紫煙と黒い蓮


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 綺麗に飾りつけたテーブルの上にご馳走が並ぶ。レストランみたいなテーブルセット。もう半分大人だからカラトリーだって大人と同じのを使わせてもらうんだ。一番奥の特等席には、お気に入りのお皿とマグカップ。それにピカピカのナイフとフォークが並んでいる。
 晩御飯は、全部私の好きなもの。ミートボールとマカロニチーズ、ハムを入れたポテトサラダ、それにステーキだってある。仕上げにパパが買ってきてくれたケーキに歳の数だけキャンドルを立てる。
 ケーキは苺がたくさん載っていて、チョコレートのプレートと砂糖菓子のお人形が飾りつけられた大きいやつに決まっている。
 今日は私のお誕生日。ご馳走をお腹いっぱい食べて、パパとママの二人から素敵なプレゼントがもらえる日。
 二人ともプレゼントを用意しているに決まっているけど、秘密だから私も知らないふりをしてあげる。だってサプライズなのにバレちゃってるなんて知ったら、二人ともがっかりするもの。
 もう全部準備ができているのに、パパとケーキだけがいつまで経っても揃わない。これじゃせっかくのご馳走が冷めてしまう。ママに電話を掛けてもらっても通じないらしくて首を傾げるばっかりだ。
 仕方がないからベランダに出て外を見る。私の部屋はエントランスと反対側。だから手摺から下を覗きこんでもパパが帰ってくるのは見えないんだけど、でも待ちきれないから、そわそわする気持ちを落ち着けるのにそこに行かずにはいられなかった。
 ベランダに出ると必ず嫌な臭いがする。あと水族館みたいな生臭さ。ベランダの下には川が流れている。クリスタルリバーという街を二つに分ける大きな川。名前はキラキラしているけれど、いつも濁ってゴミが浮いている。
 それでもこの時間は夕日を浴びて、不透明の水の表面をぬらぬらと真っ赤に光らせていて、いつもより少し綺麗に見えた。
 川の向こう側に見える町並みは私がよく知る街と比べて、どこかくすんだ色合いをして見える。
 スラム街というのだそうだ。
 それがなんなのか知らないけれど、ママは窓からそちら側が見えるのをすごく嫌がる。よく引っ越したいと言ってパパを困らせている。
 私も川から嫌な臭いがするのは好きじゃないけれど、ベランダから見る景色は嫌いじゃない。すぐ傍にある全然知らない街。けど絶対に私は向こう側に行ってはいけないし、向こう側から来た人に関わっても駄目らしい。危なくて怖い人がいるんだ。見下ろしながらどんなところなんだろうと想像する。怖い絵本に出てくるようなお化けやモンスターがいる場所なのかな。それとも大冒険が待っているのかな。
 街を見下ろして空想に耽って時間を潰していると玄関の方で、インターホンが鳴った。料理中のママの代わりに応答ボタンを押す。玄関ホールが液晶に映る。パパが手を振った。
「遅いよ!」
「ごめんごめん。鍵を置いてきちゃって入れないんだ。開けてくれないか?」
「しょうがないなぁ」
 パパはちょっと抜けてるところがあるから仕方がない。エントランスホールのゲートを解錠して、この階までのエレベーター作動の許可ボタンを押す。下から上に登ってくるまでのわずかな時間が待ち遠しい。
 玄関の前で今か今かと待ち構えて、扉が開くと同時に抱きついた。漂ったのは甘いケーキの香りではなく、苦い煙の臭いだった。それにベタベタする生臭いような鉄臭いような臭い。
 お帰りなさいをいうのも忘れて見上げた顔が、ニコリと笑う。家を出るときと同じ顔、普段の通りに笑うパパなのに、なぜだか怖くてキッチンから出てきたママの後ろに隠れた。知らない人みたいだ。
「あら、あなたケーキを買ってきてくれるんじゃなかったの?」
 それに煙草くさいわ、とママも顔をしかめた。
「仕事の付き合いで喫煙所に居たんだ」
 二人が言い合いを始める前のピリピリとした空気を感じた。喧嘩になったらどうしよう。ママは一度機嫌が悪くなると長いって、パパはいつも愚痴っている。
 二人とも黙りこんだあと、どちらかが火種になる余計な一言を口にしてしまう前に居間で電話が鳴り始めた。同時にオーブンがチーズマカロニの焼き上がりを告げるアラートが、キッチンから響かせた。
 二方向からピーピーと鳴る音の両方が気になって、落ち着かない。
「先にシャワー、浴びて来ていいかな」
 誰も止めないから鳴りっぱなしの電子音に、パパが不快そうに顔をしかめる。
「いいですけど、あなた今日はこの子の誕生日でしょ」
「後で話そう、疲れてるんだよ」
 パパは話を遮って強引に切り上げ、電話を無視してバスルームに消えた。
 ママがため息を吐いて電話を取りに行った。私はキッチンに行ってオーブンのドアを開く。熱いものは触っちゃいけないと言われているから、アラートを止めるだけ。チーズマカロニはいい匂いがしている。遅くなったけどパパは帰って来てくれた。ケーキはないけれどプレゼントは用意してくれているはずだし、たっぷりの御馳走でこれからパーティーが始まる。
 素敵な気分になれる日のはずなのに、なんでこんなに怖いんだろう。
 ケーキを買って来てくれなかったこと、気にしてないよ。帰りが遅くなったことも許してあげる。普段のパパに戻って誕生日おめでとうって言ってママと一緒に笑ってテーブルでご飯を食べられたら、それでいい。
 ママがキッチンに戻ってこない。まだ居間で電話をしている。こんな時間に掛けてくるのは誰だろう。そんなこと放っておいて私の話を聞いて欲しいのに。
 今日のパパちょっとおかしかったねって、聞いて欲しいのに。
 電話で話しているママの顔が、真っ青になっていた。
 具合が悪いのかな。大丈夫かな。パパもママも苦しいんなら、パーティーは明日でもいいよ。
「そんな、そんなはずありません!」
 急に大きい声を出したので、裾を引っ張ろうとする手を引っこめた。びっくりする私を見て、はじめて近くに人が立っているのに気づいたみたいだった。受話器を耳に当てたまま見つめ返してくる。初めて見る顔をしていた。怒っているわけじゃない。悲しいとも違う。
 ママのそれは、どういう気持ち?
 私にはわからない。
「主人は、帰って来ました。今さっき家に戻ったんです。何かの間違いでしょう?」
 主人というのは外の人と話すときの、パパのことだ。パパの話をしているんだ。様子がおかしくってケーキも買ってくれなかったのと、何か関係があるのかな。
「遺体で見つかったって、そんな、そんなはずありません」
 乱暴に電話を切った。声は悲鳴みたいだった。受話器を握ったままの手に力が入りすぎて、指が白くなっている。
 やっと電話が終わったと思って、ママに話しかけた。でも聞いてくれない。
 私の手が触れると我に返って、受話器を置いた。そして弾かれたようにバスルームに向かって走っていく。突き飛ばされて、床に転んだ。ごめんねの一言もなく、振り返らなかった。ママは、お化けに出会った人みたいな顔をしていた。
 どうしちゃったの。
 ママが心配で、私も廊下に付いていった。
 ちょうどパパがシャワーを浴び終わって、バスルームから出てきたところだった。すっきりして気持ちよさそうだ。でもやってくる私たちの顔色を見て真面目な表情になった。
 ママの声は震えていた。握りしめた拳も、震えていた。
「あなたは、誰なの」
 見つめ返した目が、知らない人みたいに冷たかったから、私もママも一歩後ろに下がった。だから私にもわかった。
 あれは私のパパじゃない。
「あれ、ちゃんと顔潰して来たんだけど、なんでバレたのかな」
 パパの声じゃない。その人はにやりと笑った。
 横に引き伸ばした唇が、そのままぐにゃりと溶けた。ママが口を押さえて息を飲み私は怖くて悲鳴をあげた。
 夏のチョコレート菓子、食べたらもったいないからと取っておいた飴細工。そんな形を失ってしまう何かのように色が混ざって顔が崩れた。
 パパだった人は、もうパパの顔をしていない。額にかかる濡れた髪を後ろに流す手が、顔を横切った次の瞬間、別の人の顔になっていた。髪の毛の色が生え際から黒く滲んで変わる。肌の色が濃い。胴体が薄くなって着ている服の布が余った。
 ぐいと伸びをして反らした喉に、大きく花のような模様が浮き出た。服の袖から覗く腕にも、定規で線を引いたように模様がびっしり入っている。
 パパは目の前で全く別の人に変わった。変身した。
「い、異能者」
 ママが口を押さえた指の隙間から、声を絞り出した。
 イノウシャ。
 それがなんなのか、私はよくわかっていない。時々テレビのニュースや、大人の会話の中で聞くくらい。みんながそれをとても嫌っているというのは、パパとママが話しているのを聞いているとなんとなくわかる。
「タイセンノイブツ。バケモノ」
 そういうんだって、聞いた。大人たちはみんなそう言ってる。
「やめなさい」
 ママがハッとして私の口を塞ぐ。
「そうそう。僕たちが突然変異の化け物。人でなしの異能者ですよ。よく教育されてるじゃないですか」
 はは、と知らない人は楽しそうに口を開けて笑った。
 あんな嬉しそうにしているのに、なんでママは私を止めたんだろう。楽しいのは悪いことじゃないじゃないでしょう。
 でもぐっと腰をかがめて覗きこんできた目の奥が真っ暗だったので、怖くてママの後ろに逃げこんだ。ママはしっかりと私の腕を握っていてくれた。
 その人は私が隠れてしまったのを見て肩を竦めた。
「子供には手を出さないで。何が目的なの。お金、それとも食べ物?」
 黒い目がすぅと細くなった。怖がるようにママが一歩下がったので、私も押されて後ろに下がる。
「不愉快だな。僕たちみたいなのは常に飢えてて金がない。その二つさえ与えておけば、満足する。そう言いたいのかな」
 近寄らないでというか細い声を無視して一歩前にでる。それを切っ掛けにママは弾かれたように走りだした。
 ママが私を抱え上げて逃げだそうとするのと、その人がママに手を伸ばすのは同時だった。拳で首の後ろを叩かれて変な音を出したあと、ママは足がもつれて私を下敷きにして転んだ。顔に生温い水が跳ねた。叩かれた首のところからは、小さな金属が飛びでている。違う、何かが刺さってるんだ。
「ママ?」
 重たいよと言っても、退いてくれない。顔に掛かった水を手で拭うと、赤くべたりとした。
 これってもしかして、血?
「ねぇ、ママ」
 何度呼んでも返事をしない。動かない。揺さぶると、私をきつく抱きしめてくれていた腕が、床にだらりと落ちた。
 男の人が冷たい目で見下ろしている。その瞳は真っ黒だった。なんでそんな顔をしているの。何であなたの目は、そんなに真っ暗な色をしているの。
 マッチを擦る音。
 火をつけたのは誕生日のキャンドルではなく煙草。
「大戦を終わらせた化学兵器の置き土産。新しい世界に生まれた人の亜種。それが僕たち異能者だ」
 話しながらその男の人は、私をママの体の下から引っ張り出し首を掴んで持ち上げた。そんな風に乱暴にされたことなんて今までなくて、驚いて混乱してしかも息ができなかった。足をバタバタとさせた。
 蹴飛ばしてもびくともしない。気にも留めていないらしかった。
 向かった先は、ベランダだった。
 風で白く筋になって立ち昇る煙が横に流れる。体が手摺を越えた。足の遥か下にクリスタルリバーの濁った水と川の横にある歩道が見えた。お腹の底がギュッとして、首を掴む手にしがみついた。
 怖い。
 パパとママを何度も呼んだ。呼んでいるのに、誰も助けに来てくれない。助けて。何で誰も助けてくれないの。
 彼は構わないで話を続けている。
「異能には先天性のものと後天性のものがある。もしかしたら君はこの危機を前にして、新たな才能を開花させることができるかもしれない。戦後に生まれた僕らには、落ちて死ぬ前にこの状況をどうにかできるそんな力が眠っているかもしれないんだ」
 やめて。なんで、こんなことするの。なんでそんなに嬉しそうな顔しているの。
 言いたいことがたくさんあるのに、歯がカチカチと鳴って声にならない。
「さて、君はどちらだろうね。新世界の子供」
 首をつかんでいた手が離れた。必死に腕に掴まったけれどするりと抜けていった。
 笑いながら手を振る顔が、落ちていく私を見下ろしていた。
◆◇◆
 男は少女と違って旧世代的な方法で地上に降りた。
 東洋人らしい薄い胴と肌の色。後ろに撫でつけた髪は黒い。
 マンションのエントランスは、中に入ろうとする人間に対しては閉ざされているが、外に出ようとする人間には容易く門扉を開く。
 タイミングを図ったように、スモークを貼った黒塗りの車が出迎えた。
「時間ぴったりで助かりますよ」
 遠くから近づいてくるサイレンの音を聞きながら乗りこむと、車は滑らかに発進した。中は上等な葉巻の香りで満たされていた。広々とした車内は、今しがた出てきたマンションの一室よりもよほど居心地がよく寛げるソファを備えている。
 車内で待ち構えていた壮年の男性は、何も言わずに手を差し出した。仕立ての良い服に身を包み、高級葉巻を咥える口元にはたっぷりとした髭を蓄えている。声を掛けてきた相手に返事をする手間すら果たさない態度は、人の上に立って命じることに慣れた人間のそれだった。
 車に乗り込んだ男はそんな不遜な態度を気にした風もなく、差し出された手にマンションから持ち出した茶封筒を渡した。壮年の男性は中身を確認し、それが目当ての物であることを確認すると葉巻の煙を吐き出して満足そうに頷き、報酬を手渡した。
「アナログデータは外部から干渉できない分、厄介ですね」
 受け取った札束の厚さに、男は口の端を歪めて笑う。
「全くだ。紙に出力するというのは旧世界の悪習だな」
 深々とため息をつく。
 情報技術が発達したからこそ、戦争の最中に紙とインクは急速に復権を果たして現在に至る。物理的に書類を手にする以外で閲覧ができず、複製や改ざんが難しい上に燃やしたり融解したりしてしまえば、廃棄したデータの復元もできないからだ。だから戦後五〇年が経過した今でも盗み見られたくないデータは、アナログで保存するというのが主流だ。
 車は行き先を告げずともスラム街に向かっていた。
「ホテル ノーデンスで構わないかね?」
「いえ、次の依頼があるので。スラムに入ったあたりで適当に降ろしてください」
 この街の治安組織は、街の富を握りしめる金持ちに従順だ。上級市民の証である高級車は事件現場から立ち去る途中で警察車両とすれ違ってもなんの咎め立てもされることはない。
 尤もまだあの部屋にある死体は見つかっていないだろうから、通報内容は転落事故あたりだろう。
 過剰に思えるほど多くの警察が巡回して治安を守る小綺麗な街は、クリスタルリバーという川を越えた途端に様相を変える。光が強ければ、落ちる影はより濃くなる。街の五分の三を占めているスラム街は法も倫理も存在しない犯罪者の巣窟となっている。
 広がっていく貧富の差を埋めようともしない怠惰な行政府が書類に記入し、地図に反映させた街の正式名称はサフィールハーバー。北米大陸に位置する、人口約七〇万の都市である。
 かつてはサファイアのような青い海を讃えた、文字通り宝石のような美しい街だったのだという。ゴミが浮かび油膜に覆われた濁った水に当時の面影は求めようがなく、街を二分する川のクリスタルリバーという名称も、いっそ白々しく感じられる。
 富民と貧民の残酷なほどのコントラスト。
 社会の淀み全てを流しこんだような混沌。
 市民はもっと耳に馴染みがよくぴったりの呼称を使う。
 その街はポートタウンと呼ばれていた。
 五〇年前に世界を巻きこむ戦争は、終わりを告げた。
 各国に利益と損害、国の体面、政治宗教その他諸々のしがらみ全てを捨てさせてピリオドを打った二つの化学兵器は、誰も予想がしなかった影響をもたらした。
 生態系に悪影響があることは当然開発時点から予測され、そして黙殺されていた。だがその影響がどんな性質のものかについて、オカルトや似非科学以外で正しく言い当てられた者など誰もいなかった。予測ができていたなら、あの兵器はおそらく使用されなかっただろう。ひょっとするとその脅威は世界が一つの脅威の前に団結する唯一の機会になっていたかもしれない。
 まずは汚染区域を中心に未知の動植物が観測された。突然変異や遺伝子の異常という言葉では受け入れがたい新種たち。その原因がなんであるかはっきりとわかっていたが、専門家たちはその解決策や生まれてしまったそれらがなんであるのかを考えあぐね、対外向けの発表内容と対処に苦慮していた。
 そして数年後、ついに動植物の変質と異形化に続く人の変容が訪れた。人智を越えた特殊な能力〝異能〟をその身に宿す者たちの出現だ。
 人は未知を恐れる。
 混乱は動植物の変化が発覚したときの比ではなかった。復興に追われる人間社会は自分たちとはまるで違う力を手にした存在を歓迎しなかった。激しい差別と迫害は世界が修復され生活が元の形を取り戻すにつれて薄まっていった。どれほど排斥しようと消えないどころか、徐々に数を増していく彼らを、受け入れざるを得なくなったのだ。戦後、新しく作り変えられていく最中にあった社会は、既存の社会より多少は人の変容に無関心であっただろう。だが依然として世界は彼らに対して寛容ではない。
 今なお〝異能者〟へ向けられる視線は冷たく、決して生きやすいとはいえなかった。それぞれに固有の異能性質と、そこから生じる悩みは誰かと分かち合うことが難しく、共感も理解も得られない。彼らが既存の社会に枠から外れて、アウトローの側に滑り落ちてしまうのは、無理からぬことであった。
 真っ当な人間ならば進んで生活基盤を築きたいとは思わないスラム街も、そうした表舞台から滑り落ちた日陰者にとっては居心地がいい場所だ。
 スラムに不釣りあいな高級車から降りた男は、紫煙を燻らせながら薄汚れた街の一角にあるカフェのドアベルを鳴らした。
 反射的動作で、愛想よく微笑みかけた店員は入店した新しい客の外見を見て、笑顔を顔に貼り付けたままそっと視線を外した。
 首に大きく黒い蓮の花の刺青。そして手首から肩までを覆う墨一色のトライバル。治安の悪い場所で暮らしてはいるが、いやだからこそ慎重に距離を取らなければ生活できないというのをこの街の人間はよくわかっている。堅気でないと一目で分かる相手を前にして、できれば関わりたくないがそれを態度に出して怒らせたくもないというのは当然の反応だった。
 男はイヌ科の獣に似た色の瞳で店内を見回し、目当ての人物を見つけた。カフェで待ち合わせた相手は次の依頼人で、彼もまた店員と同じく怯んだ顔をした。男の首と腕の刺青は、待ち合わせの目印として申し分ない。
 向かいの席に座り、自己紹介をする。
「初めまして。僕の名前は、松永 帰泉です。お会いできて光栄です」
 極東の島国で生まれそこの教育で育った松永にとって、ポートタウンで交わされる言語は母国語からは程遠い。それゆえに初対面で飛び出すのは、語学教室で真っ先に習うような行儀のいい挨拶になる。
 依頼人は柄の悪い刺青姿と、丁寧な言葉遣いのギャップに困惑したようだった。
 異国の響きを持つ名前が一度では聞き取れなかったらしく、耳に入ってきた音を口の中で転がしている。松永はもう一度、ゆっくりと自分の名前を発音した。
「まつなが きせん、です」
 続いて意味を問われたので、内心で驚いた。確かに漢字というのは、それ自体が意味を持つ。その漢字を組み合わせた名前も、別の意味を孕む場合がある。だがスラムの教育水準で、そのことを理解している人間に出会ったことが、意外だったのだ。
 元々ポートタウンの住人ではなかったのだろうと、相手の出自を推測した。本題に移行する前に、もう少し世間話で緊張をほぐした方が良さそうだ。
「帰泉、というのは祖父がくれた名前なんです」
 口元に社交辞令の笑顔を貼り付けて、松永は話しはじめた。
「祖父の故郷には、とても綺麗な泉があったらしいんです。地名になるくらい。それこそサフィールハーバーみたいにね。五〇年以上前のことだそうですよ。そう、ときはちょうど戦争の真っ只中だ。祖父も例外なく徴兵され、故郷を離れなければいけなくなった。そのときに自分が戻るべき故郷への縁になるように、子供の名前に願いをかけた。帰泉という名前は祖父が夢見た帰る場所である泉、そういう意味です。でも生まれてきた子は女の子だったから、孫の僕にその名前が渡されたんだ」
 遠い過去を懐かしむように、窓の外を眺める。
 かつてはサファイアのようだと評された美しい港は今ではゴミと汚水の底に沈み、ポートタウンと呼ばれるようになったこの街にかつての面影はない。
「故郷がどんなところかなんて、僕は知らないんですけどね。泉だってきっと今じゃポートタウンの港みたいにドブに沈んでるんじゃないかな。でもこの名前でいるかぎり、僕はいつか離れてしまった故郷に帰れる。そんな気がするんです。だから僕のこと、帰泉って呼んでください」
 故郷から遠く隔たった地で生きる孤独を強がるような微笑み。目元だけは寂しげに見えるように。
 これでどうかな。
 相手の反応を見て満足した。やはりこの話が一番か二番くらいに受けがいい。人は情を傾けてしまった相手に甘い。特に自分よりも弱く脆い相手を前にしたとき、心の防御は弱くなりようやく話を聞きだせるようになる。
 初めて依頼を受ける相手は、警戒から自分を取り繕ったり本音を隠したりして必要な情報を渡さないことがあるのだ。素人の場合は特に自力で解決できなかったことを相手に任せているという認識が薄く、建前だの羞恥心だのを持ちこんでくるから厄介極まりない。
 相手もプロならば、何も知らせないという判断を信頼し身を任せることもできる。だが裏社会に片足だけ落ちかかって人を頼ってくるような奴が抱える問題なんて、大抵がみっともない私情の尻拭いだ。
 何も出自だの私生活だのを赤裸々に語れと言っているわけではない。ただ松永がしなければいけないことはなんなのか、正確に教えて欲しいだけだ。事業の失敗と言っていることが本当は女の失敗で、取り立て屋と話が噛み合わずに身代わりがバレたことも、ライバルを引きずり下ろしたいだけなのにいらない密告をでっちあげたせいで派閥争いが表出し、火消しに倍近い労力を割いたこともある。
 トラブルを避けるためは、相手から必要な情報を引きだすことも仕事の内だ。
 松永 帰泉は異能者でありその能力を〝変装〟と名付けていた。他人の外見の模倣である。目や髪の色、体格や声に至るまでそっくりそのまま写しとることができる。対象との体重差による制限や、化粧のような身につけているものを除く身体的特徴のみという多少の不便はあるものの、性別や人種、年齢は問わない。家族であっても見分けることは不可能な模倣能力である。
 ポートタウンのスラム街を活動の中心として、内容に見合う金額と気分次第で他人の抱える厄介事を解決する。その不真面目な働き方に、強いて表社会でも名乗れる肩書きを背負わせるなら便利屋になるだろう。
 この街の住人が抱える厄介事の類というのは、その大部分が不穏当だ。
 例えばライバル組織の内偵、犯罪者のアリバイ工作、あるいは敵対勢力の要人の暗殺や、機密文書の盗難。
 共通点は法を犯さずに済まないということだ。
 とはいえ、その全てで異能の力が必要となるわけではない。松永にとって異能は切り札であり、弱点ともなりある。必要がなければ明かしはしない。
 街中のカフェで顔合わせをする程度の依頼人であれば、異能者としてではなくごくごく平凡なスラムに暮らす一犯罪者の顔で対応した。
「すみません、僕の話ばかりしてしまって。さて、今度はあなたの番です。いったい何を頼みたいんです?」
 これでようやく仕事の話ができそうだった。

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