深夜、喫煙所の隅に薄暗い影が蟠っていた。迷信深くない松永も流石にその亡霊のような姿を見てぎょっとした。蛍光灯の光では消しきれない夜の暗さを集めているかのように、男の周囲は暗かった。
頬は痩けて目元に暗い影が落ち、鬢の毛に白いものが混じる。初老だが、体つきはしっかりとしている。首と腕、そしておそらくは服の下にも続いているのであろう、何重にも重なった傷跡が目を引いた。だがそれらの傷はどれも古く完全にふさがっていて、入院が必要な容体には見えなかった。
喫煙所に入ってきた人影に気づいて、相手も顔をあげた。
その男の派手な傷跡にも陰気な佇まいにも見覚えはなく、初めて見る顔だと断言できた。
「アジア人か。久しぶりに見たな」
男は松永に一瞥をくれると物珍しげな声色で言った。
動物園の檻を覗きこむような物言いをしておいて、それを言った男も自身も黒人にも白人にもアジア人にも見えない顔立ちをしていた。
どこか硬質な印象を受ける浅黒い肌。彫りが深く頬骨が高い。長く伸ばして編みこんだ油っ気のない髪。教科書に載りそうなほど典型的かつ特徴的な顔立ちだった。
「そういうあなたはネイティブ・アメリカン?」
何が面白いのか、男は喉奥で低く笑い、口元を皮肉げに歪めて松永を見た。含みのある態度が癪に触った。
「なにか?」
「君は顔に似合わず、随分配慮に富んだ物言いをするね。根っからのスラム育ちではないらしい」
人の神経を逆なでするような物言いだった。
「アンクル・トマホークとでも呼ばれたかったですか?」
松永は不愉快な男に品定めの視線を向けた。
ベンチを示す手つきは隣に座るように勧めていたが、気づかないふりをして立ったまま応じた。警戒心むき出しの態度に気を悪くした様子はなかったが、人をからかうような口元の薄ら笑いもそのままだった。
「気を悪くしないでくれ。ウェス・ワティ。ご推察の通りの文化的絶滅危惧種だよ」
大戦の傷から立ち直るために、世界は多くのものを捨てた。文化の多様性やアイデンティティというのもその中に含まれている。化学兵器によって多くの動植物が汚染されてしまった世界で、自然に寄り添う生活を続けていくのは難しい。発展した科学技術の恩恵に浴し、乏しい物資を分け合って生きていくために、人々の暮らしは一部先進国社会が推奨する現代的生活様式に収束した。
以来、世界は均一化を続け民族的なるものは価値ある希少な展示品になった。
ワティの言った絶滅危惧種という言い回しは的を射ていて、民族的生活様式とやらは今やレッドデータブックに記載された動物と同様に支援され保護される。松永だって着物を着て伝統工芸か芸能でも嗜み、日本人としての血筋が証明できるならば生きているだけでそれなりに価値がある。
もちろん望んだとてなれるような容易なものであれば保護対象になってはいない。それに檻で飼われる動物のような暮らしには興味がなかった。だが結果として、別の形で愛玩動物の境遇に身を落とすことになったのは、松永の人生の笑いどころだ。
「君の名前は? レッドデータブックに掲載された者同士、仲良くしようじゃないか」
言葉も差し出された手も無視した。ワティの物言いは相変わらず不愉快だったし、笑っても影のような暗い印象が消えないワティは、決して親睦を深めたくなるタイプの男ではなかったからだ。
「あなた見ない顔ですね、新入りですか」
「ああ、そうだ。そういう君はこの街に詳しいのかね」
「根っからのスラム育ちに比べたら、詳しくないでしょうね」
意を図りかねる沈黙の後、ワティは松永の皮肉を悟って苦々しい顔をした。
「なるほど、君は子供っぽいところがあるな。私の言葉がよほど気に障ったらしい」
煙草の火をもみ消す。まだ葉が残っているのに灰皿に突っこむのは、金に困っていない人間の煙草の吸い方だ。
子供っぽいと言われてしまえばその通りで、それを怒るでもなく受け流す態度は、如何にも年長者らしい余裕の表れに見えた。
相手に知った風な口を聞かれると逆の対応をしたくなる。そういうところが青さと言われるのだろうが、矯正する機会がないまま染みついてしまい、今では松永の基本性質なのだから致し方ない。
「僕の名前は松永 帰泉。お会いできて光栄ですよ、絶滅危惧種。それで、この街の何を知りたいんですか。身の安全を保障された状態で街に滞在したいのであれば街を去るその日まで、病院から出ないことをオススメします」
棘のある声でした挨拶にワティは穏やかな笑みと共によろしくと言った。
懐から取り出した新しい煙草に火をつけた。擦過音に続いて赤燐マッチが燃える。一振りして火を消した軸木から立ち上った煙は、平凡なメンソール系の煙草以上に懐かしく良い香りがした。
「スナイパーを紹介して欲しい」
「なんのために。軍人崩れのあなたのほうがよほど詳しいでしょう」
「軍人が全員スナイパーであるわけでもないだろう。なぜ、私が軍の出だと?」
「……腕の刺青を見れば」
二の腕の部分に、傷跡に上書きするようにして刻まれた墨の色を指す。
本当のところは、松永はその男を刺青から軍人と判断したわけではない。目があったときに直感していた。社会問題の凝集のようなポートタウンの掃き溜めでは珍しくもない。戦場を忘れられない人間の目をしている。
松永は、戦場を体験したことがない。松永の暴力で守られるのは、自分あるいはどこかの誰かの利益か面子かはたまた命。国だ正義だ思想だという目に見えないでかいものを背中に乗せて振るう暴力の価値とやらには、触れたことがない。そんなところに戻りたがる気持ちは理解できないし、知りたくもない。知っているのは戦場に行った連中からは、一定確率で平穏な生活には戻れない奴が出てくるということだけだ。
人を害する罪悪感から逃れられなかったか人を害する快感を忘れられなかったか。
戻ってこれない理由は様々だろうが、中でもこういう目をした奴が戦場を恋しがる理由は決まっている。死に時を間違えたのだ。
「なぜ、軍人なんか」
保護すべき文化の継承者たる彼らは、兵役を免除されていたはずだ。血筋を保って居留区で伝統的暮らしを営んでいれば、それだけで政府から価値が認められる。
「君はどうなんだ。そんな人生を望むのかね。動物園の動物のような、あるいは都会的生活を営む人々に娯楽を提供するパフォーマーのような暮らしを。それに意味があるのなら、君は自国の文化に根ざしていないそんな刺青を入れるべきではなかったし自分の国から出るべきではなかった。違うかな?」
その気持ちは、痛いほどに理解できた。
「それで刺青を全て引き剥がした?」
半身を覆う古い傷跡のような皮膚の爛れ。その上から軍属の刺青がされていることからも、かなり古い時代の傷跡であるのは間違いない。もしそれがなんらかの怪我に由来するのなら、のちに障害が残るような重症だっただろう。だが、何回かに分けて行われた医療行為というなら理解できる。
彼が居留区において保護されていたネイティブ・アメリカンならば、引き剥がされた皮膚には部族の伝統的模様が彫られていたであろうことは想像に難くない。
松永の確信に、ワティは唇の端を歪めて頷いた。
「そうだ。私はあんな場所を故郷と呼ぶことはしたくなかった。だから捨てたのさ」
「たいした徹底ぶりですね。それで、あなたは何でわざわざこの街に来たんです。その様子じゃ知り合いがいるわけでも馴染みがあるわけでもないんでしょう」
「さっきも言った通りだ。スナイパーを、探している」
なぜなどと聞いたところで無意味だろう。問い詰めたところで、きっと明かさないし聞かなくても何を求めているのかは想像がつく。
「二人、いや一人心当たりがありますね」
「人数が減ったのは?」
「一人は入院してリハビリ中なのを思い出しました。右腕を吹き飛ばしたようで」
本当はその男を含めて、心当たりは三人。あえて隠した。そうするべきという予感を持っていた。
「痛ましいな」
心底、同情する顔をした。
「紹介してあげてもいいけど、どうなっても知りませんよ」
松永は己が知る中で、一番腕のいいスナイパーの名を告げた。この男は遠からずワイズマン兄弟の元に向かう。素性がなんであれ、あの二人であればうまく処理するだろう。
夢を見た。白昼夢か、あるいは熱が見せる幻覚。
それは知らない景色だった。緑と土、そして雨の匂いがした。
樹間から覗く空の高いところに、刷毛で薄く塗り広げたような雲がある。
雨の名残で柔らかい地面に深く轍が刻まれて、めくれ上がった土の内側はまだ黒く湿っている。火薬が湿気ってしまわないようにするのが最優先で、人間の居心地の良さは次点に追いやられており、テントを張る場所はどことなく湿っぽい。
どこもかしこもカーキ色に塗られて、周囲の鮮やかな緑色に対して画一的な工業製品の色は、却って目立つのではないかとすら思われた。そこで動く人間も判で押したように決まりきった動作で与えられた役割をこなす。画一的工業製品と変わらない部品だ。
命令と復唱。大げさとも取れるイエスサーの声と、敬礼。
それら一連の音と匂いと色には覚えがないはずなのに、胸の奥にどうしようもない郷愁を呼び覚ました。
ここだ。
自分はいるべき場所にいるという安堵。やるべきことをなしているという充足感。
見上げた蒼天に一点の黒い染みがある。
鳥だ。大きな両翼を広げた猛禽のシルエット。
羽ばたきはなく、悠々と円を描くようにして飛んでいる。
ぬかるんだ地面を這い回る人間を見下ろすのは、神の視点の再現か。
逆光で色も形もはっきりと見えないのに、それが鷹であるということをあらかじめ知っていた。見えないのに分かるのだから、やはりこれは夢なんだろう。
鷹は地上にその尊き存在を知らしめるように、甲高い声で鳴いた。
実際に聞こえたのは鷹の鳴き声ではなく、夢を遮る電子メロディーだ。
着信音というのはどうしてこんな風に、意識に突き刺さってくるのだろう。ポケットの中に微振動を感じる。
目を覚ました。
意識がない内に注射されたらしい痛み止めが抜けきらず、鈍った頭で周囲を見る。
ビルの屋上。風が強い。寝転がっていると周りの建物が見えないから、街の中でも比較的高い建物なのだろうというのがわかった。
拘束されていた。腕の傷は止血されて包帯が巻いてあるが、応急手当レベルだ。
日を遮るもののないビルの屋上で、視界に影を落としているのはウェス・ワティという男だった。怪我をさせた張本人とは思えない申し訳なさそうな表情で、血色の悪い顔を覗きこんでいる。
「君はビリー・ワイズマンの方だね」
ビリー・ワイズマン。
そう呼ばれ、その人物と同じ顔をしていた男は、ニタニタした笑いを顔に貼りつけた。ワティは知る由も無いが本人ならば決してしない顔だ。その相貌がぐにゃりと崩れて、形が変わる。
松永 帰泉はワティを見上げて、唇の端を歪めて笑った。
「残念、僕なんですよねぇ。ちなみに言っておきますけどあの兄弟は僕の命がかかったくらいじゃ動かないし、少しも攻撃をためらいませんよ」
「なるほど、異能か。見事なものだ」
ワティは少しも驚いた様子がなく、顔も髪も骨格も肌の色すらも変える様を見つめた。謀られることが想定の範囲だったという顔をしている。
気に食わない。
計画のイレギュラーを予期していたとしても、未知の異能を目にしたら驚くくらいはするはずだ。全く動揺しないなんてことがあるのだとしたら、松永が異能者であることを事前に知り、情報を得ていた場合くらいだろう。
ワティは傍に置いてあった塊から布を引き剥がす。
銃火器に詳しくない松永でも、その長い銃身を備えた機構とスコープを見ればなんであるのか想像がつく。
「やっぱり、あなたスナイパーですか」
「ああ、そうだ。この街で一番腕のいいスナイパーと勝負がしてみたかった」
初めからワティは火種だという予感があった。
この手の戦場帰りが望むものは決まってる。死に場所を探しているんだ。自分の居場所を探している。そのために今いる場所に火をつけて戦場を作りだす。
死に損ないの死にたがり。ろくなもんじゃない。
それでもワイズマンを紹介したのは、ワティがノーデンスで出会った相手だったからだ。紹介を断ったところで、別のところで他の誰かを探すだけだろう。知らないところで燃え上がった火がノーデンスに及ぶリスクを見逃すくらいなら、自分の感知できる範囲で、確実に消す。
この男は紹介された通りにワイズマン商店に向かったが、既に松永が先回りし入れ替わっていたというわけだ。
チリとはドアベルを鳴らしたそのときだけは、この男も行儀よく振舞っていた。
カウンターの中にはバリーがおり、その向かい側で喋っているのは異能を使ってビリーに化けた松永だった。
ワティは同じ顔が二人並んでいるのを見て面食らったようだった。松永の異能を見たときより、驚いていたように思う。
「なるほど、兄弟。双子か」
と口の中で独り言を呟いた。
「ウェス・ワティという。よろしく頼む。バリー・ワイズマンはいったいどちらだ。腕のいいスナイパーだと聞いているが」
彼が何を求めているのかバリーは既に松永から伝えられていたが、何も知らないふりを装って困惑したような顔をする。
「や、バリーは俺だけど。狙撃手は取り扱ってないな。見ての通りだ。ロリポップかシリガロなら用意できるんだけどな」
バリーの返答にワティはため息をついた。
「なるほど一見には門戸を開かないか、用心深くて結構だ」
「そう言うんじゃなくて、ほんと心当たりがないんだわ」
ワティは話を最後まで聞かなかった。懐に手を突っこむ。
懐から取り出した銃と発煙弾。バリーがカウンターの向こうに体を沈める。
外見はビリーだが異能の恩恵はなく、仕掛けてくるとは思っていなかった松永は、反応が遅れた。腕を弾丸が掠め、銃を取り出そうとした指先が滑る。その隙に首に腕が回り、頭に銃が突きつけられていた。
バリーが反撃しなかったのは、おそらく撃たれたのが松永で身の安全よりも優先して対処すべき問題ではなかったからだ。
正味、どうでもよかったということだ。
トラブルを持ちこんだことに兄弟が松永に苛立ちを覚えていることは気づいていたから、文句をつける気にはなれなかった。
店の外に引きずり出されて、車に乗る前に頭を殴られ気絶した。
そして、今に至る。
この場所がこの男が見つけてきた、狙撃ポイントか。
先ほどからずっと着信が鳴り続けている。ワティが松永のポケットから携帯を取り出して、液晶を確認する。そこに表示されているのが、バリー・ワイズマンの名前であることを見て取って、ワティはスピーカーモードにして通話ボタンを押した。
『お、松永。生きてる?』
寝起きかどうか尋ねるような気楽な口調だ。松永がとうに死んでいる可能性があると本気で思った上で言っているのだから質が悪い。
「ええ、おかげさまで。これ、治療代出たりします?」
『何でだよ、お前が持ちこんだトラブルだろ』
横から冷徹なビリー・ワイズマンの声が割りこむ。
『私たちは巻きこまれた』
『そう、俺たちは被害者』
『こちらに手を貸すつもりがあったようだから生かしてやるが』
『俺たちに弾を撃ちこんできたやつは絶対に生かしておかない』
『私たちと遊びたいという身の程知らずに伝えろ』
『待たされるのは好きじゃないから教えてやるよ』
バリー・ワイズマンの声が住所を告げた。
『遊ぶつもりがあるんならかかってこい。どうせおっさんも横で聞いてるんだろ』
『最後に一つ。松永、弟に何かあったら、お前を殺す』
電話は一方的にプツリと切れ、あとはシステム設定が定めた秒数のあと暗くなる画面があるだけだ。
「だ、そうですが」
「そうか、人質を取らねば逃げられるかと思ったが、勝負に乗ってくれたのであれば何よりだ」
「じゃ、用が済んだので僕は帰ってもいいですか? 正直、死にそうなんですよね」
「人間はその程度では死なんよ。少なくとも君に関しては、この程度の怪我と失血でショック死できるほど脆弱な神経はしていない。そうだろう?」
「そんな買いかぶられても困っちゃいますねぇ」
「それにしても、ふふ、面白い。面白いな。スナイパーが自らの居場所を明かすなど自殺行為だぞ。あるいはこちらをおびき寄せる罠かと思うところだ。普通ならばな。乗ってやろう、乗ってやるとも。せっかく挑んでもらった勝負だからな」
敵の位置を探りあい動向を読み、一番いい狙撃ポイントを探して、先回りして構える。それがスナイパーが取るべき真っ当な戦略なのだろう。そうしたまどろっこしい駆け引きを厭い、そちらから仕掛けてこいと居場所を明かしてくるのは如何にもあの弟らしいと、松永は思った。
それを罠だという可能性を検討した上で、高揚しているワティという男もどうかしている。
ワティは上機嫌でポートタウンの地図を取り出しバリーが告げた住所を確認した。現在地からの距離とウェザーレポートを付き合わせて確認し、満足そうに頷く。
「死にたいんなら勝手にお互いの頭を吹き飛ばしてくださいよ。余所者がいたずらに街に火を付けるな」
「私は死にたいわけではない。戦場を感じたいんだ。帰りたいんだよ。私の帰る場所は故郷ではなく、戦場だ。もう必要ないと一方的に捨てられて追い出されたあの故郷に、私はもう一度帰りたい」
同じことじゃないか。
熱に浮かされたようなワティの言葉を聞きながら思う。戦場でしか生きていけないということと、戦場で死ねなかったということの間にどれだけの差がある。
「その割には、そんなお守りを後生大事に抱えているんですね」
松永が言ったのはワティが身につけている、鳥の羽を使った首飾りだった。
「ああ、これかね。鷹だ。鷹の風切羽根。私の故郷で、これは最も尊い生き物でね。死んだ戦士の魂を父祖のいる国に連れて行ってくれるという。だからけして殺してはならないと言われていてね」
羽根を撫でる手つきは、愛おしむようにも懐かしむようにも感じられた。
そんなに魂だの故郷だのが大事なら、そこに帰ればいい。
そう言う類の言葉を予期したように、ワティは口元にニヒルな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「だから、私が撃ち殺した」
「そこまでして故郷を殺したかったんですか?」
上体を覆う刺青を丸ごと除去する手術。半端な覚悟でできるものではない。
彼にはそれが必要だった。松永が生まれ変わるために黒い蓮を求めたのと同じように、それを体に刻んでいる限りワティは別の何かにはなれないと知っていた。
「私は先住民族のウェス・ワティ以外のものになりたかった。自由になるために必要なのであれば、先祖の誇りだろうと何だろうと撃ち殺す」
「その結果なったものが、戦場を忘れられないスナイパーですか」
惨めじゃないか。と言いたいのを堪えた。
「今はスコープ越しに相手を見ているときだけが、私が私であると感じられる」
双眼鏡を覗きこみ、ワティは建物に対象の姿を探す。
「スコープなしのスナイパーライフルだと? 狂気の沙汰だ」
ワティがスコープの向こうに見えたバリーの姿を見て呟く。言葉とは裏腹に、声は興奮で浮き立っていた。
対するバリーも自分を狙う銃口を、異能で強化した視覚で既に捕らえていた。濁ったポートタウンの街で、丁寧に磨かれたスコープのレンズの反射光は見逃さない。
「へぇ、その距離でヘッドショットか。 嫌いじゃないね」
観測手も無しによくやる。口の中で呟いて、ワティの動きを観察する。標的の姿を目視しているのに、銃を構えるそぶりはない。
「さぁ、構えないのならこちらが先にいくぞ」
ワティが呟き、息を止めてから引き金を引いた。
スコープの向こうでバリーが屈んだ。頭があったはずの場所で、弾が弾ける。
(なんだ、あの動きは)
外した。いや、避けたのだ。
弾丸が発射されてから着弾までの一秒足らず。相手の狙っている場所を予測し、引き金を引く瞬間を見てから避けた。
そしてバリーは一見すると無造作に見える動作で構え、撃ち返した。
銃がワティの撃った弾をなぞるようにして飛来する。一メートルほどの誤差で弾け飛んだ地面を、ワティは驚愕の目で見た。
「な、あんな撃ち方でなぜ」
「見えてますからね、あの人は全部」
松永が苦笑しながらいう。
撃たれた弾の軌道に重ねるようにして撃った、それだけだ。
常識で測れるような才ならば、異能などとは呼ばれなかった。非人間扱いされて虐げられることもなかっただろう。異能者が得てしまったのは、それが何であれ人には過ぎたる力なのだ。
「だが、外した」
まだ勝負は決まっていない。
「もう、終わってますよ」
聞いてはいないだろうが、松永はワティの背中に呟いた。
「悪いな、おっさん今回は俺が観測手なんだわ」
呟きながら、バリーがニンマリと笑う。フィールドスコープなど必要ない。その異能は弾道を目視できるほどの優れた視覚強化。
「見えたぜ」
二発の弾の描いた軌道は、バリー・ワイズマンに全てを教えてくれる。
「行けるよな、ビリー」
「ああ。勿論だバリー」
肩に銃身が置かれる。火薬が炸裂する衝撃が、肩に伝わる。
「相変わらず綺麗だなぁ、兄貴の弾」
一発が描いた軌道を、バリーはうっとりと見つめた。
回転しながら空気を裂く美しい流線型の軌跡。
それはスコープ越しに見つめ合う男の胸に、そのままの勢いで飛びこんだ。弾速で叩かれたワティの体が跳ねた。手から銃が落ち、後ろに倒れる。
ビリーが撃った弾が命中したのを確認してから、松永は異能で体のサイズを変えて拘束を外した。逃げようと思えばいつでも逃げられたが、自分が撃たれる可能性がゼロになるまで待っていたのだ。
手で胸をかきむしるワティを見下ろして、松永は不愉快そうに顔をしかめる。
「うわ、まだ生きているのか」
生きていると言えるのかどうか。過剰に分泌されたアドレナリンが、意識を繋ぎ止めていた。普通であれば心臓が破れた瞬間に昏倒し、そのまま死に至るはずの傷だ。そちらの方が苦しまず、穏やかな死を迎えられただろう。
「あんた、いったい何がしたかったんだ?」
松永を見上げる目は、既に焦点が定まっていない。
それでも松永の言葉は聞こえていた。胸をかきむしる指先に、鷹の風切羽根の感触がある。
私は間違えたのだ。
どんなに丁寧に踏み消したところで、人は過去から逃れられない。
畢竟、どこにも立てない人間が何者かになることなどできるはずがない。
人は魂の帰る場所を一つしか持てない。
それなのに、私はそれを投げ捨てた。
戦場から帰ってきた私には、還る場所がなかった。私には戦場しかなかったのに、戦場は私をあっさりと捨てて日常の中に追いやった。あれほど胸を満たしていた狙撃の快感が、私の中から消えている。血と硝煙の臭いに塗れ、戦地を駆けているときに胸を満たしていた高揚感が無くなっている。あれは脳内麻薬と、別の自分に近づいているという錯覚が見せている幻想だったのだ。
進む先を失った私は空っぽになった。
私はあの日、最も美しいもの尊いものを、この足で踏みつけたのだ。
焦点を結ばない眼球には、蒼天が映っている。
手を伸ばしても決して届かない遥か高みに、鷹が両翼を広げている。地上を見下ろす金色の瞳。
鷹だ。鷹の翼が、死んだ戦士の魂を父祖の国に送ってくれる。
私の魂を、連れて行ってくれ。
指先に風切羽根を感じた。
ホテル ノーデンスの前に黒塗りの高級車が止まる。エントランスから出てきた松永が乗りこむと、滑らかに発進した。
チェーザレ・ロンバルディはいつもの通り葉巻を吸いながら、松永 帰泉を迎え入れた。そうして車で会うのは依頼があるときと決まっている。長い付き合いの松永を相手にするときでさえ、事務所の場所を明かさず要件を伝え、報酬の受け渡しも車内で行う。その用心深さは、彼が裏社会で長生きできている理由なのだろう。
「久しぶりだな、松永」
「最近、妙に立てこんでましたからね」
ノーデンスの待合室ロビーよりも座り心地の良い座席に、体を沈める。いつもならば誰の前であろうと煙草に火を付けたがるチェーンスモーカーが、その日は大人しく座席に収まり車窓を眺めていた。
「今回の依頼なんだが」
「その前に、一つ聞きたいことがあるんです」
松永という男は、それが彼の生き様であるが如く、他者に対する敬意が欠如している。依頼主あるいは自分より立場の強い相手に対してもその態度は慇懃無礼。命をなくさない程度に不遜に振る舞うのが常だ。だが無意味に懇意にしている雇用主の機嫌を損ね、仕事を棒に振るほどの間抜けではなかったはずだ。
強引とも思える話の遮り方が、意図的なものだということは承知していた。あえてそれをした松永の話が愉快な内容ではないというのも予感した上で、いったい何を話そうというのかと、一種挑み掛かるような目でロンバルディは話の続きを促した。
「ノーデンスに火種を持ちこんだのは、あなたですね」
ロンバルディは松永の言葉を聞いて、顔色一つ変えなかった。ただ東洋人特有の黒い瞳から視線を外し、運転手と助手席に乗る護衛に向けた。いつもそこにいるが空気に徹し、決して存在感を匂わせない二人だ。
葉巻の煙を楽しんでから、ゆっくりと吐きだす。
ため息のように、深く大きく。
「何かトラブルがあったのかね」
「正確には、僕に火を付けさせようとした」
ホテル ノーデンスは命を救うための場所。武器の持ちこみや争いが厳禁であるのはもちろんのこと、争いの火種となるような行為も禁止されてる。破った人間には厳しい制裁が下ると噂されている。幸いにしてそうなる人間とは今まで縁を持たずにきたので具体的にどんなことをされるのか、松永は知らないし周囲に知っている人間もいない。だが、少なくともノーデンスの会員資格を失うことは免れない。
ウェス・ワティに関わる一件は、結果としてホテル ノーデンスの外で起こり、片がついた。
だがあの死にたがりは、余所者だった。もしあの夜の喫煙所で出会ったとき、目当ての相手がノーデンス内にいたら、彼はその場で仕掛けたのではないか。事実、彼はバリー・ワイズマンと顔を合わせた瞬間に、駆け引きも話し合いも無視して銃を抜いて彼の片割れを人質に取ろうとした。彼の試みが成功していたのなら、命とも言える片割れを奪われたあの弟はワティの望む通りに街を戦場にしただろう。
ワティの戦場への憧憬は、自らの命もポートタウンの流儀もノーデンスの規則も無視して、突き進む。あの純粋さは狂気といって差し支えない。
仮にノーデンス内でワティが事を起こしていたら、松永の立場は危うかった。ノーデンス内で話を聞いても、新顔のあの男のことを誰も見たことがなかった。生きたまま捕らえて証言が取れたのであれば、まだいい。だがそうでないのなら、状況証拠は松永が彼を唆し争いを引き起こしたと解釈しうる。
今回の件とてワイズマン兄弟は、ノーデンスとの関わりと積極的協力の姿勢がなければ松永のことを許しはしなかっただろう。
言い訳を連ねることは得意だが、松永はその口のうまさゆえに信用されないということが度々ある。
深夜二時の喫煙所。
松永はそこで初めてワティと出会った。あの出会いを、偶然とは思っていない。
そもそもよく考えればワティという男は、ノーデンス利用者の要件を満たしていないのだ。ウェス・ワティという男は年金暮らしの退役軍人。表社会での身分がはっきりしていて、普通に医者にかかることができ、犯罪歴も松永が調べた限りではない。
彼は、松永の異能を知っていた。そしてあの時間によく喫煙所に来るということもわかって待ち構えていた。
ホテル ノーデンスは紹介制だ。内部の誰かからの手引きがなければ、会員資格は得られない。松永をよく知る誰かが彼を招き入れたのだ。あの強硬な姿勢すら、その人物のオーダーだった可能性がある。
そんなことをする理由はわからなくとも、それができる人間は限られている。松永の異能と行動に詳しい人間。ノーデンス関係者で、元軍人に人脈がある。
医療関係者に何人か該当者はいるがそんなことをする理由が思い浮かばないし、多忙な彼らにはアリバイがたっぷりある。利用者側か利用者でないにしてもノーデンスを知る外部の人間に範囲を絞れば、答えは自ずと見えてくる。
「ふむ、あのスナイパーが君と接触するように仕向けた、と。そう信ずるに足る証拠はあるのかね」
「さっきまではありませんでしたね。僕はスナイパーなんて、一言も言っていませんよ。ノーデンスの火種、といったんです。あの件はやはりノーデンスでの火種としてあなたが連れこんだんだ。これではっきりしました」
録音などしていなければ、証拠にはならない。だが証拠を確保する必要などない。犯した罪を明らかにしたところで裁く機会などない裏家業。そして罰を与える方法も単純に各々が持つ武力以外には存在しない。それに松永は、ロンバルディをなるべく敵に回したくないのだ。まだ敵対ではなく話をつけられる可能性があるのではないかと、期待していた。
彼とはそれくらいの長い付き合いにはなっている。
「なぜ、私がそんなことをすると思ったのかね?」
「わからないから聞いているんです。そんなことを、僕にわざわざさせる意味がわからない。始末したいなら、もっと簡単な方法がある」
いつか松永にさせた仕事を、他の人間にさせればいいだけのことだ。
強い力を持つ人間は、絡め手も話し合いも必要としない。
ロンバルディは、松永の顔をじっと見つめた。この先を聞く勇気があるのかという試す視線だった。いつもの松永であれば、それ以上は踏みこんではいけない領域だと判断し退く頃合いだ。目を逸らし、冗談めかすようなことを言って話を元に戻す。だが、今回は違った。
それを覚悟と受け取って、ロンバルディの口元に笑みが浮かんだ。
「君には特別に目を掛けている。だから、あの場所にはいるべきではない」
「あの場所?」
「ホテル ノーデンスだよ。あの異能者の巣窟」
異能者という言葉の言い方には、侮蔑の色が滲んでいた。松永は目の前の男が、異能者を心底嫌悪しているということに初めて気がついた。今までちらりともそれを匂わせはしなかったということに、驚嘆した。裏社会の権力者の立場は伊達ではない。
ノーデンスは正確には異能者のための場所ではなく、犯罪者のための場所だ。だがその性質と院長が差別しないことから、拠り所にする異能者が多いのは確かだった。
「私の理想は、かつて話したことがあったね。組織の全ての構成員が代替可能な部品であること。量産品で構成された、どの部分が欠けても代替を用意して十全に動く組織。それが我々の目指す組織の理想だ。唯一無二の特別な力とやらを持ってる異能者の存在はその対極に当たる。私の理想を妨げる害悪だ。私の目的はね、その全てを排した組織をつくることなんだよ」
ロンバルディの言葉は熱を帯びていた。
彼が本性を慎み深く隠してくれていて本当に良かった。その言葉を聞かされていたら、今までどおりヘラヘラしながら仕事を受けて素知らぬ顔を続けることは難しかっただろう。
「僕もあなたがいうところの害悪なんですけどね」
「君は、特別だよ。誰にでもなれる、素晴らしい才能だ」
「お褒めに預かり光栄ですね」
「誰にでもなることができる。素晴らしい。君はどこにでもはめることができる万能の部品になり得る。その意味で君と君の異能は、私の理想に最も近い部品だ。最良のスペアなんだよ」
反吐がでる。皮肉でもなんでもなくその言葉が、純粋に賞賛の意で発せられているのが、最も不愉快だった。
その目的を理解はした。だが共感はしない。個人を排して部品として扱われることを歓迎できる人間が、いったいこの世のどこにいる。理屈に包んではいるが、彼の思想の根底にあるのは結局のところ、異能者に対する差別意識。異能者でない人間に対する選民意識だ。異能者でなくても唯一無二の技能を持った人間など、この世にごまんといる。神の手を持つと言われる脳外科医や、高明なオペラ歌手、あるいはウェス・ワティという男の狙撃技術や、調教師の手管だってそうだ。
「つまり、あなたの組織に勧誘するために、僕のノーデンスにおける居場所をなくそうとした、と」
そんなことのために、という気持ちが声に滲む。
「その言い方はふさわしくない。君にはもっといい使い道がある。私ならそれを活かすことができる。あそこはそもそも君の居場所などではないよ」
ロンバルディの言葉は、確信に満ちていた。根拠のない自信を持つものに共通する、意思の頑強さはなんなのだろう。彼は松永の何を知っているというのだ。
仕事でやり取りをしただけの異能の性質と仕事の成功率を知っている程度の仲で、相手の生きる場所など定められるなら、およそこの世に自分探しの旅などとほざく若者はいなくなっている。
知ったような口で語りレッテルを貼られるのは、松永が最も嫌悪することだ。
「随分と熱烈なお誘いですね。自信がおありのようだ」
苛立ちをごまかすためには、今まで手を伸ばさずにいた煙草が必要だった。そうでないと目の前の男に対する嫌悪が声に滲み出てしまう。だがまだリラックスして一服できるような状況ではない。
葛藤がポケットに伸ばしかけて止めた手の動きに現れた。
「もちろん、私には弟よりも君をうまく使うことができるという自負がある」
「弟……?」
弟がいるなど初耳だ。そして、松永はチェーザレ以外のロンバルディ家の人間と出会った覚えもなければ仕事を頼まれた記憶もない。
「迷惑をかけたことは知っている。だから君の心情を慮って自由にさせていたんだ。だが、もういいだろう。最初から君の所有は私のものだった。弟の死に関して、遺恨はない。私は家族であれ、代替可能だと思っているからな」
「いったい何の話を」
膝を撫でる男の手のひら。鳥肌がたった。
「安心しろ。私は君を娼婦などにはしないよ、松永 陽介くん」
心臓が、動きを止めた。呼吸やまばたきといった全てが、できなくなった。
周囲のありとあらゆるものが、松永の認識を離れて遠ざかる。時間にすれば数秒にも満たない静止した世界の中で、胸によみがったのは豪奢な寝具とコンクリートの部屋。刻みつけられた娼婦の振る舞いと、人に使われる道具としての動作。赤い服を着た男。痛みとともに記憶に焼きつく情動を引きずりこむような美しいピアノの旋律。自由を奪われ体を暴かれた、忌まわしき屈辱の日々。
目の前にいるのはあの男の、血縁。松永をこの国に連れてきたマフィア。
彼は、松永を労わる顔をしていた。おそらくそれは家族に向けるものに近い、親愛の情すら感じらせるものだった。本気で彼は松永の異能を気に入り目に掛けているのだろう。
世界が止まった次に訪れたのは、爆発するような激しい感情だった。悍ましさと怒りと嫌悪。思いつく限りの負の感情が混ざりあって噴出し、衝動のまま松永はロンバルディを突き飛ばす。
胸を殴りつけるようにして押した手に、プッシュナイフがあった。いつ抜いたのか記憶にない無意識の動作だった。肋骨を避けて突き通す動きもまた、殺しを生活にしていた日々の中で染みついた意識とは関係がない動作だ。
見開かれたロンバルディの緑色の瞳には、確かに見覚えがあった。ロールプレイとしての愛の言葉を囁き、松永の体を見下ろし恥辱に歪む顔を眺めて楽しんだあの瞳もまた緑色だったからだ。あの男の姓はロンバルディだったのか。そう言われればそうだったような気もする。封をしてしまった記憶の細部は覚えていない。
絶命の瞬間に、チェーザレは何を考えたのだろう。松永には全く読み取れなかったし、殺した相手を理解しようなどという努力をしたことが、一度だってない。
指先が傷から染み出した血で滑り、ナイフの柄を手放した。
空気に徹していた助手席の護衛が、存在感を取り戻す。懐から銃を抜いた。護衛役だと考えるなら、その行動はあまりにも手遅れで、護衛対象が死ぬことは既に決定していた。
ロンバルディの体を盾にして、牽制する。まだ体温と僅かばかりの息を残し、もしかしたら助かるかもしれないという可能性をぶら下げた体に対し、護衛は発砲することを躊躇った。その一瞬に松永は銃を抜いて助手席と運転席に、平等に弾倉の中身をプレゼントした。
運転手を失った車が歩道に乗り上げ、建物にぶつかる。寸前に肉壁を手放して、シートベルトにしがみついて衝撃に備えた。それでも息ができなくなるほどの衝撃が、松永を襲った。
ひしゃげた車体の歪んだドアを蹴り開けて、歩道に転がり落ちるようにして降りる。通行人の視線が突き刺さる。拳銃の弾を入れ替えて、撃つ。見られたらまずい。目撃者は消さなければ。
よろめきながら立ち上がり、逃げる。どこに行けばいいのか思いつかないが、あのままそこにいたらまずいということだけは、はっきりしていた。
ロンバルディを殺してしまった。必ず、報復がある。目撃者は殺した。だが、彼が松永を迎えにノーデンスに来ていたというのはいつかバレるだろう。
吐き気がした。
どうしてだ。なんで、僕の過去を知っている人間が今更出てくる。
よりによってあんなに近くにいたのに、なぜ気づかなかった。どこから漏れた。あの名前だったときの記録も記憶も、全て消し去ったと思っていたのに。
どんなに丁寧にもみ消したところで、過去は消えてなくならない。
追いかけてきたというのか。
そんなはずはない。
(僕は誰にだってなれる。どんな風にだってなれるんだ)
乱れる呼吸と鼓動を、宥めるように言い聞かせる。
拠り所を求めるように、無意識に手が首の刺青に触れていた。
マフィアに囲われていた日本人の青年などいなかった。彼は死んでしまったんだ。
過去が追いかけてくるというのなら、追いつかれる前に殺してしまえばいいだけのこと。今度こそ完璧に消し去ってみせる。
そして、新しく生まれた松永 帰泉だけがこの世に残る。
そうだ。簡単な、ことじゃないか。
何もかも、殺してしまえばいい。
逃げる松永はいつしか口元に、笑みを浮かべていた。