瞬間消えていた。
月はもう見えない所に流れていた。日光に葉を広げながら、朝顔は物知りな小動物の言葉を思い返していた。
宵になると美しい。
あの消え入りそうな弓張りは美しくないというのだろうか。雲は清く白い。清いと美しいは違うのだろうか。日は眩しいが美しいとは違う。それに日は生きる糧で美しいとは思えなかった。
自分の咲かせる花こそが、一番美しいのだ。美しいからその形で咲いているのだ。美しくなければ折角の花も無駄になってしまう。
しかし、月というものは美しいという。朝顔への配慮を欠いたネズミに。美しいといわせるくらいに。何がそれほどまでに心を惹きつけるのか、花には分からなかった。
だが、天に浮かんだ美しい弓の形が、胸に焼き付いて離れなかった。
果たしてネズミの言ったことは真だろうか。
宵になると、あれはさらに美しくなるというのだろうか。
そうであるなら、見てみたい。夜に咲く花なればその美しさをみることができるのだろうか。
やめておけ。
重々しく口を開いたのは、庭の隅の梅ノ木だった。それを皮切りにざわざわと声が沸きあがる。
やめておけ、やめておけ。
身の程知らず。
身の程知らず、身の程知らず。
日の恵みを受けながら月を望むか。あれも、恩恵を受けるものぞ。
花は身を枯らすような怒りに震えた。
身の程知らずなものか。茶色のネズミが目にできるのに、花にできない美しさなどあるはずがない。
花は葉陰に身を寄せてきた夜の虫に尋ねた。
月とはどんなものか。
小さな虫は言葉を知らず、しかも月のこともよく知りはしなかった。
花はカヤネズミを恋しく思うが、あの手の生き物はあまり昼間に見かけなかった。
「ひかる。猫の目。動く」
ああ、猫の目は動くさ。だって猫は動くもの。
虫が抗議の羽音を上げたが、生憎と花は虫の言葉を知らなかった。かわりに、やはり虫に尋ねたのは間違いだったと思い始めていた。
羽虫の文字通り蚊の鳴くような呟きを聞いているうちに花は眠くなってしまった。気付けばもう太陽は随分と高い。
ミチカケ。
寝惚け眼で、花はその言葉を聞いた。
月の名か?いや、月は月だ。
「ミチカケ」
羽虫はそう鳴いた。この小さな羽虫の名か。そうでなければ、この虫は花をミチカケと名づけたのだろう。ミチカケ。ミチカケ。うん、悪くない。
眠る花の上で、羽虫はしばらくミチカケと囁いていた。
細く細く。月が欠けてゆく。
朝顔が目を覚ましたのは、東の空が白むころだった。空を見たが月はなかった。夜に目覚めるつもりがすっかりと寝過ごしてしまったようだ。
なんとしたこと。これでは月にいつまで経っても会えまい。
花は、羽虫を呼んだ。羽虫は丸い花の奥に入って蜜を吸おうとしているところだった。花は羽虫に呼びかけた。
今晩。今晩こそ月を見よう。例えこの身が枯れても構わない。もう十分に花を咲かせただろう。蓄えた力を今日の晩に使おう。
丸い薄青い花をごらんにいれてみせよう。
ざわざわと庭は騒がしい。
「月、ミチカケ。月、欠け。まだ、欠け」
羽虫の小さな声は庭木のざわめきに消されて届かなかった。
日が暮れる。
花は朝にしか開かない筈の花をゆっくりと開いた。
全ての蔓の全ての蕾を開かせた。
カヤネズミが視界を掠めたが、もう小動物に用はなかった。その足元には、短い命を終えた羽虫が転がっていた。小さいネズミは小さい虫など気にも留めなかった。
薄雲のような、弓のような、月という方をしかとこの目に納めよう。
烏瓜がなんともいえず美しい、白く可憐な花を咲かせて朝顔を嘲笑った。あの闇に浮かぶ烏瓜に比べたら薄青い花は何と貧相なのだろう。人知れず赤面するがその目を天から逸らすことはなかった。
夕闇の中では、薄青は今にも黒に溶けてしまいそうだ。
しかし、花はじっと待った。月はいつ現れるのか。いつ美しく変わるのか。
愚かな花よ。今日は朔の日だというのに。
茶色い小動物は花の根元まで来て独り言つ。
花は終にその意味を悟ることはなかった。
黒く沈んで闇に溶ける月は、地上の花には目もくれない。
取るにたらぬ花の弔いをするものなど、地にも天にも居るまいよ。
理を曲げた咎か、花は実を結ぶ事無く果てたという。