紙面の内容に目を通すのは、それで何度目かになる。平滑面の上にあるインクの染みの連なりを眺めるばかりで三回過ぎたあたりから意味を捉えるのをやめていたし、五回目を過ぎてからは回数を数えることさえしなくなった。
実のところもう内容は頭に入っていて、当日の動きもシミュレートが済んでいた。金額も支払い方法もタイミングも明快。
もはや気になる点といえば、松永の名前をかいたローマ字表記が日本式かヘボン式かくらいしか残っていない。
将来、悪魔と契約書を交わすことがあれば、このあたりの不備をつついて言い逃れしよう。名前の書き方が厳密でなければ契約書は意味をなさないというようなロジックを使って逆転勝利だ。不幸にも人間以外と契約する予定はなく、書面のそれは表記揺れでしかないから伏線になってくれはしない。
書類の向こう側にあるジンジャーの顔を盗み見る。
松永が内容を熟考していると信じて疑わない彼は、辛抱強く待っている。
煙草を吸いたい。しかし、テーブルに一つしかない灰皿を松永が占有しているので、火をつけていいか迷う。そういう気分が見て取れた。
「内容は、把握しました」
眺めるのが飽きた紙をテーブルに置く。
状況が進展したことに、ジンジャーが安堵の顔を見せた。
空気を動かすことができるようになったついでに、あの、といいながらおずおずと灰皿を指したので、ジンジャーの方に押してやった。
「頭が痛くなるので、その悪臭はやめてください」
一緒に自分の煙草を渡す。
小声ですみませんといい自分のポケットに入っていた煙草をまじまじと見つめている。そんなにひどい臭いなんだろうかと考えているのが手に取るように分かった。
その仕事を受けるかどうか。決断を妨げているのは、感情的問題だった。視界に入らない場所にいる概ね赤っぽい印象がある男のせいだ。死角を取られるのと視界に紛れこまれるのとどちらがマシかというのは、非常に微妙な問題だ。どちらも嫌だが現時点では彼を視界の外に置き、存在しないものと考えるようにしていた。
存在が強烈なくせに、気配が薄くて静かな男だ。見なければないと変わりない。
「ここ」
ジンジャーにも見えるように、テーブルにおいた紙の一部分を指差す。
「なんで、調教師なんですか。別にこの役はジンジャーさんでも問題ないですよね」
「俺はブリュレと一緒に、本物の依頼人の護衛と移送にあたるので、この組み合わせが妥当。いや、俺が妥当だと考えたのではなくてあくまで依頼人が考える妥当性という意味なんですが……え? なに」
眉間のしわを深くしたジンジャーの視線が不意に松永の後ろに流れた。後ろに立っている男と何事かコミュニケーションを取ったのが分かった。言葉を交わさずに会話できる彼らのやりとりが松永にはわからない。
「ああ、うん? えぇと、どういう」
ジンジャーが首をかしげる。
いったい何を話しているんだと肩越しにちらりと見るが、そのときにはもう調教師は微動だにしないインテリアに戻っており、振り向いた松永の目を見つめ返した。
「松永さん」
呼び掛けられたので、不安そうかつ怪訝そうな顔をしたジンジャーの方に向き直る。話している最中にちょくちょく視線が肩を飛び越えるのがひどく癪に触ったが、後ろの置物と再び目を合わせる気にはなれなかった。
「あの、今回の件は松永さんが影武者になってくれることが、前提の依頼なので、協力してもらえると我々、え、俺? 俺がすごく助かるんです、が」
いかがでしょうか、と自信がなさそうにジンジャーは言葉を締めくくった。
返事をすぐにできなかったのは、やはり合理面よりも感情面の理由が大きかった。
「別に、あなたが助かるからなんだっていうんですか」
「そうですよね」
忸怩たる顔をして、ジンジャーが項垂れる。
「……まあ、内容に不服はありますが受けないとは言ってませんよ」
苛立ちながら吸いかけの煙草を灰皿でもみ消した。
今回の依頼主は小さな製薬会社の研究員だ。街の外で生まれ育ち、正常な倫理観を持っている彼が、なんの因果でポートタウンの製薬会社などという聞いただけで胡乱な職場に流れ着いてしまったのかは知らない。とにかく何かしらの紆余曲折を経て辿り着いた現在の職場で目の当たりにしたのは、ホームレスを犠牲にした非合法な人体実験と、それに比べれば些細とも思える軽微な法令違反の数々。
結論から言えば、彼には職務を全うする心の強さが足りず、街から逃げ出すことを心に決めた。
臆病者だが、同僚への相談や退職願を出すよりも先にプロに頼った聡明さは評価に値する。もし選択を間違えていたら、松永は会社の方から彼を殺す依頼を受けていたかもしれない。
松永は調教師と共に彼の勤務先に赴くが、そこで行われることは全て茶番だ。
「適当に交渉の真似事をして殺されずに帰ってくる。それが今回の依頼ですよね」
松永の問いかけに、調教師は首を縦に振った。
より正確にいうのであれば殺されずに帰ってくるというのは依頼主からのオーダーではなくこちらの努力目標だ。会社の汚い部分を知ってしまった彼は辞職の意を伝えたら命が危ういかもしれないと判断したが、その場で殺される可能性があるというところまで想像は及んでいただろうか。分かっていて生き残ったジンジャーたちの方にだけ報酬を払えばいいと思っていたのなら、彼も十分にこの街のルールに染まっている。それはある意味喜ばしいことだ。
依頼人に〝変装〟した松永はエージェントに化けた調教師と共に、依頼人の会社に向かう。ビル一棟を自社で所持しており、事業規模の割に建物が大きいのは事務所が生産ラインと倉庫を兼ねているかららしい。
スラムにあっては比較的、堅牢かつ綺麗な建物だ。この場合の綺麗とはつまり、老朽化しておらず破壊と違法建築を経験していないことを示すあたりが、どこまでいってもポートタウンだ。
受付の内線で人事部に連絡を取る。
従業員の身分だが、同行者を伴っていることは伝えてあるから、今日はゲストの扱いで建物に入る。従業員という立場の弱さから自力で話をまとめられない人間が、退職の話し合いと手続きを進める役の第三者、あるいは弁護士を連れてくるのは珍しいことではない。
後から入ってきた男に、内線電話の前を譲る。
応接室の準備に手間取っているのか、それともこちらを無駄に待たせてやろうというくだらない嫌がらせなのか知らないが、電話を入れてからしばらく待たされた。上から降りてきた男は、エージェントが首に傷があり色の派手なスーツを着た喋れない男であることを知って、面食らったようだった。
「大変、お待たせしました。こちらへどうぞ」
動揺をすぐに顔から消してにこやかに笑い、階段に向かう。彼がやって来たのとほぼ同じくして後から来た客の待ち人もきたのだからどれだけ待たされたのかわかる。
ダンボールを持って階段を降りていったその男と廊下で半身になってすれ違う。
「調教師」
先導する男の後ろを歩いていた松永は声を低くし、一歩後ろに下がった。こちらを向いた調教師に、目線だけで後ろを示す。彼は顎を引いて頷く動作を見せた。
「すみません、靴紐が」
言いながら足を止めて屈む。調教師は振り向いてそれを待つ振りをして松永が示したものを確認した。コツと小さく舌を鳴らす音で確認したことを伝えてきたので、革靴の紐を結び終えて顔を上げる。受付横にいた連中は、こちらとは別方向にある一階の個室に消えたらしかった。
階段を登り、二階の応接室に通される。
用意されたコーヒーには手をつけず、交渉と言う名の茶番を始める。辞職の意思を伝え、会社が依頼人に対する警戒を強める頃に本人は既に街の外に逃れている。松永と調教師はここで話を長引かせればいい。退職に伴う諸々の手続きをしたり、急な転居の後始末をしたり、最後の給料をポートタウン内で引き出して電子マネーに換えて口座を解約するという雑務もある。
「辞めたい、ですか。それは随分と突然ですね」
人事の男は困ったような顔を見せた。演技だろう。エージェントを連れてきた時点で、こちらの意思は分かっているはずだ。表向きは辞職の意思は揺るがないのかという交渉だが、裏ではどのタイミングで手を打って殺すべきかという策謀を巡らせているはずだ。辞めたあとどうするつもりなのか、家は変えるのか、実家に戻るのか。そういうことを確認される。表面上のやり取りで向こうが求めたのは、誓約書への署名だ。会社の機密情報を漏らさないことと、漏らした場合にはしかるべき賠償を求めるという二点。機密情報とは主に数々の法令違反で、しかるべき賠償とは命のことを指すのだろう。
「書類を用意してきます。お待ちいただいてもよろしいですか?」
調教師が手で了承の意を伝える。
男が部屋を去った。姿が見えなくなった瞬間に、松永と調教師は視線を交わした。
後から受付をした来客とダンボールを持って降りていった男。あれはどうやら荷の受け渡しだった。だが来客は黒服だったし、歩くときの動作に見慣れた違和感があった。銃を携帯している人間の動きだ。それに堅気の人間は調教師を見たときに、多少なりと反応するものだ。この会社の人間がそうであったように。
運送業者が仕事中に必ず社名が入った車を使い、制服を着ていなければいけないか、答えは否だ。会社が許しているのなら、自由だろう。
運転手が銃を持っていてはいけないか。これも答えは否だ。むしろここはポートタウンなのだから、トラック運転手だって助手席にショットガンくらい置いている。
だが残念ながらあの客は、服装規定のない運送会社の人間などではありえない。おそらくはマフィア。
では薬品会社がマフィアと手を組んで麻薬の製造流通に関わっていてはいけないのか。これは法律と倫理の観点から言えば否だが、ポートタウンではタクシー運転手が拳銃を持っているのと同じくらいよくあることだ。
しかし事前情報として、この会社はコンプライアンスに抵触しているが麻薬の製造に関与しているという情報は入っていなかった。背後にマフィアが付いているというのなら、今回の依頼は大幅に温度が変わってくる。依頼人が晒される危険の度合いも大きく変わる。依頼を受けた段階で全く情報が入っていなかったということは、そのマフィアというのはホテル ノーデンスに与する組織ではない。
もしそうであるのなら松永はホテル ノーデンスの院長であるアンソニー・コンカートに忖度する。思い浮かぶのは、無貌と名付けられた麻薬とそれに関わる依頼だ。ロブという男から聞き出した情報を元にして、麻薬を流通させていた組織を一掃することができた。だが彼らはその製造については全く関わっておらず、どこの出資を受けた誰が作り出したのかについては未だに闇の中だった。
もしここで製造されているのが麻薬でそれが無貌だと確かめられたなら、事態は大きく動く。街の色を変えてしまえるほどの情報を手に入れることになる。
「僕たちの依頼は、このままここに座っているだけで終わりますけど、あれをどうにかするのであれば時間はありませんよね」
調教師は頷いてから耳を指先でトントンと示したので、松永は途中から声を出さずに唇だけ動かした。相手は読唇ができるからそれだけで意思が伝わる。
確かにここがそれほどまでに危険な場所だというのなら盗聴器と隠しカメラの可能性がある。外部の人間を入れることを前提とした応接室でインテリアが多く隠し場所には事欠かない。二人きりでこの部屋に残したという点も怪しい。だが、探している時間はない。
ついで腕時計を指で示したので、松永は事前に得ていた建物の構造を頭の中で反芻しながら窓の外を見た。下に停めてある車はいかにもあの手の連中が好みそうな高級車だ。スモークガラスで内部は見えない。ひょっとすると防弾仕様かもしれない。
この建物は業務用エレベーターしかないから応接室を出て行った男は、上階へ階段で向かう。部屋に着くまでおおよそ五分と行ったところか。書類を用意するのに掛かる時間は長くとも十五分程度。そのまま秘書とセックスを始めるのでなければ、階段を降りて戻ってくるのに三分もかからない。
「二十三分ってところかと。希望的観測を含めた概算ですが。下の連中に関していうならまだ車は残っています。チンピラみたいなどんぶり勘定で商売しているわけじゃない。要望通りのものが全数量揃っているかきっちり調べるでしょうから、それなりに時間は掛かると思います。グラム十数ドル単位のお宝ですからね。まだチャンスはありますよ」
調教師は持ってきたアタッシュケースから書類を全部出した。二重構造のそれの内張を外して、隠してあった仕事道具を確認する。
報告だけしてこの場は見逃すという選択肢もある。調査はもっと人手をかけて、プロに任せればいい。
だが製薬会社側は内情を知る人間が逃げ出したことで警戒を強め、拠点変更などの対策をする可能性もある。そしてコストをかけてリスクを冒すには、マフィアが麻薬らしきものを受け取りに来ていたという証言だけでは根拠が弱い。取引されていた麻薬の現物と、受け取りにきていたのがどこの人間か突き止めるくらいのことはしておきたい。
「やります?」
調教師の指先が、松永の胸を軽く叩いた。
(決めるのは僕、か)
確かにサンプルを手に入れるのなら、実行するのは松永になる。実行の可否を判断できるのは、松永自身でしかありえない。
悩んでいる時間はない。
すでに五分は経過してしまった。残り十八分。
「あなたの携帯、敵に見られてまずい情報入ってます?」
コツと調教師がyesの意を示した。
仕方がない。
「調教師、ジンジャーさんに電話を。あとこれ下の車に仕込んできてください」
自分の持っているスマホを投げつけると、お返しに発信ボタンが押されたスマホが投げ返された。どこでもいいから敵の車の見つかりにくいところに仕込んでおけば、紛失端末を検知するサービスを使って簡易の発信機に使える。問題は見つけられたときに中のデータを抜かれるリスクがあることだ。松永はその使い方をすることを前提に依頼人のアドレスなどの重要な情報を端末に残していない。
松永はコール音を聞きながら、防犯カメラと盗聴の心配が少ないトイレにいった。人が来たらすぐに分かるように個室には隠れず、ドアに張りついて外を伺った。
「どうした、何かあったか?」
喋れない男から電話を受け取ることなど、よほどのイレギュラーなのだろう。電話に出たジンジャーは怪訝そうな声をした。
「ジンジャーさん依頼人、隣にいますよね。電話代わってください」
「松永さん? ですか。いったい何が」
「説明している暇はないので今すぐに」
焦りの滲む言葉にジンジャーは戸惑いながら依頼人と代わった。
「すみません、生産ラインに入るのに必要なセキュリティチェック全て教えてください。手短に」
「は、はぁ? なぜですか。今回の依頼は私が無事に街の外に出るのを助けていただくことですよね」
依頼人も戸惑っているようだった。彼の言葉にはジンジャーと違って、余計なことをして荒立てないでくれという苛立ちが滲んでいた。
「あなたが片足を突っこんでいた場所が想像よりも暗い。街の外に逃れたくらいでは振り切れないかもしれませんよ」
倫理の侵害と法令違反は、結局は世間体と裁判の問題でしかない。ポートタウンの常識とは関係がない。だが、麻薬に関わっていたのならマフィアの商売に片足を突っこんでる。研究者であったという依頼人が自分の作っている薬について全く知らないなどということがありえるだろうか。気づいて伏せていたというのならジンジャーの仕事は依頼人を送り届けることから別の内容に変更しうるが、現時点ではどうでもいい。とにかく時間が足りなかった。
「僕たちが今やろうとしていることがうまくいけば、あなたの生活を脅かしうるものを一掃できます」
「あなたはその会社の背後にあるのがなんなのか、わかって言っているんですか」
「この会社のバックより、僕らの支持する組織の方がでかい」
「そちらの支持する組織というのは」
「詳しい話は聞かない方が良いのでは?」
沈黙があった。逼迫している状況で、それは永遠にも思える時間だった。何度も時計を見る。ドアの隙間から廊下を確認し、階下に降りた例の従業員が戻ってきていないか確かめる。
「分かりました。私に分かることであれば、全てお話します」
依頼人が明晰な男で助かった。依頼を持ちかけられたときに見た文面から、頭の回る男であるというのは分かっていた。戸惑いが勝っていたのは最初の方だけで、彼は簡潔に松永が必要としている情報を教えてくれた。
通話を切った後、先に階下から戻ってきたのは調教師だった。麻薬の受け渡しをしていた男よりも先に戻ってきたのだから、簡易発信器を仕込むのは間に合ったのだと思いたい。応接室を確認しそちらにも人が戻ってきていないのを見ると松永のいる場所に来た。ドア越しに首尾を尋ねるとコツと返事がある。
直後に荷の受け渡しをしていた例の職員が階段を上がって戻ってきた。廊下に立っている調教師を見て、まだいたのかという顔をした。前を通り過ぎようとした瞬間に素早く胸ぐらを掴み、トイレに引きこむ。中で待ち構えていた松永が、首を締め落として気絶させる。
服を脱がせ着替えながら、依頼人から聴きだした情報を調教師に共有した。
生産ラインに入るのに必要なのはICチップ入りの社員証。これは職員の男から奪ったものを使えばいい。問題はボディチェックだ。扱っている品が小さく持ち出す手段が多いからだろう。従業員相手というある程度の信頼があるにしても、体内以外は全て覗かれると思っておいた方がいい。
「僕なら中に入ることはできますが、持ち出すのはほぼ不可能かと」
松永が伝えた情報を聞いて、調教師は首を傾けた。僅かに視界に傾斜をつけるだけの動作は、人間とのコミュニケーションを容易にするためにそういう振る舞いを覚えただけの機械のように見える。
意味は、思考中とでもいったところか。途中、腕時計に視線を落とした。
わかっている。時間がない。
出入りの際のボディチェックにかかる時間を加味したら、もうタイムリミットは過ぎていると言ってもいい。捕まえた男に〝変装〟し本人は掃除用具入れに隠したが、このまま続行するべきか中断して元の任務に戻るべきかを判断するタイミングだ。準備もなく目の前に降って湧いた好機に飛びついたのだから、当然不備はある。
品を受け取りにきたマフィアの方を辿るだけでも、おそらく成果にはなる。だが、顔を見られている。松永は依頼人の顔でここに来たし、調教師は偽名を使ってはいるが姿を偽ってはいない。正しい判断を下さなければ、当初の依頼が失敗に終わるどころか余計な火の粉を被りかねない。
容赦なく前進していく時計の針が、冷静になるべき思考の温度を上げている。
焦燥で思考の切れ味が鈍る松永の肩を、調教師が叩いた。
アタッシュケースを示す。書類ではなくその中に入っている彼が持ちこんだ道具のことを言いたいのだろう。意思疎通を容易にするためにyesとnoくらいは理解できるようにしたが、手話を読み取れない松永が声をもたない彼と話す方法は筆談するより他にない。
そんな悠長なことをしている時間はないというのは向こうもわかっている。ペンと手帳取り出すようなことはしなかった。
穏健な意思疎通の手段をとる代わりに調教師は、意を伝えるよりも簡単な手段に出た。出し抜けに胸ぐらを掴んで足を刈られ、松永はその場に膝をついた。
胸ぐらを掴む手は、松永が立ち上がれないように下に引っ張る。有無を言わさぬ力の強さに怯むように体を退くと、今度は前に引っ張られ調教師の膝に顔をぶつけた。
目の前の男に対する反感と恐怖。いきなり何をするんだという抗議の言葉は、口の中に押しこまれた指で塞がれた。
指先は彼が普段使い慣らしている鞭あるいは革製品のような、人工的で人間味の薄い手入れ用ワックスの脂の香りだ。やがてそれは血の味に変わった。反射で口を閉じた松永の歯に当たって皮膚が破れても、少しも痛みなど感じていないような顔をして更に口をこじ開ける。
吐かせるつもりなのか。口腔内を弄る指の動きで初めはそう感じた。だが、口の中でガサと何かが擦れる音がして、そうでないことは辛うじて理解できた。
今すぐナイフで刺してやりたいという感情と、意味のないことをする男ではないという理性がぶつかる。結局、松永は喉の奥に何かを押しこんでくる調教師の圧力に負けた。嚥下したそれはいつまでの腹に滑り落ちて行かず、喉の奥に引っかかって不快感を残した。
松永の口の中から指を抜いた調教師は、奥歯を示す。奥歯に何かが引っかかっている。舌で確かめると糸があり喉の奥につながっていた。それは飲み込まされて腹の奥にあるものと繋がっているらしかった。口の中でガサついたから、おそらくビニールか何かだろう。
体の中までは調べられない。ここに隠して持ち出して来いということか。最初からそう言えなどと彼に言っても無駄なのだが。口の周りに垂れた唾液を拭い、油断をすると嘔吐しそうになる腹のあたりに蟠った異物感に耐える。
「せっかく小細工してもらいましたが、時間が足りない」
先に上に行った奴が帰ってくる。松永もとい依頼主が席を外しているのにトイレに行った以外の理由が思い浮かばない。それとて数十分の離席を誤魔化せるようなものではないだろう。
コツ。
肯定。承認。いや、この場合は、任せておけとでも言いたいのか。
松永は口の中に残る血の味を、ため息とともに吐き出した。
進むしかないか。どうせ既に従業員を一人、気絶させている。中途半端は一番の悪手だ。
「任せましたよ、調教師」
口のきけない男に、時間稼ぎが。
こいつに無茶を通させておいてこちらがくだらないミスをするわけにはいかない。やると決めたならうまくやりきるさ。
了承の舌音を背中に聴きながら、松永は生産ラインに向かう。
あの男ができると判断したからには、できる。身をもって体験したことがあるがゆえに、松永は彼の合理的判断と仕事ぶりを誰よりも信頼していた。