【神の領域】

2,狛犬と宝玉

 風が吹くたびに提灯が揺れた。
 藪に潜む見えない何かに吹き消されてしまうんじゃないかと、足元以上に頼りない火が気になって仕方がなかった。さっきから蛾がちらちらとその周りを飛んでいるのが、道案内のようで可愛らしい。唯一心を慰めてくれた。
 夜中に抜け出したことがばれたら、きっと大人たちに大目玉をくらう。
 だから、小枝は宴の晩に抜け出したのだ。夜中には一人で便所にも行けないような小枝が、一人で山道を歩いているなんて誰も考えなんだ。ただ宴の主役である小枝の姉が、一人で暗い顔をしているのには気づいていた。みんなそれを誤魔化すのに酒をたらふく飲んだから、小枝に注意をむけるなんてどだい無理な話だった。
 夜道で鬼にあったり狐に化かされたりするのが怖いから、物音がするたびに小枝は一目散に走って逃げた。後でそれが近所の猫や犬だと分かっても別に恥かしくはなかった。そんなことを気にしていられないくらいに、内心怖かったのだ。
 昼間見えるものが見えなんで、昼間見えんものばっかりが見えてくるから、小枝はすっかり道に迷ってしまった。右をみても左をみても、木々が髪の毛を振り乱し両手を上げて小枝を脅かしてくる。
 真っ暗の中を歩くのも怖くいやだったけど、提灯の火が照らしてくれない闇に踏み出すのはもっと怖かった。赤みを帯びた光が、ちょっとずつ闇に浸みていってそこにあるものを浮かび上がらせる。
 こうしている間にわっと鬼が顔を出したらどうしよう。
 躓いた石が誰かの骨だったってことは?
 とうとう泣き出してしまったが立ち止まるのも怖い。
 本当はうちに走って帰りたくて仕方がなかったが、帰り道も分からない。
 疲れた足を引き摺って、小枝はとぼとぼと歩いていた。歩けば歩くほど周りは知らない道になっていくし、このまま生きて帰れないような気がしてくる。泣き声も次第に大きくなった。
 神社の番をしていた狛犬が小枝に気づいたのも、その泣き声があんまり大きかったからだ。山の奥の難儀な所にある神社は参拝者も少なくて、狛犬は退屈をしていた。それなのに夜中に小さな子供の泣き声がするものだから、人よりもずっといい耳が小枝の声に気付いたときから、いても立ってもいられなくて鳥居の前をうろうろしていた。
 だが、神社の入口を見張るのが仕事の狛犬は、ちょっと様子を見に行くということができない。ずる賢い狐が、狛犬を騙そうとしていることだって考えられたからだ。
 幸い、狛犬が気を揉んでいる間にも、泣き声と小枝は少しずつ神社に近付いていた。狛犬は鳥居の前でうろついていたが、飛び上がって石台の上に鎮座する。それと、暗闇の中に提灯の灯がぼんやりと浮かぶのは同時だった。
 小枝は赤く塗った鳥居が、暗闇のなかにぼんやり浮かんで見えると一目散に駆けて来た。着いたとたんに気が抜けてしまったのか、鳥居にもたれて座りこんだまま今度こそ力いっぱい大声で泣き出した。
 狛犬は首をかしげた。これは困った事になった。てっきり神様に用があるにせよないにせよ、それを口に出してくれると思っていたのだ。独り言でも良かった。要件が分かれば、言葉も掛けられる。しかし小枝は泣くばっかりで何も教えてくれない。
 娘よ、社に何か用か?
 声を掛けると、小枝は赤く泣きはらした目を大きく見開いてあたりを見回した。人がいると思ったらしい。
 台座の上を見るといい。
 そう言うと小枝は素直に台座を振り仰ぎ、狛犬をみた。石でできた狛犬が動いたのをみて、小枝は悲鳴を上げた。取り落とした提灯がめらめらと燃え始める。火に寄ってきていた蛾も羽根が焦げる音を最後にすっかり燃えてしまった。
 その脇に、狛犬が飛び降りた。重たい体が地面に着地すると、提灯は燃えている火ごとか掻き消える。石の色をしていた狛犬の体はにわかに色を取り戻し、毛皮もふかふかとした動物のものに戻っていた。
 怯えるな。社を守っているだけだ。悪いことはしない。
 鬼を見たような顔をされてしまった狛犬は、必死に小枝に呼びかけた。しかし泣き叫ぶばかりで、少女はちっとも聞いていない。
 真っ暗になった山の中で、狛犬の姿だけがはっきりと見える。
 怖い顔をしているけど、神社を守っている。狛犬のことは知っていた。だけど、とにかく気が動転している小枝にとって、怖がる以外のことをするのは難しかった。
 狛犬は思案顔だが、小枝からみるとそれも眉間に皺を寄せて怒っているようにしかみえない。
 なんとか小枝を泣き止まそうとしていた狛犬は、不意に思い立ったように喉を膨らませて、吠えるように光を吐き出した。真っ暗だった神社が仄明るくなる。
 一度それを目にすると、小枝はびっくりして見入った。狛犬が光を吐き出すたびに明るくなって、小枝はいつの間にか怖がっていたことなどすっかり忘れていた。
 もう怖くないか?
 小枝はおずおずと頷いた。
 とりあえず小枝が泣き止んでくれて助かったが、彼女の目的如何によってはさらに困ることになる。道に迷ったのなら、帰り道を示してやればよいし、明るくなってから帰ればよいだろう。
 娘、ひょっとして社の神様に用があって来たか?
 そうでなければいいと思いながら、狛犬は尋ねた。小枝が首を縦に振ってしまって、狛犬は小枝より一足先に、落胆の色を隠せない。間が悪い、いや、運が悪い。
 すまぬなぁ。今はな、神無月だ。神様は出雲の国に行ってしまった。留守なんだ。
 はじめ、小枝は狛犬が何を言っているのか分からない風だった。無理もない。必死に山道を登ってきて、やっと辿りついたのに、神様はこの場所には居ないのだ。
 やっと泣き止んだ小枝の瞳に、みるみるうちに涙が浮かんだ。また泣いてしまう、と狛犬は大慌てだったが今度は、声は上げなかった。
「神様、居ないの?」
 震える声でそう聞き返されると、言葉につまる。本当は居るといってあげたかったが、居ないものはいない。折角きてくれた小枝の願いも叶えてあげられない。
 首肯すると、小枝は狛犬のふさふさとした毛皮に飛びついた。
「ねぇちゃんが、明日偉い人に買われていってしまう。ねぇちゃんが恥をかかない様に、うちの村のことを忘れないように、神様の持ってる珠を分けて欲しいんだ」
 狛はここを守るのが仕事でな、勝手に珠はやれん。
 これはまた随分と大きな願いをしたものだ。
 この社で神様は珠を守っている。それがただの石っころではないことくらい小枝もよく知っている筈だ。
 それは、魂が彼岸に旅立ってしまった後の、命の欠片のようなものであり、生命力のようなものであった。体が土に返ってしまった後に、それが小石みたいになって転がっているのを、神様がちょっとずつちょっとずつ拾い集めて丸めて珠にしてあるのだ。
 病気や死に掛けの人に、その力を少し分けてやるのが、ここの神様の仕事だった。でもそれは神様だからできることであって、普通の人にはそんなものがその辺りに転がっているのは見えないし、珠をもらっても何も成せない。
 命がたっぷり詰まっているのだから、それはとても大事なものだ。神様ならば好きに扱えるけれど、どんなに小枝が姉を慕っていても、狛犬には分けてやれない。
 小枝は頭を振って、鳥居の真ん中に座り込んだ。
 神様が帰ってくるまで、断固帰らずの姿勢だ。
 そんなことをしている隙に、姉殿が行ってしまうぞ?
 狛犬が優しく諭しても、返事すら返してくれない。狛犬が神様を呼びに行っては間に合わないし、神様が帰ってくるのを待っていても間に合わない。
 勝手に持ち出すにも、あの珠は神様しか持ち出せないように大事に大事にまじないを掛けてしまってあった。
 なにより、このままでは神隠しになってしまう。狛犬は困り果てた。小枝は黙ったまま大粒の涙をぽたぽた着物に染み込ませていた。小枝があんまり気の毒だったので、狛犬は心を決めた。
 それなら狛のをやろう。
 狛犬がそっとその耳元で囁くと、小枝は顔をあげた。
「狛の? 狛犬の宝玉?」
 姉殿が偉い人のところにいっても、恥をかかないで済むような綺麗なものが欲しいのだろう?
 小枝は、何度も何度も頷いた。
 神様の珠でなくてもよいか?
 小枝は今度は、動きを止めた。しばらく迷っていたが、やがて大きく頷いた。神様みたいに綺麗なものをたくさん持っていない狛犬は、小枝に気づかれない程度に溜息をついた。
 四肢を踏ん張って大きく背中を反らすと、狛犬は光の珠を吐き出した。
 ふわふわと蛍のように彷徨いながら、それは小枝を目指す。
 覗き込んでみると、白金のような光沢で真珠のような色合いをした棘が中に入っている。
 小枝がそっと手を伸ばすと、光はぱちんとはじけて棘だけが手の中に残った。切っ先に触れたら手が切れてしまいそうなくらい鋭い。薄い部分は透けて、象牙のようでもあるがやっぱり違う。真珠細工でもないし、勿論金属でもなかった。なによりそれは光に当てると、とても綺麗に光った。
「綺麗・・・。これ何?」
 小枝はうっとりして、それを光にかざしたりいろんな角度から眺めたりしている。
 狛犬は困ったように前足を小枝に差し出した。魔をやっつけるための鋭い爪がそこには生えているはずなのだが、一本掛けている。
 狛のな、爪だ。
 狛犬は名残惜しそうに、小枝の手の中の爪を見たが喜びに満ちている少女は気付いていなかった。
「ありがとう狛犬様!」
 後悔こそしていないが、自慢の爪が一本欠けてしまって狛犬はとても悲しかった。しかし小枝が喜んでいるのをみると、それも悪くない。
 気をつけて帰るんだぞ。
 狛犬はそれだけ告げて、もといた場所に飛び乗った。
 すると神社全体を満たしていた光が消えて、目の前が真っ暗になった。吃驚して小枝は思わず目を閉じた。
 焦げ臭いにおいと、何かが燃える音で小枝は目を開けた。
 足元では、提灯が燃えている。蛾が羽根の焦げる音だけを残してすっかり燃え尽きてしまった。どこかでみたことある光景だった。
 すぐに提灯は燃えつきて、周りはまた真っ暗になった。
 小枝は狛犬に駆け寄った。触って見ても、声をかけてみてもそれはただの石だ。返事をしてはくれないし、毛皮も硬くて動きもしない。
 不意に痛みが走って、握り締めていた手を開けてみると、手の平が少し切れていた。そこには狛犬のくれた爪がある。
 真っ暗なのに、何で辺りが良く見えるのだろうと思えば爪が光っているからだった。その暖かい光を見ていると、狛犬が守ってくれているような安心感がある。
 夜道を、小枝は駆け下りる。
 相変らず真っ暗だったけれど、優しくひかる狛犬の爪を握り締めている小枝はちっとも怖くなかった。

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