退院後、久しぶりに吸いこんだ娑婆の空気は相変わらず煙草で誤魔化さねば耐えがたいほどの、スラムの悪臭だった。銘柄は依然分からないままだが、不思議なほどに口に馴染む上等な煙草はワイズマン兄弟からの見舞いの品だ。付けとしてしれっと代金を借金に加算されている可能性も否定できない。それは今日これから店に行って確認したら分かる。入院中は月次の支払いを容赦してもらっていたが、退院してしまったからそうもいかない。
煙草に火を付け、店に向かう。
もともと仕事中の怪我が多いこともあり、医療費と年会費を捻出すればそれでいっぱいいっぱいの経済状況だ。借金を返す余力などあるわけがなく、月々の返済ノルマをこなしても徐々に膨らんでいく額は胃のあたりを重たくしている。
すっかり馴染みとなったワイズマン兄弟の営む商店のドアを開けた。チリンとベルが鳴る。
「いらっしゃい」
ぷあと紫煙を吐き出し、待ち兼ねたようにニンマリと笑うのは弟のバリー。
カウンターの向こうに腰掛けたまま、冷めた目で一瞥したのは兄のビリー。
珍しく兄弟揃ってのお出迎え。
「そろそろだと思ってさ」
「変わらず、金の無さそうな顔だな」
ビリーは店の奥のソファに掛け、向かいに松永を座らせた。
「おかげさまで。会員権を死守したのに絶賛治療費を延滞中です」
苦り切った顔で、勧められるままに腰を下ろす。
「仕事の世話をしてもらえるとか」
もともと宵越しの金は持たない主義だったのが、借金を抱えてからはいよいよ首がまわらない。目の前の対照的な表情を浮かべた同じパーツで構成された顔を見る。
「バリーに化けろ。出来るだけ正確にだ」
ビリーが足を組み、深く煙を吐き出した。
「客から商品の配達までやってほしいと依頼が入った」
「はぁ」
内容が飲みこめない松永は、曖昧な相槌を打つ。
バリーが困ったように笑いながら兄の隣に腰掛け、常に簡潔で用件しか言わない言葉を補う。
「ビリーと二人で来いってさ。大抵そういうことを言ってくる奴はろくでもない」
「余程のお得意でなければ断るが、スペアが用意できるなら話は別だ」
ろくでもないと断言されてしまっているあたりが不穏だが、今は仕事の選り好みをしてなどいられない。少なくとも金に関することでは、ビリーはきっちりしているから信頼できる。だからこそ借金も誤魔化されてくれず困っているのだが。
「服は貸してもらわないとですよ」
松永の異能は対象の身体的特徴を写しとることはできるが、化粧や服のような身に付けているものは含まれない。常に同じ格好をしているワイズマン兄弟の片割れに化けるのであれば、松永の服装のままではダメだろう。異能を使う前にシャツとベルトを緩める。体格に大きく差がある相手は、特に靴や服の大きさに注意深くならないと痛い目を見る。
松永の体がぐと膨らむ。髪の毛の黒色が溶けて後頭部に集まり、羅針盤のような刺青に収束する。東洋人の肌の色と薄い体が目の前に座る男たちと同じに変わる。
反応は対照的だった。
バリーは松永の体が変容する様子を興味深げに眺め、ビリーは目の前にもう一つ同じ顔が現れたのを見て、薄ら嫌そうな顔をした。どうも慣れないらしい。二階へ上がり、シャツとパンツを持ってきて投げ渡した。化けろと言っておいて不快そうな視線に苦笑いをしながら、受け取った服に着替える。
バリーがふと気がついたように、松永の姿を上から下まで見る。
「松永ぁ。銃はどうする。一丁やろうか?」
「僕、飛び道具はあんまり得意じゃないですよ」
異能を使って対象の親しい相手に化けて懐に潜りこみ、バレないように離脱できることを強みとしている松永にとって、音が出る上に携帯していると制限されるシーンが多い銃を使うメリットはない。使うことはできるが使い慣れてはいない。
身代わりをする上で銃を携帯しないのは不自然だから、拳銃も一応受けとった。それらしく見せるための小道具としては必須だが、バリーほどは使えない。
バリーに化けるということは、今回の同行者はビリーだ。
「荒事は専門外では?」
「専門外だ。弾薬代が掛かるし何より煩い。私は煩いのが嫌いだ」
知っている。
聴覚を強化するという異能の影響もあるのだが、本人の性質に因るものが大きいだろう。この双子は驚くほどの同一でありながら細部を見ていくほどに差異が際立つ。
着替えを済ませ着こなしをバリーに合わせれば、感心するほどに同じになる。バリーは自分の写し身の出来栄えを面白そうに確かめた。
「やー、凄いな。黙ってりゃ店番も出来そうだ」
「お金貰えるならやりますよ、バイトの店番くらい」
感心するバリーの横で、ビリーがメモを手に取りペンを走らせる。
「上手くやれれば報酬は……これで」
商品受け渡しという子供のお使いのような内容にしては、ゼロが多すぎた。
思わず口元がにやけてしまうような額面。同時に、ただのお使いではないと察するに十分な金額だった。
「そのうまくやれればっていうのは、面倒事に巻きこまれても支払われるのかな」
顧客がどんな相手か知らないが、初めから荒事を起こす目的でいて因縁をつけてきたせいで、報酬が減ったり弾薬代を報酬から引かれるなんてことになったら困る。
「ああ、払ってやる。全額、お望みの形で」
ビリーが紫煙を吐く。
「いっそバレてもかまわねぇよ。ドンパチやらかすことになってもだ」
「その後、お前が生きていれば、な」
灰皿に煙草を捻じこみ同じ顔が二つ。含んだように笑っていた。
「ドンパチするならバリーさんを連れて行って欲しい」
そのために荒事担当の彼がいるんじゃないのか。
「もちろん荒事は俺の専門。だからお前が行くんだよ、バリィ?」
ああ、そうだ。この姿になったのだから彼らしく振舞わないとだな。
意識を切り替えるために目を閉じ、ぐるりと一度首を回して松永らしさを自分の中から追い出す。
バリーの笑顔は好戦的な性質と子供のような無邪気な人懐っこさが同居する。関わる中で気がついたが、兄に比べればまともという判断は大きな間違いで、バリーもまた暴力と世間話の間に一切の垣根がなく、針がどちらに触れるのか予測できない。感情を表に出すから、何を考えているのかは分かるだけだ。
暴力も世間話も相手がいなければ成り立たないという点に於いて同じだという雑な判断を下せば、人と関わるのが好きな社交的な男と言ってしまうこともできる。
「表のガレージのバイクか車で行くか。まさか徒歩なんて言わないよな?」
にぃと笑いかけた。
振る舞いまでも同じになった松永を見て、片や面白そうに眉を跳ね上げ片や不愉快そうに眉をひそめた。
にぃと弟が同じ顔をする。
「車で行く。お前が運転しろ」
鍵を投げ渡すのを受けとる。
「ああ、こいつを忘れてた」
店を出ようとする背中に弟が声を掛けた。ぽんと渡したのは煙草。労わるように肩を叩く。
「頑張ってねン」
励ましよりも不安を感じてしまい松永は曖昧に微笑むことしかできなかった。BBの方の商い物である金属と火薬の重みを感じながら、荷物を車のトランクに積みこむ。
ビリーは一切手伝わず無言のまま助手席に座り、松永が運転席に乗りこむと地図を押しつけた。トンと指で示した場所に赤く印がつけてある。
一言も喋らず見もしない。車を出してもずっと視線は相方を残した店の方に向けられていて、道を曲がって店が見えなくなるまで逸らすことはなかった。
「そんなに大事なら、箱にでもしまっておけばいい」
呆れたような声は、松永の素の言葉遣いだった。
「喋るな」
冷えた声が飛んだ。
「二度もあいつの模倣をさせただけで耐えられない。顔も声もあのままなのに、呼吸音も心音も違う。こんな仕事受けたくなかった。気持ちが悪い」
神経質に指先が窓枠を叩く。頭痛に耐えるように眉を寄せてこめかみを押さえた。
松永は煙草に火を付け、窓の外に灰を落とす。
何を考えているかわからない男。感情を全く顔に出さないままに胸の中では起伏させているから、どこに地雷が埋まっているのか分からない。それがビリーという男に対して抱いている印象だった。
しかし兄弟が関わるとこうもわかりやすいのか。
「案外、分かりやすいところあるよなビリー」
人間らしくてよほど可愛げがある。
がちり、と金属音。
こめかみに銃口が押し当てられている。それは目の前の不愉快を消すための反射的な動作で、だからこそ少し間違えれば指先に力が篭ってしまいそうだった。
「ああ、クソ。バリーがお前にぴったりの仕事だと言うから受けた。何か仕事をやってくれと。ただそれだけだ。あいつは優しいから、こんなことになったんだ」
もう一言でも聞くのが苦痛だとでも言いたげに、空いた手で耳を塞ぎながら吐き捨てた言葉は不安定で危うい。
「優しい弟さんのご期待に添えるように頑張ります。僕を撃つのは車止めてからにしてくださいね、事故る」
こめかみから銃口が離れた。ほっと息をつく。
銃声。
口に咥えた煙草の先端が吹き飛んでいる。
思わずハンドルが大きくぶれ、ぶつかりそうになった車が怒声と共に激しくクラクションを鳴らした。文句を言おうと車体を寄せてきて横についたが、銃口を見て何も言わずにそのまま離れていった。
「しゃ、喋らないと代役にならないでしょう?」
煙草の残骸を窓の外に投げ捨て、言い訳をする。
これは警告、二度目はない。
ビリーの無言はそういうことだ。松永は黙って目的の場所まで運転した。
指定場所の近くで車を止める。路上駐車の取り締まりがないのはスラムの数少ない利点だ。車を降りてようやく我慢していた一服をする。音に敏感で不機嫌な発砲も辞さない男の隣で、ライターをカチカチいわせる勇気はなかったのだ。トランクから荷物を下ろし事務所まで運ぶ。
依頼人の事務所は建物の二階にある。先に行けと言われるままに外階段を登り、ドアをノックする。生きてさえいれば金が支払われるバリーのスペア。高額報酬が生きて帰ってくることのハードルの高さを教えてくれる。
当然のように、一番危険がある役回りだ。三回ドアを叩いた返事が弾丸ということだってありうる。警戒してドア脇に避けて壁に張りついた。
応答がない。電気は付いている。人はいるはずだ。
「どうする?」
ビリーに向かって肩を竦める。
「確かめる。黙ってろ」
異能を使うのか。聴覚強化でを使えば壁の向こうの音を聞き分け、中で誰が何をしているのか聞き取ることができる。
「はいはい」
邪魔にならないように、ビリーの後ろに下がる。
そのとき、窓が開いた。ガラという音がした方を見るとブラインドが降りた窓の隙間から、黒い塊が外に投げ出されていた。
手榴弾、のように見えた。
声を上げる暇もなく咄嗟に頭を覆い、伏せる。
鼓膜に突き刺さる爆音。目を閉じても感じる閃光。耳鳴りがして立っていられず膝をつく。
フラッシュバン。
(まずい)
ビリーの異能に今のはまずい。研ぎ澄まされた聴覚で今の音を受けたらどうなる。ビリーと口に出した声は、酷い耳鳴りのせいで全く無音に思えた。
彼が立っているはずの場所を探る。手よりも先に膝が彼の体に触れた。ひやりとした。意識があれば不躾に触れた松永の腕を振り払うはずだ。
(やばい、これは、かなり)
瞼に焼きついた強烈な光の向こうに、ぼんやりと黒い輪郭が見えた。手を伸ばし揺さぶるが動かない。どの部位だかよくわからないが、とにかくこの場所から離脱しなければ。手に触れた部分を掴んで抱き寄せ、背中から階段を滑り落ちる。
息が止まるほど痛かったが、そんな場合ではない。
「ビリー? ビリー、しっかりしろ」
徐々に戻ってくる五感が伝える周囲の状況は最悪。ドアを開けて出てきた男たち。手には銃。階段の下にいる松永たちに迫る。唯一の戦力たるビリーが動かない。
松永もまだ回復していない。銃をまともに撃てるかどうか。構えた銃が手の中から消える。もたもたとしていると銃を奪い去った男が松永の頭を殴打する。
意識が途絶えた。
頭から冷水を浴びせられた。
見知らぬ室内。簡素な椅子。後ろで縛られた手に誰かの体温を感じる。背中合わせで椅子に座らされているらしい。肩越しに振り返ると、ビリーがいた。
その顔色はいつも通り感情がなく平坦。耳はと声を出さずに聞くと、僅かに顎を引いて頷く動作を見せた。
無事か。薄く息を吐き出した。
「よかったな、相方が起きたみたいだぞ」
ひっくり返した鉄バケツから、ポタポタと水が滴っている。その向こう側に含み笑いをする男がいた。
事務所と聞いていたが、そこはチンピラの溜まり場以上のものには見えなかった。中にいる男は六人。一人は今、松永に水を浴びせた。
正面に壁にもたれて煙草を吸う男が一人。知っている匂い。ビリーから奪ったか。ドアの前に同じく煙草をふかす二人。あっちは僕の煙草かな。恥ずかしげもなくサタデーナイトスペシャルをぶら下げているような連中には、分不相応の上等な葉だ。
壁際の革の破れ油の染みが付いたソファーで、二人がピザを食べている。足元に散乱する握りつぶした酒の空き缶。缶には煙草の吸殻が目一杯詰めこんであった。
「さて商談を始めようか」
男はバケツはひっくり返して椅子の代わりにした。僕たちには尻が痛くなる椅子を用意してくれているのにホストがバケツに座ってご対応いただくなんて恐縮だ。
「すでに支払いは済んでいる」
答えたのは背後にいるビリーだ。松永はこの連中と何を約束していたのか、どんな取引をしていたのか知らないから口の挟みようがない。
「ちょっと高すぎるんじゃないかなぁ」
「金額も商品も変更はない」
「そこをさぁ、もう少し色を付けてくれたっていいじゃないか。互いの関係を良好に保つためのオマケだよ」
バケツの上でバランスをとって遊びながら言う。
「興味がない」
男たちはビリーの態度が気に入らないようだった。彼と対していると本当に優位に立てているのか不安になってくるんだろう。状況が不利であろうと誰が相手であろうと変わらない、直線的な感情の波。この状況でも一切相手に阿る様子がないのは関心すらさせられる。
ビリーの余裕と揺るがなさは、何もかも手の内なのではないかという不安を相手に想起させる。緻密な策も自信を裏打ちしてくれる実力も持ち合わせないから余計に不安になるのだ。
この手の連中が不安を振り払うための取るのは威嚇行動と決まっている。案の定、男は立ち上がって苛だたしげにバケツを部屋の隅に蹴飛ばした。
けたたましい音がなる。
ああ、ビリーさん嫌がるだろうなこの音。
何の前情報も与えられておらず蚊帳の外の松永は、他人事のように転がるバケツを見送る。へこんでしまった。あれじゃ水が汲みにくいだろう。
「持ってもらうさ必ずな」
優位性を仲間と自分に示し言い聞かせなければ気が済まない男は、思わせぶりに拳に布を巻いて二人の周りをぐるぐる回る。檻の中でじっとしていられない発情期の獣を思わせた。
「本当に同じ顔してるんだなぁ。お揃いになるように均等に殴ってやらないとか?」
片方は、同じ顔ではないのだが。しんどかったら異能を解いてネタばらししてやろうかな。片方が単に暴力を受け止めるためだけに用意されたスペアで、尋問の意味がないと分かれば殴られずに済むだろうか。痛みに負けて余計なことを喋らないように松永に何も知らせていないのだというのはよくわかっていた。
とはいえどちらを殴るかというのは、男の気分次第だ。
「バリーに手を出したら、お前を殺す」
ビリーが男を睨みつけた。松永は咄嗟に言葉が出なかった。
この業界でそれは手を出せという意味だ。
誘導されているなどとは夢にも思わない無邪気な男は、得意満面で松永に狙いを定める。
「麗しき兄弟愛、だな」
「やめろ」
極めつけに焦った声を上げながら、背後でガタリと椅子を揺らす。
(結構、演技うまいな)
そんなことを考えながら、歯を食いしばる。
拳が振り上げられ、顔面が殴打されて椅子ごと床に倒れた。
引き起こされて、もう一打。
「ちょっとばかし、有益な顧客情報を流してくれりゃそれで済むんだよ。話す気にならないか、お兄さん?」
さっきまでの弟を案ずる兄のロールプレイはどこへやら。松永が殴られ始めてからのビリーの態度は冷めたものだった。
口の中に血の味を感じる。歯列を舌でなぞって欠けていないことを確認する。
この兄弟は互いを絶対に見捨てないから、ビリーが囚われたのなら必ず助けがくるだろう。問題はそれがいつになるかだ。松永の顔面が殴られすぎて平らになったところで、ビリーは口を割らない。そこで登場されても手遅れだ。
早く終わってくれ。
祈りながら目を閉じて、振り上げられた拳を受け止める。
ばしゃと再び頭から冷水を浴びせられて、気がついた。バケツが歪んでいなければ捕まったときのリプレイかと思う目覚めだった。
髪から滴る水でも舐めればましだと思うほど、口の中が血でベタついて不愉快だ。
固まった血で鼻が詰まって呼吸がしにくい。顔面が腫れ上がっているから、もう異能を使っていようといまいとにバリーには見えないだろう。痛みはあるがそれらを一番鋭く感じたのは初めの数発で、あとはもう頭に加えられた拳と血の味を認識すると同時に吹き出たアドレナリンが痛みをぼやかしてしまった。数時間経ったら猛烈に痛み出すのだろうが、今は男が飽きるのを待つだけの消化試合だ。
拷問というよりは喧嘩の暴力。そんなやり方じゃ手が痛いだろう。
「休憩だ。死ぬなよ」
殴り疲れた男が水を飲みに二人の傍を離れた。案の定、拳が赤く腫れている。後半は別のやつと交代するかもなと、考える。依然として巻き起こる全てのやりとりは他人事だ。
聞きつけられないように声を小さくして、背後にいるはずのビリーに話しかける。
「危険手当が欲しい」
「込みの金額だ」
「ですよねぇ」
ハハ、と乾いた笑いがでた。笑いのつもりで発声したが、実際は血の音で湿っていたし頬がパンパンに腫れているから音も不明瞭だった。ため息か咳に聞こえたかもしれない。いや、そうであってくれ。そうでなければ殴られて嬉しくなっているマゾヒストか、殴られすぎて脳に深刻なダメージを受けたのだと思われてしまう。
「バリーさん、助けに来てくれるんですよね」
そうでなければ死んでしまいそうだ。何しろこいつらの振るう暴力ときたら素人のそれで、残酷さと深刻さが足りないと同時に適切な加減というのもまるでわかっちゃいない。
「この状況に気づけば、来るだろうな」
気づかなければ来てくれないということか。いや、兄弟の窮地に気づかないはずはない。来てくれよ。くれないと困る。来ると言ってくれ。
この件で松永は他人事のつもりでいたが、真に他人事のような態度というのは、ビリーをお手本にするべきだ。
「私を縛る縄は切れるか」
何ですか、その自力脱出を見据えたオーダーは。助けが来るまで耐えれば、座っているだけで万事うまくいくと言ってくれよ。
「人使い荒いなぁ。手、寄せてくれます?」
仕方がなく手探りでビリーの体温を探り当てて、拘束を指で確かめる。この程度ならば異能を使うまでもない。ベルトの隙間に隠してあったプッシュナイフを取り出して縄を切る。
「策はあるんですか?」
敵は五人いる。下手くそなのが撃つ前から分かる腕前でも戦力は戦力、銃は銃だ。動体視力を強化して立ち回ることができるバリーならともかく、多対一の戦闘は二人とも得意ではない。
「流れ弾に当たんないように頭低くしてろよォ、松永」
軽薄な声がした。
「へ?」
「始めてくれ、ビリー」
後ろの男がつぶやくと同時に部屋の照明が落ちた。ブラインドを下ろしてあった部屋は、明るさに慣れた目からは瞬間、暗闇になったように見えた。椅子の背もたれを思い切り蹴飛ばされ部屋の隅まで吹き飛んだ。手探りで自分の縄を切りながら、何が起こっているのか見極めようと目を凝らす。
マズルフラッシュで一瞬照らし出されるシーン飛ばしのコマ送り映像。音声だけが滞りなく断末魔を伝えてくる。言われた通りに頭を低くし、じっとしていた。こういう場面の鉄則は下手に立ち上がるな、動くなだ。
随分と長く感じたが実際は、一分と掛からなかった。
暗闇に目が慣れる頃には、制圧は完了していた。
部屋の中でただ一人立っている男は、部屋の暗闇など感じていないが如く鮮やかな手際で、いささかのためらいもなく五人の命を刈り取って見せた。
「も、もしかしてバリーさん」
羅針盤を刻まれた頭部が、松永の方を向く。銃をリロードしながらにぃと笑う。
「災難だったな、松永」
その笑い方や手を差し出してきたところを見て、バリーだと確信する。ビリーは松永に手を触れたがらない。
「いつから入れ替わってました?」
「さーて、いつからだろうな」
そんなことより帰ろうぜ、と笑いながら腕を掴んで松永の体を引き起こした。暗さに目が馴染んだところだったのに、部屋の電気が元に戻って目が眩んだ。
ガチャリとドアが開く。
入ってきたのはビリー・ワイズマンだった。こちらは正真正銘の本物、だと思われる。初対面で撃ち殺されそうになったときのことが思い出されて、咄嗟に異能を解除した。
暗視と優れた動体視力を持っているのが弟のバリー・ワイズマンなら、敵を制圧した方がバリーに違いない。
「なぜこんな回りくどいことを?」
敵を騙すならまず味方からとはいうが、松永まで騙しているとは思わなかった。
「向こうがどの程度我々のことを掴んでいるか、わからなかった」
弟に怪我がないか確かめながら、ビリーが答える。確かに二人について詳しく知っていたら、ビリーよりも先にバリーを殺すだろう。そして単身で来たのなら、片割れの存在を警戒する。それでスペアを使って油断させたか。
仮に松永が自分の命惜しさに替え玉であることを白状しても、捕まえたのが近接戦闘に特化したバリーであるということまでは露見しない。松永も依頼で自分の命まで捨てるつもりはない。本当に命の危機を感じたら、ビリーのふりをしたバリーを売るくらいのことはした。そのための策か。弟以外は信用しないという警戒心が強く慎重なビリーらしい。
今回は相手がただのチンピラだったから命拾いした。
「これ、依頼は達成ってことでいいんですよね」
退院したばかりだというのに、ノーデンスに逆戻りだ。報酬がもらえないとなるといよいよジリ貧の生活から抜け出せない。
それでも今この事務所に転がっている連中みたいに命を落とさなかっただけ、ましではあるが。
「口座……はないんだったな。事務所に取りに来い」
「入院するなら俺がノーデンスに届けてやろうか?」
「それ配達にお金かかるじゃないですか。今回は入院はしないで済みそうですから、取りにいきますよ」
今回は提示された報酬が、十分に黒字になる金額だったから耐えられた。そうでなければ仕事を途中放棄し、裏切り者として銃口が松永に向いていた未来もあったかもしれない。
一人残らず息絶えて転がっている血なまぐさい部屋を見渡す。
「話、聞き出したりしなくてよかったんですか?」
敵対するものは徹底して潰そうとするワイズマン兄弟にしてはぬるいやり方だ。皆殺しの方が生存者を残すより手ぬるいというのも奇妙だが、相手が集団であるなら末端よりも頭を潰そうとするからそうなる。
ワイズマン兄弟の扱う武器は品質が高いし仕事も確実だが決して安くはない。こんなチンピラに用意できるとも思えないし、頭が悪そうな顔をして要求が顧客情報だったことも気にかかる。ワイズマン兄弟の情報を得ていた割りにはやることが雑。資金と知恵を提供する何者かが背後についていると考えるのが自然だ。
松永でも予想がついたのだから、ビリーはよくわかっているだろう。
「どうせ何も知らない」
「量産品の粗悪品、だ」
高級品だろうと量産品だろうと、武力は武力だ。単なるチンピラでも銃を持たせて横一列に並べて発砲させればそれなりに人を殺せるし、粗悪品の銃でも弾を込めて引き金を引けば撃てる。暴力というフィールドでゲームを優位にするのに必要なのは、ごくごく単純な物量だ。
だが銃に美意識をもって向き合っているビリーは、そういう品のない連中を嫌う。
「最近、この手の連中、多いんだよ」
バリーがうんざりしたようにため息をついた。
「この手の?」
「大した実力のないのにイキってるチンピラ連中っていうの?」
「本来なら相手にしないところだが、金は振りこまれるからな」
それならば余計に話を聞きだす必要があったんじゃないだろうか。銃は流行り廃りのようになんの理由もなく増えたりはしない。必ず増やしている奴がいて、何かの要因があるはずだ。
松永の言わんとすることを察したバリーが肩を竦めた。
「いずれ本命が出てくるさ。松永は、なんも知らないよな?」
「知ってたら今回の件は受けなかったですね。僕は人に殴られて喜ぶ趣味はない」
「それもそうな。今のところうちに直接弾丸撃ちこんできたわけじゃないから、見逃してやってるんだよ」
「なんだか最近、街全体がきな臭いですね」
娼館で起こった一連の事件もそうだ。ノーデンスあるいはBBは不可侵とは言わないまでも、手を出すのならそれなりの覚悟と力を持っていなければ痛い目を見る。だから今までずっと小競り合いはあったものの、スラムでその周辺は比較的穏やかな、中立とも言える領域だった。
「ま、僕は自分が立っている場所が無事であれば他はどうでもいいですから」
戦場からは慎重に距離を取って、身の安全を確保すること。それがこの街でうまくやっていくコツだ。
対岸の火事は対岸で燃えているから、笑って写真を取ることができる。
「いつまでも他人事のふりして調子に乗っていると痛い目見るぜ」
「知らない間に忍び寄る足音が、お前には聞こえないんだろうな」
ワイズマン兄弟が冷ややかに松永を見ている。
「そのときは、煙に巻いて逃げますよ。僕の得意分野ですから」
鼻血を拭い煙草を取りだそうとして、それもチンピラどもに取られたのだということを思い出した。ノーデンスの個室に戻れば予備が置いてある。あとはワイズマン兄弟の商店にも。だがどちらにしろ今この場にはないのだ。
痛み止めを飲んで、治療を受けて顔を洗って、病院のベッドに体を投げ出して一眠りしたい。
「ほら、おまけしてやるよ」
バリーがビリーから受け取った煙草を一箱投げ渡す。
ワイズマン兄弟にしては気が利く。ありがたく受け取って火を付ける。
煙の匂いを残し、松永はひらりと手を振って立ち去った。
街に降りたときには、別人に変わりその姿は煙が街に解けるように消えていた。