よろずの鬼とたたりの神

4,花街

 ようやく膨らんだ亀頭球が縮み、抜けるようになった。
 一度も抜くことなく犯され続け、記憶にある限りそれは三度目の射精の終わりだった。途中で意識が朦朧としていたから本当のところはもっと多いのかもしれないけれど、考えたくはない。腹の中に流し込める精の量は限界を超え、抜き差しする度に淫らに濡れた音を立てて、腿を濡らすほどになっている。
 犬神はようやくよろず屋を解放した。力が入らず支えを失った体が畳に横たわる。
 鋼の毛並みをした犬が、ぶるりと体を震わせて人の男に姿を変える。
 ようやく終わったと息をついたよろず屋の目に入ったのは、張り型を取り出す犬神の姿だった。商品を見間違えたりはしない。昨日、売ったものに相違ない。しかも商い物の中でも一等太い、玄人好みの代物だ。
「だ、旦那? それを一体どうするおつもりで」
 犬神はわざわざ確認する意図がわからないといった様子で、首を傾げた。さざれ石をつなげて作った腕輪を張り型に巻きつける。
 嫌な予感がして、よろず屋は身構えた。畳の上を這ったよろず屋の足を捕まえる。
「使い方は昨日、おぬしが見せてくれた通りであろ?」
 問答無用で引き寄せる。腹が膨らんで見えるほど満ち、精が動く度に零れ落ちる穴に、ずぶと根元まで差し入れた。
 最も良い声をあげる場所を、探るようにぐりぐりと中をかき回す。犬神の熱く太い魔羅とは比べものにならないが、全体を覆うように彫り込まれた突起の粒が、内壁の一つ一つをくすぐる。
「ぁ、だんなぁよしてください」
「ふむ、ではこのくらいにしよう。俺も気が済んだゆえあとは好きにするがいい」
 やけにあっさりと手を離したので、拍子抜けをした。だが張り型はしっかりとよろず屋に嵌ったままだ。
 犬神は興味を失ったように、ごろりと布団に横になってしまった。
 恥ずかしいやら惨めやら、半泣きになってそれを抜き去ろうとして違和感に気がついた。触れられない。見えない膜に阻まれたように、手が張り型に近づかない。犬神が差し込む前に石を巻きつけていたことを思い出す。
 結界だ。
 それでも強いて触れようとすると、手に反発するように張り型はさらに奥にねじ込まれた。たまらずよろず屋は喘ぐ。押し出そうと腹に力を入れたところで、中をかき回されるだけ。これでは自慰に耽っているようだ。
 犬神は背を向けて寝息を立てている。よろず屋の痴態にいささかも興味を示していない。
 あとは好きにしろと言われたってこんな状態で放置されては、襲われているよりもなお悪い。己で手を触れられない張り型、誰かに抜いてもらうより他はない。一晩中抱かれたあられもない姿でいったい誰に助けを求められるだろう。色狂いが男を誘っているとしか思われないに決まっている。
 しばらく自分で何とかしようと試みたが、状況は悪くなるばかり。立ち上がろうとしたが、足の間にある異物感に耐えきれず腰から力が抜けた。
 その拍子にぐりと腹の奥が抉られて、よろず屋は堪らず精を漏らした。
 這い寄って、泣きながら眠りこける犬神を起こす。
「だ、旦那、起きてくだせぇ。腹の中が熱くてこれじゃぁ仕事になりやせん。立ち上がれもしない。その、こいつを抜いちゃくれませんかねぇ」
 ゆさゆさと揺するが返事はない。しばらく揺り起こしていると、犬神は気だるそうに琥珀色の目を開いた。
「触らぬ神に祟りなしというんだがな。触れてしまうのがお前の可愛いところだ」
 起き上がると、よろず屋の体を羽織りで包み抱き上げる。
「とはいえ乞われれば答えてやらない俺ではない」
 そのまま廊下に出ようとしたので、よろず屋は大いに慌てた。他の客はおらず体を隠されているとはいえ、誰かに見られたら大事になる。なんとか角だけしまい込み、顔を伏せる。
「ち、違います。旦那、あたしはこれを抜いて欲しいんですよぅ」
「わかっておる。このまま抜けば精が溢れて止まらなくなるゆえに、風呂場でしっかり洗ってやろう」
 意地悪く笑う。
 言葉の通りに張り型を抜き、丁寧に洗い清めてくれた。ただし一番最後にだ。
 情事の疲労で足が立たないよろず屋はされるがまま、散々に弄られ泣かされて、のぼせるまで犬神と風呂を共にした。
 部屋に戻り体を休める。
 昼時とさほど変わらぬ時間に、朝食を食べた。
「嫌だ嫌だといいながら、艶事に使う玩具ばかり集めて、おぬし相当な好き者だな」
 使い終わった張り型とよろず屋の荷を見て、からかう。
「違います。違いますよぉ。これは花街にお客がいるからで、お願いですからこっちには手をつけないでください」
 不穏な目つきの犬神から、商品を庇う。
「いいだろう。俺には代用品など必要はないからな」
 必要ないというけれどさっきはあんな意地悪に使ったじゃないか。抗議の視線を受け取らず、犬神は昼間から酒を呑み何事か考え込んでいる。
「するとおぬし、花街に縁があるのか。俺を連れて行ってはもらえんか」
 この上まだ女を抱こうとは、盛りのついた犬とは本当に度し難い。
「おぬし、無礼なことを思ったであろ?」
「い、いやいや、そんなこと。それに旦那はあたしの案内なんて必要ないんじゃねぇですか?」
 お金持ちな上に、色好み。廓遊びを知らないなんて、冗談でないとするならこの国にはよろず屋の知らない未知の戒律があるとしか思えない。
「確かに客としてなら通い慣れた道ではあるのだがな。少し調べたいことがある」
 だからどうしても店が開く前の花街に、出入りしたいのだという。袖を引く女がやかましいという悩みは悔しいが全く共感できないものの、確かに夜の花街の活気は落ち着いて調べ物をするには向いていない。
 連れがあったとして特に商いに不都合があるわけではない。そのまま気に入る女でも見つけて興味を移してもらえれば重畳。
「商いの邪魔はしないでくださいね」
 くれぐれも念を押す。
「大人しくしているとも。手伝ってやっても良いぞ。客の前で使い、善がってみせれば普段より売れるのではないか?」
「しませんよ! そんなことするのは旦那の前だけです」
 思い出し、よろず屋は体をぶるりと震わせた。あんな恥ずかしい思いをするのは二度とごめんだ。商い物の味なんて知りたくはなかった。
「男の悦ばせ方をよくわかっておるな」
 犬神が口角を歪める。
「そ、そんなことさせるのは旦那だけって意味ですよ。旦那の方がよほど好き者だ」
 慌てて言い方を変える。またその気になって布団に引き込まれては堪らない。さっさと荷を背負って出かけようとしたのだが、足が震えるし腕に力が入らない。荷も体も重さが倍になったように思われる。
 担ぎ紐を肩に回し、畳の上で唸っていると急に軽くなった。振り仰ぐと犬神が代わりに持ち上げている。
「荷物持ちくらいはしよう。半分は俺のせいだからな」
(半分どころか、全部が旦那のせいじゃないですか)
 まざまざと神の力を見せつけられて、口を噤むだけの分別を取り戻した。
 よろず屋の携える箱笈は、ただの木箱ではない。引き出しの中身は開ける度に変わり、悠遠を内包している。凡人には引き出しを開くことすらできず、鬼でもなければ背負えぬ重さ。妖のために作られたそれを片手でひょいと持ち上げてみせる犬神はやはり尋常でない力を持つ神なのだ。
 連れ立って、大門が開く前のまだ人通りの少ない花街を歩く。
 犬神が歩いているのを見つけた途端、高駒屋の忘八が飛び出してきて袖をがっしりと捕まえた。女郎上がりの女主人は皺に隠れた意地悪そうな目で常に抜かりなく商機を窺う吝嗇家だ。暖簾を掲げる前とはいえ、太客の気配を見逃すはずがなかった。
「あら旦那様、こんな時間に珍しい。どの娘を呼んできましょう」
 猫なで声をあげる。
「すまんが、今日は単なる付き添いでな。女を買いに来たわけではない」
「そんなことおっしゃらずに、お座敷の準備もすぐに整いますからぁ」
「えぇと、ちょうどこの店に用があったので、いいんじゃございませんか」
 お前もなんとか言えとばかりに横目で睨みつけられたので、よろず屋も仕方なしに口添えをする。別に商いをしている間に、荷物持ちが廓遊びに耽っていようと構いやしない。
 仕方がないと、犬神は諦めたようにため息をついた。
「座敷遊びをしに来たわけではないからな」
 念を押すが、聞き入れてもらえるかは怪しいものだ。何しろ押し売りをしたとて、仕方がないで払ってしまえるくらいの財が懐にあるのだ。
 普段は裏口から出入りするのに、正面から座敷に招き入れられた。
「お待ちくださいね、すぐに翠玉を呼んできますから。よろず屋さん、それでいいんだろ」
「へぇ」
 返事を聞きやしない。見たこともない恵比寿顔で楼主は奥に消えてゆく。
「翠玉太夫とは、大変な相手と知り合いなのだな」
 高駒屋の翠玉太夫といえば、当代一の遊女と名高い。一目見るだけで良いと、願う男は星の数いる。
「翠玉太夫は、実は鬼なんでございやす。これは秘密でございますよ」
 待つ間に注文の品を並べながら、ふふと悪戯めかして笑う。町を騒がす噂の人の秘密を自分だけが知っているのは気分が良い。
「欲鬼の餌は欲ですもんで、餌を誘うのが上手いんでございやす。あたしゃあんまり上手かないですが」
 それに花街の欲はよろず屋には食べられないのだ。商いの最中に行き交う些細な欲を食むのが精一杯。
「なるほど、鬼には天職か。おぬしもその身で稼いだらどうだ?」
「こんな六尺を超えた大男にお客なんか付きゃしませんや」
「俺が買うとも」
 ぐいと顔を近づける。からかわれているだけだとわかっていても、顔がかっと熱くなる。そのときちょうど襖が開いたので、慌てて犬神を押しのけた。
 膳と酒を運び込まれ、女が酌をはじめる。一番最後に忘八が顔を見せた。
「要らぬというたはずだが」
 犬神の声が不機嫌に低くなる。忘八も怖いが、犬神も怖い。
「太夫は忙しいお人ですから。女将は気をきかせて下すったんです、ね」
 どちらの機嫌も損ねずに済ませられないものか。犬神を連れてきたことを悔いはじめていた。
「そうなんですよ。これはほんのお詫びの気持ちですとも。すみませんねぇ旦那、お待たせして、すぐに翠玉を用意させますから。どうも近頃、客を取りたくないって拗ねてるんです。全く遊女風情が何様のつもりなんだか」
「その気にならぬ女を手篭めにする趣味はない」
「じゃ、向こうが納得づくならいいってことですね。そうでしょ、旦那様」
「俺は女も酒も、いらんというたぞ。座敷もいらん」
 手揉みしながらにじり寄る女楼主を、ピシャリとはね退けた。
「いらぬというておるのに、なおも通り一遍の誘い文句しか出て来ぬようでは興も乗らぬな。ここにいるよろずの方がよほど財布の紐を緩めてくれる」
 商いが終わる頃に戻ると言い置いて、さっさと部屋を出て行ってしまう。忘八が平謝りしながらその背を追いかけて行った。
 残された女もよろず屋もどうすればいいのかわからず、顔を見合わせた。
「ふふ、いい気味だね。あの山姥」
 そのとき、襖の陰から鈴を転がすような笑い声がした。
 翠玉太夫が、見計らったように顔を覗かせた。白粉も塗らず、簪も挿していない。無地の着物を身に纏い気取らぬ格好でもなお、見ている方がたじろぐ美人だ。互いに鬼という正体を知っているから部屋に招いてもらったこともあるが、残念ながらその玉の肌に触れたことは一度もない。
 しかし、人前に出てくるときはいつだって隙なく着飾っている彼女が、そんな気楽な姿をみせるのは珍しいことだった。
 部屋にいた娘たちを追い出し、残された酒と膳を摘みはじめる。
「わざわざ来てもらって悪いんだけど、もう必要ないんだよ」
 並んだ商い物を見て、小さくため息をついた。客を取りたくないと言っていたのは、案外、女楼主の方便ではなかったのかもしれない。
「何か、あったんですかい?」
「なんの変わりもありゃしない。つまんないところだよ」
 徳利に口をつけて酒を飲み干す。粗野な動作はやはり彼女らしくない。
「よろず屋、あんた力が強いんだったよねぇ」
「人より少ぉし力持ちなだけですよ。翠玉太夫にゃ及びません」
 人に化ける巧さや爪牙の鋭さ扱える術など、強さも色々と判じようがあるのだろうが、多彩なほどに強い鬼だ。ただ力が強いだけのよろず屋なんかとは比べられない。
「それでも力持ちなんだろう? 思い切ったら私の角もへし折れるのかい」
「そんなことあたしにゃとてもできませんよ」
 考えただけで恐ろしく、ぞわりと怖気がした。
 欲鬼の角は頭蓋の中まで根を張っていて、もっとも敏感にできている。犬神に舐められただけで、気をやりそうになるほどだ。それを折られたり切られたりするのは、激しい痛みを伴う最も残酷な拷問だ。だが欲が凝ってできた角は、人にとって珍しい宝で、妖にとってはご馳走だ。手っ取り早く上質な餌を食うために、欲鬼同士で奪い合うような残酷なことも度々起きる。
「そうねぇ、あんた弱いから。角を奪うなんて天地がひっくり返っても無理だわ」
 けらけらと笑う。
「なんの気まぐれなんです」
 よろず屋は唇を尖らせた。大事なお客様で同族ではあるけれど、会う度にからかわれるし意地悪を言われる。そのほとんどは彼女の気まぐれで八つ当たりだ。意味なんて聞いてもありはしない。
「別に。ただ角を……。角をね、そう新しくしちまいたいと思ったのさ。ずっと同じ角くっつけてんのも退屈でしょう」
「冗談にしたってたちが悪いや」
 欲を食うのが上手くなると、そんな贅沢な悩みが心に湧いて出るんだろうか。大事に育てた角を食われたことがないからそんなことが言えるんだ。たとえ今の角に飽きたってあんな恐ろしくて痛い目に会うのは二度とごめんだ。
「あんたこそ、一体なんの気まぐれだい。飼い主を見つけたようじゃないか。いい男だし、山姥があんなにご執心だ、金持ちなんだろう?」
 犬神が座敷にいたとき、近くで見ていたらしい。
 しかし戌の国の神であることには、気づいていない口ぶりだ。この国で最も尊く強い権力を持っているお方だ。お金持ちどころの話ではない。
 それに飼い主なんかでもない。
「そんなんじゃ、ありませんよぅ」
「ふぅん」
 翠玉太夫は疑るように語尾を跳ね上げ、目を細くした。
「ま、いいわ。長居していると日が暮れるわよ。早く帰りなさい」
 ひらりと手を振って翠玉太夫は去った。
 確かに今日は宿を発つのが遅かったから、のんびりしていると日が暮れてしまう。直に店先の提灯に火が灯り格子が開く。商いが始まる時間になる。
 だが犬神がまだ戻ってきていない。座敷を出てどこに言ったやら、見当がつかない。調べたいことがあるといっていたが、あの様子で要件は無事に済ませられたんだろうか。迷子になるような人ではないが、戻ると言われたのを待たずに先にさっさと帰っていいものか。
 それにまだ一人では笈を背負えない。
「よぉ、よろず屋。ちょっといいかい」
 一つも売れなかった商い物をすごすごと片付けていると、声が掛かった。
 若い衆の一人、彼もまたこの店ではよろず屋の常連客だった。いつか金を貯めて花街を出て行こうと思っているのに、女に金をつぎ込んでいくのでいつまで立っても下働きの境遇から抜け出ることができない。そういう人だ。
 毎回、精力が増すという薬を買っていく。
「今日は随分遅く来るじゃねぇか、もう直ぐ店が開く時間だ。ようやく女を買う気になったか」
「廓遊びはあたしには贅沢です」
 ともかく、花街まで来たのが無駄にならずに済んだ。翠玉太夫が頼みの綱であるのに、何も買ってくれないとは薄情な人だ。
「翠玉太夫に手ェ出したりしてないよな」
 男は疑るような目でよろず屋の顔を覗き込む。
「そんな勇気ありませんよ。だいたいあたしなんかが手を触れられるようなお人じゃないや。おんなじ部屋にいるだけで緊張しちまう」
「そうかそうか。あんた図体の割に肝が小さいからなぁ」
 そんな疑いを向けられるのだって稀なことだ。同じ秘密を持つものとして通じるところがあるから、親しく誼を交わしている。そうでなければ縁遠い人だ。自分より強い鬼という素性を抜きに考えたって、店の名を背負う太夫のようなお方がよろず屋に肌を許すわけがない。触れられる道理がなかった。
「翠玉太夫は、なんだか様子がおかしかったですねぇ」
「好いた男がいなくなって塞ぎ込んでる」
 鬼が人を好くのだろうか。疑問を飲み込む。
 男は何が嬉しいのかニコニコ笑っている。
「だから今こそ好機とみんな張り切ってやがるのさ。弱った女は優しくしてくれた男にコロリと落ちるもんだろう?」
 それでこいつが入用ってわけだ、といつもより多く買い込んでいく。
 妙な疑いをかけられたのも得心がいった。すっかり塞ぎ込み、客も取らなくなった太夫が顔を合わせたたった一人。気にかからないわけがない。しかし精力を増したところで放ちどころはあるのだろうか。
 彼の給金で、翠玉太夫が買えるとも思えない。しかも客を取らないんじゃ、優しくするどころか顔も見れない。
 それ以外の手段で店の女に手をつけたら、首を斬られる大騒動だ。
「くれぐれも短慮は起こさないでくだせぇ、大事なお客様なんで」
「わかってるさ。短慮したのは吉次郎だぜ」
「吉次郎?」
 知らない人だ。自分が知っていることを相手も知っていると思って、大事なことをぽろっと漏らしたり、相手を置いてけぼりにしたりするのは彼の悪癖だ。
「翠玉太夫の男だよ、まったく羨ましい野郎だ。どっかの金持ちの次男坊らしいんだが、互いに随分入れ込んでいたからな」
「でも、来なくなったんでしょう」
 畢竟、男と女の縁とはそんなものだ。しかし男は訳知り顔で首を振って、憚るように声を潜めた。
「ここだけの話、殺されたって言われてんだよ」
 急に物騒な話になった。
「吉次郎は翠玉を足抜けさせようとしてたんだ。あの女ここで一番の売れっ子だし、そんなこと許されるわけがねぇ。そうでなくても翠玉のことで他の男にやっかまれてた。そんで若い連中に殴り殺されて葦原にでも沈んでんじゃないかって」
「なに無駄話してんだい! 飯抜くよぉ」
 女楼主の怒声が話を遮った。二人は揃って縮み上がった。
「おっと鬼婆が帰ってきやがった。俺がこんなこと言ってたの、秘密にしてくれよ」
 秘密にしろと言ったってあの様子じゃ、会った全てに言いふらしているに違いない。明日には町中の人間の耳に入っている勢いだ。
 やがて犬神も帰ってきたので、よろず屋は荷を片付けて店を出た。
「早く、出ましょ」
 早く花街から出なければ、もう大門が開いている。
 格子から色とりどりに着飾った女たちが白い手で招く。男たちが女を物色する。
 女を抱きたい。金が欲しい。綺麗になりたい。自由が欲しい。愛されたい。見栄を張りたい。全て全てが人の欲だ。中でもやはり色ごとに関する欲が一番濃い。
 袖を擦り合う相手ですら、飲み込めないほど濃い欲を垂れ流しながら歩いている。
 目が回る。
 先を急ごうとした脚から、力が抜けてふらりとよろめいた。ぶつかった男の激しい情欲を鼻先に感じ、吐きそうになる。
 傾いだ体を素早く支える腕がある。
「どうした」
 犬神は腕に抱えた体の熱さに気がつき、まっすぐに歩けなくなったよろず屋をひとまず路地裏に引っ張り込んだ。
「花街は、私みたいな弱い鬼には、欲の匂いが濃すぎるんでさ」
 濃すぎる欲で酩酊したような状態になる。悪いのは、酔っているのが酒ではなく、花街に満ちる色欲だということだ。
「急ぎ宿に戻り体を休めろ」
 熱を測る手の平の冷たさが心地よく、頬をすり寄せる。
「ここで、していかねぇんです?」
 くいと袖を引く。宿までなんて我慢できない。
 額に触れていた手が、面紗を捲りあげた。
「おぬし、商いに来る度にそんな顔をしておったのか」
 面紗で隠した顔を覗くのは、犬神くらいだ。鏡で見なければ今自分がどんな顔をしているかなど、確かめようがない。どんな顔ですと問い返す前に、唇を奪われた。
 口腔内を弄って唾液を貪り、舌を吸う。腹の奥がじんとした。
 こんなことになっているのは、旦那のせいだ。こんな風に口付けをして抱き寄せ、着物の内に手を這わせるからだ。腹の底に仕込まれた玉が神力を欲して疼くからだ。
 息も絶え絶えに犬神に縋る。腰が抜けて立ち上がれない。
「直ぐに部屋を取る」
「旦那ぁ。こんな、情けない格好で、どこにもいけやしません」
 知った顔がそこら中にいる。この肌の色と体格で、誰が見てもよろず屋だとわかってしまう。商いの客に犬神と共に花街で宿を取るところを見られてしまう。
「だんな、もう我慢できないんです」
 花街の濃い欲に煽られた上、犬神の匂いは二晩かけて体に叩き込まれた快楽を呼びを起こす。舌で粘膜に触れられる度、下腹が疼いて立っていられない。
 ずるりと額から角がはみ出す。 押し込み元の通りに戻そうとするのだが、触れた刺激に気持ちがよくなるばかりでちっとも思う通りにならない。
 路地裏とはいえどこに人目があるかわからない。犬神が羽織を脱いで、頭から被せてくれた。
「やはり廓の客引き花魁の手招きよりも、お前のそれがもっともそそる」
 包み隠した体を抱き上げる。
「どこぞの姫をさらってきたかと思われるな」
 こんな図体のでかい姫がいますか。
 言い返したいけれど熱い吐息が漏れるばかりだ。体がうまく動かない。
 宿の品格を選ぶ間も惜しく、座敷遊びも余興もないただ性急にまぐわうための宿に連れ込まれた。
 部屋に入るなり、布団の上になだれ込む。
 通和散を用意する犬神の襟を引いて引き寄せる。
「まだるっこしいことしねぇでください」
 しかしそれきり黙りこくり動きを止めてしまったので、真っ赤になった顔を羽織りで隠したまま、そぉと様子を伺う。獲物を食らう獣の顔。雄の顔が狼のように金に光って見下ろしている。
 体の芯が熱くなった。
「すぐに欲しいんです。昨晩の続きしましょ」
 羞恥を感じていたが、背に腹は変えられない。そっと足を開き、誘う。
 犬神がふ、と喉奥で低く笑う。
「誰が見ているかわからぬゆえに、このままでな」
 互いの体を隠したまま、ぐいと腰が持ち上げられた。褌をずらし、犬神のものが押し込まれる。
 熱く硬く脈動している。快楽が背筋を駆け上がり指先まで痺れさせた。悲鳴に近い喘ぎを上げながら、体を痙攣させ絡ませた脚に力がこもる。
「もう達したのか?」
「どうせ、笑うんでございましょ」
 情けなくて涙が溢れそうだ。
「笑いはせぬ。あそこでお前を待たせたからだ。知らぬとはいえ、悪いことをした」
 羽織を掴む手を包み込むように握り、力の入り過ぎた指先を解く。
「俺はまだ達しておらぬのだ、今しばらく付き合ってくれるか」
 コクコクと頷く。吐き出してしまった精を犬神が指ですくい上げ、口に含んだ。
「ひゃ、だんなぁそんなもの口に入れちゃダメですよ」
 見せつけるように、ごくりと喉を鳴らして飲み込み、腰を振りはじめた。汗に濡れた肌のぶつかる音が規則的に鳴る。時折、腹の中で犬神が跳ね、息を詰めたような声をだす。その度に動きを止めて、手を握る力が強くなる。犬と人の境界を越えないように、本能を押さえつけて快楽に耐えている。
 動きを止め奥歯を噛み締めなければ堪えきれないほど、犬神も気持ちよくなっている。胸の奥がきゅうと痛んだ。動きに合わせ足を絡め、腰を揺らす。
 犬神がうめき、よろず屋の名を呼び抱きしめながら達した。
 人の姿のままだったので、いつものように時間をかけて精を注がれ続けることはない。荒い息を整えながら、優しく髪を撫でられた。
「欲鬼が食む欲というものの正体、俺にもようやく理解できた」
 いいながら、犬神がよろず屋の頭に何かをした。角に触れられるのかと竦んだが、何かを髪につけられたあと、呼吸がすうと楽になる。
「正体がわかれば、扱うこともできようもの」
 角に近い場所、髪に飾りが二つあった。付けられた玉の力が、纏わりつく欲を祓ってくれているらしい。
「余計なものを寄せぬようにした。急ごしらえだが、一晩は持つ」
 一度、欲求を吐き出し落ち着きを取り戻すと羞恥が戻ってきた。犬神の下から逃れようとするがしっかりと抱きしめられていて、体もつなげたままだ。
「あ、あの、まじないはありがてぇんですが、先に抜いていただいても?」
「ああ、癖でな。人の姿ならすぐに動いても構わんのだな」
 ずるりと無造作に引き抜かれ、よろず屋はびくりと体を震わせた。腿を生ぬるく伝う精を、犬神が拭う。
「よろず、汚してしまったのだが」
 後から後から溢れてくるのを、焦ったように手ぬぐいで押さえた。
「もう宿に戻るだけですし。荷の中に替えがあるんでさ」
 力の抜けた体を引きずり、荷を漁る。
「そういや旦那の方は、調べものは終わったんで?」
 腹を掃除し、褌を替えながら問う。
 犬神の表情が曇った。
「良くはないな。おぬし、吉次郎という男について、何か知らぬか」
 聞いた名に、肝が冷えた。
「その男が、どうかしたんで?」
 米問屋の次男坊で、家業を手伝うでもなく遊び暮らしていた。その内に花街に入れ込む女ができたらしく、通い詰めるようになった。一時の恋の熱、いずれ冷めるだろうと家の者は放っておいたが、耽溺ぶりは増すばかり。
 そしてある日、花街に出かけたきり帰ってこなくなった。
 役人に申し出ても放蕩息子の家出などよくあることだと取り合ってくれない。そうして七日が過ぎ去った。
 だから家族に頼まれて代わりに調べに来たのだという。
「役人に調べさせればいいじゃありませんか」
「確かに俺が命じれば警邏は動くだろう。だがこれはあくまで個人の縁、個人の情なのだ。私情で公僕を動かすことを許せば、俺はいつか政を私物化する」
 ゆえに独力で調べていたのだという。しかし客としてしか花街を知らぬ犬神が訪れたとて、他の客やよその店のことをペラペラと喋る女はいない。せめて吉次郎が通っていたという店、入れ込んでいた女の名だけでも聞きたかったのだが、芳しい結果ではない。
 悪いことに、よろず屋は犬神が知りたい全てを知っていた。噂好きの男に義理立てなどはしないけれど、翠玉太夫は別だ。
「その様子だと、なんぞ知っておるのだな」
 ぐいと身を乗り出して、首根っこを掴む。閨事の続きをしてやろうかと、脅されれば白状するより他はない。
「翠玉太夫は鬼だったな」
 話を聞いた犬神は不穏当な呟きをした。
「翠玉太夫は人を傷つけるような人じゃございません。どうなさるおつもりで」
「無論、本人に確かめるのが一番早いだろうな」
 にやりと悪巧みをする笑みを返され、よろず屋は悪寒でぶるりと震えた。

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