月夜に王者は死神と踊る

絶海の覇者に貴族は願う

 名乗るよりも話すよりも前、顔をみただけで相性が悪いとわかる相手がいる。
 本能が忌避する天敵、とでも言えば良いだろうか。
 ショロトルにとっては、トゥオジュ・ヴィカールトという男がそれにあたった。
 その男はパーティーの主役のように、人の輪の中心にいた。全員の目に映る場所にいて、その実、誰の意識の中にもいない。  人目を避けようとするほど、総身に滲む裏社会の臭いが目を引いてしまうショロトルとは対照的だった。
 宮廷道化というやつらしい。道化じみた服装ではなかったが、余興をする芸人とはまた違うらしい。
 曰く、それは社会の外にある者を指すのだという。身分制度の外にはじき出されたが故に、人民が持つべきなんの権利も保障も持たない。だが、なんの義務も責任も、背負う必要がない。
 ある意味では乞食や奴隷よりも賤しい身分なのに、他方では王に首を垂れる必要すらない。その特権をもって、忌憚なき意見を述べるのを生業とするのが宮廷道化だ。体制の外側から王に客観的な、あるいは狂人の洞察を持った言葉をもたらす。
 そう生まれついてしまったが故に宮廷道化としてしか生きる術のなかった場合と、契約によって権利を放棄し特権を得ることを選んだ場合とがある。
 貴族を相手に淀みなく言葉を紡ぐ様は、狂人のそれではない。どうやら奴はその分類に従うと、後者の部類だ。
 社会の外側にいるからこそ、あの男は大衆の真ん前に立っているのに、誰の意識の中にもいない。仕立ての良い服に身を包み、頬を赤らめる浮ついた貴族の御令嬢を口説いているが、誰の目にも映っていない。
 社会の外側にいるくせに、なぜ当たり前の顔をして貴族の隣に座れる。自由のために、自分の意思で道を外れた。裏稼業と何が違う?
 そもそも何もしないで人のやることに文句をつける行為に、意見役などという肩書きを貼り付けて、仕事にしているのが傲慢で鼻につく。
 胡乱な笑顔も芝居掛かった気障な立ち居振る舞いも、何もかもが疎ましい。
 まだ名すら知らないトゥオジュという男を、ショロトルは心底嫌っていた。
 だから彼と視線がぶつかりニコリと笑いかけられた時は怖気がしたし、こちらに近づいてくるのを見た時はパーティーを中座しようかとも考えた。
 人の輪を抜け出た彼は、奇妙なほどに誰にも引き止められず、目でも追われない。初めからパーティーに参加などしていなかった風に、目の前に立った。
「やぁ、今晩は。トゥオジュ・ヴィカールトだ」
 笑って差しだされた手を無視する。
「ショロトル・ストレリチアだ。何の用だ?」
「いやいや、こんな素敵な夜に随分と浮かない顔をしているじゃないか。君は、ずっとそうやって壁の華を決め込むつもりなのかい?」
 群れに混じれない半端者は気遣ってやらねば、という独善が透けてみえた。
「来たくて来たわけじゃない。あいつの頼みでなければ、誰がこんな胸糞悪い場所にくるか」
 話しかけられたくもない男が相手となると、態度は自然と刺々しくなる。その胸糞悪さを形作っているのは、この上っ面だけの男だ。美しく飾ってはいるが、腹の底はどぶのような色をしている貴族たち。
「あんたこそ、こんな人間にわざわざ話しかけにくるなんて、余程のもの好きか暇なんだろうな。それとも女漁りにしくじってホールに居づらくなったのか? 生憎と俺はあんたとワルツを踊るつもりはない。女が要るなら街におりて娼婦を探せ。つまらない話に愛想笑いで頷いて欲しいなら、畑でカカシでも探してこいよ」
「おやおや、これはこれは。親切心で話しかけただけだというのに、随分手酷く噛み付かれたものだ」
 トゥオジュは肩をすくめ、傷ついた顔をしてみせた。わざとらしい一連の動作には、本心というものが欠片も含まれていなかった。傷ついたふりを続けるつもりもないようで、すぐにその悲しいの顔を引っ込めて、元の薄ら笑いに戻る。
 道化のように振舞いながら、目の前に立つ人間の顔色を観察する目元は、少しも笑っていない。
「思った通り、躾のできていない駄犬だな」
 不意に声を低くした。
「なんだと?」
 退屈で冷めきった体が、熱を持つ。怒りの火が内側に灯るのを感じた。
「まともな脳みそが詰まっているなら、少しは飼い主の体面を考えるといい。海賊を呼び込んだだけで外聞が悪いんだ。せめて愛想よく振る舞わなくては、立場が悪くなるという想像すらつかないか? 君の仕事は生業の暴力を貴族たちの前で、面白おかしく語って聞かせる余興の道化になることだ。彼らは珍しいものが好きだ。いって明るい場所で、その変わった毛色を愛でてもらってくるといい」
 優男の皮を剥いだトゥオジュの顔に、嘲笑の色を見た。
「僕は優しいからね、いつまでたっても立場をわきまえずにいじけて壁に張り付いているガキに、親切心から忠告をしてやっているのさ」
 悪魔のように酷薄な笑みを、口元に貼り付けている。
「おもしれぇな? 道化風情が海賊に喧嘩を売るか。よほど命を持て余しているらしい」
「権力者の持ち物に手を出すのが何を意味するのか、わからないほどバカだったのか。僕はね、身の程をわきまえろといったんだよ」
 道化はもはや、歪な内証を隠そうともしない。
「ヤバくなったら権力者の影に隠れて、吠える。どちらが犬かわからねぇな。お前を殺してみれば、その命がどれほどの値打ちのあるインテリアだったか知れる」
 ナイフに手をかけた。大っぴらに武器を持ちこめる場所ではないが、隠す手段などいくらでもある。
 とはいっても、貴族の屋敷でいきなりナイフは抜けない。トゥオジュのいうとおり、殺しては不味いのは確かだ。見えないところで締め落とすか。
 一歩、前に出た。近づきたくもない男だが、その顔面を張り飛ばせるなら、近くに寄るのも悪くない。
「やれやれ、血の気が多くて嫌になるな。頭が悪いやつは、すぐに暴力に訴える」
 トゥオジュは舞台役者じみた動きで、呆れを表現した。
 そして、唇の前に指を立てた。
「犬は犬らしく、這いつくばって尾を振っていろ」
 唇から言葉が発せられ音が耳に届いた瞬間、抗いがたい力が全身を絡め取った。
「跪け」
 地面を示す動きのままに、膝を折る。
 深々と頭を下げることを、止められない。それ以外は、指一本動かすことすらままならない。
 一体何を。
 問いかけが言葉にならない。体を押さえつけるものは何もない。縛られているのは体ではなく、意思だ。奴の言葉は耳から入り、意識を犯す毒。気付いた時には耳を塞ぐ事すらままならない。
「てめ、え。呪言、使いか」
 肺から、泥のように重い空気を絞り出す。息を吐いたが最後、吸うことができず視界が白く狭くなる。
 ここで意識を飛ばしたら、知らぬ間にトゥオジュの思うままにされる。それだけはごめんだ。まばたき一つまで奪われ、髪の一房からつま先に至るまで支配されたとしても、尊厳までは明け渡さない。
 唇を噛み、痛みで意識を呼び戻す。口の中に血の味がする。
「それは違うなぁ。僕の言葉は真言だ。僕の語ったことこそが真実であり事実になる。それにしても、まだ自らの意思で口が聞けるのか」
 上を向く。
 トゥオジュに顔を向けたのは、ショロトルの意思ではない。
 左側頭部に何かが触れる。反射で振り払おうとしたが、動くはずがない。そもそも触れたのは、自分の手だった。髪をかきあげる。そこにあるのは、聖痕の痣。
「なるほど、ご同輩か。どうりで妙な気配がするわけだ」
 ショロトルもまた、見上げた悪魔の笑顔の中に、奇妙な形の痣を見た。白く塗った肌に透けているのは、まさしく真言使いの聖痕だ。宿るのは現実を塗り替える力。神の加護を受けていようと、奇跡の力なしには抗えない、偽りすらも真実に変える力。
「聖痕者たる力があれば、僕ごときに負けることはないと思ったのかな?  愚かだね。傲慢な君には、とっておきの真実をやろう」
 声に滲んだ嗜虐の色に総毛立つ。そう感じただけで、実際の自分の体はピクリとも反応していないのかもしれない。
 視線をそらせないショロトルを覗き込む、紺碧の瞳。
 顎に触れた指は労働も武器も知らぬ、さらりとした感触だった。その指で顎を掴み唇を押し開き、ようやく呼吸が許された。
 肺に空気が入り、意識が輪郭を取り戻す。
 トゥオジュは、髪に指を差し込みショロトルの聖痕に触れる。どんな素晴らしい力を宿していても、動きと意思を奪われていてはただの痣にすぎないことを、自らの手で確かめた。
 そうしてから耳に唇を寄せ、とっておきの秘密を共有するように囁いた。
「ショロトル・ストレリチア。両手をついて這いつくばり僕の靴を舐めろ」
 体にかかる重力が増した。
 口を開かされていたから、呼吸を保つことはできた。
 意識を強く持ち、渾身の力で体を動かす圧に逆らう。それでもすでに両手は地に付き、じりじりと頭を下げていた。
 下を向くと開かされたままの口から、だらだらと涎が垂れた。常に全身を緊張させたままでいることは難しく、言葉を発する方に集中すると頭が一気に地面に近づいた。
「ころ、してやる」
 支配を取り戻した喉で、絞り出す。
「わかったわかった。いいから先にこっちをしゃぶれ」
 トゥオジュがおざなりにいい、革靴の先を差し出した。
「意識を飛ばせば、ヨダレを垂らして媚びる己を見なくてすむぞ」
「誰がッ!」
 言い返そうと開いた口に、つま先がねじ込まれた。
 革の臭いが鼻に抜けた。靴墨の脂が口の粘膜にまとわりつき、ざらつく泥の味がこびりつく。
 拒もうとするのに、舌が靴底をなぞる。 踏み潰された庭の芝生の青臭さを感じた。 唾液が喉を滑り、胃の腑に降りていった。端からみれば、ショロトルが自分で咥えたように見えたのだろう。
 せせら笑う声が聞こえ、舌を噛み切りたい衝動に駆られた。実際は涎にまみれて、男の靴を舐めている。 
 足先が舌を押しのけ、無遠慮に喉奥を蹂躙する。トゥオジュが足を押し込んでいるのか、自分で招き入れているのかわからない。
 靴が喉奥をこするので、嘔吐反射で喉が蠕動する。
 口に押し込まれるものと喉からこみ上げてくるもので、板挟みになってのたうつ。それでもトゥオジュは、開放してはくれなかった。
 つま先に少しずつ体重がかかる。口を限界まで開いてもまだ止まらない。
 関節が軋む。意思とは違う脊髄反射で、体が跳ね上がる。
 ゴキ、と頭蓋骨の内側で骨の外れる音がした。
「目が覚めたら、僕を殺してみるといい」
 その言葉を最後にして、意識が途絶えた。
*つづきは書籍にて

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