汚泥の底はとかく眩しい


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 自分の庭のように思っているポートタウンのスラム街も、実際は知らない場所の方が多い。富裕層の暮らすエリアのように整えられていない街並みは猥雑で、日々刻々と姿を変えていく。気分を変えていつもと違う場所を歩けば知らなかった一面を見せるし、馴染みだと思っていた場所が突然外観を変えている。
 古びた煉瓦の色が並ぶその路地は、松永の知らない通りだった。建築様式や建物の色が、随分古い時代から手がつけられていないエリアだと教えてくれる。
 ホテル ノーデンスから与えられた依頼を共にする相手との、顔合わせの場所として指定された店があるのだ。まだ点灯していない看板を頼りに階段を降り、半地下の店を見つける。営業開始前なのかノーデンスによる人払いの計らいか、closedの札が下がっていたが店内には電気がついていた。年季が入ってこなれたベルの音が、松永を出迎えた。そこはポートタウンがサフィールハーバーと呼ばれていた頃の面影を残す小洒落た店だった。
 古いスピーカーが歌う掠れたフォービートは、主役を奪い合うような激しいジャズセッション。
 カウンターの向こうで、店主が乾いた布でグラスを磨いている。入店してきた松永に気がつくと無言のままで会釈した。目が会うと心得たように、目線で奥を示した。
 座り心地が良さそうなソファを備えたボックス席に、人影がある。
 他に客のいない店内で間違えようのない三人組。松永と同じくホテル ノーデンスの利用者の中から今回の依頼に適任の人材として選ばれた。ボディガード、運び屋、調教師で構成されたチームはクロックワークキッチンといった。その内の一人を松永は既に知っている。店に入った瞬間に目に入るこちらに背を向けて座るつるりとした後頭部に顔をしかめた。嫌悪を露わにできるのは相手がこちらを視界に入れていない今だけだ。
 調教師。無毛の頭部。表情を削ぎ落とした顔。喉に走る赤い傷痕は、彼が声すらも捨てている証。一切の欲を捨てたような外見をしているのに、仕立ての良いスーツの赤色だけが妙に色気づいて映る。
 彼は、松永の最も触れられたくない過去に関わっている。
 先日、ノーデンスで再会したときは初対面の振る舞いに見えたが、本当のところはどうかはわからない。逆の立場であったなら、過去の仕事で自分に恨みを抱いている可能性のある相手の前で関わりを思い出させるような態度は取らない。当時、松永はまだ若くて刺青もいれていなかったから、覚えていない可能性だってある。ただ東洋人という特徴は目を引いただろうし、異能を見られていれば印象に残る。今の松永と結びつけることは容易だ。
 口に出して訊ねれば藪蛇だというのはわかっているから、向こうが態度に出さない限りはこちらも素知らぬふりを続けるしかない。
 本当は調教師と接点を持たなねばならない仕事など受けたくはなかったのに、松永には断れない理由があった。
 迂闊な異能の使用と、軽率な契約書へのサインで思わぬ借金を背負った松永 帰泉はホテル ノーデンスへの年会費の支払いに不安があった。生命線であるホテルの会員資格を失うわけにはいかないが、借金の方も放置すれば直接的に命が危うい。この依頼は年会費の代わりとして与えられたものだ。支払いにはそういう方法もある。依頼として受けたら、どれくらいの報酬が貰えるのかは知らないが、年会費に相当するくらいだから結構な金額なんだろう。つくづく、タダ働きであることが惜しまれる。
 ノーデンスからの要求は、とある麻薬の流通経路を探り、元締めを突き止めることだ。院長と呼び慕われるアンソニー・コンカートは医療関係者だが、マフィアのボスとしての顔を持っている。近頃、その縄張りで許可されていない薬物をばらまいている連中がいる。医者でもある彼が、流通を認めなかった代物だ。その副作用と依存性は極めて高く、使用者は脳髄の奥に地獄へつながる穴を開ける羽目になる。
 それは〝無貌〟の通称で、売春婦を介して歓楽街を中心に街に広まっている。娼婦がもっと気持ち良くなれるからと客に薬を渡し、客が知り合いに勧めることで広まっていく。娼婦に薬を渡すように指示するのは娼館の元締めだろうが、問題はそこから先だ。
 どこに繋がっているか、娼館という末端から先を辿るために、オーナーを捕まえて尋問し情報を聞き出す。松永が異能を使って対象を釣り、確保する。気を失わせたらボディーガードのフォローの元、運び屋がオーナーを届ければ、腕のいい調教師が連中の秘密を丸裸にしてくれるだろう。
「こんにちは、クロックワークキッチンの皆さん」
 席に近づき声をかけると、調教師の向かいに女と並んで座る男がいささか緊張した面持ちで顔を上げた。店に入りドアベルが鳴ったときに一度目があったが、気づかなかったふりをして顔を伏せ、声を掛けるタイミングをこちらに委ねたことに松永は気がついていた。
 がっしりとした体つきをしているからボディーガードに違いない。消去法で彼の隣に座っている小柄な女が、運び屋ということになる。
 座っていても松永よりも身長が高いことが分かる程度に背の高い男二人に、ボックス席のソファとテーブルの間のスペースは窮屈そうだ。長い足を折りたたみ、あるいは広い背中を小さく丸めて座っている。
 テーブルに乗ったグラスは三つ。ストローを刺してあったりミントを散らしてあったり、あるいは中身がほとんど空だったりするそれらの中で、溶けた氷がカラと音を立てた。
 でかい図体の割に神経質で気弱そうな顔をした彼は、ジンジャーと名乗った。役割は護衛。しかし今回のメンバーの中では最も明確な武力を有する。娼館からオーナーを連れ出すにあたっては力仕事の他にもしものときは荒事を任せる。背後になんらかの組織との関わりが予想される以上、事が起これば流血は避けられないだろう。
 松永を含めた四人の中ではもっともタフさが求められるはずなのに、その男の印象はどちらかというと神経質で繊細。
 ドアベル、グラスを拭く乾いた布の音、スピーカーのノイズ、松永の足音。それら些細な音の一つ一つが気になって仕方がないとフレームの向こうの目が落ち着かなさげに揺れる。
 積極的に人と喋りたがるタイプには見えないし交渉役に向いているとも思えない。だが喉が潰れて口のきけない男と、喋るつもりのない女に変わって松永と喋るのは彼しかいない。
 ジンジャーは、隣に座る常につま先が地面から三センチ浮いているような雰囲気の女を指して、ブリュレと紹介した。見立て通り運び屋で間違いないらしい。退屈だとかやる気がないとかいうわけではなく、ぼんやりとしているのは素の性質らしい。本当に車の運転を任せていいのか不安になった。
 最後に調教師を紹介しようとするのを、松永は遮った。
「初めまして。僕の名前は松永 帰泉。お会いできて光栄です」
 いつもの通り、定型文を読み上げるような自己紹介はジンジャーとブリュレに話し掛けるようでいて、その実そちらには少しも意識を割いてはいなかった。ソファの背もたれに両手をつく。目の前にある男の頭部。
「ああ、でもあなたと会うのは二度目ですよね。病院以来だ。お名前を聞いても?」
 調教師の顔を、後ろから覗きこんだ。パーソナルスペースに無遠慮に踏みこむ松永の振る舞いに対して、少しの感情の揺れも見せない。息の触れる距離にある顔を無関心に見つめ返し、視界を塞がれることだけが困ると言いたげに、少し頭の位置を横にずらした程度だった。
「彼は喉が」
 取り成そうとした言葉を手で制す。知っている。彼が、声を出せないなんてことはとっくの昔に理解している。
「あれ、サラミが二人いる」
 ぼんやりと目の前にあるものをただ視界に入れていたブリュレが、調教師とその後ろに立つ松永を指差した。ジンジャーが驚いて息を飲む。
 サラミというのか。
 サラミと呼ばれた調教師の姿に〝変装〟すると余裕を持たせたサイズを選んでいてもなお、松永の服は窮屈に感じた。
 懐からペンを取り出そうとする動きは名を問うたことへの返答か、あるいは無遠慮な松永の振る舞いに物申したかったのだろうか。その腕を押さえつけ動きを封じる。
 調教師の眉間に生じた僅かな凹凸が、おそらく不快の意思表示なのだろう。
「よく聞こえないな、ちゃんと〝喋って〟くれないか?」
 姿形を完璧にも模倣できるが、声だけは松永のままだ。
 男の首に手を這わせる。平常通りの脈拍。指先に感じるのは、縫合痕の皮膚の引き攣れ。歪に盛り上がる傷跡が爪に引っかかる。彼の声を奪ったであろうその跡。
 この縫い目の中に、お前は何を隠している。
 その仮面を引き剥がして中身を暴いてやりたい。
 松永の振る舞いに対し、調教師は冷静そのもの。少なくとも向かいでそれを見ているジンジャーに比べれば、反応はないに等しい。顔色一つ変えず抵抗もしない。怒りも戸惑いも恐れもしない。
 されるがまま松永に触れられていた喉をわずかに動かし、薄い唇の隙間から細く息を吐く。それはため息のようだった。無造作に手を伸ばし松永の襟を掴んだ。
 異能を使っているから、普段よりも二十センチほど視界が高い慣れない重心。屈んだ姿勢で引っ張られれば容易に体勢は崩れる。
 頭からソファに落ち、体が一回転した。足がテーブルを叩き、グラスが倒れて氷を垂れ流しながら転がる。
 回る視界で揺らいだ平衡感覚が正常に戻ったとき、松永は完全に押さえこまれていた。首筋にぐいと腕を押し当てられて、動きを封じられる。それだけのことなのに恐怖が全身を貫き、息が苦しくなった。もっと致命的な状況から脱したことがあるし、激しい痛みに耐えたことだってある。全ての場面に於いて自力で状況を脱してきたという自負と身についた体術は、全く無意味なものに成り果てていた。
 激しく動揺する心は己の取るべき姿を失い、異能が解けた。喉を押さえつける腕の下で黒く蓮の花が咲き、腕に墨の色が滲む。松永に戻ってしまえば、調教師の姿がより一層大きく威圧感を持って迫る。
 長身だがジンジャーのように筋骨隆々というタイプではない。むしろ現場で立ち回り、場合によっては素手で戦う松永の方が、武に於いて秀でていてもいいはずだ。
 にもかかわらず少しも体が動かせないのは、調教師が人体をよく心得ているからだ。関節と、筋肉と、各所をつなぐ神経と、それらを動かす人の心。それらの要点を押さえれば体格にいくら差があっても、動きを奪うことができる。
 それは優秀な調教師と呼ばれる男の、得意分野だった。
 支配される。
 過去の痛みと恐れが襲い掛かってきて、松永は恐慌した。
 脈が早くなる。既に我を失っていることなど知られているという判断もできず、動揺が相手に伝わってしまうということに焦り、足をばたつかせる。
 首を押さえつけていた手が離れ、唇の前に指を立てた。
 それだけで、動くことができなくなる。
 ひゅ、と二人の間の宙を切るように指先が踊る。組み合わせられる指先の動きに意味があるということわかっていても内容は理解できない。調教師は自身を指した後、トンと松永の喉の蓮に触れた。
 ぞわと肌が粟立つ。
 松永を残してソファに座り直すとテーブルの紙ナプキンに何かを書きつけてから、席を立つ。戸惑ったようなジンジャーと、さして関心のなさそうなブリュレがそれに続いた。
「待て。今なんて言ったんです」
 調教師の指先の動きを読んで、ジンジャーが喋る。
「三日後に、場所は改めて連絡する」
「ちがう、その前だ。お前、僕になんて言った!」
 チリン、とドアベルがなる。
 カウンターの向こうの店主が、台拭きを持ってテーブルを片付ける。手渡された紙には、サラミの名前が水で滲む字で書いてあった。
「名前なんて、どうでもいいんだよ」
 松永はそれを握りつぶして吐き捨てた。
◆◇◆
 おおよそあらゆる犯罪を知るポートタウンの中でも、一際に暗い極彩色の街。
 昼なお暗いビルの隙間の細い路地にネオンサインが点滅し、質も規模も様々な娼館が立ち並ぶ歓楽街。
 昼には昼の、夜には夜のあるいは昼夜を問わず、客を取らねば体を横たえる部屋すらも与えられない女たちが、血色の悪い腕をひらひらとさせる。各々が勝ち取った客引きのポジションに男が通りかかるのを待ちかねている。
 娼館で働く女あるいは男たちの中で、人生を縛る契約書に目を通すことが許された人間は何割くらいいるだろう。その中でも内容に納得してサインをした人間は、更に少ない。その大半は、本人の同意が必要な書類が存在することなど知りもしないで働いている。
 それらの紙切れは当人が預かり知らぬところで女衒と店が作成し、市民からの調査要望に応えたい役所を満足させるためだけに蓄積されている。スラムは無法地帯だが富裕層エリアには法とルールがあり、この二つは行政上同じ街として扱われているからだ。
 誘拐、身売り、口減らし。おおよそ人道的でない手段で連れてこられ、短い花の盛りを売り物にする女たち。
 パーティークラッカーを混ぜこんだような華々しきドブに今日も不幸な女が沈む。
 歓楽街の入り口に、一台のバンが横付けされた。
 スポーツ選手のように立派な体格をした男が後部座席から降り車内から女の腕を掴んで引きずりだす。まだ年若い。髪も肌も艶を失っておらず、真っ当な生活をしていたことが一目で窺い知れた。栄養状態に不足のない薄桃色の爪を、腕を引く男に立てて抵抗するが、力の差は絶望的だ。
 眦に浮かぶ涙を拭うものはいない。
 女に続いて背の高い男が車から降りた。毛のない頭にジャケット姿。腰に使いこんだ鞭をぶら下げている。抵抗する女とその腕を掴む男を温度のない目で見つめ、胡乱な看板が立ち並ぶ路地の奥をシンプルな指先の動きで示した。
 女衒だというのは、歓楽街の住人であれば容易に想像がつくことだった。いつか買う商品を、あるいは客を取り合う競合相手を品定めする視線が、四方八方から注がれる。幸いなことに、その中に助けの手を差し伸べようなどという空気の読めない物好きは一人もいなかった。あるいは男の肩幅から想像される膂力に恐れをなして、小さな正義は鳴りを潜めているのかもしれなかった。
 禿頭の男は二人の歩みが誰にも阻まれないことを確認してから、振り返って運転席に合図する。
「後でねサラミ、ジンジャー」
 車を運転してきた女は、友達と駅で別れるような態度で二人の男に手を振った。これから娼館に売られる商品に同情する風は少しもなく、しかしそれはこの街で生きていく人間の態度としてはこの上なく正しい。
 客引きたちは一番前を立って歩く男の、壁のような体躯に怯んで道を開けた。だがその俯きがちで気弱な態度と、前髪で隠した顔立ちが存外に整っているのを見るや、すぐに元の通りに集まってきた。
 しなだれかかる女の体の柔らかさに怯み、首に絡む腕の振りほどき方を知らず、右に引かれれば右に揺れ左に引かれれば左に傾き、その歩みは度々止まる。その都度、最後尾の男が指を鳴らして注意を引き、早く先に行けと促す。後ろから商品が逃げないように監視する彼はというと、誘う女たちの顔の前に手のひらを立てるだけの動作で、簡潔に拒否を示しながら進んでいた。
 間に挟まれた女は車を降りてからは顔を覆って泣くばかりで、逃げ出そうとする意思は薄い。
 路地に流れてくる白い煙は半分が煙草で、残りは特製スパイスを染みこませたハーブ。ジャケット姿の男はその添加物が気になるようで、たまに足を止めて匂いを確認していた。
 やがて三人組は歓楽街の一角にある【Candy Box】というネオンサインを掲げた店に辿り着いた。
 店の扉を開け最後尾にいた男が先にドアをくぐり、受付を無視して奥に向かう。
 開きっぱなしの事務所のドアを、三回ノックした。
 事務所で瓶ビールの口にライムの切れ端を突っこんでいた店主は、突然の来客を不愉快そうに見た。だが女を伴っているのを見て要件を察し、頷いて部屋に入ってくるように手招きをした。
 店主が部屋に入ってきた三人に向けた笑顔は、完全にビジネス向けの社交辞令。そうでなくてもせいぜいが昼間から飲むビールが醸した上機嫌だったが、女は笑顔を向けられたことに安堵し、相手に一縷の望みをかけて口を開いた。
「あ、あの何かの間違いなんです。あなたから言ってください。この人たち、話を聞いてくれなくて」
 女の必死の訴えに返ってきたのは拒否ではなく、黙殺だった。部屋の誰もが彼女は存在しないが如く透明人間として扱うのに、逃げ出すことだけは許されなかった。
 キャンディボックスの店主はデスクの上の物を脇に押しのけてスペースを作った。端から押しだされた紙束とペン立てが床に散らばった。それらを委細気に留めず開いた場所に抽斗から取り出した真新しい契約書類を置き、誰の確認も取らずに内容を記入し署名欄を空白にしたまま店判を押印するところまで作り上げた。
「そのデカブツはなんだ」
 デカブツと呼ばれた男は、相方をちらりと見てから口を開く。
「護衛、兼通訳です。その、彼は口がきけないので」
 禿頭の男が上を向いて、喉に横一文字に入った傷がよく見えるようにした。
「はぁ、難儀だな」
 心にもない調子で言いながら、品定めの視線を女に向ける。
「で、いくらで売りたいんだ」
「う、売る?」
 女の声が裏返った。
 無言のまま踊る指先の動きを読んで、護衛が答える。
「に、二百でいいと」
「強気じゃねぇか。そんな田舎娘相手に」
「よく見て決めろ、と言っています」
 挑発的な言葉の通りよく見るために、店主は椅子から立ち上がって近づいた。腕を掴まれた瞬間、女の肩がびくりと跳ねる。後ずさろうとしたが禿頭にぐいと背中を押され、観念したように数歩前に出た。
 その様子を見るに彼女は、倍近い体格の差の護衛より口のきけない男の方が恐ろしいと感じているらしかった。なるべくそちらに近づきたくないし接触されるのも避けたいという意思がひしひしと感じられた。
 店主は女の周囲をぐるりと回って見物する。
「確かに健康で、育ちは良さそうだな。肋骨も浮いてない」
 何気ない風に服を胸元までめくられて、女は悲鳴をあげて裾を引きおろす。
「どこから連れてきた」
「ネブラスカだそうですが」
「私、ネブラスカの出身じゃないです」
「え?」
 限界を迎えたのか、娘はそれだけいうと顔を覆って小さく背中を震わせた。
「どこでもいいから適当に書いとけ。わからないならポートタウンでいい」
 店主がおざなりにいい、契約書を女ではなく男の方に押しつける。禿頭の男が女に代わってサインをしようとしたところで、開いたままだったドアの向こうから声が掛かった。
「上玉だな、新入りか」
 口髭を生やした中年が、部屋を覗きこんでいる。
「オーナー」
 店長が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「店に出す前に、俺の部屋に連れてこい」
 女に向かって手招きをし、店長は慌てた。オーナーとはつまりこの店の所有者なのだが、気に入った女がいると客に出す前に手をつける癖がある。それだけなら珍しくもないし悪くもないのだが、手を付けられた女が生きて部屋から出てきたことはないのが問題だった。
 女を買った分の金はオーナーから補填されるが、稼げそうな女が客を取る前に片端から潰されては店が成り立たない。店の経営を任されている人間としては頭の痛い問題だ。
「オーナー、お客様がいるじゃないですか」
「客が気に入りそうな女だ」
 聞く耳を持たず、ぐいと女の腕を掴んで引きずって行く。店主は頭が痛そうにこめかみを押さえた。横暴でも雇用主を相手に文句をつけられるはずがない。
「金は払う。払うことになるだろうが、少し待ってもらえないか。払うのが俺からオーナーになる」
 護衛と女衒は顔を見合わせ、どちらでもいいと肩をすくめた。
 女が連れて行かれたのは、最上階にある一番上等な部屋だった。
 オーナーは扉をノックし鍵を開ける。客と娼婦が体を重ねるだけにしておくには、あまりに豪勢なスイートルームだ。そこはオーナーが所属する組織が接待につかう部屋でもあるのだ。
「あの、私助けてもらえた……んでしょうか」
 キョロキョロと部屋を見回す。
「残念だが君は私の所有物となったんだよ。さて、服を脱ぎたまえ。希望があれば先にシャワーを浴びることくらいは許してやろう」
 一切の反論を許さない高圧的な態度で言いながらテーブルにグラスを二つ並べた。サイドキャビネットからウイスキーのボトルを取り出して、氷と共に注ぎ入れる。スモーキーな香りはポートタウンの水で精製された氷の生臭さをかき消してくれる。
 グラスを傾け酔いを回す男の後ろで、女は沈黙したまま靴を脱いだ。服を脱ぎ捨て足を忍ばせて男に近づく。強張った体をほぐすように腕を回すと肩幅がぐっと広がった。両肩から腕にかけて墨の色が滲み、幾何学模様を描き出す。長かった髪が溶けて消える。短くなった髪をかき上げて後ろに流す。その手のひらや腕や足や腰、それぞれの関節から柔らかい輪郭が消えて筋張り、男の体に変化する。肌の色が濃くなり、首に黒く蓮の花が開く。
 そこ立っていたのは東洋人の男、松永 帰泉だった。その異能は〝変装〟であり己の姿形を偽る能力は、性別など簡単に超える。
 松永 帰泉は隠し持っていた自動注射器を取り出し、キャップを外した。
「どうした。何を黙りこくって」
 振り返った男の首にすかさず叩きこむ。
 自動注射器が内圧の変化する僅かな空気の音と共に、麻酔薬を注入される。
「わたし初めてなんですぅ、優しくしてくださいね。なーんてね。残念、僕なんだよなぁ」
 驚愕の表情で口をぱくぱくとさせたあと、倒れて動かなくなる体。毛足の長い絨毯の上だったので幸い大きな音はしなかった。気を失った男の体を足で転がし、仰向けにしてから慣れた様子で服を脱がせる。それらはひとまず女の姿をしていたときに着ていた服とともにベッドの上に並べた。
 バスルームに向かい、女になってから施したので全く顔に合致していないメイクを落としてからシャワーを浴びる。一番豪華な部屋の、広い風呂を楽しんだ。
 風呂を出てから、時計を確認する。
(あと三〇分くらいは待った方が自然だな)
 松永は見苦しい男の裸にシーツをかけると、ウイスキーを飲みながら待った。
 時計の長針の位置を確認し、姿を床に倒れている男と同じに変える。今まで女と遊んでいたなら、服は着ていない方が自然だろう。部屋にあったバスローブを羽織ると扉を開け放って叫ぶ。
「おい、女衒と護衛を呼んでこい!」
 店主がエレベーターを待つ間も惜しんで、階段を駆け上がってきた。部屋を見て、シーツを被せられた塊を発見して頭を抱える。またやったのかと呟く声に彼の苦労が窺い知れた。残念ながら、松永には関係がない。
「どうするんです」
「あいつらに持って帰らせろ」
「応じますか。お客様はどうしますか」
 ピクリとも動かない床のシーツの塊を見る。体型は目立たないようにしてあるが、あまりまじまじと見つめられると男であることがわかってしまう。鼾をかかずに寝てくれるタイプである点だけは助かった。
「金は払う。女は別に用意する。こっちで話をつけるから、とにかく連れてこい」
 うるさそうに手のひらで追い払う。店主とオーナーの力関係ならばこの態度で十分なはずだ。
 ほどなくして女衒と護衛、もとい調教師とジンジャーが部屋にやってきた。話をつけるから出て行けとそわそわと落ち着かなさげにする店主を追いだす。
 部屋に三人と気絶した一人だけになると、松永は異能を解除した。
「お待たせしちゃって」
 事の成り行きを自然に見せるための演出だったから、致し方ない。
 調教師が首を横に振る。用意した死体袋を床に広げ、オーナーの体を移動しながらジンジャーが松永を抗議にならない程度の不満の目線を向けた。
「松永さん、さっきのは」
 事前の打ち合わせと違う行動についての質問だったが、その主たる訴えは彼をからかったことに対する非難だ。
「すみません。あなたが緊張し過ぎているので、面白くってつい。あのえ?って言ったときの顔」
 松永は思い出し笑いで俯き、背中を震わせた。
 架空の女の出身地だ。ネブラスカだろうとカンザスだろうとどちらでもいい。ジンジャーという男が娼婦の誘いも松永の冗談も適当に流すことができず、正面から受け止めてしまう様が面白いので、ついからかいたくなる。
 冗談はそれくらいにして仕事の話に戻る。
「麻酔は最長三時間。既に一時間くらい経っているので、体質によってはあと一時間程度で起きるでしょう。こいつそんなに小柄でもないしな」
 死体袋にしまわれた体を見て、調教師が頷く。目覚めたら楽しい尋問の時間だ。調教師の仕事はそこからが本題になる。
 松永の役目もまだ終わっていない。むしろここから先が重要だった。姿を自在に変えられる松永はともかく、実在する人間が完全に痕跡を断つのは難しい。オーナーと接触したクロックワークキッチンの二人が疑われたら、ホテル ノーデンスまで辿られてオーナーを攫った目的が露見する可能性がある。だから二人が歓楽街を出るまでの間、オーナーとして振舞って彼が失踪した件に関するアリバイを確保するのだ。
「僕はお二人が脱出したあと、このおっさんの姿で離脱する。連絡をくれても応答できないですけど、用があれば聞くだけはできます」
 耳に隠した小型イヤホンを示す。携帯電話とペアリング済みで、それがあれば周囲にバレずに通話を受けることができる。
「一人で、大丈夫ですか」
 オーナーの入った死体袋を肩に担ぎ、ジンジャーが聞く。
 調教師が松永の任務遂行能力に疑いを持っているのかと邪推したが、硬く強張った目元を見るにジンジャー自身が純粋に事の成り行きを懸念しているらしかった。
「ジンジャーさん、あなたが護るべきは依頼。円滑な進行をフォローするのが仕事です。僕がそのおっさんを確保するまでは僕を、確保できたなら」
 そちらを、と調教師と死体袋を指した。
「見誤らないでください」
 片頬を歪めて笑いかけると、眼鏡の向こうで複雑そうな顔をした。二人プラス一人を店の入り口まで見送り、事前調査で収集しておいたオーナーの振る舞いを体に入れ直す。
 事務所に向かうと部屋の中を落ち着かなさそうにウロウロしていた店主に話はついたとだけ伝えた。予期せぬ遺体を拵えられて、どう見ても片がつけられるような状況ではなかったから、怪訝そうな顔をされた。
 ここまではうまく来ているのだから、しくじって入院するような失態はごめんだ。
「お客様は、どうしました?」
「ああ、問題ない」
 見知った人間と長く話しこむとボロが出る危険性が上がる。大勢の人間に姿を見せつつ、一人になっておきたい。一番気を遣うのは店主とのやりとりだ。一番やりとりが密にあるだろうし、こちらがつかめていない仕事の話をされる可能性がある。
 適当な理由をつけて離れておきたい。
「疲れたからな、しばらく放っておいてくれ」
 松永はひとまず最上階のスイートルームに戻った。
 とりあえずまともな服に着替えるか。
 松永はバスローブを纏っただけの、今は中年男性の弛んだ体になっている自分の姿を見下ろした。ランドリーでもあればよかったのだが、贅沢は言っていられない。オーナーが来ていた服を着るしかないのだ。
 着替えようとして、隣室に続くドアが開いていることに気がついた。
 ここに来たときから開いていたのか。いや、閉じていたはずだ。オーナーも松永も向こうの部屋には立ち入っていない。では、クロックワークキッチンのどちらかが開けていったのか。いったい何のために。
 考えてもわからないことは保留し、やるべきことを先にする。ベッドの上の服を取ろうと目を向けて、松永は硬直した。
 自動注射器は予備を含めて三本用意した。一本は使用し、余った二本をベッドの上に置いた。それがない。
 無くなるはずがない。
「お前、異能者ってやつ?」
 ぷしゅと耳元で薬剤が押し出される音が聞こえた。皮下に針が突き刺さる痛み。
 反射的に背後の気配に向かって拳を振るが、空を切った。
「いやいや、針折れるよ。危ないって」
 軽薄な笑い声と共に背後に立った人影が松永の拳を避ける。その手には、ベッドの上にあったはずの自動注射器が握られていた。首の痛みがあった場所に触れる。針の痕が指先に触れる。どんなに足掻こうと体内に注ぎこまれた薬は、もうどうにもならない。
(くそったれ。ああそうだ。お客様、だ)
 わざわざ最高級の客室を、娼婦一人抱くために用意したりしない。自分の使う部屋に入るのにノックをする必要もない。そして二人分用意されたグラス。全てはこの部屋に誰かが既にいるということを意味していたじゃないか。店主は何回も確認をとっていた。お客様はどうした、と。これから女を出すための客じゃない。今、部屋にいる客だ。何もかも明白だったじゃないか。
 耳に隠した通信機の短縮通話を呼び出す。コール音がもどかしい。
 麻酔が回り、膝から力が抜けた。視界が白んで無意識に落ちていく。自分の頭蓋が床に落ちるゴツという音を、薄膜の向こうにある意識が聞いた。
「一人で大丈夫なんだろう? 頑張ろうな」
 馬鹿にしたような声が、床に倒れ気を失う直前の松永の耳に届く。
 ようやく繋がった通信機は、革靴の底で踏み潰された。
◆◇◆
 イヤホンがノイズ混じりの音を発したあと、ぶつりと通信が途切れた。呼び掛けたところで、返事はない。受信はするが応答はできないとは松永自身の言だ。
 そもそもサラミには、人に語りかける手段がない。通信ならばジンジャーかブリュレが応答するはずだが、傍にいるジンジャーも通話が繋がった様子はなく首を傾げていた。
 攫ってきた男を、尋問の道具が揃った場所に運びこみ拘束し直す。麻酔が効いたままではあらゆる痛みも責め苦も無意味。娼館のオーナーが目覚めるのを待つ間に生じた不可避のロスタイムを、椅子に座り活字を摂取して過ごした。
 新聞はポートタウンで起こる悲喜交々の表層を掬い、スナックにするには重すぎるがホットドック程度には食べやすい娯楽として市民に提供してくれる。だが娯楽を摂取しない調教師にとって、それらはやはり無味乾燥の紙面上の活字でしかなかった。
 一時間ほどで目が覚めるという松永の想定に反し、対象はたっぷり二時間は眠り続けた。沈黙を友とする男は、座して待つのが苦痛ではない。そして目を滑らせる文章の巧拙も気にならない。共に待っているジンジャーの方が、待機時間の手持ち無沙汰が堪えたようだった。
 やがてうめき声と微かな身じろぎを伴って、キャンディボックスのオーナーが目を覚ました。
 仕事に取り掛かろうとして椅子から立ち上がったとき、サラミを引き止めるようにポケットの中の携帯が震える。液晶に表示された名前はブリュレだ。
 こちらから掛けることがないので着信履歴だけが降り積もっていく電話の通話ボタンを押すとスピーカーの向こうで、ブリュレの退屈しきった声が聞こえた。
「サラミぃ、松永さん出て来ないよ」
 時計を確認する。既に松永が脱出しているはずの時間は大幅に過ぎていた。
◇◆◇
 頭が重たい。全身に倦怠感に包まれ、喉が乾く。ひどい気分だった。二日酔いに似ていた。ズキズキと頭が痛み吐き気がする。それが二日酔いなどではないことはわかっている。すぐさま周囲の状況を確認したかったのだが、瞼を開いて顔を上げることすらも辛く、一旦断念して体調が落ち着くのを待つことにした。
 気を失っている間に、一度吐いたのかもしれない。口の中に胃液の味が残っていて不愉快だった。水が欲しい。痛みが消えない頭に手をやろうとすると腕が引っ張られガシャと金属音が鳴った。
 光がしみると思いながら、仕方がなく目を開く。両手に手錠が掛けられて、肘置きから腕を上げられない。試しに足を動かしてみると、そちらからも同じような金属音がして拘束されているのがわかった。
 急速に意識が覚醒する。悠長に体の回復を待っている暇はないとわかった。吐き気と戦い、呻きながら慎重に顔を上げる。
 視界は覆われていなかったため、部屋を見回すことができた。
 この場所に松永を連れてきて拘束した人物は、場所を知られることも顔を見られることも、人数を把握されることにも頓着しない。つまり生きてここから出すつもりがないということを意味していた。
 殺風景な部屋に内装らしい内装はない。コンクリート打ちっぱなしの壁で極端に物がない。数脚の椅子とテーブル。テーブルの上に乗っているのが、拷問器具であるのがわかり松永は顔をしかめた。
 窓の外には向かいの建物の壁が見える。一階や二階でないことは分かるが、この建物の高さや街のどの辺りにいるのかを判断できるようなものは見えない。ここはキャンディボックスの建物ではない。それは分かる。静かだからそもそも娼館があった歓楽街の近くではないだろう。
 どこかの廃墟を使っているのか、それとも尋問用の部屋だろうか。座らされている椅子の周辺の床は、どす黒く染まってる。かつて誰かが流した乾いた血液の痕跡。致死量であるように見えた。
 そのとき部屋のドアが開いた。入ってきたのは、気を失う前に見た金髪の男。地毛ではなく染めているようだった。根元にうっすらと本来の髪の色が見えている。
「ああ、おはよう」
 軽薄そうな服装と態度が、年若い印象に拍車を掛けている。世間知らずのティーンのような雰囲気を演出しているが、実際は松永とそう歳は離れていないだろう。
「俺のことはロブって呼んで。君は変身する能力だよね。連れてた仲間も異能者なのかな。ほんとは男、それとも女?」
 ロブは話しながら壁際にあった椅子の一脚を持ってくると、松永の正面にどっかりと腰掛ける。
 無言を返すと折りたたみナイフをポケットから取り出した。逆手に握り、椅子の肘掛けに乗せた指の間に突き立てる。その動きには手に刺さったところで構わないという躊躇いのなさがあった。しかし残念ながら松永も、その程度の脅しで怯えるような繊細な神経はしていない。
 オーナーを捕らえたときこの男はスイートルームの隣の部屋に隠れていたはずだ。その間に部屋に出入りしたクロックワークキッチンの顔までは見られていないはずだ。それならば松永の身元だけ隠し通せばいい。脱出手段を探すのが最優先だが、並行して相手がどこまでこちらのことを掴んでいるのか探りたかった。
 クロックワークキッチンのことが知られておらず、松永の本当の顔を見られていないのなら、まだ生き残る目は残っている。
 敵であるのが嘘であるように人懐っこく笑う顔を睨み返す。
「ね、見せてよ、異能」
「僕は何も喋らない」
 ロブは片眉を跳ねあげた。
「もったいぶるなよ、五十一人目の娼婦」
 嘲笑の声に、心臓が止まった。
 耳の中で血の気が失せるときのさぁという音が鳴った。全身に汗が吹き出す。
「なぜ、なぜ知っている」
 素知らぬ振りをするべきだった。だがナイフよりも鋭く突きつけられた一言で、松永の平静は引き剥がされていた。
 かつて極上の女を日替わりで抱いて楽しんだマフィアの幹部がいた。どこから連れてきたのかわからない五十人の娼婦。ベッドの上で飼われる愛玩動物。血の通うセックスドール。
 男が五十人全ての女を楽しみ尽くしその体に飽いた日、頭を吹き飛ばされたのはマフィアの幹部の男だった。銃を撃ったのは存在しない五十一人目。その正体が松永 帰泉という姿を変える異能の持ち主であることは、頭を吹き飛ばされた男しか知らないはずだった。
 屈辱的記憶と恐怖を過去に葬り、入念に記憶の奥に沈めてなかったことにして生きてきた。
 唯一、知りうる可能性のある男は松永を躾けた調教師。しかし、彼は会ったことがあるというだけで愛玩されていた女が松永であるということは知らないはずだ。そして今となっては何も〝喋らない〟。
 誰にも知られているはずがない。それなのに、なぜ詳細に当時のことを語らなければ知らないことを、突きつけることができるんだ。
「自分が何かわからないものに、秘密を隠すことはできない」
 格言を語るような仰々しい口調と芝居がかった動作でロブは両手を広げる。松永の顔に現れた動揺を覗きこみ愉快そうに笑う。
「あれはそういう類のものでね。自分が何者であるのか忘れて、意識の表面を全部削ぎ落として深層にダイブすることができる。夢を見ているようなものかな。だけどそのせいで、記憶の底に焼きついた悪夢を延々見続けるやつとか、逆にハマっちゃって戻ってこれないやつとかがいるんだけどさ」
 肘掛に突き立てたナイフを引き抜くと、松永のシャツの左腕部分を割いていく。オーナーの体を借りたままの腕には、刺青の色はない。
 ペラペラ喋ってくれるのは情報を得たい側としてはありがたいが、なんの話をしているのか読めなかった。
「君に聞きたいことは〝無貌〟が全部教えてくれた」
 シャツを破き、露わになった腕には心当たりのない注射器の跡が赤く残っていた。
 ざわ、と悪寒が背筋を駆ける。
 キャンディボックスで意識を失ってから、ここで目覚めるまでの空白。その間の記憶はない。ただ吐き気を伴う酷い悪夢を見ていたような感覚だけが残っている。それは本当に夢だったのか。
 ずっと喋り続けた後のように、喉が渇いている。
「ブッ飛んでたから覚えてないかな、松永 帰泉。これは尋問じゃないんだよ。必要ない、もう済んでる」
 ロブがせせら笑う。腕の注射痕は、薬物の投与の証。無貌が見せた夢の内容すら覚えていない防御がゼロになった意識の松永から話を引き出すのは簡単だっただろう。
 拘束された手足を揺らしても、圧倒的優位に立つ相手に届きはしない。
 僕は、何を話した。ロブと名乗るこの男に何を明け渡して、それは相手組織にどこまで伝わっている。
「単純にさ、お前にまだ使いどころがあるかどうかっていうのを確かめるために生かしてあるんだよね」
 笑いながら手錠で拘束された手を握る。緊張感と深刻さを欠く声色。経験上、こういう場面でへらへらしている人間の腹の中に詰まっているのは、共感性の欠如と無邪気な残虐性だ。
 ナイフの切っ先が、親指の爪と皮膚の間にゆっくりとねじこまれた。
 顔を伏せ、シャツの襟を噛んで声を殺した。食いしばった歯の間からうめき声が漏れる。
 柄を細かく細かく左右に揺らしながら、痛みを味わわせるようにして押しこんでくる金属の冷たさ。焼けつく痛み。千切れた血管と神経を擦りながら肉が押し広げられて、ぎちと皮膚が軋む。やがてナイフは爪の根元に届いて、甘皮を突き破った。
「見せろよ、異能」
 要求をはねのけ続ける意志は痛みに負け、とうとう〝変装〟の異能を解いた。娼館のオーナーの姿が解けて消え、松永 帰泉が椅子の上に現れた。
 変化の瞬間を見てロブが口笛を吹き、驚嘆を示す。異能を見せるとナイフが手元を離れていった。剥がれた爪が血で刃の上を滑り、床に落ちる。
「すごいなぁ、見事だよ。ホテル ノーデンスは、他にもお前みたいな異能者を囲ってるのかな」
 胃の腑が縮む。僕はそんなことまで喋ったのか。
「尋問は、済んだんでしょう」
「確認のために。あと帰泉の誠意が見たくてね」
 ロブがポケットから取り出したのは、松永の携帯だった。その存在に、少なからず心が揺さぶられた。あれをなんとかして手にすれば、助けが呼べる。それを今すぐ手にしたいという切望と動揺を、痛みに歯を食いしばる表情の下に隠す。
「ノーデンスが、〝無貌〟の流通を許していないのはわかってたけど、こんな方法で介入してくるっていうのは予想外だった。でも、いいこともあってさ。連中はまだ俺たちのことを何もつかめていないっていうのがわかった。面白いこと考えるよねぇ、病院って」
 携帯を、松永に差し出す。
「だからさ、俺たちをホテル ノーデンスに紹介して欲しい。中に入るのに会員の紹介がいるんだよね」
 それだけは、できない。松永だけではなく、あそこはたくさんの人間の生命線だ。その生業によって、あるいは異能者に生まれついてしまったがゆえに明るいところを歩けない人間がいる。松永自身が、そうであるように、そう言った連中はあそこを除いては居場所がない。
 敵対組織の異分子を、引きこむわけにはいかない。
「病院に電話して、一緒に運びこんでもらいます?」
 軽口で答える。なんでもない風を装わなくてはいけない。それが致命的だと、敵に知られるような態度をとってはいけない。
「いいや、帰泉はもう俺たちが敵対組織だって知っちゃってるから、信用できない。緊急を伝える符丁でもあったら困る」
 何も考えていないような顔をしているくせに、妙に頭が回る。いやむしろそういう態度で相手を油断させているからこそ、危険な相手だ。
「だから他の会員を紹介してよ。そいつと親しくなって、紹介を頼む。いるだろ、他の利用者の知り合いが一人くらい。できれば、友好的な人がいいな。さて、誰に電話する?」
 画面を松永に向けて顔認証でロックを突破し、アドレス帳を開く。
 どうすればいい。
 拒否をしたらどうなる。
 殺される。即座にホテル ノーデンスに異物が入りこむことは防ぐことができる。だが敵はその存在と、会員資格を得るために必要なルールを既に知ってしまっている。時間をかけて、どんな手を使っても手に入れるだろう。
 松永が捕まったことで、オーナーをさらった今回の作戦の目的も露見してしまっている。調教師が首尾よく情報を引き出し〝無貌〟の流通経路を辿ったとしても、既に予防線を張られていて掴んだ情報はフェイクかさらに悪ければ罠だろう。拠点の情報を掴まれた上に、情報戦に遅れをとることは抗争に於いて致命傷だ。
(なんで僕はいつも、肝心なところでこうなんだ)
 なんとかして、助けを求める。それが無理でも、ノーデンス側に敵の存在を知らせてから死ななければいけない。
 今、電話をかけるべき相手。
「……クロックワークキッチン」
「あー、そう」
 ロブが首を傾げた。
 次の瞬間、ドンと重たい音がして、手のひらにナイフが突き立った。
 衝撃の後に襲ってくる激痛。松永は絶叫した。椅子の上で体がガタガタと痙攣し、拘束された手足が金属の音を立てる。
「それさぁ、今回の仕事仲間だろ。助けを呼ぶ気しかないじゃないか。誠意を見せて欲しいって、言ったんだけどなぁ。なぁ帰泉、使えないなら殺すしかないよお前」
 指先が別の生き物になったように己の意思とは関係なく反射の動作をし、肘掛けを引っ掻いてもがいている。串刺しにされた蜘蛛の断末魔を見ているようだった。
「ほら、誰を紹介してくれるんだ。さあ、早く」
 ぐいと前髪を鷲掴み、無理やり顔が持ち上げられる。体が熱を持っている。呼吸が浅く早くなる。
 痛みで思考がうまくまとまらない。
 誰に、連絡すればいい。どうすればいい。
 僕は、この状況で何ができる。
「ワイズマン。世話に、なってる、商店の、店主」
 電話番号を知っているノーデンスの知り合いは、さほど多くない。
 にこりと笑って、ロブはアドレス帳のWの項目からその名前を見つけ出し、発信ボタンを押した。
 ビリーとバリー電話口にどちらがでるのか、賭けだった。二分の一の確率で、道が完全に閉ざされる。
 頼む。
 祈りに答えも拒否もしないきっちり三コールの後、電話は繋がった。
『ワイズマンだ』
 平坦な声色は、兄。ビリー・ワイズマン。
「ビリーさん? 僕、松永です。聞いてくれ」
『仕事の依頼は、店に直接。支払いの件も』
 自動応答音声かと思うような機械的な返事が、スピーカーモードの通話口から聞こえた。即座に電話が切られるような気がしたので、慌てて次の言葉を繋ぐ。
「ち、違う違う、聞いてくれ。その件じゃないんだ。頼む、聞いてくれ」
 頼む。切らないでくれ。懇願するような気持ちを声に乗せたら、助けを求めていることがロブにバレてしまう。これ以上、不興を買ったらどうなるか。
『仕事中じゃないのか?』
「僕の仕事はおしまいですよ。後はクロックワークキッチンがうまくやる。ここは静かすぎてね、誰かと話したくなる」
 余計なことは言うなと、手のひらに突き立てたナイフを捻られ、松永は痛みに耐えるためにしばらく黙らなければいけなかった。
 電話の向こう側で、呆れたような細いため息が聞こえた。
『忙しい。簡潔に』
 電話を代わるように言えとロブが声を潜めて口を動かす。
「商店に、仕事を、頼みたいって人がいて。紹介したいんだ。今、代わる」
 乱れる呼吸と震える声が伝わらないように、慎重に言葉を絞り出す。
『紹介は必要ない。依頼は店に直接くればいい』
「いや、この話はまとまってくれないと僕、今月の支払いがさ。ぜひ、直接話して欲しいんだけどな」
 少しでも長く電話をつないでいてくれ。
 気づいてくれ。頼む。
『松永』
 言葉を続けようとする松永を、冷淡にビリーの声が遮った。
『もう十分だ』
 ブツと電話が切れた。
「残念、帰泉は俺の役には立てないらしい」
 ロブが憐れむように笑った。拳銃を抜き、額に押しあてる。
「必ず役に立つ。僕の異能、結構便利だよ」
 死の恐怖と痛みがすぐそこにある。声が震えた。
「だからこそ信用できないんだよね。余計な小細工をされると困る。君を監視しておくより、殺した方が早い」
「なんでもする。どうすればいい? 頼む、死にたくないんだ。ノーデンスへの義理は命を繋ぐためだ。僕は助かるならなんだってする」
「なんでもする、か。娼婦でも?」
 言葉に詰まった。
 できない。あの日の騙されて使われるだけの愚かな少年は、死んだ。首に蓮を刻むと同時に消した相手を、今再びこの身に呼び戻すことなどできるわけがない。
「……娼婦でも、なんでもする。殺さないでくれるなら、役に立つ」
 そう答える以外に、何ができただろう。
「例えばどんな女になれる?」
 松永は忌まわしい記憶を呼び起こす五十人の姿を繰り返した。あれから何人も模倣した。記憶の中にはたくさんの人間の容姿が蓄積されている。今ならば、五十人以上の姿になることも可能だ。それなのに追い詰められてとっさに出てくるのが、一番忘れたい記憶と結びついた五十人の女の姿なのは、我ながら滑稽だった。
「本当の姿は秘密。無貌の娼婦。いいね、センスがある。稼げそうだ」
 椅子に体を固定されたまま、請われるままに異能を見せる松永はサーカスの見世物と変わりない。ロブは次々と姿を変える松永を見てテレビショーを見ている子供のように喜んだあと、ポケットの中から小瓶を取り出した。
「余計な口を聞かなければもっといい」
 顎を掴んで口をこじ開け、中身がなんであるのか分からない小瓶を口の中に流しこむ。身を捩って抵抗したが、許されるわけが無い。銃口がゴリとこめかみにあたり、恐怖を抑えて嚥下する。途端に喉が、焼けた。
 毒。劇物。それだけが分かる。
(どうして)
 望んだ通りにしたはずだ。問い掛けようとしたが、声が出ない。叫ぶこともできない。苦痛に暴れる松永から一歩距離を置いて、ロブは無造作に銃を構える。
 パン、と乾いた音。
 脹脛に弾丸が撃ちこまれた。衝撃で椅子ごと倒れる。手足の手錠がガシャガシャとやかましい。叫び出したいのに喉からはヒューヒューと隙間風のような音が漏れるばかりだ。
「結論を言うよ。お断りだ。どんなに役に立とうと、俺は異能者みたいな化け物どもとは関わらない。黙ってそのまま死んでくれ」
 差別主義者か。ヘラヘラと笑う男の目の奥に、嫌悪と侮蔑の色を見た。
 異能者が異能者であるというだけで、受け入れられない人間がいる。異物に対する拒絶。異なる力を持つものの対する恐怖。
 こんな床に這いつくばるしかできない異能が、そんなに怖いか。
 引き金に掛けた指に力がこもる。
 松永は固く目を閉じる。
 パンと発砲音。
 その乾いた音は、建物の外から聞こえた。
 パンパンと乾いた音が断続的になる。
「なんだ?」
 余裕綽々のロブの顔が初めて曇った。床に倒れた松永を放置し、窓に近づいて外を見る。
 鳴り響く激しいブレーキ音と怒声。
 それを聞いて松永は体に力が戻ってくるのを感じた。
(間に合った)
 ざまぁみやがれ。ここからはパーティーだ。
 声が出たなら、ロブにそう言っただろう。
◆◇◆
 松永からの電話が切れると、ビリー・ワイズマンは受話器を置いた。
「松永、なんだって?」
 バリーがぷかと煙を吐きだす。
「借金を踏み倒すことになりそうだ、と」
 松永が口には出さなかった言葉を、ビリーは正しく受け取っていた。
 同じく紫煙を吐きだしながら、ばさとカウンターに地図を広げる。聞いてくれと言われた。三回も。だからビリーは聞いた。
 ビリー・ワイズマンが持つのは、聴覚を研ぎ澄ます異能だ。
 浅く早い呼吸と痛みに耐えて、声を殺すうめき声。肉を抉られる音と滴る血。声を潜めて指示を出す誰かの声と足音。なにもかも、はっきり聞こえていた。
 だから乞われた通り、拾える全ての情報を拾った。
 遠くから響く重低音と駆動音。重量を感じる反響に金属のぶつかる音。だが、工事現場にしては他の音が少ない。おそらくはガントリークレーンと貨物コンテナの積み降ろし。
 湾岸、貨物港。
 指でトンとその場所を叩く。
 ここは静かすぎる、だったな。
 松永の耳に、あれらの音は聞こえていなかった。つまり港の近くだが、倉庫街ではないということだ。
 窓の外からは車のエンジン音もしたが、交通量は少なく苛立ったクラクションの音も聞こえてこない。貨物港が動いているにも関わらず大型トラックの音がしない。
 大通り沿いと、港から中心地を繋ぐエリアは除外。
 声の反響から推察するに、部屋はある程度の広さがあり材質は硬い。コンクリート打ちっぱなしか内装が全て剥がされている建物。あるいは建設中なのかもしれない。
 マンションやアパートのような住居は除外。
 拷問がされているのに、外の音が聞こえる程度の貧弱な防音設備。周囲に人はいないということだ。
 SOSサインなどいらない。
 それだけ聞けば、十分だ。
 ビリーは結論を導き出した。地図にマーカーで印を付ける。
 湾岸地域。第五区廃墟区画にある旧オフィス街。
 今回の依頼で松永が組んでいるのは、クロックワークキッチンだったか。
「荒事は、私の担当じゃない」
 おそらく連絡が取れなくなったであろう松永を探しているはずのチームに電話を掛けながら、同じ顔をした弟のバリーに地図を渡す。
「ビリー、何考えてる?」
「今回の件の料金」
「直接出向くから、割増料金だな」
 ヘルメットを掴み、投げつけたバイクの鍵を受け取りながら、ガレージに向かうバリーはどこか楽しそうだった。
 ワイズマン商店とクロックワークキッチンは既知の間柄だ。連携を取るのに障害はない。小柄な運転手が扱うには無骨とも思えるバンに乗りこんだCWKの三人と合流しビリーが突き止めた地点に向かう。
 そして馬鹿騒ぎの始まりは、発煙弾が告げた。
 廃墟区画の中で車と見張りの人間が集まっているその場所は、すぐに見つかった。敵が迫り来るエンジン音に気づく前に、バリーの視力が相手を捕捉した。
 並走するバンに合図を送りスピードをあげて先行する。射程内に収まったところで一度バイクを止めて、すかさず発煙弾を撃ちこんだ。
 発砲の反動に踏ん張ったバリーの隣を、バンがアクセルを踏みこんで通り抜ける。
 ようやくエンジン音に気がついて、通りに目を向けた男たちの目に飛びこんできたのは、飛来する爆発物。破裂音の後、ピンク色の噴煙が視界を覆う。
「捕まっててねぇ」
 柔らかい言葉と裏腹に鋭いハンドル捌きでブリュレが車体を回転させながら突っこむ。襲撃者に気づいた咄嗟の発砲。タイヤを狙った弾丸が目標を外れ、地面を弾けさせる。側面にも何発か銃弾がめりこむが、車内に届くほどではない。
 バンは煙幕の目隠しの中に回転しながら滑りこみ、車体の下に何かを轢き潰しながら停車した。
 ジンジャーが青い顔をして停車した車の中から降りた。
 その頭に向いた銃口が、音速を超えた一撃で叩き落とされる。皮膚が裂け白く骨が見えるほどに抉れた手を押さえて銃を持っていた男が蹲った。ジンジャーに続いて音もなく降車していたサラミが放った、乗馬鞭の一撃だった。
 素早く手首を返すと鞭の穂先が跳ね上がり、反対側の手でナイフを抜こうとしていた男の頬を肉を割く。落とした銃を奪って頭を撃ち抜く動きは最小限で、予め定められていたかのように滑らかな動きだった。
 サラミを挟み撃ちにしようとした男の体が、ジンジャーの蹴りに横薙ぎにされて噴煙の向こうに消える。肋骨の砕ける感触が足に残る。その不快感を振り払うように鋭く踏み込み、別の男の鳩尾に拳を叩き込む。巨躯に似合わず獣のように俊敏だった。
 程なくバイクで追いついたバリーが、荷物の中から手投げタイプの発煙弾を取り出し、ブリュレに手渡した。
「煙が晴れてきたら、もう一回だ」
「わかった」
 言いながらピンを抜く。
「今じゃねぇ!」
 奪い取って投げた先でもう一度、噴煙が舞った。
 松永が捕らえられている場所は連中の拠点というよりは、尋問と始末のための隠れ家であるらしかった。人気のない廃墟エリアの一角を曲がりし、必要最低限の道具物資は置いてあるが備えは移動の車に積んであったもの以外にない。警備の人員も最低限の人数で守りが硬い場所ではなかった。装備も拳銃がせいぜいに見える。
 だが奇襲を仕掛けて煙幕を張り戦況を有利にしてもなお、実戦に於いて人数差というのは容易には埋められない。個々の実力が高くなければ、凌ぎきれない。
「ブリュレだけ車に残すのはまずそうだから、俺が残る。あんたらドンパチが得意なタイプじゃないだろ。二人でいけるか?」
 車両のドアを弾除けにして応戦しながら、バリーが言う。
 サラミが鞭を拳銃に持ち替えながら頷く。ジンジャーも緊張した面持ちで頷いて、指にメリケンサックをはめた。発煙弾の予備を受け取ってから、二人は建物に乗りこんだ。
 部屋を一つ一つ改めて、敵を制圧しながら上の階に登っていく。扉を蹴破った先で金髪の男ロブが椅子に縛られた松永の首に手を回し頭に銃を突きつけている。
「フリーズ。手間かけて回収に来た男の頭、吹き飛ばされたくはないだろぉ」
 緊張感に欠ける声は、引き金にかかった命の軽さを物語っている。
 ジンジャーとサラミは、動きを止めた。
「逃してくれりゃそれでいい。帰泉も俺の命も無事で、お互いハッピーだろ」
 松永が首を左右に振る。ロブはその動きを、首を締め上げる力を強くして封じた。首を絞められながら音を伴わない声でパクパクと口を動かして喘ぐ。
 人質を取られようとその頭を撃ち抜こうとする指先が本気だろうと、サラミの顔色には些かの変化もない。作り物のような目で音のない言葉を見つめたあと、前に立つジンジャーの背に指先で文字を書いた。
 強張りを適度な緊張に均し、体を動かすのに淀みない自然体に持っていくために吐き出した細く浅い息が、返事の代わりだった。
「さぁ! 道を開けろよ!」
 ロブが激す。その声を合図に、サラミが広い体躯の影から飛び出し距離を詰めた。鼻先を掠めた鞭の一撃に驚いて、たたらを踏んだ男の間合いにジンジャーが迫る。
「異能者の命なんざ、惜しくはないってか」
 頬を歪めて笑い、ためらいなく引き金を引いた。
 だが銃口の先に松永の頭はない。首に回していた腕の中から、その体がズルと抜けた。拳銃が発射された瞬間に、〝変装〟できる中で最も体格の小さい人間に化けたのだ。未発達な少女の体になったことで生じた体格差で、発射された弾丸は額の上を掠めていく。椅子ごと床に転がりながらナイフで貫かれていない方の手と足を、拘束具から引き抜く。
 線が細い少女の腕でも全体重をかけて揺らせば、突き立っていたナイフを抜くことができた。ようやく硬い椅子から解放された。床を転がりながら目の前にあった足を抜いたナイフで切りつける。
 体勢が崩れたところにタックルが入り、ロブは壁に叩きつけられた。忌々しげに胴に組みついたジンジャーを銃床で何度も殴りつけるが、ビクともしない。
 ジンジャーは揉み合いながら、首に腕を回す姿勢を取ることに成功した。締め上げられるロブは終わりを悟っていたが、まだ諦めてはいなかった。銃把を握り直す。巻き添えにしてやる。ただでは倒れない。そんな意思がその目には浮かんでいた。
 床に倒れる松永と体を押さえつけるジンジャーとを見比べる。迷ったのは一瞬だった。
 ジンジャーに銃口を向ける。
 パン、パンと発砲音が二回続いた。
 そこに死体が転がることを期待してにやりと笑ったロブは、銃弾を遮った太い腕を見て、目を見開く。
 弾は一発もジンジャーには届いていなかった。撃ち殺そうとした相手と同じ顔が、音のない声でざまあみろと言いながら崩れ落ち、松永の姿に戻った。
 それがロブの最後の抵抗になった。次の銃撃はない。サラミが鞭でその手から銃を弾き飛ばす。直後、絞め落とされて意識を失い全身から力が抜けた。
 本当に意識がなくなったことを確認してから、ロブを放して床に倒した。他に武器を携帯していないか簡単に検めてから、血塗れの松永に駆け寄り抱き起こす。
 床におびただしい量の血が広がっていて、抱き上げたジンジャーの腕をもびっしょりと濡らした。
「すぐに、病院に連れていきます」
 血が足りていない顔色。体が冷え切っているのに異常に発汗している。
 朦朧としているが、辛うじて意識がある。体を担ぎ上げたジンジャーの背を叩く。
 何か訴えようとしているが声が出ないその口では、意志の疎通は困難だった。必死にパクパクと動かすその口に、サラミが手のひらを当てた。
 パニックを起こしかけた松永をジンジャーが宥め、サラミの手話の動きを読み取って翻訳する。
「よく聞こえている。そのまま喋ってくれ、と」
 松永は不愉快そうに眉根を寄せたが、観念したようにこくりと頷いた。唇に触れるサラミの手のひらに向かって喋る。
 肌に触れる唇の動きと息遣いを読み取る。そこに倒れている男が、オーナーよりも〝無貌〟をばらまいている組織に近い場所にいるであろう存在だということ、彼らが麻薬をばら撒いているだけでなく、ホテル ノーデンスに仇なしうる存在であるということ。彼らに渡してしまった可能性がある情報。
 今気を失ったら、もう目が覚めるかどうかわからない。
 死に近い場所にある眠りに落ちる前に、松永は自分が握っている情報の全てを伝えておかなくてはならない。
 話を聞き終えたサラミが頷くのを確認して、松永の体からようやく力が抜けた。
 既に階下で銃声は止んでいる。バリーが制圧を終えたのだろう。
 建物の外にでると噴煙も収まっており、うっすらと桃色の粉が道路に降り積もるだけになっている。バイクに腰掛けて呑気に煙草をふかしていたバリーが、ひらりと手を振った。纏わりつく紫煙を鬱陶しそうにブリュレが手のひらで払っている。
「お、生きてた生きてた。松永! ビリーからの伝言だ。支払いの意思はちゃんと残っているかって。答えによっちゃ、病院に行く意味が変わるからさ」
 にこやかに物騒なことをいうバリーに、松永は無言のまま何度も首を縦に振った。
「俺も後で話が聞きたいね。それじゃ、ノーデンスで」
 手を振って、煙草を咥えたままバイクで走り去る。
 松永はバンの後部座席にあるシートを倒したスペース、ちょうど数時間前に死体袋が載っていた場所に横たえられた。この怪我の具合で死体袋と同じ場所に寝かされるというのはシャレにならない冗談だ。
 ジンジャーが助手席に乗り、サラミは応急手当のために松永と共に後部座席に乗りこんだ。
 車の振動が傷に響く。事が終わるまではアドレナリンで麻痺させていた痛覚が徐々に戻ってきている。だが脳内麻薬が切れるより先に、意識が途絶えそうだった。もう二度と目が覚めない可能性がある眠りだ。いくらノーデンスの医療技術が優れ世界が進歩しているとしても、人は死ぬときは死ぬ。ここはそういう街だ。
 胸の奥に恐怖が湧き上がった。眠りに落ちるのが怖い。少しでも長く意識を保っていたい。
 もう直ぐ意識が途切れるのを予感しながら、赤いジャケットの袖を引く。
 サラミが止血をしながら、横目でちらりと松永を見遣った。相変わらず感情の読めない目つきに怯みながらも、その腕を引き自ら手のひらに顔を寄せる。
 そうしなければ今は言葉が伝わらない。
「彼は、なんと?」
 助手席からその様子を横目で見ていたジンジャーが訊ねる。
 だが、確かに聞き取れたはずのそれを伝えずサラミは肩を竦めた。
 指を二回鳴らす音と唇の間から細く吐き出した息が、松永の言葉に返答した。

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