【神の領域】

3,御神木の洞に棲むのは

 枯れて薄氷のように脆くなった葉を、何かが踏みしめていた。生物が、来た。運の良いことにそれは徐々にこちらに近付いてくるようだった。
 獣なれば、殺して喰らおう。
 人なれば、身包みを剥いでから喰らおう。
 先回、女の簪も飲み込んでしまったばっかりに、しばらくは美しい簪が醜い鬼の腹の底でごろごろと転がっていた。その不快感は耐えがたく、鬼にも効く毒草を少し齧り、ようやく吐き出したばかりだ。白金の細工が美しい簪は、女の髪を飾っていたときと同じ美しさで枯葉の上に転がっていた。それはおとりだった。
 それが例え白金の光に釣られてやってきたカラスだろうと十分に腹は満たせた。しかし、日が暮れて久しい。この暗闇でカラスは飛べまい。やってくるのが何であれ、体の小さい鬼の腹を満たすには十分だ。
 以前は人であったときもあっただろうか。
 子供が人を捨て小鬼に変わったその日から、俄かに皮膚は硬くなり歯や爪は長く鋭くなった。反対に背は大きくなることを止めたようで、人であったことを忘れるくらいに長い時を経ても小鬼は小鬼のままだった。
 小鬼が思いを巡らす間にも、それはぱりぱりと葉を踏みしめて近付いてくる。
 目を凝らすと、それは人だった。幼い人の子の女だった。
 ああ、ありがたい。女の子供の肉は柔らかい。
 美味い肉にありつくには、里まで下りなければならないと思っていた所だったのだ。思いもよらない贈り物だ。
 木の上に上って、馬鹿な人間の小娘がその下を通るのを待った。簪が光を反射して光ったのをみて、その女は足を留めた。始めは恐る恐る。しかしその正体が知れると小走りで簪を手に取った。簪の持ち主の縁者だったのかもしれない。いつまで経っても帰らぬ姉を心配した妹の姿なのかもしれなかった。
 鬼は木から飛び降りた。枝葉がガサガサと卑屈そうにうめく声がした。
 簪に屈みこんだ少女が驚いて小鬼を振り仰いだ、小さな体で隠れていた提灯の灯が目に突きささった。目を焼かれる痛みに唸りを上げて小鬼は飛び上がった。
 若い女悲鳴が、木霊した。
 ええい、黙れ黙れ。
 人の言葉を失った小鬼の声は獣のような呻きにしかならなかった。
 見えているのかいないのか、己でも分からないまま両手を振り回したが、爪は着物の裾を掠めただけだった。
 風が騒ぎ始めた。轟々と唸りを上げて木々の間を突進する。
 強く犬の臭いを感じた。人と猟犬。
 目の見えない鬼は、木にぶつかるのも構わずに人とは反対に駆け出した。藪に頭から飛び込み、幹に強か顔を打ちつけながら一目散に逃げ出した。
 枝が突き刺さらないように手で庇いながら薄目をあけると、まだ目蓋の裏に白い光がちらついた。しかしボンヤリとした物の輪郭をとることができた。
 忌々しい犬が後ろから追いすがってきていた。
 人の言葉を忘れた喉がひゅうひゅうとなる。
 忌々しい、忌々しい犬畜生め。
 木を駆け上がると猿のように枝を伝って逃げた。右に逃げても左に逃げても犬の鳴き声が振り切れない。声を出そうとしていた喉がぜいぜいと息をしぼり出す。
 曲がりなりにも鬼。人を喰らう鬼が獣のように追い立てられるなど。
 硬い皮が割れて血がにじんだ。息の音すら聞こえなくなった小鬼が見つけたのは、他と比べて一際大きい木が夜空に浮かび上がる様だった。
 あそこなら、犬も人の武器もかわせよう。
 小鬼は樹皮に爪を立てて一気に六尺ほど駆け上がった。犬の吠え声はまだ聞こえている。
 馬鹿な犬どもだ。
 老翁のような干からびた笑い声をあげて、小鬼はするすると木を登っていった。運よく見つけた洞に潜り込むと、そこはあまり心地良い場所ではなかったが、小鬼はすぐに眠りについた。

 目を覚ますと全身が痛かった。肌が刺されるように空気が小鬼を苛める。それは今までに感じたことがないようなもので、言いようのない恐れと不安を抱かせるものであった。
 洞の外を覗こうとも思ったが、まだ昼であった。なるべく暗い方に身を寄せて、小鬼は再び眠った。夜になれば自ずと知れる。
 そして、今度こそ腹を満たそう。
 しかし、その耳に人の声が届いたとき、小鬼は飛び起きた。喰らえるか、退治されるか。どちらであろう。外に出たら目を焼かれる。外は見れない。
 五感を研ぎ澄ませて見て、小鬼は驚愕した。肌をさすこの空気は清さだ。なにか清い場所に潜り込んでしまったのだ。居心地の悪さを感じるだけで済んだのが僥倖であるだろうか。
 日が落ちてから、小鬼は外にでた。小鬼は背筋が凍る心持がした。
 なんという災厄を被ったのだろう。小鬼が逃げ込んだ木は御神木だった。悪しきものから木を守る結界が、小鬼をその場所に捕らえて放さないのだ。何かの拍子に結界が破れない限り子鬼は未来永劫そのままだった。
 小鬼は立て付けの悪い戸のような、耳障りな声で悲鳴をあげた。
 それから小鬼は虫や鳥やネズミを食って飢えを凌いだ。
 人を行き交うのを見こそすれ、捕らえられない。もどかしく苦しかった。
 ああ、人が喰いたい。
 かさかさと枯れ枝のように細い手足に関節の太さが嫌に目立つ。
 空一つない空の寒空に雷鳴が聞こえたのは、月が針のようにとがっている、朔の日の翌日のことであった。
 小鬼はご神木のものでない枯葉や木の根を齧り、空腹を慰めていた。
 生き物の音に敏感な耳が雷鳴を聞いたのは、大分それが近付いてからだった。空の気分など小鬼は気にかけたことなどなかったが、ピリピリと肌をさすような気配を感じて顔をあげた。
 なにか嫌なものが近付いてくる。
 雷神に雷でも落とされてはたまらないと、小鬼は急いで御神木の洞に逃げ込んだ。
 御神木の精霊とやらが告げ口でもしたのだろうか、雷がその御神木のある場所に落ちてきたとき歯の根がカチカチというのが分かった。
 木に落ちなかったのが、ただの雷でない証拠だ。少し動いただけでもやけどしてしまいそうだ。恐ろしくて恐ろしくて、小鬼は自分の不幸を呪った。
 強い鬼はわざわざ見に行かなくとも一目で分かる。強い神もわざわざ見に行かずとも分かる。この気配は取るに足らない田舎の神ではない。小鬼など一ひねりだ。なんの故があって、こんな所に来たというのだ。
 濃い血の匂いが鼻をくすぐったとき、小鬼は胃袋の底が痙攣を起こすような気がした。
 これは、紛れもなく人の血の匂いだ。しかしこれは紛れもなく神の気配だ。
 とすればこれは、神に近い人の気配か。
 小鬼の口の中に涎が湧き出た。仙人の肉を食えば寿命が延びる。神人の肉を喰えばもっと強い力を得られる。
 僅かに心の余裕を得た小鬼はふいに体が軽くなるのにも気がついた。この芳しさは、戦場の穢れだ。殺された人の情念が神を恨んで、穢れを引き連れて追ってくるのだ。悪霊と言うのかもしれなかった。
 怪我をしているようだ。弱って迷い込んだなら、殺して食ってしまっては、どうだ。
 血の匂いをかいでいると、威圧感もそれほどではないように思えてきた。神に近かろうと、所詮は人なのだ。今は血に塗れて力を失った神人だ。
 洞からそっと顔を出すと、ちょうど木の根元に人がうずくまっている。傍らに血で赤い番傘があるが、武器はない。血溜りができている。胸が躍る。これは耐え切れない。食欲は抑えようがない。美味そうだ。神に近い人の肉。きっと美味いに違いない。柔らかい肉の味。熱い血の生臭さのある濃い味。甘い脂肪。もう、我慢ならない。
 洞から飛び降りる。人間は起き上がった。番傘を手に取るのも間に合わせない。ああ、あんなに血が出ている。もう我慢できん。
 飛びついて喉元に噛み付いて引き倒そうとした小鬼の体が、次の瞬間飛んでいた。
「やめろ、白虎!」
 その声だけで、小鬼は殺されそうだった。やせ細ったちっぽけな体を丸ごと覆うほどの大きな足に、押さえつけられた。小鬼の爪よりも鋭く業物よりも切れ味のよい爪が、喉に僅かに食い込んでいた。
 白い虎が、凄まじい形相で小鬼を睨んでいる。人間の一言がなければそのまま引き裂かれていたに違いない。
 恐ろしさに熱は冷めたが、まだ胃袋が空腹を訴えている。極上の酒が、あんなに地面に零してあるのだ。
 ――――鬼、お前人を捨てたな。
 ふいに頭に響いた声に小鬼は飛び上がった。あの神に近い人はもしや他の者の心が読めるのではないか。背筋が凍る思いがした。
 ――――哀れな。
 腹の底が落ち着かない心持がしたのはなぜだろう。食欲とはどうやら違うらしい。言葉の続きを待つのは喰い物を求める心境にも似ていた。
 男は起き上がろうとしたが、傷の痛みに顔をしかめ地面に倒れてしまった。あれを食ってはいけない道理はなんだと言うのだろう。弱っているのに。食ったら美味そうなのに。それよりも不可解なのは、男を食べたいと始めほど強くおもっていないことであった。
「若殿!」
 白虎が離れた。しかし結界に囲われた小鬼に逃げ場はない。
 ――――触れるな、白虎。穢れが移る。
 白虎は悲痛な面持ちで抗議の声をあげたが、結局人には触れなかった。
 男が半身を起こし、小鬼の知らぬ言葉で語りかけると御神木がするすると枝を下ろしてきた。その枝を手折ると、樹液とは思えないくらいに透明な液体がそこから滴ってきた。
 ――――鬼の子よ。これを飲め。
 そんな清いものを飲んだら、自分は焼け爛れて死んでしまうに違いない。
 殺すにしてはあまりにひどい方法ではないか。
 小鬼は怖れ慄いたが、白虎は逃げることも拒むことも許さなかった。
 恐る恐ると、喉に流し込む。
 限りなく薄い。なのに、けして不味くはなかった。
 ――――それが、清いということだ。
 喉を下りる液体は、つるつると滑って腹を満たしていく。
 ――――これからは、それをくらえ。
 なるほど、それも悪くない。
 男がそれを飲み込むと、顔色が幾分かよくなるようであった。なるほど、これを求めてきたというのは納得できる。
 喉がひゅうひゅうとなった。老翁のような声が自分の笑い声だと気付くのは随分と新鮮な心持ちであった。気がつくと、神人も白虎もおらず、透明な飲み物は代わらずそこにあった。
 あんなに欲していたのに、赤い血溜まりは生臭く不愉快なものであるようだった。

 小鬼は次第に清められ、やがて木の精になったということである。

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