黄泉がえりの悪夢に処方


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 容態が安定するまでの間に起こったことは、記憶に薄い。脳みそがアメーバかミジンコと同レベルまで退化して、生きること以外の全てをを放棄していた。二度と耐えきれる気がしない苦痛だったということだけは、はっきりと記憶している。
 薬が抜けるまでの中毒症状の発作。ナイフで刺し貫かれた手のひらと、銃弾を撃ちこまれた腕と足。劇薬で焼かれた喉。それらと比べたらほんの些細なその他の諸々。
 ぼうとした意識の中で歯を食いしばり、自分の中を流れる血潮や鼓動や呼吸に意識を集中し、なんとか命を繋いでいた。
 外界に向けるリソースはゼロで、TVショーだのラジオだのといった娯楽を享受する余裕はない。医師や看護師が声を掛けてきていたんだろうが、それだって確と聞こえてはいなかった。痛みに耐える自分の呼吸音のみに集中して、怪我からなるべく意識を逸らす以外にできることはなかった。
 いっそ傷が治るまで、全身麻酔で眠らせておいてくれと願った。
 そんな地獄のような日々が過ぎ去った後、訪れたのは退屈。痛みを感じて鎮痛剤を求め、その他の投薬も受け治療を施され怪我の経過を観察され、食事をし眠る。それらが順番を変えながらやってくるだけのルーティンワーク。
 ようやく単細胞生物から人類に復帰した松永の、入院中の記憶というのはこの辺りから始まっている。だいぶ長いことノーデンスの個室で過ごしているように思う。
 ベッドに横になっているだけの生活に昼と夜の境目はなく、日付の感覚は薄い。
 退屈に漂いながら、どうにも落ち着かない気分で身じろぎをした。心の表層が細波立って、目を閉じていても眠りに落ちていけないのだ。
 それは処方を許された限界量まで鎮痛剤を打ったのに消えない痛みのせいであり、横になる以外にすることがない体が寝ることに飽いていたせいでもあった。
 だが実際のところ松永から眠りを遠ざけている最たるものは、意思を伝えることすらままならない、無防備な体を抱えていることからくる不安だった。
 おそらくそれは誰かと肌を触れ合うことであったり、語らったりすることで解消されるものなのだろう。どちらもにも縁がないまま生きてきた男には、それが不安であるということの自覚もない。
 煙草に火をつけタールとニコチンでそれらを煙に巻くくらいしか、対処法をしらない。しかし残念ながらノーデンス内は禁煙である。二階の喫煙所に赴くより他ない。
 ベッドから起き上がり、たっぷり一時間かけて片手で操作できる電動車椅子に移動した。以前入院したときは借りられなかったものだ。右足は無傷。右手も指先は動かないが骨が砕けた左腕に比べればマシで、椅子に移動する程度の動きであれば無理を押せば辛うじて行えた。
 途中で仕損じてベッドから滑り落ちる。傷に衝撃が伝わり痛みに叫んだが、まだ喉から音は出なかった。
 看護師を呼ばないのは喉に悪いから煙草を吸うなと言われているからであり、松永が出歩く先が喫煙所しかないこともバレてしまっているからだ。呼んだところで大人しくベッドで寝ているようにいわれるか、気晴らしならば屋上にでもどうぞと連れ出されるのがオチだろう。
 永遠に続く上り坂のような困難な道のりは、平時であれば三分とかからない平坦な床だ。
 絨毯を敷いた廊下は電動車椅子の重量で移動しても物音はしない。医療関係者と車椅子に乗った人間と、患者衣を来た人間。それらが視界に入らなければ、廊下の内装は医療施設よりも宿泊施設に近い。行き交うに不自由がないように照明は付いているが、人の少なさと窓の外の暗さがなんとなく薄暗い印象を与える。
 ようやく辿りついた喫煙所には、先客がいた。
 クロックワークキッチンの護衛役、確か名前はジンジャーだったか。
 立っていても見上げる位置にある長身は、車椅子に座っていると迫り来る壁のように感じられる。人を威圧するような体格に似合わぬ繊細な神経の持ち主らしく、いつも眉間にしわを寄せている。人の視線から逃れるように、金色の髪と眼鏡で隠した顔は存外に整っている。
 喫煙所に入って来た人の気配に反応して顔を上げ、目があうと小さく会釈をした。
 広いとは言えない喫煙所内に車椅子を進める。まだ操作に慣れない電動車椅子の挙動に苦心しながら、何度も切り返して男の隣に寄る。手を貸してくれれば助かる。だが、それは目の前の男に望んでも仕方がない。
 深夜の喫煙所で、松永と同じく眠りに落ち損ねた男の顔はぼうとしている。壁に貼られた黄ばんだポスターを見つめていた。
 とんと肘でジンジャーを突くと、ようやくこちらに目をむけた。
 ください、と口を動かす。
 それが煙であればもはやなんでもいい、という気分だった。
 煙草を指差されたので頷く。
 灰を落としてから口元に差し出された煙草を咥える。男の指先にも煙の匂いが染みている。
 長い道のりを経てようやく手に入れた煙は、酷い味がした。
 想定していなかった刺激に激しく咽せる。
 慌てたように煙草を除けようとした腕から逃れ、改めて煙を吸いこむ。ワイズマンの店に通うようになってからは縁がない、スラムの安煙草の臭いだ。しばらく吸っていなかったから面食らったが、少し前までは松永もよく世話になった懐かしい味だ。 
 松永に渡した煙草の代わりにもう一本取り出して火を付けようとしていたのを肘で突いて止める。
 もっと上等なやつがある。
 口を動かす。
 読み取れなかったようでジンジャーは首を傾げた。
 短くなった煙草を、首を伸ばして灰皿に落とす。
「もう一本欲しい?」
 逆だ。首を振る。
 僕のを、渡す。
 わかりやすいように口を大きく動かしてみるが、伝わらない。発声しようと試みてはいるが、喉からは枯葉をこすり合わせるような音しかでない。喉が癒えるにはまだ時間がかかると言われている。
 今は筆談用のメモもペンも持っていない。
 言葉を仲介してくれる男に意を伝えるときにするように、肌に唇をつけて動かしてみるがあまり意味はなかった。
「すみません、わかりません」
 心の底から申し訳なく思っている声で、ジンジャーがいう。こちらも煙草を渡すくらいのことでこんなに手間取る羽目になるとは思っていなかった。
 こんな数文字の言葉が一向に伝わらないのがもどかしい。自分から始めたことなのに、次第に苛立ってくる。能天気に目の前に差し出されている手のひらに噛みついてやろうかとさえ思った。
 あ、と何かに気がついた顔をして、ジンジャーの目線が松永の背後に向いた。それにつられて振り向く前に、顔の前に手のひらが差し出された。
 調教師が、後ろに立っていた。
 声を持たない男は口がきけない相手とのコミュニーケションにも通ずるようで、唇の動きだけでこちらの言いたいことを完璧に理解してくれる。
 突き出された手のひらは、聞いてやるから話せという合図だ。
 右手が動かせるようになるまでの間は随分と助けられたが、松永にとって彼は進んで手を借りたい相手ではない。だが、意思疎通のためにしかたなく手のひらに唇を寄せる。その度に、脳裏にオーストリア人の書いた戯曲の一節が浮かび、屈辱的な気分になる。
 手のひらの上なら懇願のキス。
 唇の動きと吐き出した呼気のリズムから、あっさりと意を汲んだ手がポケットにするりと入りこむ。それすらも不愉快で振り払いたいほどだった。すぐに煙草の箱をつかみ出し、一本がジンジャーに渡され一本が松永の唇に添えられた。
 ジンジャーがライターの蓋を跳ね上げる。澄んだ金属音が深夜二時の喫煙所によく響いた。安物の煙草を吸っているわりには上等な品を持っているな、と火を付ける手つきを見ながら思った。
◆◇◆
 湿気が肌に纏わりつく酷い日だった。ポートタウンの港に浮かべた油膜が地上に流出してきたように、空気の粘度が高い。
 スラム街の夏は最悪だ。この街が社会の底辺だということを、思い知らせてくる。
 排水口からは悪臭が立ち上り、害虫は増え、ネズミが蔓延り、腐敗を伴って街全体が不衛生になり病が流行る。
 空気が粘つき重すぎる。息が苦しくて吐きそうだ。
 寝返りを打った手が、ビタと冷たいゴム袋の感触に張りついた。
 空気の動きで、体に腐臭が纏わりつく。ぱちと目を開けた。
 手のひらの下に死んだ人間が居る。
 室外機が唸るばかりで、効きの悪い空調を通して吐き出される夏の空気は、死後一晩しか経っていないはずの人体から死臭を立ち上らせていた。
 張りを失った肌。指先に思わず力がこもり、手が正体のよくわからない浸潤液のようなものでベタついた。
 胃の腑がひっくりそうだった。吐くのを我慢した理由はなんだったのか、もう覚えていない。
 ベッドに吐くのはまずいという見当はずれかつ常識的配慮からだろうか。それとて気にする筋合いもない他人の家だったが。
 前日に安くて高濃度の消毒液じみたアルコールしか腹に入れなかったから吐き出す物がなかったのかもしれない。
 あるいは単純に、目の前の死体が怖くて一歩も動けなかったのか。
 同じ布団の中で屍肉と松永は見つめ合っていた。どこにも焦点を結ばないどろりと濁った目の、目蓋がぴくりと動いた。
 瞬きする死体。そんなバカな。
 背筋を怖気がぞわりと這い上がる。
 目蓋を押し上げ、白目の際から這い出した蛆がボタとシーツに落ちた。
 絶叫しベッドから転がり落ちたように感じたところで目が覚めた。落下を錯覚した足が空を切って、腹の底にヒヤリとした気分を残した。
 実際の松永は、ベッドの上にいる。
 早鐘のように打ち、口から飛び出しそうな心臓を胸骨の上から押さえつける。寝起きと同時に激しく渦巻く血流が脳みその中をぐちゃぐちゃにする。
 悪夢の余韻が見せる怖気がぞわぞわと鳥肌を立てる。それらが服の下で蛆が這い回る幻覚を見せ、松永は痛みで全てを上書きするように、両腕を掻きむしった。
(落ち着け。落ち着け)
 自分にいい聞かせる。手足を伸ばして体を楽にしろ。
 深呼吸をしようとしたが喉の渇きで咳きこんだ。息を吸えを焦るほどに呼吸が浅くなり横隔膜が痙攣する。
 水、ナースコール。
 目標を定められないままベッドの上でもがいた手が、男の背中に触れた。
 腐乱死体の悪夢の恐慌が体を刺し貫いたが、手のひらに返ってきた人の温度で、息が楽になるのを感じた。
 状況が飲みこめず、困惑が不安を押し流していった。
(なんでこんなことになってる?)
 手に触れた分厚い背中と暗闇で仄白く見える金髪はジンジャーのものに違いない。
 頭の中に生じた疑問に自分自身が返事をする。
 なんでもクソもあるか。松永が引きずりこまなければ彼がここにいるはずはない。
 ああ、そうだ。夜の喫煙所。そこで彼と居合わせたんだ。
 深夜二時の喫煙所。
 故郷であれば草木も眠る丑三つ時、という表現ができただろう。
 その頃には左腕を除いて傷は概ね塞がって、松葉杖の補助があれば車椅子なしでも歩けるようになっていた。久しぶりに自分の両の足で地面に立つと、体が記憶の中にあるよりずっと重たく感じられた。
 声もなんとか出せるようになり、自力での生活は成り立つ。退院を望めば許可されるまでには快復していた。
 だがリハビリが終わるまで通院しなければならないし、家を持たない松永には退院するメリットがない。仕事ができるようになるまでは入院しているつもりでいた。
 自力で動けるようになったところで、院内で出歩く先は喫煙所以外にない。それとて、喉の治りが悪くなるから控えるように言われている。
 怪我の痛みが薄れてしまえば、鎮痛剤の副作用である眠気の恩恵に浴することもできない。結局眠れない夜を過ごすには、看護師の目を盗んで病室を抜け出し、紫煙に揺蕩う時間を夢と錯覚して過ごす以外にない。
 エレベーターを使うと受付で看護師に見つかるので、非常階段を使って階下に降りる。非常灯のグリーンの明かりを頼りに、松葉杖をつく足音は夜の病院に不均等のリズムを響かせた。
 肩で非常扉を押し開けて、二階に至る。
 ヤニで黄ばんだ蛍光灯の明かりが、人影を作っているのが見えた。
 そこにいるのが誰なのか想像がついた。ジンジャーの広い背中が、喫煙所のベンチに小さく収まっている。足音に気がついて振り返り、松永の姿を認めて一瞬動きを止めた。逆光でよく顔は見えなかったが、彼がどんな表情をしているのかは既に確認しなくても分かる。
 ペコリと頭を下げて、入れ替わりに喫煙所を辞そうとした男の進路をギプスで固定された足で塞ぐ。
「ジンジャーさん、ちょっと、お話しましょうか」
 久しぶりの会話は、酒灼けしたようなしゃがれた声だ。自力で意思疎通ができるようになったのはそれだけで喜ばしい。だが久しぶりの発声は喉の痛みを伴い、飲み物でも買ってくればよかったと後悔した。
 怪我の完治していない体を押しのけて去ることもできず、ジンジャーは眉を八の字にして戸惑いを表す。
 松永は喫煙所の奥をくいと顎で示す。
 ベンチに腰を落ち着けて、隣に座れと指で示して煙草を差し出す。煙草の箱を差し出すとおずおずと一本取っていった。
 ライターを出すのが面倒で、ジンジャーに火を分けてもらう。安煙草に不釣り合いな銀色のライターは、相変わらず蓋を跳ね上げるときに綺麗な澄んだ音を立てた。
「怪我の方、だいぶ良くなったみたいですね」
 紫煙を燻らす二呼吸のあと、先に向こうが口を開いた。
「おかげさまで。だから、いい加減そのしけた面を僕に向けるのをやめてほしい」
 声が出るようになって、先延ばしにしていた話がようやくできる。
「し、しけた……、申し訳ない」
 ああ、そういう顔をさせたいわけじゃないんだけどな。
「僕の怪我は、僕の責任だ。人に勝手に背負われる筋合いはない。これでもプロとしてやっているんだ。一人で立てる。庇護対象として見られるのは我慢ならない」
 松永は言葉を柔らかくする方法を、知らない。思う言葉をそのまま口にするより他ない。
「ジンジャーさんには、助けられた。あなたの体格を借りてなければ僕の左手は再起不能だったと思います。もう怪我も治った。だから、その罪の意識を抱えた顔で、僕を見るのをやめてくれ」
 少し視線を横に流せば見える男の表情を確認するのが、気まずくてできない。居心地の悪さをごまかすように、一度は出すのを渋った自分のライターを取り出して指の中でいじっている。
「つまり、気にするなって言いたかった」
 終始沈黙したままジンジャーの指の間から、吸わないままに燃え尽きた煙草の灰が落ちた。
*ゲストページ
 どんな顔をしているのかそういうときこそ見たいのに、飲み物を差し出してきた男の顔は逆光で見えなかった。
(難儀な癖だな)
 松永は苦笑した。
 缶とペットボトルを容易に片手に乗せられる男の手から、水のペットボトルの方を受け取る。ジンジャーは缶コーヒーのプルタブを押し上げながら、ベンチに座った。コーヒーの匂いが白く烟る喫煙所に、しばし穏やかな匂いをもたらした。煙の香りと焙煎した豆の香りの相性は悪くない。
 男の体重がベンチを軋ませたときに、胸中に生じたのは安堵だった。その感情を生じさせたのが立ち去ると思ったジンジャーが再び戻って来たことにあることに、松永は内心で動揺していた。
「あの、ジンジャーさん、これ開けてもらえると」
 一度受け取ったペットボトルを、返す。
 右手は動くようになったといってもまだリハビリ途中で、力がうまく入らない。片手では開栓できないのだ。
 密閉状態が破られるぷしという空気の漏れる音の後、目の前に蓋を緩めたペットボトルが差し出された。表面を覆う水滴で手が濡れ、膝に水滴が滴った。
 口に含むと、久しぶりの会話に疲れて熱を持った喉に水の冷たさが染み渡り、呼吸が楽になる。
 なるほど、これが今の僕に必要なものか。
 ベンチの空いた席に足を投げ出し、隣に座る男に背中を預ける。
「あの、松永さん」
 背もたれにされて動けなくなったジンジャーの、戸惑ったような声を愉快な気持ちで聞き流す。
 煙を天井に向かってぷかと煙を吐き出す。
「僕はまだ吸い終わっていないんで」
 もう少し付き合ってくださいよ、と煙草を差し出す。
 そんな安煙草を隣で座れちゃ匂いが気になって仕方がないと言葉を続けると、ジンジャーは躊躇いがちに一本取っていった。
(僕に足りないものがあと二つほど)
 一つは、部屋に戻るための足。
 そしてもう一つは眠りを共にしてくれる暖かさ。護衛の癖は汲めるだろうか。
「ジンジャーさん、部屋まで送ってくれませんか。足が、痛いので」
 そんな愚かなことを口に出してしまったのは、悪夢の予感でもあったからなのか。
 彼の性格ならばその言い方をすれば断らないだろうとわかっていたし、部屋に運ばせた彼をそのまま布団に引こもうという意図をそのとき、既に持っていた。
 どれほど後悔するとしても、数時間前の自分が血迷って愚かであったことに感謝した。結果としてジンジャーは松永のベッドで肩身が狭そうに体を丸めて眠りについていて、その体温に救われた。
 起きるなよと心の中で念じながら、動く方の手で隣に眠る男の胸の鼓動と首元の脈を確かめ、手のひらに呼気を感じることに安堵した。
 情けない。情けなくて嫌になる。
 人に手を伸ばすな。一人で生きられなくなる。
 自分の名前を思い出せ。帰泉。死ぬことを名前にして自分を呪ったくせに、死者を恐れるな。あんな夢は、なんでもない。僕は死人と同じだ。
 ありったけの言葉で自分を罵っても、生きた体温に縋る弱さを殺せなかった。
 気づかれたらどうすればいいという不安に苛まれながら、ぐいと顔を寄せる。
 眠る男のゆったりとした呼吸と鼓動に身を委ねていると、焦燥が消えて自分の心音も落ち着きを取り戻していくのがわかった。
 寝られないのだから、仕方がない。起きる前に離れればいい。
 鼻を寄せた髪の毛には、煙草の煙の匂いが染みついていた。

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