月下に花が咲いた。
僅かな数の、夜の深さに溺れてしまいそうな花が、月の前に侍る。
華やかな昼から居こぼれて、夜中に居場所を見いだしたようだ。
空薫物の来る方も行く方も知らぬ香りが、静かに天宮を満たしている。そのたゆたう香りの筋を嗅ぎ取って男はおもむろに目を開けた。
物語をする声もなく、陽の君がいる時のように明るく軽やかな空気はない。夜だから寝入っているのではない。ただ全ての言葉とやり取りは密やかで、物静かな性質のものばかりが揃っているのだ。ただ、静かであるだけでその実ひどく灰汁が強い。
「お休みになられたのですか?」
脇息に凭れていた体を起こし、烏瓜に目を向けた。色白く繊細な美しさをもっているのに、その実とても強かで下衆の身の様な図太さを持った女なのであった。
扇で隠した顔は笑っているということは、よく分かっていた。布ずれの音と遠慮がちな足音が廊下を渡ってきた。
「待宵草、あなたによ」
「私?」
貝覆いをしていた待宵草は少し気だるげに振り向いた。心当たりがないのだろう。不満げに座を烏瓜に譲って真夜中の客人に合うために歩き出す。
「どなた? こんな夜更けに」
「朝顔と名乗る女房にございます」
「人を使えばいいのに、一体何?」
待宵草はますます訝しさに眉をひそめた。月はそちらに目を向けた。
「ご存知ですか?」
烏瓜は目敏くそれに気付いたようだった。
「いや、思い当たらない。誰だ?」
「陽の君にお仕えしている方です」
「ふん、陽の君か」
明るく快活とした男だ。女なら誰もが憧れる、と聞いている。それに仕える女は、自分のもといる女とは比べ物にならないという噂も聞いている。興味も持ちたくない。それにその朝顔とかいう女が、待宵草に勝っているとは到底思えなかった。
待宵草は静かな女だった。歌の才もあり容貌も悪くない。しかし、そのひかえめな性格ゆえか、殿上人の間で話は上がらない。望めば陽の君の元で仕えることも可能だろう。
なぜこんな影のようである場所に居るのか。
互いの間に恋慕の情はなく、特別な義理もない。
灰汁の強い女ばかりが集う月の元で、彼女だけが異質な存在であるのに誰も気付かないほどに、待宵草は物静かであった。
着物の裾が滑っていくのを見送ると、男は欠伸をかみ殺した。
「おい、そこにある貝をもて」
几帳の下から差し出された貝を、扇を使ってよけていくと、一つ、恋物語が描かれた貝を選び出した。結ばれぬ男女の悲恋が、目についたのだ。
「この貝を題に歌を詠め。待宵草を頼みとするな。たまには自分の頭を使え」
「まあ、月の君はほんに意地が悪くていらっしゃる」
忍び笑いの後、女房たちが頭を悩ませている溜息にも似た声が聞こえていた。
それが、去る十六夜のことである。
「待宵草」
天宮から下がっていたある日、烏瓜を始めとする女房がいなかった。
「他の者は?」
「月の障りで下がっております」
全員が一度に、か。
何かあったのだな、と月は推量する。浮ついた女房たちを引き付ける何かが。
「月の障りか。洒落ているのか」
しばらくの間の後、月見草は上ずった声で諌めた。しかし、烏瓜はそれくらいの冗談は平気で飛ばす女であったので、否定もしきれないのであった。
はたと、月は思い当たった。最近陽の君は庭で遊ばれる。それを見に行ったのだ。
天宮に入ることを許されるだけでも名誉なことであるのに、人の欲に底がないのは世の倣いであった。陽の君に仕えたいと願う女房は多く、またその姿を一目みたいというものも多い。
掃き溜めか、と月が自虐的に思うのも無理はないことであった。
「お前は、なぜ俺などに仕えている。こんな所にいても誰の眼にも留まらない。華やかな世界に憧れぬわけではないだろう」
待宵草は笑ったようであった。言葉を待って、月はゆるりとそちらへ目を向けた。彼女の静けさは、あるいは月に由来するかもしれない。だが、そのことに気付くほどに己を顧みた経験が、月にはなかった。
「殿方より、文を頂きました」
この美しい花を、いつまでも秘しおくことは叶わなかったらしい。徒花を咲かすだけかと思ったが、これで身の置場も漸う定まってくるだろう。
良かったではないか。心より祝福しよう。こんな所にいるべき女ではないのだ。もっと、もっと女としてできる限りのものをつかむことができるはずだ。
「返事は、どのように書いた?」
何か気の聞いた言葉を言おうと思ったのに、言葉にする前に霧散してしまった。
それは、いささか不躾な質問かとも思った。
「書きませぬ」
驚き、即座に問い返さぬくらいの穏やかさをその男は持っていた。受け取った言葉の意味をよく考え、彼女はそのような無礼をはたらく女では無いはずだということもしっかりと認証していた。
「気に入らぬ男だったか?」
それにしても、もらった手紙をそのままということもないだろう。
「けして結ばれてはならぬ縁であります。それゆえに、ただ知ってくださればいいと。けして返事は書かないでくれと」
その傲慢に、嫌悪を感じた。一体どんな人間にそんな我が侭を言うことが許されるというのか。待宵草はそんな我が侭に振り回されるような、つまらない女ではない。
「月の君、私は月見草とも呼ばれます。宵を待ち、月を見る。そのために咲くのが、私でございます」
不毛とは思いませぬ。想いを遂げることだけが、幸せではないのです。
ただ、思いそれを糧として私はここで月の君のためにお仕えします。
夢の中で私を訪れるといってくれる方が、おります。苦しいとも思いません。私は、あなた様の傍のこの静かな場所に咲くことを選んだのです。
待宵草は静かに語った。
「遂げられぬ思いがあるのは、同じだな」
声が小さすぎて、彼女には聞こえなかったらしい。彼女は互いに好きあいながら、歩み寄らぬ不毛な恋をしているのだ。
待宵草の思いは、月には向いていない。それが今よく分かった。向けようとは思わない。月の傍らに咲くことを選んだ彼女の心は、その男に向いているのだ。
華はまだ手の届く場所にある。それだけで十分だ。
月は目を閉じ、聞いていなかったふりをすることに決めたのだった。