【神の領域】

1,四神を統べる者

 夜通し降り続いた雨は、昼の熱さと共に肌に纏わりつくような嫌な湿気に姿を変えた。
 蝉の声がかしましい林の只中にあって、その場所には妙な静けさが満ちる。人間の姿は殆どないのに手入れの行き届いた屋敷で、塀の内側は不思議と空気さえ澄み渡るようであった。
 若者の掛け声と、木刀のぶつかる音がひっきりなしに鳴る。正午を過ぎるまでは、彼らを指南するこの屋敷の主の姿もあったのだが、今はその姿はみえない。
 蒸し暑い午後の日であったが、庭の池の上を渡る風は水の冷たさを受け取ってほどよく冷えている。井戸端の百合も、外界を知らぬ錦鯉が悠々と泳ぐ様も夏の日に涼を添えるに十分なものであった。
 鮮やかな魚の間に、地味な色をした亀が泳いでいるのがひどく長閑な光景だ。
 風を通すため、家の障子も戸も開け放ってあった。その建物のほぼ中央に位置する部屋は、他と比べて一際広く、設えも凝っていた。
 その部屋から、外の若者二人と庭の様子がよく見えた。中央には部屋の半分を覆うほどの大きな地図が広げてある。障子を開け放って部屋とひと続きになった縁には、葦簀が立てかけてある。
 屋敷の主人はその座敷に居る。
 何を心に秘めているのかまるで伺わせぬ相貌で、その地図を熟視していた。昼餉の後から始まって今に至るまで一歩も動かない。男の心中はけして見た目どおりではないことを知っているから、誰も声を掛けず近くの廊下を通るものもない。
 いつの間にか、表の二人はいなくなっていた。体を鍛えてもこの日差しのなか倒れては元も子もないからだろう。男はちらりとそちらに目をやって、すぐに地図に目を戻した。
 気だるく頬杖をついた男の口からふ、と吐息が零れる。小さな風はするりと周りの空気を巻き込むと、にわかに大きくなった。溜息は地図を撫で葦簀を越えると、一陣の風となって庭園を駆け巡る。
「ああ、いい風だなぁ」
 上衣を脱いで顔を洗っていた男が顔を上げる。湧き上がるような強い気の向こうに、赤い鳥の姿が透ける。髪もどこか鳥のようで落ち着きがなかった。南の朱雀が人の姿を借りたのがその男の正体だった。
 傍らには、厳しい稽古に付き合わされて精根尽き果てた男が、荒く息をして転がっていた。瞳を彩る金色が、人ではないことを伺わせる。爪も人と比べて少し鋭いのが見えた。しかしそれは、朱雀にもいえることではあった。
 釣瓶の滑車が回って、井戸水を引き上げる。日陰に生える百合は朱雀と一緒に水をかぶって、茎を前後に揺らした。
 黄色い花粉がすこし落ちた。
 冷たい井戸水を楽しんでいた朱雀は、傍らの男にようやく意識が向いた。悪戯っぽく笑って井戸の水を浴びせると、彼は抗議の声も上げられぬままに地面を転がって噎せた。
 それが不意に身震いすると足先から水に転じ、次の瞬間には青い鱗を閃かせて、竜が朱雀に襲い掛かっていた。
 朱雀もすぐさま本来の姿に転じて、応戦する。青空を背景にして何度か組み合ったあと、先に落下してきたのは青竜だった。地面につく直前に再び水に転じてから人に姿を変える。朱雀もすぐにそれに続いた。
 朱雀の頬は殴られたように腫れており、青龍は腕の辺りに切り傷をこしらえていた。しかし朱雀の顔は勝ち誇ったような笑みを浮かべていて、青龍は悔しげに顔をゆがめていた。その傷から零れる血は、人と比べて少し色が明るい。
 まだ勝負はついていないといわんばかりに、青龍は木刀を手に朱雀に飛び掛った。だが組み合うか組み合わないかの時に、二人は足を取られて地面に転がる。
「あまり騒ぐな」
 妙に老成した声で二人を諌めたのは、池から上がってきた亀であった。蛇を体に纏わせていて、二人を転ばせたのもこの蛇であった。池から上がると、こちらも人の姿に転じた。蛇はねじれた木の杖に変わり、それを持っていると余計にその亀、つまりは玄武がどこかの仙人のように見えた。実際はといえば年の程はそれほど他の面々と変わらない。つまり仙人と言ってもいい年なのだが、見た目は若い。
 青竜はしばし呆けた顔をしていたが、勢いよく立ち上がると玄武に詰め寄った。
「だが今のはこいつが悪い。夏になるといつも調子にのるのだ。自分の力が高まるのをいいことに」
 青竜も東と同時に春を司るのだから、同じように力が高まる時があるのだが、不思議とこちらは大人しかった。朱雀が騒がしいのはその季節柄も影響しているのかもしれない。
 玄武は溜息をついた。
「仲がよいのは結構だが、すぐに喧嘩をするのは困り者だな」
「なんだ玄武、一人だけ傍観者面して。お前いつも寝てるけど若殿の役に立つ気はあるのか?」
 朱雀が食って掛かる。若殿を引き合いに出された途端に玄武の眼の色が変わった。ざわり、とその体から殺気が放たれる。その向こうには亀の姿が透ける。温厚そうな見た目だが、怒ればただ事ではすまないことはわかっていた。しかし、今は夏だ。冬を司る玄武にとっては時期が悪かった。
 場の空気が肌を刺すような緊迫感を持ったとき、一つの声が響いた。

――――そのあたりにしておけ。

 朱雀と玄武を黙らせただけではなく、場の空気さえも流水のように流して沈めてしまった。
 耳朶を解さず頭の中に直接響いた声は、井戸端の百合から発せられたものだった。音が一つ零れ落ちるたびに、澄んだ風が屋敷の隅々まで駆け抜けて、淀みを拭い去る。人の棲み処とは別の場所にあり、塀に囲まれた領域は全てこの屋敷の主の力の及ぶ範囲である。三人は音を発した百合に深々と頭を下げた。今は、四神の主たる人物である。
 その瑞々しい葉の一枚が、すうと伸びると青竜の傷に触れた。ついで朱雀の頬にも触れる。
 部屋の奥で、男は虚空に向かって手を伸ばしていた。見えないなにかを労わるようにその手を動かすと、それに応えるように葉も動く。その手を下ろすと、葉は縮んでただの植物にもどった。

――――気が立っているのは分かるが、もう少し静かに。

 しっとりと濡れる声を朝露のように滴らせて、百合はその花を揺らした。声とはいうもののそれは視認できるような明確なイメージ。彼らのみが使える特殊な言葉であった。
 歯切れのいい返事を返し、三人は低頭した。朱雀の頬の腫れは引き、青竜の傷は塞がっている。百合の葉の触れた箇所から流れ込んだ力が、二人の傷を癒した。後に残ったのはしんと冷える余韻だ。
 玄武はとっくに怒りの矛を納めていた。いつのまにか、元の亀の姿に戻り池に滑り込む。錦鯉がその体を力強く閃かせて玄武の体を避けた。こうなってしまえば、動作の鈍いのんびりとした亀である。青竜と朱雀は若殿と呼ぶ屋敷の主に叱られて項垂れた。亀と比べて鳥と竜に落ち着きが無いといわれるのも詮無いことではあった。
 二人揃って屋敷の中へ消えると、すぐに家人に着替えを用意させる声が聞こえる。人に見えない家人が着物を運んでくるのは、これまた不気味な光景で夏には打ってつけといえば打ってつけである。残念なのは、この寒気を催す光景は冬にも代わらずに繰り広げられることか。
 最初に異変に気づいたのは、玄武だった。蛇が頭をもたげ続いて亀がゆっくりと水の中から顔をだす。雷雲など見られない空に、雷鳴が轟く。それは随分と遠くから聞こえてきたものであったが、次第に距離を詰めてきた。
 すぐに薄暗い部屋に座していた男もそれに気づく。ゆるゆると顔を上げて、唇を動かすだけの言葉を発した。
「おかえり、白虎」
 雷鳴を引きつれて天を駆ってきたのは、白い虎だった。何もない宙をしっかと踏みしめて、真っ直ぐに屋敷に向かってくる。白と黒の毛皮から玉の汗が滴り、息は荒かった。遥か天空の寒さでは、その息が白く凍って見える。
 着替えを終えて部屋から出てきた朱雀がその姿に気づいた。白雲と間違えそうな白い姿だったが、一歩空を踏みしめるたびに轟く雷鳴は隠しようがない。
 白き虎は塀をその四肢で捕らえると、体をしならせて飛んだ。重々しい音を立てて庭の飛び石の上に降り立つと、前足を折って頭を下げた。ともすればその勢いのまま転がってしまいそうで、力強いいつもの虎には相応しくなかった。
「西の民より火急の知らせ。海を隔つ国が若殿の領土に侵攻しておる」
 白虎が吼えた。朱雀は苛立たしげに舌打ちをし、玄武は黙って水に沈んだ。
 部屋の奥に居る男の反応は分からない。それは限られた身分しか顔をみることを許されない人の帝を相手にしている気分だった。実際には、葦簀は単なる日よけ以外の意味は持たない。
 布ずれの音を聞き取って、若殿が立ち上がったのを察するとようやく白虎は気を抜いて息を整えた。宙に浮いたまま近寄ってきた器を受け取ると、水を飲み干す。視認出来ないものが相手というのに慣れたものだった。
「青竜は休んだかの?」
 白虎の問いに朱雀は頷いた。竜が勢いを失うのは水が汚された証しである。当然玄武もよい気分ではない。人の血と火薬で汚れた水は、水を住処とするものたちの力を奪う。戦場を駆ってきた白虎を、汚れが追ってきたのだ。神の一員とはいえ、脆いものであった。
 海の向こうの民族がこの国に攻め入るようになったのは、最近。人の歴史ではもう長い。この国に住まう民には到底歯の立たない軍勢を引き連れてやってくる。造船技術からして、百年は先を行っているのだろうと思われた。
 未だ異国の脅威に屈しないのは、ここが神の膝もとの国であるからだ。
 人ならざる家人たちが、慌てて葦簀を除けて通り道を作る。
 その見えない者の慌しい気配に、朱雀と白虎は振り向いた。玄武と青竜は顔をださない。否、出せないのだった。
 着替えを終えて姿を見せた男の恰好は、お世辞にも戦装束とは言いがたかった。その出で立ちは、この世間知らずの庭こそがお似合いだ。その肩に担いでいるのは、刀でも弓矢でも火縄銃でもない、番傘だ。晴れ渡った今は不要な代物で、これほどの屋敷に住まうものが持っているのも妙な心持がしてくるものであった。
「白虎、いけるか」
 問いかけではなく、確認だった。白虎は荒れる息を隠して頷く。西の国は彼の領分だった。朱雀がどんなに力に満ちていても、敵を虐げたいと思っていても首を突っ込むべき所ではない。
 顔を出さない青龍と玄武の様子を感じ取って、神に限りなく近い人の子から怒りがあふれ出した。その気配に、二人の神はたじろぐ。
 四神は魔から国を守り、人は人から国を守る。神に人の死の汚れは触れられない。四神を従え、そしてまた四神を守るのも選ばれし人の子の仕事だった。
 若殿の番傘が、強く地面を叩いた。振動が池の水面を振るわせる。それが塀を越えたあたりで大きな波になり、大地を啼かせた。
 遠い地の人の叫びは耳を澄ませば聞こえるようだった。
「守ろうな、俺たちの国を」
 白い虎の背に乗り、男は呟く。轟くような雷鳴が虚空を裂いて響き渡った。

 彼方に、神の住まう国があるという。
 東は青竜。西は白虎。南は朱雀。北は玄武。
 四つの神を統べる人の名は誰も知らず、ただ伝承のみが残る。
 曰く、一言喋ればたちまちその吐息は風となり、一度地を打てばそれは大地を振るわせた、と。

Page Top