月夜に王者は死神と踊る

船長の右に座す死神

 船は静まり返っていた。
 灯のない船に、人の気配はなく怪しい霧に包まれている。誰もいない船は、忌まわしき記憶を呼びさました。
 かつてこんな風に無人の船で、幽霊船の主と対峙したことがある。港を恐怖に陥れ多くを殺めた犯人は、ショロトル・ストレリチアの命を救い生きる道を示してくれた人だった。
 あの時の絶望と苦しみは、今でも胸を抉り忘れることができないでいる。
「誰か、いないのか!」
 何度目かの叫びは暗闇に吸い込まれて消えていった。返事の帰ってこない船で仲間を呼ぶたび、声は悲鳴に近づいた。
 最悪の想像をした。
 血の繋がりのない父と縁を繋いでくれるのは、今となってはこの船だけだ。結局、ショロトルは父親と呼び慕った人の魂を、救ってやることも天に返してやることもできなかった。残された船と仲間を継ぐことが、死に場所を失い生き残ってしまった人間にできる唯一のことだ。
 船の中をさまよい、やっと船中に明かりを見つけた。
 そこが自分の部屋、すなわち船長室であることに胸騒ぎを覚えた。
 扉を開け放つ。
「スペンサー?」
 椅子にかけていたのは、ソラルヤーダの副船長だった。
 彼がここで何をしているのかの疑問より、ようやく船の中に人を見つけたことによる安堵が先立った。敵がいることを想定し構えていたナイフは、すぐに鞘に納まった。
 彼は、ショロトルに次いで歳若い乗組員だ。だから船に拾われて以来、兄弟のように、目をかけてもらっていた。船長という立場を背負ってからも、彼とは互いに気負うことなく言葉を交わすことができた。その長年の信頼故に、船を継いだ後は彼を副船長の地位に据えていた。
 スペンサーの姿を見たことで、心の中はようやく平らかになった。絡まっていた思考の糸がほどけ、筋道を立てて考えられるようになる。
 船と仲間の安全が最優先だ。まずはスペンサーと協力し、今一度の状況確認をする。気を失う直前の記憶と、目覚めた後の出来事を照らし合わせ、何が起こったのか推測する。そうしてから取るべき行動を考えるべきだった。むやみやたらに大声をあげて船内を駆け回っていては、とてもではないが他の乗組員の手本にはなれない。
 情けない話だが、自分を船長としてみる部下の視線があって、初めて船長として振る舞うことができる。
 みっともない姿を見られたのが、ショロトルの弱さをよく心得ているスペンサーただ一人であったのは、幸いだった。よほど面白かったのか、ランプに照らされた彼の口元は薄く笑っていた。
 普段ならそんな風に笑った後は、からかう言葉の一つくらい投げかけてくるのに、今日に限って無言だ。それを不審に思わないでもなかったが、船全体の異常に比べれば些細な問題だ。
 ともあれ、副船長の態度に切羽詰まったところはないのだから、この異常も見た目程の大ごとではないのだろう。
 ショロトルは、手招かれるまま部屋に入った。
 一歩、部屋に足を踏み入れた途端、激しい頭痛に襲われた。
 体に刻まれた聖痕が、激しく反応している。猛烈な痛みで、視界が揺れる。立っていることができず、膝をつく。それ以上先に進めない。
 聖痕は光の使徒の破片であり、神の加護である。それがこんな風に激しく反応する状況は、たった一つしかない。
 魂を闇に染めた存在と対峙した瞬間だ。天よりもたらされる警句が、ショロトルの体には耐え難い頭痛の形で表れる。
 すなわち今この瞬間、この世にある善良な者に遍く牙を剥く敵が、目の前に立っている。
「入ってこないのか」
 スペンサーが首をかしげる。
 部屋の中はランプがあるのに妙に薄暗く、微笑する口元しかみえない。輪郭がうすらぼんやりとしているのは、暗いからではなく黒いからだ。部屋の中に闇色の霧が満ちている。
 異形の姿を正しく認識するほどに、痛みが和らぐ。収束していく痛みは、ショロトルの今持っている考えが、正しいことを裏付けている。
 スペンサーこそが、異形の正体。
「嘘、だよな」
 縋るような気持ちで問いかける。緊張で声がかすれた。
「あぁ、ショロトル」
 それは肯定ではなく、嘆息だった。
 どんなに親しくてもけじめは必要だと、船長になって以来名前で呼んでくれなくなった。船長と呼びかけられるたび、距離を隔たった寂しさを感じたが、その声が揺らぎそうになる足元を固めてくれていたのは確かだった。
 名前で呼ばれるのは、いつぶりだっただろう。呼び捨てたその声に、親しみの色は欠片もなかった。
「お前、本当にバカだな」
 スペンサーが笑う。その舌に、魔神との契約の証が痣となって浮かんでいる。
 心を預けた人が、敵として立ち塞がる。それはまさに悪夢の再現だった。
*つづきは書籍にて

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