MacGuffin


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 署長から直々に呼び出された。
 泥水のようなコーヒーを吐き出すカフェマシーンは署員の休憩スペースだが、偶然居合わせたふりをして周囲にはばかる話をする際の定番スポットでもある。二人で紙コップの中の泥水のようなコーヒーをすする。
 署長は壮年に差し掛かるがドーナツで腹を膨らませずに、体を絞っている。組織内の政治もそれなりにこなしてきた抜け目がなく厳しい男だ。油断なく周囲を窺い盗み聞きをする人間がいないことを確かめると、一冊のファイルを手渡された。薄っぺらく、ろくな資料が挟まっていないのは開く前から想像できた。
「松永という男を知っているか」
 聞いたことがないし、聞きなれない名前だ。異国の人間だと言うのは名前の響きから分かる。
「スラムを拠点に活動する犯罪者でな。殺人、窃盗、その他複数の重犯罪に関わったのではないかと言われている」
「言われている、というのは」
 警察が出動するのは金持ちに被害が出た場合と、富裕層エリアで騒ぎが起こったときだけだ。ポートタウンで起こる事件にいちいち付き合っていたらキリがないから、大半は手つかずのまま放置される。通報を受け事件が起こったと認めれば、治安組織として捜査をしないわけにはいかない。だから臭いものには蓋をするに限る。罪を犯したかもしれないという可能性だけで、捜査の対象になることなど、あり得ない。
「異能者だ。そのせいで手口がわからず、実態がつかめていない。だが、街の人間に被害が出ているのは確実だ」
 署長が言う街とは、ポートタウンの三割の部分。富裕層が住むエリアのことだ。
「なぜ、捕まえないのです」
「顔が分からないんだ。手配のしようがない。残された証拠から松永という名前はわかった。だが年齢はおろか、男か女かもわかっていない。しかも奴がした殺人のいくつかは、非常にデリケートな問題を含む」
 政治的配慮というのが必要な案件か。富裕層の街に住むと言っても所詮ここはポートタウンだ。上に行けば行くほど、闇すらも飼いならす魑魅魍魎が潜んでいる。
 ファイルに綴じられていたのは彼が関わったと思しき犯罪のリストと、その関係者から収集できたメールや通話履歴だった。非合法な仕事を依頼するメールや、通話履歴の登録名の中にマツナガという人名が確かに登場している。便宜上あなたあるいは彼などと呼ばれているが、確かにこれだけでは相手の人柄どころか個人か集団かも判然としない。
「奴が実在する一個人だという証拠を突き止め、異能者であることを暴いてくれ」
 この件に当たるのは、自分とダスティンという男のたった二人だけだった。過去にマツナガに仕事を依頼した人間が上層部にいれば、圧力が掛けられる。だから秘密裏に二人だけで調査を進めろ、というのが署長の命令だった。
 期待されている。他の人間には任せられない、秘密の大仕事を頼まれている。胸が踊った。この件をやり遂げれば出世コースに乗る。
 相棒となるべき男とは、署を離れ外のカフェで合流することにした。内部の目を気にしてのことだ。
 待ち合わせは午後一時。それなのに現在、長針は真下を向いている。
 怠惰。不誠実。減点。俺ならそんな奴は評価しない。なぜこんな奴が俺の相棒になるんだ。会う前から好感度は最悪だった。
 待ちくたびれた頃に、ダスティンは悪びれもせずにのこのこやってきた。
「いやぁすみません。お待たせしちゃって」
「君は随分おおらかに育ったんだな」
 嫌味のつもりで吐いたセリフは笑顔で受け取られた。
「君は今回の事件の重要性を理解しているのか?」
「ええ、署長からの直々の依頼ですから。富裕層に被害者が出ているのであれば放ってはおけないでしょう」
 やはり何もわかっていない。これは一人分の切符だ。出世への足掛かり。署長の期待に応えた方だけが、富裕層の街を警邏するだけの退屈な仕事から解放される。
「二人しかいない。手分けしたほうが賢明だ」
「それもそうですねぇ。どう分けます」
 主導権をこちらに明け渡していることに気づかない。
 無能。愚鈍。馬鹿正直。だが、足場にするにはちょうどいい。
「君は、そうだな。関係者に聞きこみにでもいってくれないか」
 こちらはもっと確実な切り口を持っている。
 マツナガというのが本名かどうかわからないが、名前からアジア人と推察された。おそらくはニッポンから来た。たとえそれが偽名でも、この国でわざわざ別の文化圏の名前を用意することには何かしらの意図があるはずだ。
 ダスティンに任せた仕事は、全くのハズレだ。今まで複数の現場で少しもその尻尾を掴ませずにいた男だ。目撃者なんて当たったところで証言が得られるわけがない。だが万が一ということがある。望み薄の無駄な捜査に時間を掛けて、自らの無能を証明するがいい。
 君とマツナガという犯罪者を踏み台にして俺はこの街で這い上がる。
 ダスティンは同じ署に属するはずだが、どこに配属しているのかは知らない。不審がないようにいつも通りに日常業務をこなす間、署内で見かけることはなかった。よほど僻地の警備でもやらされているか、薄暗い部屋にいるつまらない書類整理係なのかもしれない。ああいう男には、ドーナツと泥水のようなコーヒーがお似合いだ。踏みつけるだけの存在に、職員名簿をひっくり返したり同僚に聞きこんだりするほどの興味はなかった。
 そして一週間後、定期連絡のため再びダスティンと会った。指定された場所はドーナツショップ。やはり、こいつはジャンクフードとカフェインで生きる類の男だ。
 待ち合わせは一時。今日は、時間に遅れずにやってきた。
「そちらはなにか成果があったのか」
 どうせ空振りだろうという決めつけを持って訊ねる。真剣味にかけるへらへらとした顔からは、大切な情報など出てきそうにないと思ったからだ。
「ええ、松永の異能の詳細、分かりました」
「は?」
 想定外。衝撃。このぼんやりして勘が悪くて無能そうな顔をした男が、どこでそんな情報を掴んできた。
「いったい、なんなんだ。あいつの異能というのは」
 認めたくないが、尋ねないわけにはいかなかった。
「外見の模倣、ですね。それで松永に仕事を依頼した人間も被害にあった人間もいるのに、顔の証言が出てこないというわけです。そうとわかって調査すれば、心当たりのある不審人物を見た人間の一人や二人出てくるかもです」
 冷や汗をかいた。
 こちらはなんの成果もない。ひたすらに入国管理局の書類をひっくり返し、日本からやってきた人間の中にマツナガという名前を探していた。思わしい成果が上がらず僅かな手がかりもつかめない徒労感に歯噛みをしている間に、有象無象からそんな情報を引き出してきたのか。
 こいつ、まさか俺を踏み台にしようとわざと無能を装っていたのか。
 相変わらず少しも邪気がない、ニコニコと笑う男に対する警戒心が芽生える。
「署長に、報告します?」
 その言葉すらも駆け引きに思えてくる。
「いや、正体を突きとめろと言われているだろう。異能の詳細がわかったことで手がかりは得られるかもしれないが、署長が求めているのはその先だ」
 署長に先に成果を報告されるのだけは、何としても避けねばならない。
「あぁ、そうですよね。そちらは、何か成果がありましたか?」
 何もないと答える屈辱。殺意と悪意。
 一歩先んじるはずだったんだ。
 焦燥を感じながら、ダスティンと別れて業務に戻る。だが、少しも集中できなかった。もっと何か決定的なものを見つけなければ、俺が踏み台にされる。そんなのはごめんだ。
 退勤するなり取り寄せた書類をひっくり返す。極秘の任務だから職場に持ちこむわけにはいかないのだ。アジア人に対象を絞っても目が回る量がある過去数年にも及ぶ個人情報の蓄積は、自宅に収まりきらず場所を借りねばならなかった。埃を巻き上げながらそれらを一つ一つ改めていく。
 マツナガ、その名前がどこかにあるはずだ。あいつが日本人であれば、残っているはずだ。本当の名前。過去の写真。写真を見つければ、顔を突き止めれば、俺はあの男を踏み台にできる。
 だが、焦燥と疲れは一つの懸念を胸に呼び起こす。ハズレを掴まされたのは俺だったのではないか、本当はマツナガという名前にはなんの意味もなく、徒労に終わるのではないか。
 だが、可能性が一欠片でもあるのなら諦めるわけにはいかない。時間が足りなかった。仕事を休み書類の山にかぶりつく。もはやなりふりは構っていられなかった。
 六日と六晩を費やして、とうとうその人物を見つけた。
 マツナガ。その名前を持つ日本人は当然、何人もいた。だが入国後の足取りや背景を辿って絞りこみ、ついにこれという男を見つけた。そう、それは男だった。それすらも明らかになっていなかった存在の尻尾を掴んだ。入国時の年齢を考えると若すぎるくらいだが、活動を始めた時期との辻褄はあう。
 これだ。これは俺が掴んだ発見。俺が俺だけの力で挙げた成果だ。署長に渡せば、俺が切符を掴む。
 ダスティンを呼び出す。今日はドーナツショップでの待ち合わせは無しだ。
 あのルーズな男と、初めて署内であった。寝不足でぼんやりとする頭をはっきりさせるために、カフェマシンでとびきり濃いエスプレッソを淹れる。
 ダスティンが手渡したそれを一気に飲みこむ。いつもより倍増しで苦く感じた。
「見つけたぞ」
 紙コップと引き換えにファイルを胸に押しつける。
「よほどの大発見だったんですね」
 揶揄するように笑う。どんな嫌味をぶつけてもヘラヘラとして、言葉の裏を読み取れない鈍い男だと思っていたのに、その言葉には皮肉のニュアンスがあった。
 らしくない表情を向けられて、面食らうと同時に冷静になった。こいつはやはり馬鹿を装った策士であるのかもしれない。警戒心が首をもたげる。
 気が急きすぎた。野良犬のようにがっついてしまっている。こんなのは全くクールではない。
 呼吸を落ち着ける。
「ああ、俺はマツナガの写真を見つけた」
「へぇ、ついに。署長の依頼通り、顔を突き止めたんですね」
「ああ、十二年前に某マフィアの幹部に連れられて、この国に来たらしい。こちらに来てからはマフィアの用意した偽装IDも使わずに生活しているらしい。奴が今使っている名前がキセンという」
 ダスティンに黄ばんだ書類を見せる。クリップされた写真には、死んだ目をした青年が写っている。アジア人は老けないから、さほど顔立ちは変わっていないだろう。
「これがマツナガの素顔だ。顔が分かれば捜査できる。ずっと異能を使ったままでいるとも考えにくいからな。ポートタウンに来たあとの足取りは、マフィアの連中から聞き出すしかないが、うまく行けば今の顔も分かる」
「どうやって話を聞くつもりです」
「適当に罪状をでっち上げて引っ張ってくるさ。どうせスラムの連中は罪まみれだ」
 相手は犯罪者だ。結果を出せる見込みがあれば署長だって、多少の無理は通してくれる。
「はは! あなた見かけによらずハッピーな人ですね」
 ダスティンが笑う。軽薄な態度。お前こそ見かけによらない。
 本当に前に会ったときと同じ人間か。
 書類を持つ姿を見て、不安が胸に萌した。本当に俺は決定的な証拠をこいつに見せてよかったのか。
 写真を見つめるダスティンが、顔を歪めた。奇妙な笑い。遠くを見るような目をして、過去の痛みに耐えるように眉根に皺を寄せている。
「……ああ、この頃の僕、こんな顔してたのか」
 知らない男の声がした。ダスティンの姿が変わった。背の高さはそのままに幅が余るアジア人の薄い体格。首にジワリと墨の色が滲む。何かの花の形。
 腕まくりをしたシャツの裾から覗くのは、警官にあるまじき下品な刺青。
 後ろに撫でつけた黒い髪。写真と比べると、幼さが消えているが同じ顔立ち。
 マツナガ キセン。
「あなた、野心家でかわいいね。僕は嫌いじゃなかったよ」
 にこりと笑う。
「これ、ありがとう。ずっと探していたんだ」
 ひらりと降って廊下に消える。
 冗談じゃない。
 後を追って廊下に飛び出す。署内には同じ制服姿が溢れている。制服。制服。また制服。一番近くにいた人間の腕を掴む。振り向いた首に刺青はない。
 どこにいったんだ。黄色い肌と黒髪。違う。あの男は異能を使うんだ。姿を変えている。実際に、見たじゃないか。別の人間に化けているはずだ。外見に騙されるな。今の奴の姿はなんだ。誰に化けた。どこに行った。
 みな同じ服を着ているこの場所ではわからない。どこだ。誰だ。どれだ。
「君、一週間ぶりの出勤じゃないか。どうした」
 肩に手を置かれて振りむくと。怪訝な顔をした署長が立っている。ファイルは持っていない。やつではない。この人はたぶん、本物だ。
「やつです。奴が署内に。証拠を奪いに来たんです」
「奴?」
 話が通じないのがもどかしい。この人はこんなに察しが悪かったか。
「マツナガですよ。ようやく突き止めたんです、あいつの顔を」
「お前はいったい何をいっている?」
 剣幕に押されたように署長が一歩下がる。
 そんなはずはない。そんな、はずが。
「マツナガですよ。ダスティンと一緒に捜査に当たった」
「マツナガ? ダスティン? 誰のことだ」
 頭を殴られたような衝撃。
 俺はいったい、誰と話しているんだ。
 知らない?
 俺が話した署長は誰だ。ダスティンという男は誰だ。
 俺は、今まで誰と話していた。
 あいつは、いつから入れ替わっていた。
「ど、どうした」
 署長が頭がおかしい人間を見る目をして、一歩下がった。
「え?」
 ポタリという水音に意識を引っ張られて、足元に滴った血に視線を落とす。顔に触れた手にぬるりと血の感触。鼻から血が出ている。拭っても拭っても止まらない。
 目玉がぐるりと裏返る。やけに苦いエスプレッソの味を思い出す。
 署長に伝えなければ。病院に行かなければ。ここにマツナガがいた。俺は毒を飲まされたんだ。
 だが、何もかもが手遅れだった。
◆◇◆
 赤燐が炎を吐き出す。マッチから指を離す。
 古いペンキの缶の中で炎に炙られた紙がめくり上がり、黒く燃えたあと灰色に崩れ落ちていく。
 ホテル ノーデンスの屋上で、松永は意味情報を失っていく紙束を見つめた。
「あ、ダメですよこんなところで火遊びしちゃ」
 見咎めた看護師が近づいてくる。
「ごめんなさい。もう終わりました」
「何してたんですかぁ」
 看護師はすでに灰になって崩れつつある缶の中身を覗きこむ。ミルフィーユのように層になって燃え残った灰が、火かき棒がわりの鉄パイプの一撃で粉々に砕け散る。
「荼毘に付してた」
「ダビ?」
 日本の言い回しが伝わらないらしい。
「ま、なんでもいいでしょ」
 松永は残り火で煙草をつけた。だが吸おうとした途端に、手の中から煙草が奪い去られる。
「院内禁煙です」
「つめたいなぁ」
 もみ消された煙草の煙と、風に舞い上がった灰の行方を目で追う。
 そう。
 なんでもいいし、誰でもいいんだ。
 それには何の意味もない。

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