主人によく似た静かな気配で、華が通り過ぎる。
風流人に愛でられるような人ではなかった。
ただ御簾の向こうのその所作に、香りに、声に、気がつけば惹かれていた。
始まりはなんだったのか。月の君と語らおうとしていた時であったと思う。和歌を詠ずる美しい声が、聞こえてきたのだ。
太陽の恵みを受けて、万物は生ず。
陽の光の元に居てこそ、花は美しい。
全て、全て。
一体どこにいらっしゃったのだ。あのような美しい姫をどこに隠しておられた。
愛されて、求められて、感謝されるのが当たり前だった。
驕っていたつもりはないが、きっと驕り昂っていたのだろう。
部屋の中へ篭ってばかりいては、御身に差しさわりがある。
そう進言され、久しぶりに庭に庭へ下りて花を愛でた。初夏の空気。生きる者たちが美しい季節であった。
和歌を詠んだり、飽きれば車で外に出た。満ちたりた時は、驚くほど早く行過ぎる。日暮れが近付くころ、屋敷へ戻る。
未練が残る足取りは自然と重くなった。
「・・・あ」
ちょっと足を止めるだけで、気をかけてくれる人がたくさんいた。何不自由ない暮らし。常に笑顔に囲まれて過ごす歳月はとても幸せだった。
ただ、不自由がないだけでは幸せではないのだ。
気付くのは、随分遅かった。
あの方を知らずに、なにを幸せと勘違いしていたのだろう。あの美しい人を知らずに、一体どこのつまらぬ姫と結ばれようとしていたのだろう。
「如何なさいました?」
朝顔を始めとする侍従たちが、自分の視線の先を追っていることに気付いて、慌てて目を逸らした。
「月の君だな」
誤魔化すようにいうと、朝顔が驚いたように声を上げた。太陽と入れ替わりで、天宮へ出仕する。その役割りも性格も正反対だから、政敵になるということはありえない。そういって周りの物は笑うのだが、正直な話どうでもよかった。
本当に目がいったのは、あの男ではない。
御簾の後ろのあの女性。月の穏やかな光は、御簾の向こうを進むあの人の姿を照らしてはくれない。
御簾の下から僅かに覗く着物の裾が、月の君に従って廊下を滑ってゆく。
取り付かれたように上の空で歩く渡殿には、僅かに香の匂いだけが残っていた。
ああ、月の君と合わせておいでなのだな・・・。
しめやかな香の匂いをかき集めて深く息を吸う。
それを人は疲れているのだと思った。柄になく溜息など。
あの方は、見向きもしない。意識も向けていない。その気配は分かった。あの方の目の先にあるのは、月の君ただ一人。
月見草。その後ろ姿を眺めることすら難しいというのに、思いを馳せてなんになろう。
早く床に着くように急かす者たちは、鬱陶しいので下がらせた。外では寝支度を整える音が聞こえてくる。
そっと虚空に手を伸ばしてみた。
一体どんな人なのだろう。
肌はきっと好けるように白い。
髪はどんな色だろうか。眼の色は、その面差しは?
月の君に仕えるものは、みんな物静かだ。それは廊下ですれ違ったときにも感じる。
それぞれに灰汁が強い女たちで、時折見せる振る舞いはとてもとても高貴な身分の女たちとは思えない。偏見か、それとも真実か。そういう話を聞いていた。
果たしてそうなのだろうか。あの美しい声で歌を詠ずる方が、そのような振る舞いをするとはとても思えない。
自分がいた場所に月見草は侍っているのだ。日の光がこの遮るものを全て焼き尽くすくらいに強かったなら、彼女の顔を見ることもできるのだろう。
太陽のこの明るさが、彼らには強すぎるのだ。彼らには、鬱陶しいのだ。だからきっと月見草も、自分の傍には来れない。来たら、その時彼女を枯らすのは自分自身だろう。
どうせ慕うなら、朝顔のような者にすればよかった。手の届く所にいる。すぐ傍に居てくれる。或いは天宮の君に生まれれば、せめてその顔を目にする事くらいはできただろう。
「香でもたかせましょうか?」
眠れない俺を気遣って、朝顔がそういってくれた。
そうだ、こんな物思いに沈んでしまう晩は、香をたくのが良い。
朝方、天宮に微かに残っている香は、あの方が選んだものなのだろうか。記憶に残る月見草の香の匂いを思い出し、それになるべく近いものを焚かせた。勿論、周りにそうとは気取られない。
その香を褒める言葉を聞くと、想い人を褒められたようで気分がいい。やがて、すぐに眠りの世界に落ちていった。
夜は過ぎる。やがて朝が訪れる。
太陽が朝の訪れを告げる。天宮に行かなければならない。もう少し早く行けばあの人に会えるのではないか。うっかりと時を間違えたふりをして早く行ってしまえばよい。そう思って、気が逸るのはさる夏の日のことだ。
早く行っても、それだけ早く月見草は退室し、月の光はそれだけ早く弱まるだけだというのに。
太陽は眩しすぎて、周りことなど顧みない。顧みる必要などない。
顧みては、いけなかった。
愛しては、いけなかった。
ただ、愛されて必要とされて居なければ、いけなかったのに。
「朝顔、月見草はどんな方だ」
それとなく聞いたつもりでも、朝顔の苦笑する顔を見れば自分の恋慕はとっくに知れているのだろう。気付いても他言をしないで居てくれる、その心遣いはありがたかった。他の者ならとっくに天宮の君の耳にも入っていることだろう。勿論、月見草にも。
遍く全てのものにその恩恵を授けなければならない太陽は、誰かに恋をすることはご法度だ。
一人を愛せば、他はその恵みを受けられずに死ぬ。
一人は、その光の強さに耐え切れずに死ぬ。
愛すならば、全てのものを。愛さないなら全てのものを。
太陽たるものの役目だ。
「美しい方ですよ」
私も良くは知りません。と、朝顔は答える。たしかに朝顔と月見草では顔を合わせる機会もそうそうあるまい。
月の君ならば、会えるだろうか。
「これは、月の方と同じ匂いですね」
するり、と朝顔の袂がくゆる煙を引き寄せた。血色の良い肌にさらに朱がさす。
ああ、と頷くと朝顔は訳のわからない弁解を繰り返した。
そうか、と心の中でもう一度頷く。
「朝顔、一つ頼まれてくれるか」
「はい?」
扇で顔を覆ったまま朝顔は顔をあげた。
天地を照らす陽ともあろう男が、なんとも呆れたことではないか。
ただひたすらに愛することを、不毛に思い続けることを怖れるなど。
それこそが、陽たるものの勤めであるというのに。
悩むことなどない。ただ思い続ければよかったのだ。朝顔のように、一途に。
「文を、な。届けて欲しいんだ」
想いを遂げようなどとは思っていない。
けして埋めてはいけない距離を埋めようなどとも、思っていない。
あの方は、よもや自分の思いに答えるほど愚かではないだろうから。
ただ、知って欲しい。
思い出してほしい。
覚えていて欲しい。
あなたを思う、愚かな男のことを。顔も知らぬあなたに思いを寄せた男が居たことを。
あなたの眠るとき天宮に侍る私は、きっとあなたの夢を訪れましょう。