蝶の翅に蘭の香


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 その仕事は、コインロッカーの鍵から始まった。隠し事が多いポートタウンスラム街の住人の中でも、特に口に出してはまずい問題ばかりを取り扱う連中は、ハイコンテクストな文脈でやりとりをすることが多い。だから松永も提示された報酬に合意をしたあと、代理人から意味深に鍵を渡されたときも、これはなんだとわざわざ口に出して尋ねるような野暮な真似はしなかった。
 キーホルダーを手掛かりに鍵がぴったりはまるコインロッカーを探し当てる。腕試しがわりのゲームを楽しんだあと、解錠したのに容易には開かない建てつけの悪いドアは、拳で叩くとようやくその硬い口を開いた。隅に埃が溜まった庫内から、蘭の花の香りが溢れ出してきた。目も眩むような鮮やかな香りと裏腹に、中に鎮座していたのは古びた一冊の本。その表紙のちょうど真ん中に店名入りのブックマッチがちょこんと行儀よく鎮座していた。
 電話番号と店名で検索すると、近くのナイトクラブがヒットした。
 本を手に取る。
 カバーの掛かっていない裸の文庫本。紙の縁の方は黄色く褪色していて、中古品であることが窺えた。
 古い割には薄さに対してコシのある紙としっかりとした製本。上部の小口だけ裁ち落としていない荒い断面。背表紙の継ぎ目から赤いスピンの名残が飛び出している。出版社の顔とも言える微妙な色合いをした特抄用紙の表紙には、単色でクラシックな飾り枠が印刷されている。
 印字された題字は地獄変。その下に一回り小さいフォントで芥川 龍之介の文字。
 紛うことなき日本の紙と装丁。日本の版型で印刷された、縦書きの本。
 隠してはいないが明らかにもしていない生国の気配を突きつけられて、松永 帰泉は顔をしかめた。それが当てずっぽうや思いこみであれば、こんな気分にはならない。名前だけを引き継いだ二世で、日本語話者でない可能性は考えていないわけか。今回の依頼人は力があり規模もそれなり。それに見合うだけの情報網を持っているというわけだ。単なるお使いといえどしくじれないことを肌に感じ、片手に収まる文庫本が急に手の中で重みを増した。
 手にとってページをぱらりと捲ると、ロッカーを開いたときに感じた蘭の芳香を改めて強く感じた。
 思うに花の匂いというのは、命の気配が濃厚すぎる。物語という不滅の魂を宿した緩やかな死体であるところの本という骨董品が、鮮やかな命の気配を纏っているのはいささか不釣り合いに感じた。
 擦り切れたスピンの代わりに栞として挟んであるステッカーには、枯れたリンゴが描かれている。それが何を意味するのかはまだ明らかになっていないが、いずれ意味は分かるだろう。
 それらを記憶とポケットに突っこんで、松永はナイトクラブに向かった。
 電飾の点滅で単調な反復運動を再現する看板が、松永を誘う。ロゴがブックマッチと同じだった。描かれた黄色いオウムが右斜め下をしきりに示す。
 B1Fに至る階段を見下ろした。EDMの振動が足の裏から伝わってきた。
 一段降りるごとにホールを震わせているであろう爆音の気配は強くなり、体の芯に染みこんでくる。両サイドの壁は無数のポスターとショーのチラシと近隣のクラブのフライヤー、その他よくわからないステッカーで覆われている。それらはスプレー缶で殴り描きしたストリートアートを下敷きに、渾然一体となった色彩を描き出してそれ自体が一つの作品のように見えた。松永が連れてきた地上の空気に合わせて、わさわさと手招きをするように揺れる。
 入り口の両脇を胡乱な客を叩き出すための黒服が固めていて、簡単なボディチェックで武器の類を持っていないことを確かめられた。実はベルトの裏側と靴にプッシュナイフを隠し持っているのだが、彼らが警戒する武器とは概ね銃のことをいう。ナイトクラブ程度の警備なら見つからないだろうというのは、肌感で大体分かる。
 ドアをくぐった瞬間に、熱気と振動の波が肌を撫でた。あらゆる音が耳に飛びこもうと殺到した結果、全てが膜一枚隔てたように遠ざかっていった。生ぬるく肌を包みこむホールの気配の中に踏みこむのは、水に潜るのに似ていた。
 カウンター席でまずはオリンピックを注文し、腰を落ち着ける。クラシックカクテルは長年愛されたレシピであるというばかりでなく、その人気からバーテンが作り慣れているという点に於いても味が保証されている。ブランデーの甘さとオレンジの爽やかな香りが入り混じる。
 薄暗いホールの中、ステージではライトを浴びて白い肌を光らせる女の体が揺れている。
 目を固く閉じたときにまぶたの裏にちらつく光の粒に似た、目まぐるしく色を変える照明から手元に視線を落とす。ジャケットから文庫本を取り出してページを捲る。表紙を開くと、やはり蘭の匂いが漂った。
 一度他の誰かに捲られた頁は従順に指に馴染む。カウンターのネオンサインが作り出す光はコントラストが強く、手元に影が落ちないように松永は本を傾けた。さほど労なく読み終わるごくごく短い物語の、奥付まで辿り着いて表紙に戻ったとき、空になっていたグラスが新しいものと入れ替えられた。
「私のショー、退屈だった?」
 カウンターにしなだれ掛かり、女がにこりと微笑んでグラスを差し出した。
 カットパイナップルで縁を飾る一杯。
 本を閉じたはずなのに、きつい蘭の香りを感じた。
 ネオンサインを青く映す女の肌は、水族館の水槽越しに見た海獣を思わせる。
「君が今夜の主役かな」
「さぁ、どうかしら。主役にしてくれる?」
 カウンターに乗る胸の膨らみ。谷間に刺青の色が見えていた。下着か水着にしか見えない扇情的な布面積の衣装の肩ストラップに指を挟み、なだらかな曲線を描く体に沿ってなぞる。やがて指が乳房の柔らかさに沈んだ。チップを差しこむときにのぞいた谷間には、瑞々しく張りのある女の体に相応しくないない枯れたリンゴの刺青が入っていた。
 その先を触れようとする指先から、女が逃れる。
 蘭の香りと枯れたリンゴ。彼女がここで情報蒐集に当たっていたスパイか。
 ここは依頼主の敵対組織が所有する店だ。彼女から秘密裏に情報を受け取って持ち帰ることが松永の依頼だった。単なる客とショーガール以上の関係は見せられない。
 松永は手から逃れた女を追うことはせず、頬杖をついて彼女を見つめた。
「どうしようかな、男を酔わせようとする子は少し怖い」
「この程度で? 冗談でしょう」
「飲めない男は願い下げ?」
「退屈ってだけね」
 差し出されたエルクスオウンで唇を濡らす。縁に残ったカットパイナップルを女の唇が奪っていった。
「これが今夜の君のオススメなのかな」
「いいえ、私が飲んで欲しかったのはブラッディメアリ。お次は何を?」
「セプテンバーモーン」
「つれないのね?」
 グラスの縁に女が残した口紅を親指の腹で拭う。薄暗がりをサイケデリックに演出するネオンの下で、それが何色かなんて分かりはしない。
 甘えるように膝の上に体を寄せた女が、名刺を口に咥えて差し出した。腰を抱き寄せ顔を近づけ、唇の触れないキスをするように受け取る。
 むせかえるようなきつい蘭の香りは、強い酒よりもよほど酩酊感があった。
「チップをくれた男全員にこんなことを?」
「ひどい。気に入った人だけよ」
 よければ連絡してと言い残して、女はホールの喧騒に溶け出した。カウンターに視線を戻すとバーテンダーが羨ましいと言いたげな顔をしていたので、肩を竦めた。
 後には誰の視線にも晒されない心地の良い孤独があるだけだ。
 松永は、最後にグランドスラムを煽って店を出た。
 非日常感で浮き足立っていた何もかもが、現実に着地する。
 虫の飛び回る蛍光灯の下で女から受け取った紙切れを見る。親指の腹と名刺に残った口紅の色はブルー。
 セプテンバーモーンに込められた意味は〝貴方の心はどこにある〟だ。
 女からの答えが、この名刺。当然、名前と連絡先以外は書いていない。問題となるのは口紅の色。事前に決めた符丁の意味は、〝登場人物に注目しろ〟。
 さて、彼女が僕に飲ませたかったのはブラッディメアリだったか。
 曰く、私の心は燃えている。
 蘭の香りが染みついたポケットの中の地獄変を見る。
 物語の中で燃えたのは良秀ではなくその罪のない娘、だ。
 地上に戻る階段を進む。左右の壁を埋め尽くす紙切れたちの中に、青く口紅の痕跡を見つけた。誰も気に留めない情報過多の壁に、ボロボロの地図の切れ端が隠れている。ハイスクールに付けられたマーク。もう一つはライブハウスのフライヤー。マークされた日付は三日後。
 今回のボスには高校生になる娘がいたな。父に対する報復で燃やされる娘、か。
 メッセージは受け取った。あとは一本電話を入れれば今回の依頼は終了だ。
 用をなくした地獄変をトラッシュボックスに投げこもうとしたが、蘭の香りを嗅いで気が変わった。
「いい女だったな」
 髪の色も体つきも顔も何もかもが好みではない。だが松永は、ああいう女が嫌いではない。
 渡された名刺には、女の連絡先が書いてある。

Page Top