二枚舌の由来


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 個室レストランはそれなりに値が張るものの、周囲に憚る仄暗い会話で盛りあがるポートタウンの住人には人気だ。食事の味は二の次で、察しが良く不必要に干渉してこない店員と、すぐに供される飲み物があればそれでいい。
 形だけの食事を半分ほど腹にいれたところで、待ち合わせの相手はやってきた。信頼できる相手からの頼みだから受けたが、誰が来るのか知らされていなかった。部屋に入って来るなり、驚いたようながっかりしたような表情になる。
「あなただったんですか。残念だな」
 知り合いに会ったときのような態度だが、テーブルに着いた男は初対面。職業柄人の顔はよく覚えているが、よくよく顔を観察しても全く心当たりがない。
「僕ですよ、僕」
 男の姿が歪む。身につけた服をそのままに、纏う色彩が変わり体が一回り小さくなる。首にじわりと蓮の花の図象が浮かび上がる。見覚えのある東洋人の顔になったかと思うと再び姿を変え、瞬きする間には鏡を目の前にしたように自分と全く同じ顔になっていた。
 その刺青や異能の性質、一瞬見せた素顔には覚えがあった。
 松永 帰泉。チェーザレ・ロンバルディからの依頼で何度か行動を共にしたことがある異能者であり、便利屋だ。お抱えというほどではないが、葉巻と高級車がトレードマークの男から目を掛けられている。
「なんだ、松永か」
 眉一つ動かさずに応じ、後天的双子を見つめ返す。
「知ってる相手だと盛り上がらない」
 肩を竦めつまらなさそうに〝変装〟の異能を解除して、首に刺青の入った本来の姿に戻る。吸ってもいいですか、と一言断ってから煙草に火を付ける。
「今回のパートナー、松永 帰泉です」
 改めて挨拶を交わすが、興が冷めたことを隠そうともしない。
 松永という人物は報酬に見合った労働するというプロ意識とは全く別に、他者を人を驚かせたりからかったりする楽しみを重要視する面倒な一面を持っている。うっかりとその言動に心を乱された素振りを見せればたちまち術中に絡めとられる。努めて心を平らかにして応じるのが正しい。
 だが年甲斐もなく拗ねたような態度を見て、思わず唇の端が持ち上がった。
「名前の由来はいいのか。用意してきたんだろ」
 それは目の前にいる相手の姿に化けてみせるのと、同じくらいお決まりの手だ。
「そういう言い方されるとやる気でないなぁ」
 言葉の通り、心底やる気がなさそうにテーブルに肘をついてメニューを眺める。
「どれが好きです?」
 帰泉というファーストネームについて、彼は初対面の人間には丁寧に由来を披露してくれる。だが会うたびに違うことを言うので、何回か自己紹介を聞いていれば、相手の興味を引くだけの嘘であることはすぐに知れる。彼自身、嘘が明らかになることはなんとも思っておらず、むしろ適当なことをいうなと追及されることまでを含めての遊びだ。
 既にレパートリーの大半は聞いたことがあるので、松永自身も語り甲斐がないのだろう。
「故郷の泉の話は受けがいいんだろ」
「実は一番受けがいいのは死んでしまえ、だ」
「なんだそれ」
 心当たりがない。別にタイトルをつけている訳ではないが、内容でなんとなく呼び名がある。
「あれ、もしかして話していないな」
 そこで店員が来たので、会話は一時中断された。
 松永が適当な飲み物を注文するのに合わせて酒を頼む。入店したのと別の人物が席にいると思われないように、松永は店員が扉を開けた瞬間に異能を使っていた。
 店員が去るとするりと姿を戻す。
「聞いてないなら、ちゃんと話せばよかったなぁ。帰泉は黄泉に帰るって意味なんですよ。黄泉ってのは死者の国。人が死んだ後に、行くところね。こちらの考え方だと地獄が近いのかな。だからこの名前は死ぬと言う意味をもつ。僕の親はそんな名前を子供につけたんですよ。僕の異能は先天性だったから、たぶん自分たちの息子を疎んで忌み名を与えたんです。僕が生きていけませんように、一日も早く死んでくれますように。そういう願いを名前に込めたっていう内容なんですけど。話したことなかったですか」
「初めて聞いたな」
「なら、もっと情感を込めて話せばよかったな」
 是非、それは聞いてみたかった。
 彼ならば、心揺るがされるような語り口を披露してくれた。それが作り話で松永自身の経験や感情が一欠片も存在しないことを知っていてなお、感情移入してしまっただろう。
 確かに、泉の話よりも面白いし尤もらしい。この世界に於いて異能者に生まれつくという異端は、肉親であるという愛だけで受け入れてもらえるような軽いものではない。実際に親からそういう扱いを受けている子供が、少なからずいることを考えるとリアリティも十分だ。
「なるほど。いいな」
「でしょう。しかも同情してもらえる」
 松永の声は浮ついている。たとえ種が割れていても、用意した話を褒められたのが嬉しかったのだろう。
「実際、名前の由来はなんだ」
「さぁ?」
 上機嫌のまま、思わせぶりに肩を竦めてみせる。そもそも松永 帰泉という名前が本名とも思っていないが。
「そんな理由を大事に抱えていられる奴は、きっとこんな街にはいないでしょう」
 名前の由来どころか、名前そのものも家族すらも持ち合わせない人間だって珍しくない。持ち合わせたとして歓迎できるようなものではない。スラムに落ちてくる連中というのは、概してそういうものだ。
「違いない」
 店員がオーダーを運んできたので、松永は再び姿を変えた。何度も切り替えるのが面倒になったのか今度は異能を解かず、知らない男の姿のまま飲み物を口にした。服もそちらの方が収まりがいいのだろう。
 中身は松永だとわかっているが、所作までも対象に寄せるから別人だと錯覚しそうになる。
「相変わらず見事なものだ。もっといい仕事がありそうなもんだがな。その異能」
 少なくとも敵地に単身侵入して暗殺を実行し、うまく逃げてくるようなリスキーな仕事を選択しなくても、もっと安全に金を稼ぐ方法はいくらでもありそうだ。
「……もっといい仕事、ね」
 唇の端を吊り上げた。松永らしい表情だ。別人の姿を借りていても、その人格を構成する表情の一つ一つは変わらない。そういう笑い方をする松永を見たことがあり、脳裏には彼の顔を容易に思い浮かべることができる。
「少し、昔の話をしましょうか」
 人は表層と中身がしばしば釣り合わない。煙草に火をつけた顔は笑っているが、先ほどまでの上機嫌はどこかに消えていた。
「僕ね、マフィアに飼われてたことがあるんです。当時は異能を隠してたんだけど、普通の生き方ができるとも思えなかった。どうせなら裏社会の強い奴の傘の下でうまくやっていく方がいいかなって。下っ端扱いされるのは嫌でさ、使える奴だって思わせたくて、幹部にだけこっそり明かしたんだ。マフィアだって同じ社会のつまはじき者だし異能者を使ってるって噂もあった。たぶん差別されない。大丈夫だろうって。
 実際、大丈夫だった。そいつは僕の異能には使いどころがあるって褒めてくれた。嬉しかったよ。生まれて初めて異能を歓迎された。やっぱりここならやっていけるって思った。そいつの下で何年か働いてたらさ、ある日パーティーに連れてってもらったんだ。綺麗な女性がいっぱいいた。モデルや映画女優みたいな、有名な人がたくさんね。楽しかったよ。ハイスクールを出たばかりの僕には、あまりに刺激的だった。
頑張って役に立ったからその報酬なのかな、なんて思ってた。それでさ。次の日、僕はそいつに二つの部屋を与えられた。一つは豪華なベッドルーム。もう一つはタイル張りの殺風景な拷問部屋。あいつはそこに僕を閉じこめて、こう言った。昨日会った女に化けろって。
 ああ、あの五十人はそのために僕に会わせたのかって、ようやく察したね。昔は頭が悪かったから、信じてたんだあの男を。
 それからあいつは、日替わりで手が出せない高嶺の花を抱いて楽しんだ。言うことを聞かないと、拷問部屋に閉じこめられて逆らわなくなるまで、嬲られた。僕が従順で好みの反応を示すようになるまで腕利きが調教した。
 僕の異能は外面をそれらしく繕っているだけで、中身が女の体に変わっているわけじゃない。あいつは極上の女に突っこんでる気分を楽しめてたんだろうけど、僕は尻に突っこまれてる感覚しかない。苦しくて、痛かった。吐きそうだったし実際に何度か吐いた。そのせいで殴られもした。最悪だったよ。
 でもあの拷問部屋に戻されるのが嫌だったから、頑張って喘いで見せたよ。ポルノ女優みたいに。
 でもあの男はすぐにその五十人に飽きちゃってさ。別の女って言われたんだけど、僕は誰に化けたらいいのかわからなかった。もうストックがなかった。
 そうしたら奴は、僕の頭に銃口を押しつけてこう言った。とっとと極上の女に化けろ。さもないとお前の頭をぶち抜くぞってさ。
 怖くて動けないでいたら、できないんなら男の体でも別に構わないって、そのまま突っこまれてさ。ひどい気分だった。
 それでさ、ふふ、僕がどうしたと思う? 突っこまれてる最中に、あいつの姿になってやったのさ。ひどい顔してた。笑えたよ。
 ファックされるのはお前だ、くそったれ。そう言って銃を奪ってあいつの頭を弾いてやった。顔が吹き飛んだ体にシーツを被せてさ、銃声で駆けつけた連中にあのアバズレを片付けろっていって、そいつのふりをして建物からでて逃げてきた。死んでるのが女じゃなくて、素っ裸で出て行ったマフィアの幹部その人だってバレた瞬間、蜂の巣を突いたみたいな騒ぎになってね、面白かった。このピアスは、そのときの記念品。あいつから引きちぎって持ってきたんだ」
 耳を穿つ、ピアスを指す。
「そんなことをしたら、マフィアがお前を生かしておかないんじゃないか」
 情婦に幹部を殺されて、黙っているわけがない。組織の顔に泥を塗った犯人を、なんとしてでも探しだして殺すはずだ。
「どうだろう。あれは僕を独り占めしてうまく使うために、異能のことを人に明かしていなかった。囲われていたのが誰だったかも奴を殺したのが誰かも、わからないんじゃないかな」
 話し終わった松永は、こちらの反応を窺うような挑みかかるような目をしていた。
 こいつと因縁があるのはどこの組織であるかが問題になる。その行方を血眼になって探す連中は仕事を共にしたと言うだけで尋問したがるだろう。そんな話を聞いてしまったらもう知らなかったでは済まされない。敵になるのか味方になるのか、選ばなければいけなくなる。
「なぜそんな話を俺に」
 異能者に生まれつくという意味。その底知れなさに、初めて恐怖を覚えた。
 ごくりと生唾を飲みこむと、松永の顔がぱっと明るくなった。
「冗談ですよ。本気にしました?」
 普段通り冗談めかした声色でにこりと笑う。それは名前の由来の話が嘘だと明かすときの笑いと同じだ。
「ああ、本気にしたな。すっかり騙された」
 名前の話で良いリアクションをもらえなかった意趣返しか。いつの間にか、すっかり彼のペースに引きこまれていたことに気がついた。
 松永はハイスクールを出たばかりに見えない。最近のことではないはずだ。この街で、マフィアを敵に回して何日も生きていられるわけがない。そんなことができるはずがなかった。
「人をからかうのも大概にしておけ。そろそろ仕事の話をしようじゃないか」
 全く彼の話に付き合うとろくなことにならない。
「ええ、そうですね仕事の話だ」
 松永はジャケットの内側に手を突っこむ。取り出したのは黒光りする拳銃だった。先端に円筒形のサプレッサーが既に装着されている。それがなんであるかを理解するよりも前に、松永は引き金に力を込めていた。ぱしゅと発砲音を抑えた弾丸が吐き出される。
 体に突き刺さる鉛玉。断続的な発砲が体を左右にガタガタと揺さぶる。椅子から転げ落ちながらも咄嗟に聞き手を体の後ろに庇いながら、腰の銃把に手を伸ばす。
 死という疑いようのない終わりが、踵のすぐ後ろまで迫ってきているのを感じていた。よろけて一歩後ろに下がり倒れる頃には、この命は途絶えている。それでも撃ち返さずにはいられなかった。
 店内に銃声が鳴った。
 松永の手から銃が落ちた。腕を庇って蹲るが、致命傷ではない。痛みに顔を歪め、しかし依頼の達成を確信して薄く引き伸ばされた口元。あぁ、そうだ。松永 帰泉という男が、絶対の安全圏であるホテル ノーデンス以外の場所で異能を披露するのは任務を遂行するためと決まっている。
 今回の仕事でチェーザレが消したがっていたのは、俺だ。
 最後の息を、吐きだした。
 対象の絶命を確認した松永は、肩で扉を押し開けて部屋から走り出た。
 廊下で押しのけられた店員が、料理をぶちまけて悲鳴をあげる。程なく部屋で人が死んでいることに誰かが気づき、大騒ぎになるだろう。
 血を流して走り出ていく男を前に、会計を済ませていないなどという常識はねじ伏せられ、誰も引き止めてこなかった。
 店の外に飛び出し、走る。
 途中、ヘッドホンをしながら歩いていた通行人を蹴りとばして上着を奪うと、路地裏に逃げこんだ。異能を解いて血の付いた上着を投げ捨てると、電話を掛ける。
 通行人から剥ぎ取った上着を羽織り直して、路地裏から通りに出る。これで服に血が滲みでてくるまでは、事件現場から逃げだしてきた男ではなく、道を歩く一般人に成りすますことができる。
 五分と経たずに松永の横に、黒い車が止まった。
「うまくやったかね」
 チェーザレ・ロンバルディは葉巻を吸いながら松永に尋ねた。
「うまくはなかったですね」
 座席のシートに深く体を沈めると、銃弾がかすめた腕を押さえる。まだ血が止まっていない。
「でもご依頼の通り、敵対組織の仕業に見えるように連中の顔をして殺してきましたよ。銃もあいつらの流通ルートから手に入れたものです」
「完遂したなら問題ない」
「もったいないですね。彼、優秀だったでしょ」
 なぜなどと問わない方が利口なのはわかっている。だが同じ雇われ者の立場で、いつ殺す方と殺される方が入れ替わるのかという不安を感じずにいられるほど、雇用主に妄信的でないし能天気でもない。
「代わりはいくらでもいる」
「流石、ロンバルディ氏ともなればあの程度の人材は、いくらでも用意できるというわけですね」
「あの男に限ったことではない。マツナガ、私がこの世で最も嫌いなものは、人はそれぞれが唯一無二などという戯言だよ。代替できない才能などない。個性などといって人が大事に抱えているものは、組織を動かす上で邪魔にしかならない。全ての部品が代替可能でなければ、いつか機能不全を起こす」
「なるほど」
 少しも共感できなかったが、相手の機嫌を損ねないように頷いた。そういうチェーザレ自身は組織の一員でありながら、取り替えられることなど決してない、唯一無二の部品だ。手足である構成員は、何の能力も持たない一般人であればいくらでもすげ替えることは可能だろう。
 だが、この世には異能者がいる。他に代わりのいない、相談する相手も共感する相手もいない唯一無二は、確実にこの世界に存在する。
「せいぜい取り替えられないように、十全に機能させていただきます」
「では、もう一つ仕事を受けてもらいたい」
「僕、怪我してるんですけど?」
「治ってからで構わんよ。こちらは急ぎではない。引き受けてくれるならば今回の宿泊費はこちらで持とう」
 宿泊費とは怪我の治療費のことだ。
 松永には家がない。ホテル ノーデンスに用意された個室もとい病室だけが拠点らしい拠点だが、そこは犯罪者のための病院である。高額な年会費に加えて、治療費も決して安価ではない。いつかの裏切りに対する警戒を抱きつつも、手を伸ばさずにはいられない金額だ。
「わかりました」
 松永は頷いた。
「ホテル ノーデンスへ」
 チェーザレが運転手に指示をする。
 やがて車窓から【HOTEL NODENS membership system】というネオンサインが見えてくる。掲げられた看板を信じるのならば、会員制ホテルということになっていて、外観からは医療施設とはわからない。だから松永も怪我を隠し、まるで宿泊客のような顔をして、エントランスの向こうに消えた。
◆◇◆
 マンションから出た途端に側溝から吹き上がってくる下水の生臭い空気を感じた。マフラーで鼻を覆い、仕事場に向かう。
 スラムで働くのだけはごめんだと無我夢中で滑りこんだ、富裕層の街にある職場。あの街に於いてはさして高級とも言えないレストランの給仕だが、強盗だの万引きだの、単に買い物をしているだけなのにやたらとおっかない柄の悪い客だのを相手にしなくていい環境は天国だ。
 十三時からの勤務、軽く食事をしてから向かえば十分に間に合う。
 首から下げた従業員用の入館証を、シャツの下に厳重に隠す。これは天国への切符だ。これがなければ職場であっても、足を踏み入れることさえできない。ガードはスラムの住人とそうでない奴を、はっきりと嗅ぎわけ扱いを区別する。無くしたら防犯上の責任も問われて、即座に首になる未来が見えていた。
 ゴミを漁るカラスを避けて車道へ。
 無鉄砲な運転の車を避けて歩道へ。
 スリを警戒して、内ポケットに入れた財布の重さに注意を払う。
 鋭い目つきで獲物を探す物取りに目を付けられないように、用心深そうに振る舞うことを忘れない。
「あの、スミマセン」
 十分に気をつけたはずなのに、声を掛けられてしまった。今日は良くないことが起こる一日になるということが、それで決定付けられてしまった。最悪の気分だった。
 話し掛けてきた言葉は、少し拙い発音だった。不快に感じながら目を向けると、黄色い肌をした男が不安そうな顔で、おずおずと手を伸ばしている。
 男の出てきた建物を見上げる。
 ホテルノーデンスと看板に記されていた。ネオンサインは昼間なので点灯していない。こんな街に、旅行者なのか。
 ホテル名に続いて会員制の文字が目に入る。会員制ホテルに宿泊できるくらいだから、身元のおかしな人間ではないか。少なくともスラムでゴミ漁りをして過ごすような連中ではない。そう判断して、無視はしないでやることにした。自分の住む街にあるのに、今までまるで視界に入ってこなかったホテルの存在が気になって、話を聞いてみたくなったというのもある。
「なにか」
 それでもいきなり話しかけてきた相手への警戒から、言葉は硬くなった。
「ご飯食べる、知りますか、近く」
「飯ぃ?」
「お金、大丈夫。高い、平気」
 お前の所持金なんて、聞いてない。そんなもの泥棒くらいしか興味を持たない。
 スニーカーとブカブカのTシャツを着た姿を見る。金を持っていたところで、そんな格好で入れる高級店があるかよ。強盗避けの知恵と言われれば関心するけれどそこまで頭が回るタイプには見えない。いかにも世間知らずな旅行者だ。
 どこに連れて行ったらいいだろう。
 悩んだ末に、近くに東洋人がやっている軽食屋があることを思い出し、そこに案内することにした。
 買い物の仕方も心得ていない上に英語が拙いその男に付き合って、その店で自分も食事を買う。
 耐油紙のテイクアウトボックスに詰めこまれた油で炒めてベタベタになった飯を、プラスチックフォークで掬って口に運ぶ。本物のエビかどうか疑わしい丸い赤い何かと、野菜のクズみたいなものが入っている。
(うまいのか、これ)
 カラスに襲われないように少し離れた場所に移動する。路地の木箱を椅子がわりにして二人でテイクアウトのチャイニーズフードをつついた。目の前の男もさっきからフォークで中身をかき混ぜるばかりで、食が進んでいるようには見えなかった。
 カラスがいない場所は人通りも少なく、ようやく何も警戒せずに息をつくことができた。
「これで良かったのか?」
 お世辞にも美味しいとは言えない飯。
「ああ、問題ない。むしろ完璧だ」
 返事をした男の声が、違う。
 驚いて、顔を上げる。
 手からテイクアウトのボックスが落ちた。驚きすぎて、男の喋る言葉が拙さを失っていることにも気づかなかった。
 目の前にいる男の身長が、髪の色が、目の色が、違う。
 家を出る前に鏡の中で見た人物が、目の前に立っている。
 自分自身がそこにいた。
 背が縮んだ分だけダボついて肌けた服の襟を引き上げ、私と同じ顔をした男は笑う。常軌を逸したその現象。信じられないがそれが実際に起こってしまったのなら、可能性は一つ。
 この男は、化け物だ。
「い、異能者」
 声が震えた。
「あー、やめてください」
 首筋の血管にぐいと安い油にまみれたプラスチックフォークがあてがわれた。すぐに折れそうな代物だが、そんなものでもその気になれば頸動脈を裂くことくらいはできるということは理解できた。
「叫ぶのはなし。血まみれも困る、服が汚れる」
 発話者の聞いている声と実際に他者が耳にする音は違う。だから知る由もないことだが、向かい合う二人は声すらも全く同じだった。
「あっち向いて」
 指示されるままに背中を向ける。フォークが首を離れ、頭に両手が添えられた。
 ゴキと首の骨が折れる。
 それが最後に聞いた音だった。
 奇妙な方向に首が捻れて死んだ男の所持品を検め、入館証を見つける。そこに記載された顔写真が死んでいる男と同じ顔であることと、その名前を確認する。
「ユーイン、ね。オーケイ、僕は今からユーインだ」
 ニヤリと微笑み、死体から服を脱がせて着替える。出勤時間まではまだ三十分ほど余裕があった。
 今はユーインと名乗り顔を借りている東洋人の男は、この街では松永 帰泉と名乗っている。チェーザレ・ロンバルディから受けた仕事を円滑に進めるために、ユーインが働いているレストランスタッフの身分が必要だった。スラムに暮らす彼は襲いやすく、そして富裕層の人間が大半の職場の人間関係の中で、彼一人だけが浮いているのは容易に想像できたから、入れ替わるのが最も容易に思われたのだ。
 服と身分証と外見を奪いユーインが務めているレストランの裏口に向かう。入館証でロックを解除し、ガードに軽く会釈をして店内に入る。制服に着替えてホールに向かう。
 そうやって他人に成りすまして振る舞うことが多いので、接客業は概ねその場のノリでなんとなくこなせるようになっている。
「ユーイン、おいユーイン」
 中身は松永のままのなので、借り物の名前で呼ばれると返事が遅れる。ぐいと肩を掴まれてようやく今の名前がユーインであるということに気づいた。
「はい、なんでしょうか」
 相手の名前が分からない。目上だろうというのは服装と態度からなんとなく判断できる。チーフそれともボスと呼ぶべきか。もしかするとオーナーかもしれないし、シェフって線もある。
「お前、煙草やってたか?」
 自分の服を嗅いでみる。制服に着替えたのに、そんなに臭うものか。バターとコンソメの匂いでいっぱいの調理場で、煙草の臭いが分かるんですかと内心で言い返す。
 答えに窮していると、頭から消臭スプレーを浴びせられた。
 不意打ちで吸いこんでしまい、咽せる。
 こいつバターナイフで刺し殺してやろうか。金にならないからやらないが、こいつが相手なら半額で受けてやる。特別に後払いでもいい。
「うちの店は格式が大事だといってあるだろう。頼むぞ、ユーイン」
「了解しました」
「お前、変な言葉遣いをするようになったなぁ」
 訝る視線から逃れるように、そそくさとホールスタッフの仕事に取り掛かる。
 受付に向かい予約表を確認する。目当ての客の予約は十三時。ユーインの出勤時間と同じ。もう店に入ってきているはずだ。
 ぐるりと店内を見回し、一番奥の席に事前資料として渡されていた写真と同じ、ぴっちりと几帳面に撫でつけた金髪を確認する。
 あとは、対象が一人になるのを待つだけだ。
 幸いレストランのホールスタッフは退屈しない。そこからたっぷり一時間、故ユーインがやるはずの労働をこなしたあたりで、チャンスが訪れた。
 初めて見る相手なら警戒されることもあるだろうが、ユーインは通い慣れたレストランの店員だ。テーブルスタッフとして着いたこともあるのだろう。警戒されずに近づくなど、造作もない。
 手洗いに立った対象の後をつけ、ドアを開けて滑りこむ。あとは首の骨を折って個室に隠し、服を着替えて本人のフリをして店を出て、適当なところで同行者を撒いて逃げるだけだ。
「ユーイン! おい、ユーイン」
 トイレのドアが豪快に開け放たれた。
(さっきの、何なんだろうな名前。消臭スプレーの人だ)
「従業員は、お客様用の手洗いは使うなと言ってるだろうが!」
 あまりのタイミングの悪さに、顔が引きつった。
「なんだ、貴様らは」
 几帳面な顔をした男は不愉快そうに顔をしかめて、エプロンをつけたまま手洗いに入ってきている店員二人を睨んだ。
「調子悪いなぁ」
 深いため息が出た。
 病み上がりに仕事なんてするもんじゃない。
 キッチンからくすねておいたナイフを袖から取り出す。まずターゲットを迅速に始末する。胸ポケットに手を突っこむのが見えたが取り出す前に首を掻き切り、返り血を避けて体の後ろに回りこむ。
 吹き出した赤黒い血の色を見て、仮称 消臭スプレーの人は何が起こっているのかわからないぽかんとした顔をした。
 男が手を突っこんでいた懐から拳銃を探り当てて奪うと、呆けた顔のままの消臭スプレーの人を撃つ。
 銃声が響き渡った。店の中が騒ついたのがわかった。僅かに遅れ警報が鳴り響く。
「どぉしようかな」
 着替えてる暇なさそうだよなぁ、と今の体より背の高い男の体を見下ろしながら松永は血まみれの手で頭をかいた。
◆◇◆
 遠くサイレンの音が聞こえる。
 スラム街で起こる事件の大部分に警察は積極的に関与もしない。ここ最近スラムでの仕事が多かったから、警察が駆けつけるまでの時間の見通しが甘かった。
 富裕層の街で発砲音がすれば、すぐに近隣を巡回中の警察に通報が届くに決まっている。チェーザレの車が回収に来てくれるタイプの依頼でもない。
 迂闊だった。スラムに入ってしまえばこちらのものだという望みを持って川を渡ってスラム街まで辿り着いた。ここまで来れば隠れる場所は多いし警官の数も減るが、パトカーは相変わらず警報を鳴らしながら近隣を巡回している。
 直接ホテル ノーデンスに向かうには、追っ手が多い。
 撃たれた傷を庇いながら、足を引きずって歩く。
 管理の雑そうなマンションを見つけ、鍵を壊して家主が不在の部屋に潜りこむ。ありったけのタオルを引っ張り出してきて傷を押さえた。洗面所の棚を漁り、痛み止めの錠剤を見つけると口に流しこむ。
 パトカーのサイレンが遠ざかったのを確認してから、部屋を出る。念の為、上着を取り替えたがすぐに血が染みて来た。
 非常階段から建物の裏手に出て、路地裏を進む。
 スラム街であれば、なるべく人目につかないルートが身に馴染んでいる。だが、その分だけノーデンスへの道のりは遠くなる。残りの体力を見誤ればこのまま道端で野垂れ死ぬのだろう。
 こんなところで死んでたまるか。
 薄汚れた道に、真新しく鮮やかな赤い色彩が残る。靴底で痕跡を踏み消しても、靴から流れ落ちた血がまた新しい跡を残す。
 それはどうせすぐにスラムの泥に混じって消える汚れの一つだ。
 一歩踏み出すたびにサイズの合わない靴の中に溜まった血液が、足に絡みついて不愉快だった。
 歩きにくい。このままでは余計に時間がかかる。力を振り絞る。〝変装〟の異能を使って、体を服を借りた男の姿に戻そうとする。だが変化に耐えられず、膝をつく。
 両手で顔を覆う。血でへばりつく服の感触が、安定しない体に合わせて窮屈になったり余裕ができたりする。顔が保てない。
 僕は今、どちらの顔をしている。松永か、あの男の顔か。それともユーインとかいうあの給仕か。
(落ち着け)
 判断力が鈍っている。
 異能を人に見られるのはまずい。いかにも事件関係者という姿を松永の外見と結びつけて誰かに目撃されてはいけないが、それが異能者であるというのを見られるのは更に問題だ。安全圏に辿りつくまでは、安定した姿を保っていなければならない。
 異能は松永の切り札であり保身である。
 例え仕事の途中で敵に刺客だと見破られても、任務でしくじって追いかけられても正体はバレない。街ですれ違う相手がかつて殺し合いをした相手であっても、向こうはそれに気づかない。偽りの顔で誰に恨まれていても、本当の顔に戻れば誰にも命を狙われることなく、街の中を堂々と歩くことができる。
 誰も松永という男が、何者であるのかを知らない。
 そのお陰で、今日まで生き残ることができている。
 だがそれは常に僅かな不安を伴っていた。今までの経験から失神や睡眠などで意識が途切れても、異能を解除しなければ姿は元には戻らない。異能で姿を変えたまま死んだら、この体はいったいどうなってしまうのだろう。ちゃんと松永 帰泉として死ねるだろうか。
 死んだことがないからわからない。
 この世界からなかったことになって、消えてしまうんじゃないかという不安は胸の奥にずっと燻っている。普段なら無視してしまえる心の声は、弱っていると徐々に存在感を大きくして迫ってくる。
 いつの間にか、誰でもない何かになってはいないか。異能者は化け物だ、という言葉が胸をかすめる。
(だから、どうした)
 ずっとそんな言葉に晒されて生きてきた。人と違う力を手にしていて、何が悪い。なぜ持たざる者に阿って、平均値を取れずに申し訳ありませんという顔をして生きていかなければならない。
 化け物だろうが異能だろうが突然変異だろうが、生き残っていればいいのだ。松永が生き残り己の生を謳歌している限り、吐き捨てられたそれらの言葉は生者を羨む死者からの恨み言にしかならない。
 依頼は完遂した。あとは生きて帰りさえすればいい。
 歩きにくい靴で血の跡を残しながら一歩を踏み出す。路地裏を這いずるようにして進む。
 死んでたまるか。僕だけは生き抜く。
 病院まで辿り着けばいい。少なくともこの件に関しては、金の心配はいらない。味方がいない金と仕事の繋がりだけがある人生でも、信じられるものがそれだけあるなら万々歳だ。
 瞼が重い。手足もそして思考も鉛をつけたように重たく、意識が遠ざかっていく。
 あと何メートルある。
 壁についた自分の手首を見る。袖から覗く刺青の黒色。
 ああ、僕は今、松永 帰泉だ。鏡がなくともその墨の色が、今の姿を教えてくれた。
 やがて眼前に、見覚えのあるネオンサインが現れた。
 ホテル ノーデンス。
 犯罪者専用の病院であるだけでなく、異能者であることを恥じずにいられる場所。松永のような人間にとっての、唯一の避難所だ。
◆◇◆
 ノーデンスは異能者を差別しない。スタッフには回復治療に特化した異能者を含めた人材を揃えているし、そもそも医療設備自体が充実している。大抵の怪我が後遺症なしで回復する。だが怪我の痛みをなかったことにできるわけではないし、体の穴がすぐさま塞がるわけでもない。
 入院していた松永は、ようやく車椅子に乗って病院内を動き回れるくらいには回復した。
 ホテル ノーデンスには利用者それぞれに個室が与えられていて、そこは家を持たない松永にとっては私物を置いておくことができる唯一の自宅に近い場所だ。
 松永はじっとベッドに寝ていることが嫌いだ。生活習慣が不規則だから用事がなければ昼過ぎまで寝ているくらいにベッドと親しいが、意に添わぬ形でとなった途端に不快感が増してくる。入院数日で、さしてうまくもないポートタウンの空気が吸いたくなってくる。
 だからベッドから起き上がる許可が出ると、即座に看護師を拝み倒して喫煙所に連れて行ってもらった。片手で操作できる電動車椅子には空きがなく短期入院で済むと予想されている松永には借用申請が降りなかった。
 撃たれた片腕の傷がまだ塞がっておらず、自力で車椅子を動かせないのは、不便なことこの上ない。
 それを面倒と思っているのは、松永の頼みで車椅子を押す看護師も同じだ。既に何度も入退院を繰り返し、顔を見知った仲の気安さで仕事中に雑事で呼び出されることへの不平を述べた。
「怪我人なんだから優しくしてよ」
 彼女の愚痴を聞きながら、眉を八の字にして頼みこむ。いつもそうであるように最終的には、肩を竦めて合意してくれた。
 表向き宿泊施設であるホテル ノーデンスは建物は外観も内装も、病院というよりもホテルに近い。スタッフが制服の代わりに白衣を纏い、宿泊客たちから血や消毒液の臭いがする点が宿泊施設らしからぬ点だ。
 一階はエントランスホールのみで、病院の受付や食堂、薬局や売店といったものは二階に存在している。原則禁煙であるノーデンスの中で煙草を吸うことができるのもそこだけだ。
 到着のベルが鳴り、エレベータのドアが開く。
 受付のフロントカウンターの前に、人影がある。音に反応しちらりとこちらに頭を傾けた。
「ああ、ほら松永さんに構ってたら他の方が来ちゃったじゃないですか」
 看護師が慌てた声を上げた。
 そこに立っていたのは、背の高い男だった。細身のジャケットを羽織った禿頭。何もかもがシンプルな形で構成された男だった。
 きちんと自らの足で立ち、フロントに軽く手を置いて待つ姿は急な処置を必要とする利用者には見えない。どう考えても三日間強制的に禁煙をさせられた松永の方が、重要度は上だ。
 首に赤く傷跡が見え、通院患者かと思う。振り向いた動きには一切の無駄がなくどこか機械的だった。
 感情が薄い目で看護師と松永に視線を送る。受付に置いてあったメモ帳に文字を筆記すると、トンと指先で叩く。
 彼が示した紙切れにはタイポグラフィのように完璧な文字が整然と並んでいた。
 男の顔がはっきりと見えるようになって、心臓が跳ね上がった。
(なんで、ここにいる)
 フロントの空調では肌寒さすら感じる薄い入院着の内側に、汗が吹き出す。半ば無意識で、耳に付けたピアスを引きちぎるように乱暴に外していた。それをポケットに押しこんだ指先が、震えている。自分が自分と分かる特徴を隠さなければという焦燥を感じていた。
 その顔を知っていた。彼の声が出ないこと。その意を伝える手段。その生業。その手管。体が覚えている。
「ああ、ごめんなさい。受付空けちゃってて」
 看護師が車椅子を押したまま男に近づこうとしたので、松永は慌てた。
「ちょ、っと待て。待て。先に、喫煙所だ」
 縋るような気持ちだった。それは半ば祈りだった。こんな訳ありばかり集まる病院に働いているんだ、言わずとも察してくれと、そんな思いがあった。
「わがまま言わないでください」
 祈りは届かなかった。
「ならここに置いとけ。あとで連れてってくれればいい」
「エレベーター前じゃないですか。邪魔ですよ。すぐに連れてってあげますから待っててくださいね」
 受付の傍に車椅子が寄せられる。それはあの男のすぐ傍だ。
 知らぬうちに呼吸が浅く早くなっていて、平常を意識する。
 看護師と筆談を試みようと、男の手がデスクペンに伸びる。
 松永は反射でびくりと跳ね上がりかけた手首を、ギプスをはめた左手で膝に叩きつけるようにして押さえる。持っていたライターと煙草の箱が落ち、焦って宙に伸ばした手は煙草を掴み損ねて弾き飛ばしてしまい、男の靴先まで滑っていった。
 息が止まった。呼吸を忘れた視界が白む。
 男が屈んだ。落とした煙草とライターを拾い、松永の膝に乗せる。
 なにか言わなければ。いつものように冗談めかして。なんでもない風を装って。初対面を装って。日常に溶けるありきたりな一個人を見せなければ。
 ただ一言、助かったと礼をいうだけでもいい。
 喉からはひゅっと息が漏れただけだった。
 男の指先が動いた。両の指が胸の前で動き、組み合わされ離れる。
 彼は言葉を話さない。その意はプリントアウトしたような正確な活字と、複雑な指の動きと、いくつかの息の音でのみ伝えられる。
 意味を読み取れなかった松永は首を傾げて無言を貫くより他はなかった。
 言葉を発しないから自分と同じ唖者であると思って手話を使ったその男は、意味が読み取れない様子の松永に対し、初めて感情らしい感情を露わにした。怪訝そうな顔をして首を傾げ、疑問を表現した。
 松永から何のリアクションもないと見るや即座にコミュニケーションを切り上げ、受付を済ませエレベータに向かう。
 男の姿が見えなくなって、ようやく松永は息ができるようになった。全身に冷や汗をかいている。胸に手を当てて呼吸を整える。心臓が早鐘のように打っている。
 バレていない。いや分かるわけがない。
 あいつは僕を覚えていない。僕もあいつと初めて会う。それでいいじゃないか。それなのに、体の芯に染みついた習性だけが消えていない。
『飼い主の求める通りに鳴け』
 それが彼から与えられた最初の指示だった。名も知らない男の、生業だけはよく知っていた。
 調教師。
 彼はひどく優秀だった。
 かつて松永を捕らえ情婦として飼っていたマフィアが、高い金を払って雇ったのがその男だった。言うことを聞かないと彼の待ち受ける拷問室に閉じ込められて、幾多の責め苦を味わされた。その顔を、忘れられるわけがない。
 コンクリート打ちっぱなしのタイル張りの部屋。少し傾斜のついた床の真ん中に排水溝があり、部屋に垂れ流したあらゆるものをすぐに掃除できる拷問のための部屋。
 隅に置いてあるレコードプレイヤーの金属の針が黒い円盤を引っ掻き、有名なクラシック曲が延々と繰り返される。情動を引きずりこむようなメロディーに魂が丸裸にされる。繰り返し再生しすぎてノイズが混じり、時々音が飛ぶ旋律。
 音楽と共に刻み込まれた記憶。
 彼は感情を全く表に出さなかった。機械的で義務的に、顧客の要望通りに職務を全うした。
 まだ女を抱いたことすらなかった体に、従順な雌犬の振る舞いを教えこんだ。飼い主にけして歯向かわず、望むことをすぐに覚えるように心を作り直した。
 ベッドの上で体を暴かれている屈辱的時間、彼は温度のない瞳で躾けた通りの振る舞いができているかをじっと観察していた。どんなに乞うても、助けてくれなかった。他人に体を恣にされている惨めな男に対する憐れみも嘲笑もない。
 彼はただ、仕事をしていた。
 何か言葉を投げかける代わりに、痛みと指示だけがそこにはあった。
 マフィアの男からの一切の好意なき自分本位な性行為が肉体を蝕み、どんな罵詈雑言をぶつけても凪のような調教師の悪意なき加害が精神を苛んだ。
 彼が松永を娼婦にした。
 少しも集中できないままに喫煙所で煙草を一本消費し、早々に部屋に戻る。
「素晴らしいよ。君の力はきっと俺の役に立つ。こんな狭い国じゃなくて広い世界に興味はないか?」
 松永をこの国に誘った男の言葉を思い出す。
 その言葉を与えられたとき、松永は覚えたばかりの煙草を咳きこまずに吸い込むことに夢中だった。大人の真似事で始めた煙の味に慎重になるあまり、自分に向けられた瞳に宿る暗い欲望などには気づきもしなかった。いや、見ていたとして当時の愚かな自分は、気づくことなどできはしなかっただろう。
「俺と世界を見よう」
 安い口説き文句をすぐに信じこむのは人を見抜く力が欠如していて、その自覚がないからだ。
 正しい大人の語る倫理が綺麗事の嘘で、子供たちに無理解であることに飽き飽きしていた。悪党の語る理想ならば真実に届き、自分たちに苦しみに寄り添ってくれるという浅はかな人間理解。シニカルであれば世界を正しく認識できるという信仰。
 女になれと命じられたときのどろりと欲に濁った声色。抵抗する松永に調教師をあてがったときの嘲弄。
 今なら分かる。あのときのマフィアは松永の無知を笑い、人に使われるだけの惨めな弱者を見下していたのだと。
 あの頃、まだ蓮は咲いていなかった。
 だが結果として生き残ったのは松永で、あの男は死んだ。
 そして一緒に、人に利用されるだけの無力な東洋人の子供も葬ったのだ。
 松永 帰泉の全ては、嘘でできている。この名前を名乗るときに、そう決めた。
 松永の異能は〝変装〟だ。戦うのに向いた力ではない。守る力とも違う。ただ人を騙すのに、この上なく向いていた。
 誰も松永がしたことを知らないし、松永が誰であるのかわからない。
 姿も名の由来も過去も現在の生活も、そのときの気分で思うまま偽ってきた。
 嘘と混ぜあわせ薄めて希釈していけば、いつか真実も嘘になる。そう松永は信じて疑わなかった。
 誰も知らないことは、ないと同じだ。誰も知らない過去を自分も忘れたのなら、いつか完全に消してしまえる。
 過去は吐き出す紫煙と同じように、白く薄らいで消えてくれるはずだった。
 だが、過去を知っている誰かが目の前に現れてしまえば、全ての前提が崩れる。
 調教師との出会いは突きつけられたジョーカーのカードだった。
 部屋に戻りベッドに横になっても、心が鎮まらない。
 目を閉じると過去の悪夢が溢れだし、瞼の裏側に自分を組み敷いた男の肌の色がちらつく。それを振り払うようにベッドから起き上がった。車椅子に体を移動させる。部屋の中だけなら、時間は掛かるし不便だが片手でホイールを交互に回してなんとか動き回ることができた。
 今は横になっているときのスプリングの軋む音やシーツの布ずれのような、何もかもが神経に触るのだ。
 顔を洗おうと洗面台に移動する。今の松永に、あの頃の面影はない。
 もう子供ではないし、娼婦などではない。
(僕はちゃんと男だし、あの頃とは違う)
 松永の喉には黒い蓮の花が咲いている。
 その存在を確かめるように指で撫でる。爪が皮膚の表面を撫でた感触が、あの男の喉を横一文字に切る赤い傷跡を思い出させた。
 鏡の中の自分の姿が、過去の幻想で揺らぐような気がした。
 松永は気がつくと洗面台の鏡を叩き割っていた。
 殴りつけた拳から白い陶器の流し台に、ぽたりぽたりと赤く血が滴り落ちた。

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