月夜に王者は死神と踊る

絶海の覇者に貴族は願う

 それは生涯で持つことができた、唯一の冒険だった。
 警護をつけずに街を歩いたことはなく、それが退屈だということにすら気付けない狭い世界に生きていた。
 その船で私は、持って生まれた長ったらしい家名を剥がされ、短く名だけで呼ばれていた。
 だから今も、単にヨルクとしておこう。
 あの日、世界を知らないヨルクは海賊船に乗った。
 頭の中にあるその場所は、雑多とした品のない酒場と同義で、常に酔っ払った赤ら顔の男が大騒ぎをしていた。
 思い描いたプランでは隠れる場所なんていくらでもあったし、一緒になってなんとなく酒を飲んで騒いでいれば、容易に紛れこめるはずだった。
 しかし実際に忍び込んだ海賊船は、完璧に統括されていた。個々人は粗野な空気を纏っているが、全員で一個の部品のように定められた通り船を動かしていた。
 右も左もわからない異分子である私は、それでもうまく隠れたほうだ。幼少の砌よりかくれんぼは得意だったのだ。
 見つかったのは、港から十分に離れて停船している時だった。手が空いて持ち場を離れた人員とばったりと顔を合わせてしまい、悪目立ちをする私はすぐにつかまった。
 両側から腕を掴まれ、甲板の上に引きずり出される。
「間抜けな野郎だ、ここは海賊船だぞ」
「もちろん、わかっているとも!」
 胸を張って答えると、乗組員たちは塩の効きすぎたニシンを食べたような顔をした。思った反応でなかったことに戸惑ったが、少なくとも彼らの人間らしさに満ち満ちた表情は、恐怖を和らげてくれた。
 本当は海賊たちの携える武器や、私の二倍はあろうかという四肢の太さが怖くて怖くて仕方がない。そんな男たちに、逃げられないようにぐるりと囲まれてしまうと、歯の根が合わないし膝が震える。
 それでもここで怯えた姿は見せられないのだ。度胸のあるところを見せて気に入ってもらうのが、計画の第一歩だ。
「この船のキャプテンと話がしたいのだ」
 堂々とした振る舞いをするたびに、海賊たちは同じ顔をした。すなわちニシンを口に突っ込まれた時の顔だ。
「まあ、処遇はお頭が決めるんだがな」
 海賊は渋面のまま、両脇を固めて甲板を進んだ。
 案内をされるまでもなく、誰がこの船の主人であるのかはすぐにわかった。
 想定と違うことばかりの海賊船の中で、唯一イメージ通りの姿がそこにはあった。つばの広いトリコーンに黒い該当を羽織った姿。目が素通りできない、ひときわ大きな存在感を放っていた。
 目の前に立った男は、青年と言って差し支えない年頃だった。視界を覆うほどの巨漢に思えたのに実際は頭一つ分小さく、私の方が彼の視界に影を落とした。
「お頭! 密航者です。どういたしやすか」
 頭と呼ばれた若者は、いささか大きすぎる海賊帽の縁を持ち上げてこちらをみた。荒くれ者を名乗るには、あまりに平坦な瞳がこちらをみていた。粗暴な雰囲気はない代わりに、何を考えているのか読めない。
 感情の色を読み取れないまでも、品定めをされているということはわかり、生唾を飲み込む。
 すぐに彼は興味を失ったように顔を背け、灰色の髪が表情を隠してしまった。
 彼が腕をあげると、甲板にいた男たちの耳目が船長に集まった。
「港に送り返す。風が変わるのを待って出発だ」
 彼よりもよほど体格のいい男たちが、殊勝に頭を下げるのは滑稽ですらあった。威勢のいい声が自らの命に答えたのを確認すると、灰髪の海賊は再び顔をこちらに向けた。
「うちの連中が手荒なことをしなかったか」
 うちの連中がという言い回しからは、彼らがあくまで自分の支配下にあることを強調したいような意図が感じられた。
 若き頭をいただく船の内情は、見かけほど強固ではないのかもしれないと私は邪推した。彼が小柄な若者だという事実が、口を開く勇気を後押しした。
「あなたがこの船のキャプテンなんですね」
 自尊心を補強するつもりでいった言葉で、なぜか表情を曇らせた。
「ああ、そうだ。俺がこの船を預かっている」
 苦々しい顔で答えた青年は、それ以上の会話を拒むように背を向けた。
 これではいけない。なんとか彼の興味を引いて一目置いてもらわなくては。なにかないか。何か彼の気を引くきっかけが。
「悪いが部外者をうろつかせるほど、俺の船は社交的じゃない。港に着くまでは船室で大人しくしていてくれ」
 海上は、風が強い。
 ともすればずり落ちそうになる帽子を、片手で押さえる。年の割に使い古されたそれが、彼の持ち物ではないのではないかと想像するのは容易いことだった。
 そうだ、きっと彼は船長になって日が浅い。だから船員とのやりとりに、妙な距離と緊張を感じるのだ。
「その帽子はいただきものか何かですか? そう例えば先代の」
 最後まで言うことはできなかった。
 首筋にナイフが押し当てられている。刃の冷たさが、じわじわと熱をもった痛みに変わってゆく。
 武器をどこに隠し、どうやって抜き放ったのかもわからない。一連の動作は目も止まらない速さで、わたしには反射光と風が唸る音だけ認識できた。
 騒がしかった甲板が水を打ったように鎮まっている。皆、私の首にナイフを押し当てる若者の、一挙手一投足に注目していた。
「口を閉じて、とっとと引っ込め。俺に甲板掃除の手間を考えるだけの理性が残っているうちにな。その首この場で掻っ捌いて海に捨ててもいいんだぞ」
 誰だ、その瞳を感情のこもらない平坦な色だと見誤ったのは。
 肉食獣だ。自分と違う生き物の心の裡なんて、見えるわけがない。
 生まれて初めて、死を肌に感じた。体が竦んで動けない。気に入られようという考えは、頭の中から消えていた。
 乗組員たちが無鉄砲な私を慌てて押さえ込みにかかり、引きずるように船室に連れて行かれた。外側から鍵を掛ける音がした時、心の底から安堵した。自力ではあそこから一歩だって逃げられそうになかった。ドア越しなら首を切れないという確信で、ようやく口を開くことができた。
「あの、話を聞いて欲しいんだ」
 船室の扉越しに声をかける。
「殺されなかっただけありがたいと思え」
 年嵩の男の声がした。
「あなたじゃダメだ。キャプテンに話がしたいんだ」
「命知らずだなあんた」
「話を聞いてくれなきゃ、船から降りない」 
「殺されるぞ。お頭は顔に出さないから冷静だと思われがちだが、気が短い」
「でもあなたたちはいい海賊なのでしょう。そう聞いています」
 深いため息の音。
「諦めろ。お前じゃ多分どんな条件を出しても、話は聞いてもらえない。他の海賊が通りかかるまで待つ方が、まだいい」
 そんなのダメだ。
 押し込められた船室を見渡した。どうにかしてもう一度、船長に直談判する方法を見つけるんだ。
*つづきは書籍にて

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